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第225回都市経営フォーラム

『蘇るか。いきいきとした農村景観』

講師:  楠本 侑司氏 (財)農村開発企画委員会専務理事

日付:2006年9月21日(木)
場所:日本教育会館



1.農村景観とは

.わが国の農地の状況

3.農村空間の変容

4.農村景観選好

5.景観法による景観農振整備計画とは

6.農村での農的手法による住宅づくり

フリーディスカッション



 

 

 

 

 



蘇るか。いきいきとした農村景観

與謝野 それでは、第225回目の本日の都市経営のフォーラムを開催させていただきたいと存じます。
  毎年この都市経営フォーラムでは、年に1、2回は都市と農村にかかわるテーマについての講演を企画しております。本日は、農村の景観づくりについて、長年にわたり意欲的に取り組まれておられます農林通産省の外郭団体の財団法人農村開発企画委員会専務理事の楠本侑司様にお越しいただいております。楠本専務理事さんのプロフィールについては、お手元の資料のとおりでございますが、農村計画あるいは農村景観等について、まことに明快かつわかりやすい考え方で、研究と実務での指導等に務めておられ、国土審議会の委員をはじめ多くの機関の委員を歴任され、また著書も多数発表しておられます。まさに、現代を代表する農村景観、農村計画の最先端の専門家であられます。
  本日の演題は、「蘇るか。いきいきとした農村景観」と題されまして、我が国の農地の現況から都市化の進展による農村空間の過疎化、これを解決するための独特の自然環境に配慮した農的手法による住宅づくり、さらには都市計画区域と農業振興整備区域とが重複する区域での土地利用の考え方等、景観法が施行されている当代における都市と農村のあり方についての、実務的かつ示唆深い貴重な知見をお聞きできるものと、楽しみにしております。
  それでは、楠本専務理事、よろしくお願いいたします。(拍手)

楠本 皆様、こんにちは。楠本です。
  まず、225回という随分歴史のあるフォーラムで、話の場を提供していただいたことに大変感謝しております。
  今、ご紹介ありましたように、私が勤めているところ、財団法人農村開発企画委員会は、農村計画や農村整備の調査・研究を行っているシンクタンクです。
  皆さん、ご存じでしょうけれども、日本の農村は戦後高度経済成長期から随分変わりました。戦争に負けた昭和20年では、国民の半分は農民だったんです。今は農家人口は12%ぐらいということで、大体半分ぐらいは農村に根っこを持っていらっしゃる方々が大都市に移られて、日本の近代化を支えてきたということになろうかと思います。
  ということは、日本の農村から都市への大人口移動は、1960年代からです。ヨーロッパでは、皆さんご存じのように、産業革命以降、イギリスが一番早く、18世紀後半からのことです。フランスは遅く、それでも20世紀初頭から農村から都市への人口移動が起こりました。ですから、都市に住んでいる人の根っこは農村にはありません。しかし、日本での現象はついこの間のことであり、多くの人の根っこは農村にあります。日本は、短期間に急激な都市化あるいは近代化をなした。ということは、やっぱり農村の変化はヨーロッパと比べても著しいということです。そういう前提が、まずあろうかと思います。
  私の今日の話は、ご案内にもありますように、演題の「蘇るか。いきいきとした農村景観」ということで、まず農村景観とは何なのか。それから、我が国の農地の状況と農村が、どういうふうにしてだんだん変わってきたのか。次に、我が国は、ヨーロッパと比べると特異なんですけれども、土地利用計画や規制は各省管轄のものがいっぱいありますが、非常にあやふやな土地利用規制が農村には多い。それから、日本の農村景観というのは、住んでいらっしゃる方がどういうふうに感じているんだろうか。また、最近の農村での住宅づくりの特異な事例の紹介。そして、最後に、一昨年の12月に景観法が施行されましたけれども、農村地域では景観農振整備計画というのが用意されています。それらをスライド等を使いながらご紹介していきます。
 

1.農村景観とは
 
(図1)
  まず、今日の話は「景観」がキーワードです。日本の農村の景観は様々で、地域ごとに独特な表情をしています。農村の代表的な景観の一つが、砺波平野の散居村です。それから、酒田、鶴岡の庄内平野の集落。庄内平野の特徴は、庄内に最上川と赤川があります。最上川は農業用水の役割の他に、お米を酒田に運ぶということがあり、そういう舟運で庄内は発達してきました。いま一つの赤川は、昭和30年代に入って農業水利の開発が行われ、それに伴いまして、農地の基盤整備、つまり農業の近代化をもたらした川でもあります。櫛引とか羽黒、藤島は赤川の流域で発展した農村です。集居村で、周りに屋敷林がある形態が特徴的です。
  次は、北海道の石狩川流域の上川盆地です。ここは屯田兵による計画村です。整然と圃場が開墾され、集落は列状村となっています。次の筑紫平野はクリークで有名です。畑や田んぼに行く時もクリークを通っていた所です。このクリークを埋め立てて、今は農道になっているというところも結構あります。最近では、歴史的な文化遺産としてのクリークを、そのまま残していこうとの声もあります。
  ここは大和盆地。大和盆地の特徴は条里制ですね。条里制というのは107メートル掛ける107メートルが1ユニットになって形成されている中国の村づくりのモデュールが基本です。大和では京の「着倒れ」に対して、「建て倒れ」と言われ、住宅は立派ですけれども、非常に密居な集落です。
  これは木曽谷の妻籠です。ここは伝建地区(伝統的建造物群保存地区)になりまして、非常に有名ですけれども、山の中で街道筋に発達した歴史的な街並みのある村です。宿場と山林で暮らしていたという所です。
  こちらは、新潟平野の亀田郷です。地盤が悪くて、微高地に集落が配置されています。水害から集落を守る工夫です。三重県長島町の環濠集落によく似ています。
  沖縄の国頭村というのは、碁盤の目からなっています。石垣島の白保という石垣の集落も同様です。これは、中国の村づくりの影響と言われています。
  四国の讃岐平野は、全くの散居村です。最近はハウスが非常に多いところですね。ハウスの景観が余り好くないんじゃないかと言われる方もいらっしゃいますけれども、それだけ農業を一生懸命やっているという所です。讃岐平野も、先程言いました条里制の集落で、大和盆地の密居の条里制に反して、どちらかというと散居のタイプの条里制になっています。
  それから、こちらは近江盆地です。近江盆地は非常に景観が優れていて、琵琶湖という大きな湖を抱えている周辺にありますから、古くから開けた盆地です。集落もかなり密居ですけれども、住宅はそれなりに立派な、本瓦で漆喰の住宅が多い。皆さんご存じのように、近江八幡市は景観法による景観計画第1号を策定しました。住宅は、本瓦で漆喰、プレハブは認めないと言って、インターネット上で市民といろいろやり合っているんですけれども、それを見ますと、若い人はそんな古臭い家には住みたくない。プレハブでも最近すごくいいのがあるから、そういうのを認めればどうか、というご意見も載っていました。でも、一応基準としては、漆喰壁で本瓦にするという景観計画になっているようです。
  次は武蔵野台地、埼玉の三富新田です。細長い短冊形の宅地が、道路を挟んで連続した集落を形成し、宅地には住宅、後ろに家庭菜園があり、さらに後ろに林が配置されています。宅地の脇には水路が通っていて、道路脇にも水路がある。そして、自分の家の田んぼは、宅地の後ろにあります。田んぼと宅地の配列が明確にわかる景観を呈しています。
  このように、全国各地で風土に合わせた営農により、集落と農地の織り成す農村景観が多様な表情を表出するのが、わが国農村の特徴と思います。
(図2)
  農村景観を形成する景観要素は、農地と集落、それから背後の里山、山林です。農地はノラ、集落はムラ、里山はヤマと人類学ではそう呼んでいます。これが基本的な農村を形づくる景観要素と捉えております。これら、ここのサブシステムとしての環境を有機的に結びつけているのが水系です。最近話題の棚田ですが、耕作放棄地になっているのもよく見かけます。水系が分断されて、さらに耕作放棄地を呼ぶ現象となっています。

