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第226回都市経営フォーラム

『都市論と国土学』

講師:  大石 久和氏 (財)国土技術研究センター理事長

日付:2006年10月19日(木)
場所:日本教育会館



1.都市論−世界の都市の成立ち

.都市論−日本の都市の成立ち

3.都市論−日本と世界の都市の違い

4.国土学からはどうみるか

5.公共事業批判は正しいか

フリーディスカッション



 

 

 

 

 



都市論と国土学

與謝野 それでは、時間となりましたので、本日の第226回目の都市経営フォーラムを始めさせていただきたいと存じます。
  皆さまにおかれましては、お忙しい中を本フォーラムにお運びいただきまして、まことにありがとうございます。また、長年にわたり本フォーラムをご支援いただきまして、高い席からではございますが、厚く御礼を申し上げます。
  今日の都市経営フォーラムは、国土の経営について皆さんとともに考えていきたいと思っております。
  本日の講師でいらっしゃいます大石久和様をご紹介いたします。財団法人国土技術研究センター理事長、大石久和様でいらっしゃいます。大石様におかれましては、お忙しい中を本フォーラムの講演をご快諾いただきまして、誠にありがとうございます。
  大石理事長のプロフィールにつきましては、お手元の資料の通りでございますが、長年にわたり、旧建設省、国交省にお勤めになられまして、大臣官房技術審議官、道路局長、国交省技監等を歴任された後、現職につかれておられます。最近、これまでのご自身の経験と知見等を「国土学事始め」という双書に纏められまして、都市のあり方と国土のあり方について、研究と実務と講演と、大変多方面にわたって活発に活動しておられます。まさに当代を代表する国土の経営研究の権威でいらっしゃいます。
  本日のご講演は、ご案内の通り、演題を「都市論と国土学」とされまして、世界の都市と日本の都市との歴史的な形成、成り立ちの違い、構造の違い等のお話を初め、脆弱な国土と日本特有の厳しい自然条件の中から国民を守るための社会資本整備の手法として、国土学の中から私たちの身の回りの都市、町の環境改善を受けた貴重な実験の数々をお聞きできるのではないかと楽しみにしております。
  とりわけ、公共事業における官民思想から、公私の視座の思想の転換の必要等について関心の高いものがございます。
  それでは、大石理事長、よろしくお願いいたします。(拍手)
 
 
大石 ご紹介いただきました国土技術研究センターの大石でございます。
  今日は、第226回という伝統ある都市経営フォーラムにお招きにあずかりまして、皆さん方の前で自分の意見を開陳する機会を与えていただきまして、大変ありがたいと思っています。
  今もご紹介で、あらかたの粗筋をご紹介いただいたような感じでございますが、都市を専門としたり、都市に関する業務を専門としておられる皆様方には、私のような浅学非才の者が何かをしゃべるのは大変おこがましい気はするのでありますが、国土庁にも勤務させていただいたことがあり、国土計画や国土という言葉に対する独特の思いのようなものを自分自身持っておりまして、最近の公共事業論に代表されるような、かなり薄っぺらな深みのない議論で、我が国の本来次の世代に残すべき我が国土、我が都市というものへの取り組みが、非常にないがしろになっているのではないか。我が国民は非常に怠慢で傲慢になっているのではないか、という気がするぐらい次の世代に対する責任を全うしようとしないのではないか。それにもかかわらず、公共事業攻撃で何か議論ができているような気になっているとすれば、それはとんでもない話なのではないか。後世我々は、子どもを量的にも質的にも十分育てなかった世代として評価されるだけではなく、後世のためにも、立派な都市だとか立派な国土を残していかなかった世代として評価されてしまうのではないか、と心配しております。
  そんな思いを、本日のタイトルであります「都市論と国土学」ということで、どこまでお話しできますかどうか。皆さん方の共感が得られれば幸いであります。
  申し上げたいことは、幾つかに集約されます。まず最初に、私が申し上げたい結論をお話し申し上げたいと思います。
  我が国の都市を考える上で、都市と国土を論ずる上で、大前提として我々が理解しなければならない事柄があって、その大前提がかなり軽視されている。これは都市論や国土論を論ずる大前提ではありますが、実は文明論や文明史を議論する上でも大前提でなければならないのに、余りに触れられる機会が少ないということであります。
  繰り返し説明することになると思いますが、どういうことかと言うと、日本民族以外の民族、これは朝鮮半島からイギリスに至るまでという言い方をしていいと思うのですが、日本民族以外の民族は歴史的に、有史以前から戦争や紛争による凄惨な大量殺戮の歴史を持っています。それが繰り返し行われているのに対して、我が国、我が国民は、ほとんどその経験をしていないのです。人の死にざま、愛する者の死にざま、近隣の者の死にざま、あるいは大量に死ぬという死に方を、人生の中で見聞き、経験することは、その人の人生観や使命感や死生観に大きな影響を与えるはずであります。それが、もし繰り返し経験されているとすると、それは民族の遺伝子として今日の彼らに引き継がれ、その経験がなかったことが、また我々に引き継がれている、このように思います。
  都市文明の建設者はシュメール人だと言われていますが、このシュメール人がチグリス・ユーフラテスの河口に多数の都市国家を造りました。それは紀元前3000年頃といわれていますが、それらの都市はもう既に城壁に囲まれていました。ということは、彼らは都市を形成する以前から、大量殺戮の経験をしてきたことを意味しています。都市に集まって住むのは、余剰生産力を身につけたから可能になったわけです。余剰生産力があるから、都市の中には農業以外の職業分野、職人などの専門分野の人間など住むようになった。つまり農業や酪農、放牧等に従事しなくても飯が食えるという状態になってきた時に、彼らは都市を造ったわけです。その都市が初めから城壁に囲まれていたということは、都市間の争いや、山岳民族との紛争や侵入、遊牧民の侵入というものをすでに繰り返し経験してきたからであり、彼らは都市を造った一番最初の紀元前3000年頃から城壁を持っていたということであります。ところが、我々の国に城壁があった都市は歴史的に見ても1つもありません。
  当然のことながら、長安の都も、パリも、ウィーンも、城壁を持つようなことになっています。パリが城壁を取り払ったのは、城壁が何の役にも立たないことが証明された第1次世界大戦の後だということから見ても、都市というものが、いかに彼らの生命維持装置として機能したか、あるいは機能させるために都市を形成してきたかということであります。彼らは、都市に固まって住むことを余儀された民であります。都市に固まって住むことを余儀なくされたが故に、狭い所に共同して住むルールというものを身