2.わが国の農地の状況

(図3)
  図は昭和45年から平成14年まで、日本の農地がどういうふうに変わってきたのかを見たものです。上の青い点線がオールジャパンの農地面積です。下の方の青い点線は農水省が事業の対象とする農地、いわゆる農振農用地です。農地と言いましても、これだけの乖離がみられます。棒グラフの白抜きの若干灰色の部分が、昭和45年から平成14年までの農地転用面積です。赤い棒グラフは耕作放棄地です。いずれも各年を累積したグラフです。まず第一に、わが国の農地は、外国に比べましても非常に少ないことがわかります。一人当たり100坪(330u)で、韓国、台湾などよりはるかに小さい面積で、ヨーロッパ諸国やアメリカとは比べる気にもならないほどです。もともとそう多くの農地面積を有していませんでしたが、近年のその様変わりの様子を見てみましょう。
  昭和45年から平成14年までの農地転用の累積は、110万ヘクタールほどに上ります。これらの時期は高度経済成長期の中頃と重なりますので、高度経済成長を成し遂げるために大体100万ヘクタールぐらい農地を必要としたとも言えます。この時期は農業生産の近代化がソフト、ハード面で急激に行われた時期でもあり、従来の農村景観が一変しました。
  それから、最近非常に多くなっているのが耕作放棄地です。昭和45年から見ますと、70万ヘクタールほどの耕作放棄地が見られます。昭和45年以前は、耕作放棄地という概念が余りなかったものですから、統計がないんです。ですから、これ以上前は調べられません。つまり、この間の農地の潰廃面積は、110万ヘクタールの農地転用と75万ヘクタールぐらいの耕作放棄地によるものです。社会の近代化に向けて、農地の転用は必ず起こるものですが、わが国の場合、その起こり方が急激で土地利用の規則にのっていないものも非常に多いということが、一番の問題です。つまり、西欧では「計画なき所に開発なし」との思想がはっきりと土地利用に反映していますが、わが国の場合、都市化の作法が、極めて無作法であったとも言えます。農村の景観破壊の根っこの多くは、この点にあります。
  また、最近での新たな傾向は農地転用より耕作放棄地の発生面積の方が多くなったという点です。農業の担い手不足と高齢化の深刻さは前々から見られましたが、その現象が、統計にもはっきりと表れてきました。この4〜5年前から、耕作放棄地での農地の潰廃が多くなってきました。要するに農業をやる人がいなくなり、高齢化したということです。団塊の世代の帰農が最近話題になりますが、根っこは、このような状況に「都市側も手伝ってくれよ」という期待感もあります。
  オールジャパンの農地は、昭和45年には580万ヘクタールぐらいありましたが、平成14年ですと430万ヘクタール程です。これは市街化区域の中の農地も含むわけです。オールジャパンですから。片や、農振農用地面積は現在409万ヘクタールです。経年的に見ていますので、グラフが山型になっていますのは、増反による面積増加です。
  八郎潟や大中の湖のような新農村建設による干拓、そういったものでも農地が増えてきたということです。
  米の転作、つまり生産調整が始まったのが昭和46年で、米余りの減少が続きますが、なかなか他の作物への変換が進みません。米作りと野菜作りとは、まったく別の職業との営農の技術差もあります。
  最近、都市の皆さんも「日本の自給率は少ないんじゃないか。ヨーロッパはみんな100%以上で、先進国で農業がだめなのは日本ぐらいじゃないか」と言われます。4〜5年前からカロリーベースの自給率は40%です。農業が衰退しているのにずーと40%は本当かという声もありますが、公式には40%です。これを45%ぐらいに上げましょう、ということで計画も変えました。
  昭和45年辺りは、農業の近代化に向けて圃場整備が一生懸命やられた頃です。ですから、大規模農業と言われた時代です。昭和36年に農業基本法ができました。それによって、農地の大型化と農業の省力化を図る。省力化した人々は大都市に向けて工場で働く、そういうパターンなんですね。それで集団就職列車というものが出てくる。その大型化あるいは機械化によりまして、農地での農作業は非常に楽になりました。その結果、農村の人口は極端に減り、それ以後ずっと食糧自給率は下がり続けて40%です。
  時代が変わったために、平成11年に農業基本法に代わる「食料・農業・農村基本法」が制定されました。食料というフレーズがメインに上がりました。これによります計画で、自給率を45%までにしようということになるんですが、このままの農地潰廃面積の趨勢で行きますと、平成27年の農振農用地面積は374万ヘクタールになります。現在の409万ヘクタールですから、食糧自給率を45%に上げるためには、政策的努力により30万ヘクタールを確保しなければなりません。これは大変な努力が求められます。
  今、農振農用地を大事に使いましょう、という農林省の言い方なんですけれども、なぜ今まで大事に使ってこなかったの、という言い方も片一方ではあるのかなと思います。
(図4)
  次に、実際の事例から話を展開していきます。「そして、どう変わってきたのか日本の農村の景観」に移ります。
  これは、合掌造りで有名な岐阜県白川村荻町の今です。
(図5)
  荻町が伝建地区に指定されたのは昭和51年です。地図で見ますと、青い色が水田、若干濃いのが畑地です。この時は農地も荻町にはまだ20ヘクタールぐらいありました。我々が調査した平成12年の時点には、もう10ヘクタールぐらいしかない。荻町は農業集落ですが、伝統的建物保存地区の指定を受けて、これからは観光ということで、意外に観光が儲かる。その結果、耕作放棄地、自動車置場の建設、お土産屋さんの建設、民宿の拡張が起こりました。人手不足から次三男も帰郷し、その人たちの住宅などで農地がだんだんと潰れていきました。
  その結果、平成12年には当初の農地の半分の10ヘクタールになりました。これは余りにも減り過ぎじゃないかということで、村の方々と共同しながら、まずは耕作放棄地になっている所を復田しようという形で、農地を持っている方々でも高齢で耕作ができないような所は、それなりのグループを作る、あるいは農業のイベントを仕掛けまして、訪れる方々と一緒に農地の復田という作業も行っています。

3.農村空間の変容

 (1)都市化
(図6)
  図6は、都市近郊農村集落がどのように経年的に変容してきたかを見たものです。これは、大阪高槻市の西面集落という所です。西に淀川が流れ、集落が中心にあります。ご当地の土地改良区の事務所の協力と住民の方への聞き取りから、西面集落の「昔と今」の地図を作成しました。
  始めは明治の地図の作成です。官有地図を基本に、土地改良区の古い地図から作成しました。どちらかというと、明治元年の割には整った田んぼを持っていることがわかりました。何故なら、昭和30年代もほぼ同じような土地利用のためです。
(図7)
  次が、昭和46年の西面集落です。ここは市街化調整区域ですけれども、20ヘクタール以上ということで住宅団地が集落の北と南に入って来る。さらに幹線道路が入って来る。高速道路が入って来る。幹線道路の周辺の所には板金屋さんとか工場、そういうものが入って来る。集落の周りにも、高等学校のグラウンドが入ってきたり、新しい住宅地が入って来る。これが昭和46年の西面です。これが昭和58年になると、集落外縁の開発から、だんだんと都市化が集落居住地周辺に押し寄せて来る。線引き都市計画の意味は如何に、というのがこの集落から言えることです。
(図8)
  次は、昭和28年の農地所有図です。ヨーロッパの土地所有と日本の場合は著しく違って、わが国の農地の特徴は分散作圃と言われるものです。これでは、なかなか効率的な農業は営めないということで、近代的な圃場整備事業では分散している筆を1筆にまとめて、なおかつ用排水路を造っていくという形で農業の近代化を進めてきたということです。
(図9)
  ここ西面には、関西流の文化住宅が建ち並んでいて、郊外の農村の景色としては我々がよく目にするものです。こういう形で農村の都市化が進んできました。ただ、田舎に住みたい、田園回帰あるいは農村居住をしたいという風潮がこの15〜16年前から非常に多いんですけれども、こういう所に住みたいという人は今もいません。
(図10)
  次は、東海道本線から平塚駅を超えた丘陵地の開発状況を写したものです。市街化調整区域ですと、畑、田んぼよりも丘陵地の方が開発しやすい。林地ですから。こういう住宅が農村部に入ってくる例は、枚挙にいとわない普通の風景となりました。
(図11)
  農村には、野立ての看板も非常に多い。景観に配慮している信州の開田村やその他の多くの景観条例を作っている所では、看板の大きさとかデザインの規則を作っています。

(図12)
  これは、広島県東広島市の都市周辺の国道風景です。別に東広島市でこれが特徴的なことだということはないんです。日本の農村の幹線道路沿いの多くは、必ずこういう景色です。1枚裏が田んぼ水田あるいは畑になっている。道路脇だけが開発されています。こういう開発の仕方は、西欧諸国はではまず見られません。外国では一番嫌うんですね。沿道開発。これが、日本の農村の景観を非常に見苦しくしている1つの例です。
  何故こういうことが起こるのか。農振計画の線引き、いわゆる農振農用地(青地農地)と農振農用地以外の農用地(白地農地)の線引きをする際、農村地域での産業活動をしやすくするために、幹線道路の両サイド100〜200メートル幅を比較的転用しやすい白地農地に設定したために起こった現象です。農振計画は、新都市計画法が施行されました昭和43年の翌年に、農水省の領土宣言のような形で施行されました。この幹線道路開発は、列島改造論を掲げた田中角栄首相のアイデアだそうです。
(図13)
  これは、伊豆半島に入った所の伊豆多賀です。今は漁村の面影は薄いですが、れっきとした漁村です。伊豆にはリゾートマンションを多く見ますが、なんとも傍迷惑な建物です。住民の景観権をないがしろにするものですが、違法でないところが、なんとも歯がゆいところです。

 (2)過疎化
(図14)
  農村での高齢化、農業の担い手不足が続きますと、このような耕作放棄地による景観破壊が起こりますが、都市のように修景をすれば良くなる、というものでないのが頭の痛いところです。
(図15)
  お墓の周りも、みんな耕作放棄地になってしまう。
(図16)
  これは、新潟県の山村です。耕作放棄地が続きますと、山村では廃村になります。こういう形で村が無くなるわけです。最近NHKのテレビでも、秋田県で集落が無くなるというのをやっていました。昭和40年代が第1期の集落移転とすれば、今は限界集落と言っているそうですが、集落移転の第2期を迎えているとも言えます。
  総務省の調査によりますと、過疎地域4万9000集落のうち、集落移転が必要とする集落は全体の2割、つまり9800集落あるとの報告です。集落が無くなるのですから、景観どころではありません。
  農村の1つの計画単位としては集落があります。この集落は、明治初期の市町村合併をするまでの村でした。もともとの集落というのは、お米の年貢の供出の単位なんです。ですから、水の管理、共同作業あるいは生活上の相互扶助の共同の役割を果たしていました。因習と言われるかもしれませんが、そのためのルールが集落ごとにあります。水が足りなくなると隣の村とけんかをするという形で、集落は居住の、あるいは生産の最小の単位であります。
(図17)
  今までは、土地利用のされ方と人口過疎により農村の景観は変わって来ると報告しました。次は農業生産の近代化を目指す事業、つまり農業基盤整備事業によりまして、農村の景色は一変しました。
  これは、山形県飯豊町の松原という集落です。飯豊町は、昭和40年代後半に圃場整備事業をしました。私が泊まったこの松原集落では、田んぼはこういう形でバラバラでしたが、整備により筆の集団化と、1枚の田んぼの区画が30アールと拡大され、農業機械、トラクターも入れるようになり、労働時間も著しく短縮されました。
  それと同時に、今まで集落に幹線道路が入っていたものが、バイパス化され、住民の生活環境はずっとよくなりました。昔、集落というのは、その地域の幹線道路沿いに発達した集落が結構多いようです。というのは、農水省の調査で、集落センサスというのがあります。それの昭和40年頃を見てみますと、集落の中に国県道等が通っている集落は7割を超えます。
  ただ、この時代の圃場整備事業ですから、田んぼの、最近はやりのビオトープあるいは石積み水路、親水とか、そういう概念は全くありません。そのことについて、農業土木の方では若干責任を感じているという声もありますけれども、時代がそもそもそういうことを要求してなかった。要するに、国民の食料を賄うというのが第一義的な目的でありました。
(図18)
  ですから、水路も真っ直線の水路を造っていく。子どもも入れないように柵をする。安全への配慮が足りないと、この時代に土地改良区は訴えられて裁判になる場合も多かったわけです。子どもが来て落っこって死にます。そうすると必ず裁判になった。そのため、異常なフェンスを必ずしました。
(図19)
  もともとは、農村はこういう水路でした。これは分水器です。明治時代に造られました山梨県のものです。こうやって分水を上手にしている。水がかりが必要な田んぼに合わせて、口の大きさが決まってくる。こうやって自然に分水をする。非常に残念なことをしたのですが、こういうものも圃場整備事業では取っ払われて、もっと効率がいい堰とか用水路、ポンプ小屋、そういう近代的なものに変わりました。ここ10年ぐらい前からは、こういうものも見直し、再現しようとビオトープをキーワードに親水整備事業が始まっています。
(図20)
  次は、わが国特有の都市化を見ていきましょう。
  これは、川越市を中心とした周辺市町村の市街化区域と農用地のレイアウトです。ピンク色が市街化区域、グリーンの所が農振農用地です。日本の場合には、この2つのゾーンが入れこになっている場合が非常に多いんですね。ヨーロッパみたいに農村と都市がはっきりと分かれていない。
  農村と都市がゴチャゴチャになっている土地利用が、日本的な景観の特徴だろうと思います。
(図21)
  最近、都市計画の計画指針がコンパクトシティの町づくり、また町づくり三法により、農村景観も外圧の静まりによって落ち着いてくるのでは、と期待していました。しかし、町づくりの道具は、そのようにおとなしくないようです。開発志向の制度が、はたまた誕生しているのでは、と思うものも出てきました。先だって都市計画法が変わりまして、34条8項の3、俗称「3483」とよく言われ、市街化調整区域での開発緩和策の法律です。
  これは、埼玉県のある町です。青が市街化区域。赤は市街化区域に隣接して50戸以上建物が連檐している所は開発用地としてもいい、という図です。この調整区域での、開発可能な指定地区の膨大な面積にはびっくりします。この面積は、市街化区域の7倍にもなります。ただ、農振農用地もこの中に入っていますので、都市計画の開発許可は下ろすが、農業側で農振計画にのっとり、これはだめよと言うなら、そちらで不許可にして下さい、というのが日常の業務のようです。ところが、こういうものが公表されますと、なかなかそうはいかない。開発業者や不動産業者もいますから。またぞろ農村でのスプロールと言いますか、蚕食的な住宅地づくりが出てくるのが容易に予想されます。
(図22)
  これが、都市計画法「3483」による住宅建設の事例です。田んぼの真ん中に建つ住宅です。一応300uという規定はあるんですけれども、県の条例にも合致する。ここは農振農用地ですけれども、道路に面して下水道と水道が完備していれば、こういう建物も受け付けますという事例です。つまり、予期せぬ所に突然建物が無計画に出てくる。農村景観の破壊としか言いようがありません。
(図23)
  ということで、制度が景観づくりの方になかなか追いついていってないのではないかという点を1つ申し上げました。今度は、ごく普通の農村で、景観づくりを現在どうやっているのかという事例です。減反政策では景観作物というのを奨励しています。定植の景観作物以外に、地域にあった景観作物も認められています。例えば北海道ですとラベンダー、北陸ですとチューリップ、九州ではヒマワリとかです。
  この綾町は、有機農業が非常に盛んな所です。「この田んぼには農薬を3年間使用していません」、「この田んぼはまだ2年間」、という証明の札を田んぼに刺して、有機農業による農業振興を図っています。堆肥センターや液肥施設を造って、畜産廃棄物、町部の方々の食料、残飯を堆肥センターに運んで、それを堆肥にして畑や田んぼに戻し、農業生産の振興を図っています。もう20年ぐらいやっています。それまでは宮崎県の農業生産ランキングが15〜16番目だったのが、有機農業を始めまして、4〜5番目ぐらいに上がってきました。こういう形で安心・安全な食材を提供し、さらに綾町の農業景観を守り形成しています。また、新たな伝統工芸を造り、そういうものを求めて、綾町に住みたいという方々を迎え入れる。結果的にはIターンも多くなり、人口も微増傾向にあります。

4.農村景観選好

(図24)
  では、農村居住者は、どのような農村景観を選好しているのか。我々は「農村の景観イメージ」と題しまして、15年ぐらい前にスライドを40枚ぐらい作りまして、皆さん40人ぐらい集まってもらい、テレビでよく見るボタン押しで調査しました。全国北から南まで、5箇所で行いました。また、農村の方々と都市の方々、両方に聞きました。
  この図は、都市と農村の方々の景観選考の結果をまとめ方です。農村の景観については、イメージとして4つの類型が認められました。A1としましては、「伝統的な水田の農村のイメージ」、これが第1点です。これは農地が主役です。第2点は、「田園のイメージ」です。農地と集落が一緒になった景です。さらに、もう1つは近代的な施設とか建物、いわゆる「農地と人工的な建物のイメージ」です。それから、「全然整備されてない昔からの田んぼのイメージ」。これは入り組んだ田んぼ、あるいは棚田、そういう整備されてないイメージ。この4つの類型が認められました。
  これをどういうふうに捉えるか。伝統的な水田の「農村のイメージ」「田園のイメージ」は、非常に美しいという評価です。これはどちらかというと遠景ですね。田んぼが見えて集落が見えて、その向こうに山が見える。一連に整ったような景色です。これは農村の方々も都市の方々も、日本の農村らしい景色だという認識がある。
  それに対して、余り良くないイメージというのは、自然景観と人工景観が重なっている所で、それが環境デザインとしてなってないというものです。これは、いわゆる中景の景色としては美しくない、ということですね。例えば、カントリーエレベーター、学校、役場、公民館、工場が、周りの農村の景色に全然合ってないという認識の方が非常に多い。建築設計屋さんの力量が糾弾されている場面と思います。自分が設計をする建物だけじゃなくて、周りの農村や自然景観に配慮した環境デザインの力量が試されていると思います。調査して15年ぐらい経ちますが、状況は今も同じと思います。
  それから、「整備されてないイメージ」の評価は低いですね。これは圃場整備がされてないとか、棚田みたいな所です。農村の方々も都市の方々も余り美しくない、という消極的な評価でした。景観がいいのは、古いばかりではない、ということのようです。大体こういう傾向でした。
(図25)
  都市と農村の方々の農村景観の選考の違いをまとめましたのが、この表です。都市の方々はやっぱり「ウサギ追いしかの山、かの川」というような昔ながらの伝統的な農村景観、つまり古い茅葺屋根の集落、木造の集会施設、千枚田、段々畑、古い茅葺の住宅を好むようです。これは女性の方々よりも男性の方が、こういう伝統的な農村を選好する傾向にあります。
  住宅について、農村の方々が選好する景観は近代的な住宅です。この時に使いましたスライドは、八郎潟の住宅だったんです。農村の方々は、これこそが住宅だと言っています。青いトタン屋根、これはみんな八郎潟ですね。
  3面コンクリート張りの施工済みの河川、近代的な農家住宅の原色の屋根、これは集落移転した所の住宅のことです。こういう施工済みの河川とか圃場整備した田んぼというのは、明らかに農村の人の選好度が高くて、都市の方々は選好度が低い。評価の背景に、農作業にかかる労力がいかに昔の田んぼは大変だったか、ということが表れてきていると思います。

5.景観法による景観農振整備計画とは

(図26)
  これは景観法です。景観法による農振景観整備計画は、現在3市町村で取り組まれています。北の方から岩手県一関市、山梨県勝沼町。勝沼はブドウです。それから滋賀県近江八幡市、この3つです。
  一関市の場合、古の田園の遺構が今なお生産基盤として使われ、それを何とか世界文化遺産にしようと頑張っているところです。
  勝沼町は、有名なブドウの産地です。農地のほとんどはブドウ畑で、季節によりますが、美しい緑の絨毯のような景観を呈します。どうしても計画をかけると規制が生じてきますので、その辺で景観農振整備計画の方では、もうちょっと合意形成に時間が必要と思われます。
  近江八幡市の方は、景観農振整備計画に向けて、作業もほぼ終わりまして、ワークショップでは、農地を持っている方々はもちろん、住んでいる方々にも参加していただき、計画作りはもちろんのこと、計画内容を周知してもらう作業を進めています。
  景観農振整備計画は、景観計画の中の一部をなすものでありますから、必要がなければ景観農振整備計画は作らなくてもいいということです。ただ、都市の景観形成とその周辺の農村の景観が、両方とも素晴しく好いものに守られると、一段とめり張りがつくのではないかという形で、いずこに行っても、両方作った方がいいんじゃないですかという形で相談を受けています。
  景観農振整備計画を作って何ができるのかということなんですけれども、赤く塗ってあるのが景観農振整備計画でできることです。ハザ木の保全とか、用水路、歴史文化を形成する土地改良施設、そういうものを景観重要建造物として保存します。集落の周りは景観作物の共同栽培をするとか。カントリーエレベーターとかライスセンターが、農村の景観を一番壊している評判の良くないとの指摘も多いことから、農業生産施設のデザインの規則を定めることもできます。
  棚田の保全をきっちりとやっていきましょう、ということで、もし棚田の所有者がこの棚田を耕すことができないならば、景観整備機構に指定された耕すNPO等に、その田んぼの耕作権や所有権を移転してまでも耕作をする。そのため、農地法上の特例を作りましょうというものです。こういうこともできます。
  集落の住宅の方はどうか。これは農地ではないですから、景観計画の分野です。ですから、集落居住地は景観農振整備計画の対象にはならない。ですから、都市側の景観計画の方で、集落景観に適合するような住宅等の景観指針のもとに景観計画を作って、集落の方の建物はその基準に従う、そういう2本立てになる。そういう形になっております。
  先程3地区で景観農振整備計画を作っている、と言いましたけれども、景観農振整備計画を掛けたい多くの願望は、農地転用しないでくれ、あるいは開発をしないでくれという希望が非常に多いんですね。へたな建物が建ったら農業景観が著しく壊れる、または視界を遮られるということです。農振法の開発許可を下ろさなければ、問題はないのですが、その家の都合で、どうしても農振白地農地を転用して住宅を建てたいということもありますので、このあたりが、景観農村整備計画を策定するまた合意を得る点で難しいところです。
  例えば、群馬県の新治村は「匠の里」ということで都市農村交流をやっています。集落毎に、30坪ぐらいの建物に匠がいまして、石工とか木工芸、わら細工、機織り、ガラス、陶芸作りを体験できる匠の家が30軒ぐらいあるんです。もともとできた時は6つぐらいですが。新治村も景観計画を作りたい。というのは、そういう匠になろうという人が他所のところから入ってきて、田んぼの真ん中に住宅を造ってしまうようなことがある。それを防ぎたいということです。景観農振整備計画で、それが防げるか防げないかというのが一番大きな根っこだと思うんです。
  防げるかと僕が聞かれると、半分は防げると答えます。というのは、景観農振整備計画では、開発は抑えられる。ただ、農地転用は抑えられないということです。ということはどういうことかというと、転用しても開発は認めないということになると、それで農地転用する人はまずいないということで、結果的に農地転用は防げるんじゃないかと期待しています。

6.農村での農的手法による住宅づくり

(図27)
  最近の農村での住宅づくりの話をしていきたいと思っています。これは、福井県の宮崎村というところです。ここは非常に美しい村です。別に美しいことをやっているんではなくて、昔から伝統的な建物を造って、それを修理して、次三男が家を造る時も、また同じような家を造るという風土の所です。
  農村活性化住環境整備事業というのが、昔農水省でもありまして、圃場整備事業に併せて、住宅地を造るというものです。宮崎村の江波第2地区集落の戸数が大分減ってきた。これじゃちょっと困るので、集落の人々の人口を増やすという希望もありました。なおかつ、北の方の田んぼも全然整備されてない。ということで、住宅地造りも一緒に行いました。「余りにも真四角な田んぼで、もうちょっと何とかならぬのですかね」と農業土木の人に聞いたら、「全部、田んぼは真っ直ぐにする、そういうふうになっているんだ。山を切ってでも真っ直ぐ」「ここら辺はコンター状にもうちょっとどうにか考えてやってくれませんか」と言ったら、「そういうのは、うちの方の基準にはないからだめ」「じゃ、宅地の方は我々の考え方でやっていいの?」と言ったら、「それはいい」「曲がった道でもいいんですか」と言ったら、「曲がった道でもいい」。こういうふうな形を我々のチームで考えました。
  ここの村長さんのお考えで、まず次三男が帰って来る、そういう方々の住宅地を造りたい。そういう方々が10軒ぐらいありました。あとは全部Iターンです。大阪の方と名古屋の方が多かったですね。即日完売ということになりました。
(図28)
  これが、先程の北の農地です。大規模基盤整備で、1枚の田んぼが1ヘクタールあるんです。普通の田んぼは30アール区画ですから、凄いのを造りました。
(図29)
  これが、江波集落の村並みです。Iターンの方々もいらっしゃるので、集落の方も勉強なさっていて、「建築協定みたいなものを作ってもらいましょう。それも緩やかな協定にしましょう」ということで、屋根は本瓦を使う。派手な壁の色の家はやめてもらう、生け垣を植えてもらうということをやりました。「公園は要らないよ。公園があるぐらいだったら道端で遊べるようにして」というので、こういう大きな道路を造りました。真ん中に水路をつけました。あとは、我々計画者としても少しは努力しなくちゃということで、なるべく電線を見えないように埋めてもらいました。これが一番大変でした。関西電力さんに役場の方が何回となく足を運んで、やっと認めてもらって、電線は地中化ということで、80センチ角のライフラインを埋設し、景観ばかりではなく、それが住宅密度を和らげております。
(図30)
  集会所などは、既存の集落のものを使って下さいと言ってあります。新たなコミュニティを作るということが、ここの集落では一番大事なことでした。集落の戸数が減ってきて、新しい方々を迎えて、1つの新たなルールを作りながらコミュニティをさらに作っていく、というのが一番の目的でしたから、そういう形をとりました。
(図31)
  これは集落水路の北の所です。
(図32)
  これが、昔からの宮崎村の住宅の造り方です。枠の内工法です。
  水上勉さんがこの近くの若狭の大飯町の出身ですけれども、ここにも何回か来られて、役場の隣の集落、ここの景色を絶賛しております。
  こういう建物が景観を壊すんですね。これは農水省の集落排水事業の処理場です。(笑)そういうことで、非常に美しい。
(図33)
  最近、景観にこだわっている村は結構あります。紹介するのは、岩手県の松尾村です。八幡平のスキー場がある所です。岩手山という山が松尾村のシンボルなんですね。農村に景観の話を聞きに行くと、シンボルの山を言う所が多いですね。この間行きました羽黒町、今は鶴岡市になっていますが、やっぱり羽黒山。先程ちょっと言いました長野県の開田村は、「うちは御嶽山が見えないような景色、そういう建物は認めません」と言っていました。やはりシンボル、山というのはかなり重要な役割を持っているんですね。借景です。
  ここの松尾村も、岩手山の丘陵部に別荘とかスキー関係の施設がいっぱいできてきて、中学生の「こんなの続くと教室から岩手山が見えなくなるよ」という作文を村長さんが目にされたらしいんですね。これは困った。「松尾村の景観は我々だけじゃなくて、我々の子孫、子どもたちにもずっと残していくのが我々の役割なんだ」というので、「開発に対しては仰角を設けよう。こういうふうに岩手山が見えなくなるような建物の仰角はだめ。」と、非常に解り易くやっています。ポイントは、村内に3つあるんです。そこから仰角を測って、あれだったらいいとか、これだったら悪いとやっているわけです。ですから、非常にわかりやすい。
  ただ、松尾村はそれだけではなく、「せっかく景観ということを言い出したんだから、村もちっとはお金を出すから、屋根のトタンはなるべくチョコレート色にしてくれよ、壁も白かチョコレート色にしてくれ。そのためのペンキ代ぐらいだったら役場は出しますから」というので、年間4〜5軒ずつは、それの適用を受けてやる。それと同時に、コンクリートブロック塀はよくない、という村の人々の共通の認識があるようで、それに対してもコンクリートブロック塀を取り払って生け垣にする。生け垣は、役場の方から現物支給をするというやり方でやっています。
  岩手県は、景観先進地の農村が多いという感想を持ちます。ほかの所も結構やっています。これは、15年ほど前に岩手県が県の景観指針を出したことにもよると思います。都市側の盛岡市も、非常に景観形成に熱心な所です。
(図34)
  これは、長野県の穂高町です。安曇野ですから、そもそも景色は非常にいい所です。南アルプス、北アルプスと非常にきれいな所です。ここは中央自動車道ができた時に住宅がバラバラと入ってきた。「どういう所に入って来たんですか」と聞きましたら、「農振農用地以外の白地農地に入って来ました」とのことでした。Iターン者が多く入って来ますので、白地農地をもうちょっと計画的に使おうよ、というのがこの穂高町の土地利用計画のやり方なんです。
  集落毎に、村の方々に土地利用計画を作ってもらう。白地農地がどこに点在しているのかということも全部調べて、そして、白地農地に家を造る優先順位を作ってもらう。役場の方は、言ってみれば、ずるいのかもしれませんけれども、土地に対して、ここは造っていい、ここはだめ、と言うのは役場の方でなかなか難しいことらしいんですね。ですから、集落機能を活用したと言えるかもしれませんけれども、集落合意で、まず家を造るとしたら、ここのAという白地の田んぼから造りましょう、そこができたらB、C、Dという優先順位を作っていった。平成9年に、国土庁の「土地利用構想計画づくり」というのがあったんですが、それをかけて住民合意を得ていった。それをもとに、平成11年にまちづくり条例を作ったというわけです。平成14年には、穂高地区まちづくりの基本計画を作っている。いずれも、非常に立派なものをここは作っています。
  交流人口がこれだけ増えましたよ、ということで、平成5年に113万だったのが、平成15年には153万。農村への訪問客は、最近はかなり多くなりました。しかも、大体自然豊かで景観が美しい所に家族連れで来られる方が多いというケースです。
(図35)
  これは長野県の開田村、合併して木曽町になりました。開田村も山深い山村です。昭和43年に「開田高原開発基本条例」を作っています。これが景観条例として機能しています。最近は景観条例というと物すごく多くて、全国で景観と土地利用に関する条例を作っている市町村は500ぐらいあると言われますが、ここで作っているのは、昔から観光地で観光が押し寄せてくるのをストップしよう、ということです。
  御嶽山がよく見えるような所に別荘地を造り始めたので、それを規制するという目的で条例を作りました。ただ、開発条例なんですけれども、これは昭和43年に作っていて、それから何回も改正しているんです。開田村の人にとっても、開発行為を起す時にも、この条例がジワッと効いてくるように条例を何回も変えている。結果的に見れば、現在は景観条例みたいなことになっている。
  ここは、この15年間で150人から200人ぐらいのIターン者がいる。それで有名な所です。僕も、何人かにインタビューをしたことがあります。農村ほど職業がいっぱいあるところはない。「何で食べているんですか」と言ったら、「公共事業がこれほどある所はないよ。公共事業に出てやればどこでも食えるんだ。おれは八王子から来たんだけど、ここの方がずっと暮らしやすい」。サラリーマンで来られた方は年収が半分になりましたけれども、その半分は豊かな自然や景観で賄っています。
  ここは、村も景観に非常にこだわっています。ここは村の入り口です。昔は村の入り口は非常に汚かった。ここの所を村が買いまして、白樺を植えている。ということで、ここは信州らしい景色にして、お客さんを迎えようという所です。
(図36)
  これが御嶽山です。開田村の人は、みんな御嶽山が大好きです。御嶽山が曇って見えないと、御嶽山が風邪を引いて心配しているようなことを言っていますから、本当に好きな人が多いですね。こういう形で丘陵地の所は畑地農家がある。一段と下がった所は水田。最近は、木曽馬、小柄な馬ですけれども、木曽馬を村が飼育をして保存している。それを、観光客なんかにも乗せる。
(図37)
  信州はそばだというので、そばづくりを一生懸命やって、周りの景観もそばで固めているということです。
(図38)
  景観づくりは田舎ばかりではありません。これは、横浜市の寺家というところです。寺家は、市街化調整区域を非常に真面目に守っている所です。田んぼの中には1軒も農地転用はありません、ということで有名な所です。
  今は「ふるさと村」と横浜市では言っている。横浜市の方針としては、寺家の他にあと2つぐらい。もう1つは、舞岡だろうと思います。舞岡は、地下鉄が通っていますけれども、舞岡と寺家ともう1つを、ふるさと村みたいな形で、横浜市の貴重な農村として残していきたい。丘陵地の向こう側は町田市です。上から見ると住宅団地がワッとあります。町田市、が一時そこを開発するということがありまして、寺家の所から丸見えになってしまうと言うので、そこの土地を横浜市が買ったそうです。寺家のふるさと村を守っていきたい、ということです。
  交流施設もありますが、それらの施設づくりは農水省の構造改善事業で造られました。桜は、今から30年ぐらい前に寺家の方々が千本桜をみんなで植えました。その成果が、今現れてきているという所です。
(図39)
  これは千本桜です。こういう点景と言いますか、こういうものを、ちゃんと残しています。
(図40)
  これが、山梨県の勝沼町です。ここはワイン。こういう形でワイン畑が広がっております。これを規制するのがなかなか難しい。転用しないように、ということでやっております。先程言いましたように、合意形成にもうちょっと時間がかかる。ワインというのは、フランスが非常に有名な所です。フランスも圃場整備事業を盛んにやっていまして、農地の大体7割ぐらいは圃場整備が終わっているようです。ただ、ワインはそうはいかない。ワインは1枚1枚の畑で味が違うから、基盤整備や圃場整備をするということはとんでもない。ここの畑でとれるワインが1本10万円、隣のところでとれるのは1万円。ここの所で作業をしやすくするために基盤整備をするなんてことはとてもできませんよというのが、フランスの圃場整備の近代的な農地にしていこうという時の苦労だということです。
  ここで、圃場整備事業による非農用地創設について紹介します。先程住宅づくりのところで、3割は非農用地と言いました。基盤整備事業というのは、土地改良法にのっとってやっています。3割のうち、例えばカントリーエレベーターを造るとかライスセンターを造る、加工場を造るという農業施設が必要になってきますから、それに必要な用地を使うというのが最初の役割です。それから、圃場整備は進めれば進めるほど農民は少なくなる。じゃ、工場を誘致したらどうかというので、工場を造るようになった。これも上手な土地利用のやり方です。
  日本海側の石川県、富山県というのは、昭和30年代の終わりぐらいから、圃場整備をやっていまして、なおかつ工場を誘致している。一番代表的なのはYKKですね。その用地は、圃場整備の3割の非農用地によっています。
  石川県、富山県というのは、比較的働く場所が今でも多いんです。いつも住みやすい県にランキングされます。離農しても離村しないという形がとれる。離農したら離村しなければいけないのが東北や中国地方。働きに行く場所がない。これが重要なことです。そういう形で圃場整備を上手にやっている。
  農水省でも、生態系や景観に配慮した圃場整備とは、どのようなものかを検討中です。例えば、水路と田んぼを圃場整備では分断します。上から流れてきても田んぼとは循環はしていない。昔は循環していたから、田んぼの中にメダカやフナやドジョウがいた。それをまた循環させるようにしようというので、研究をやって、なおかつ、そういう圃場を造り始めた。田んぼ自体をビオトープにしよう、という形をとる所も最近は出てきているようです。
  西欧での最近の圃場整備で、フランスの場合は3割は何をしているのと言ったら、非農用地を全員に渡す。これは公平のためです。非農用地をある一部の人だけにしかいかないというのは困る。だから、参加した農家に、参加した面積分に比例する非農用地を分散します。要らないと言った人にも分散をします。要らない人は、それから売ればいいじゃないか。最近、この10年の非農用地用途は何が多いかと言いったら、森林です。なるべく森に返していく。森に返して、農村を訪れた人々も森を享受できるようにする。これがグリーンツーリズム。要するに、滞在型、森を散策しながら農村や集落も楽しむ。農業にも参加でき、森へも行ける、水遊びもできるという形で、フランスの場合には積極的に森に返していこうという形をとっている。
  都市近郊では、特にパリのあるイル・ド・フランス地域圏は、都市化が進んできていますので、農地を大事に使いたい。というのは、農地が豊かな環境に果たす役割は非常に大きいんだと言うんです。農地を全部潰して公園で代替をさせるとなると、べらぼうな金がかかる。それだったらば、今の農地をそのまま上手に生かしながら農村の振興を図って、なおかつ都市の人も農業に参加できるようにしていった方が得策ではないか、という政策ですね。
  一番の問題は、昔の植民地であったアフリカからアフリカ系の方々が入って、フランスのパリ近郊の低層住宅に入る。そこでバンダリズムが起こって、破壊が起こる。パリ近郊の首長さんは、人口を増やしたいが、結果的にそういうことになるし、パリからインテリが移り住むと決して自分を選挙では選ばないから、住宅地を造りたがらない。学園都市みたいなものにしたい、ということです。
  国によって圃場整備事業、土地利用計画などの道具の使い方は違ってきますが、こういう勝沼みたいなブドウ畑地帯では非常に難しいものがある、ということです。
(図41)
  これは、北海道の美瑛町です。美瑛町は写真家の前田真三さんが一生懸命やって、有名になった所です。美瑛町は、丘陵地はいわゆる牧草地。うねっていまして、うねった下の所に集落が点在しているという所です。ここも、景観条例を作って一生懸命です。ただ、景観条例を作っても、畑の真ん中に展望台を造るのは、気になるところです。
(図42)
  これは、砺波の散居村です。今日もちょっと暑いものですから、雪の景色がないかと思ったら、こういうのがあしました。少しは涼しくなっていただけるだろうと思います。ここも、できたら景観計画を作りたいと検討中です。
  パワーポイントの方はこれで終わりにしたいと思います。

 農村の景観というのは、今まで述べてきましたように、土地の変容が、都市化という形で、秩序正しく行われてきていなかったのではないかというのが第1点です。
  それから、農業そのものに関われる人の問題、これが日本の場合にはかなり衰退している。農地法というのは耕作主義とよく言われます。要するに、耕作をしていないと農地を持っちゃいけない。これは地主制を解放する時の思想です。農地解放を存続するために農地法ができました。ただ、今は耕作しないでも、所有と利用を分けて考えようよというので、農地の流動化が進んできました。農業ができない人の農地をできる人に耕作権を認める。これからは農業をやりたい人が、農地流動化事業で農業に参入できるような方策を、どうやったらできるかというのが今考えられています。
  もう1点は、農業の近代化と言われた圃場整備事業で、農業、農村はガラリと変わった。この3つが、農村の景観変容の大きな要因と思っています。
  いずれにしても、農業、農村の景観の主役は、最初に言いました3つの構成要素、農地と集落と里山です。ですから、建物や水路やそういうものが目立っちゃ困るわけです。これはわき役です。それをいかに戻すか。それで、農業景観を豊かに保つために、堅実な営農環境をどうやって作るのかというのが、一番問われているのではないでしょうか。
  昔の農村の景観は良かったというのは、多分稲作だけじゃなくて、そこで麦を作ったり、イモを作ったり、レンゲがあったり、いろんなものを作ったわけです。あるいは枝豆も作り、野菜も作る。そういうのを農地の土地利用率と、言いますが昭和40年代の後半までは土地利用率は130%ぐらいでした。ですから、いろんなもので四季折々に田んぼが変わっていくわけです。ですけれども、今は100%を切っている。田んぼも作らない、あるいは作っちゃだめよというところですので、農村の景観が作物によっても単調になってきた。そういうことが言えるのではないでしょうか。

 

フリーディスカッション

與謝野 楠本専務理事、誠にありがとうございました。大変に啓発される内容が多いお話であったと思います。
  それでは質疑に移ります。是非この機会に楠本さんにご質問をしてさらに理解を深めたいという方がおられますれば、どうぞ遠慮なくお申し出いただきたいと思います。
宮田(都市計画家協会) 農村の景観を守るという観点で言えば、確かに規制とかいろんな合意形成が必要だと思いますけれども、先程冒頭に、過疎の集落の中でも移転が必要と言われるところが相当あるということでした。多分これからも増えてくるとなると、農村景観を守るとすれば、規制も必要かもしれませんけれども、どうやって活力をつけるか。その問題を一緒に考えることが必要かと思います。そのまま緑に戻るのもいいのかもしれませんけれども、食料の問題、景観、資源の問題とかと一緒に取り組んでいく必要があるのかなと思います。
  この点で、都市計画屋としての発想としては、都市と農村、この部分を一緒に計画するような法制度がいいのではと思います。これは国の制度じゃなくてもいいのかもしれません。今、例えば新潟県なんかは、大きな自治体ばかりになっちゃっていますが、真ん中の中心市街地の所のもともとの自治体、例えば長岡市とか、そういう所の活性化に一生懸命力を入れて、編入合併した農村部とか漁村部に余り力を入れない、こんな傾向も見えないとは言えません。そういう場合には、1つの自治体の範囲で、自分たちで、場合によったら農地法と都市計画法の両方を掌握できるような制度、こんなものができるといいかなと思うんですけれども、その辺の、今後の制度の展望をお聞かせいただければと思います。お願いします。
楠本 景観どころじゃないよ、村の存続自体が問題で、農業以外でどうやって食っていけるんだという話です。今、それらは、限界集落としてその存続に大きな関心を呼んでいます。もっぱら国土計画の課題と思えるのですが、それは置いておいて、例えば、最後に言いましたように、農業をやりたい方は意外に多くいらっしゃる。これが参入できていないというところが非常に難しいと思う。
  株式会社なんかも最近かなり入ってきています。棚田みたいな所でやっているというところも出てくる。例えば、新潟の山古志村の方は地震被害地帯が非常に多いものですから、景観どころではない。そこで、どうやって地域を活性化していくか。ただ、今まで地域を活性化してきた所を見てみますと、農業だけで地域が活性してきている所は、残念ながら今のところはありません。北海道でもありません。農業だけで食べているところはほとんどない。例えば、農家1軒で米で食っていけと言って、どのくらいで食っていけるのかと言ったら、15ヘクタールから20へクタール。これぐらいだったら、農家1軒農業だけで食べていける。北海道でジャガイモを作って、どのくらいで食っていけるのか。帯広でこの間聞きましたら、100ヘクタール。これは、ちょっと不可能に近いんですね。ただ、農業をやりながら、今おっしゃったように、厳しい農山村が活性化できるのは、今日のキーワードからいうと、景観、それから都市の人もそれを享受できる、都市農村交流、グリーンツーリズム、そういう方向ではないかと思います。それから食の安全、地産地消、契約栽培、都市の人と農家が個人的に契約して、その都市のAさんに自分の所でとれたものを郵送するのもいいと思います。これは、お米もやっています。
  例えば、新潟県の黒川村なんかでもそれをやっている。そうやって農村だけではちょっとやっていけないんじゃないか。都市と農村がうまく流通しながら、新たな流通を作りながら、そしてそれを地産地消で食べていく。なおかつ、それをもとにしながら都市の方々にも農村に訪れてもらう。快適に過ごして、昔からの農村の景観や環境を見てもらう。そういうグリーンツーリズム的な考えでないと、ちょっと農村ではやっていけないんじゃないかと思います。
  あとは、農水省の方針としては、今まで農業はばらまきの補助金であった。今後は、認定農家つまり、4ヘクタールをやる農家に重点的に補助金を出す。4ヘクタールやれない人は、集落営農でやりましょう。集落営農というのは集落が単位になって、20ヘクタール以上の農地を耕している。集落の方々全員が働く必要はないんです。要するに、利用権と所有権を分けていますから、利用権だけ集落営農に預けて、今おっしゃったような形で、非農家の方々もそれに参加していける。あるいは、新しく住んだ方々も田んぼや畑をやりたいんでしたら、集落営農の中に入ってやっていける。あるいは、相対で農地を借り入れるという形で、まずは人口、戸数を増やしていく。言ってみれば、連合が言っている団塊の世代の方々、100万人人を農村に居住してもらえれば、との願望もあります。いわゆる農地流動化で、非農家の方々あるいは新たに農村に住んでもらう方々にも、それに参加できるようにするというのが1つのやり方。
  農村振興策として、最初に新産都市もやられましたが、だめでした。次いで、農村工業導入も盛んにやってきましたが、工場の海外流出でこれもだめになりました。リゾート法、これも結局はだめでした。あと残っているのは、都市の方々が農村に住まう。そういう方々が農業、農村に参加しやすいような形をどういうふうに作っていくか。あるいは株式会社が農業をやりたいんでしたら、それに対する一定のルールをどうやって作っていくかということが考えられるんじゃないか。その辺が一番頭が痛いところです。
石黒(中央大学) 最近、個人的に山梨県の里山に入って、いろんな農林業にかかわる活動をやりかけています。私自身というよりは、一般論になるかもしれないんですけれども、よく定年帰農と言いますが、20年できるかどうかですから、若者をやっぱり入れていかなきゃいけない。ただ、住む所が問題になってくる。私が行っている所も4軒全部空き家なんです。でも、貸さない。知らない人には貸せない。たまたまコネで、私じゃなくて知り合いの人が借りた所で、行って寝泊まりするケースも多いんですけれども、じゃ、その隣の家はどうかというと空いているんです。でも、新しい人が来て問い合わせしたら、貸す人はいない。特に若者の場合は、家を買って住むなんてとてもできないかから、身1つで行きたい。
  そういう新しい人を呼び込むための障壁として、今、住居が問題になっているような気がするんです。その辺まで、農地の利活用プラス空き家の利活用を合わせてやっていかないと、なかなか若者は入りづらいんじゃないか、と自分の経験から実感しているところなんですけれども、その辺に対しての方策とか方向づけというのがあれば、教えていただきたいと思います。
楠本 空き家情報というのがパソコン上ではありますが、開けてみたら空き家は、ほとんどないですね。そのぐらい人気な物件です。
  これは、成功例の事例をご報告するしかないのですけれども、例えば、京都府の美山町。今、合併して南丹市ですが、Iターン者が非常に多い町です。移りたい人はご夫婦で一定期間の試験期間があります。村には村のしきたりがあるんだから、学んでもらう。行事の時には町に来てくれ。その代わり、村の方も、あなた方が住むような所を一生懸命探す。それを「美山まちづくり公社」が仲介して、家を借りたい人、造りたい人の相談にのる。新規に居住する人は、集落に分散して入ってもらうようにしています、ということでした。どこか1カ所だけに新しい人が住む、ということはやっていません。ですから、裏山に、新しい住宅団地を造っているところもありますが、それは10戸以下です。既存のコミュニティが乗っ取られない配慮もあります。それを3カ所造っている。空き家も、町とまちづくり公社が中心になりまして、対応しています。
  そうやって、新築がいいか、貸し家がいいか、空き家がいいかというのをやっています。役場の方が危機感を持っていて、人口を増やすことが今一番重要な役割なので、役場の方がそれをやっていく。あるいは、農村の側がそれをちゃんとやってないと、とてもじゃないけれども、家を貸してくれと言っても、人に貸せるわけないじゃないかというお話をよく聞きます。これは、漁村でもそうなんですね。漁村でも、物すごくいっぱい空き家があるんですけれども、公的な第三機関がちゃんとそれをまとめていない限りは、とても貸すような制度にはなっていかないと思います。
  そういうやり方が、比較的今のところ成功しているようであります。そのためには役場、森林組合、労務班をやりたいという人がいたら、労務班の方もちゃんと働ける口を探しておきますよ、というようなことまでやっています。住宅を造りたいと言うんだったら、材料は森林組合の方がちゃんと見ますという形で、空き家と定住の環境をどこが造るかというのは、村の方が全体によってそれを考えて、組織立ってやらなければいけない。逆に言うと、そういう真剣さがないと、「うちの村に来てもらいたいの? そういう態度かいな」という、都市の部の人の方が疑っちゃいますね。
阿部(国土交通省) 引き算が大事だというお話がありましたが、3つの構成要素以外のものはなるべく除いていく。普通は、多分お金がかかったりするかと思うんですけれども、うまくそういう仕組みが回っているような事例があれば、ご紹介いただければありがたいと思います。
楠本 そういう事例は、まだ今のところありません。みんな農村は補助事業が大好きですから、箱物大好きです。そういうのに慣らされていますので、とてもじゃないけど、今僕が言ったようなことに、「はい、皆さん、そうだ」という立場の人はほとんどいません。(笑)どんな建物でもいいから来いと。省庁にまたがっていて、スキー場の施設は、農水省の施設、建設省、環境省みんなあるんですね。それが建物の方は廊下はつないである、デザインはバラバラです。それでもいいから箱物は欲しいんだという状況ですので、私が言いました3つの要素になるべく純化していって、建物は脇に置いておいてくれないかとは、なかなかなりません。建築家の人も、我こそはデザインの能力があるぞ、持っているぞという方は、是非建築して下さい。ただ、多くの場合は農村の景観に負けていらっしゃる人が多いんじゃないかと思います。
  余り答えになっていませんけど、結果としては、そういう所はありません。ただ、伝建地区の中には、そういう思想でやっていくぞという所があります。例えば、愛媛県の内子町なんかは大分そうなってきました。余計なものは除いていこう。それはまず看板からとか、そういう形でだんだんそうなってきて、昔のおもかげを少しでも取り戻そうと、やっとステップにかかったようなところがあるぐらいじゃないでしょうか。
與謝野 熱心なご質問と丁寧なご回答とを頂きまして、ありがとうございました。
  今日は、農村の実情を知る上での大変示唆深いお話の数々をお聞きできたわけでございます。本日のお話のキーワードは、農地における「所有と使用」にあったと思われます。農村の実情とともに、今後のあり方についての貴重な示唆を示して頂いたとお聞きいたしました。ありがとうございました。
  それでは最後に、全国の農村の景観振興と活性化に幅広く取り組まれておられます楠本さんに、本日のご講演のお礼と今後のご活躍へ向けての激励の気持ちとを込めて大きな拍手を贈っていただきまして、本フォーラムを締めたいと思います。(拍手)
本日は誠にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



                                  

 


 

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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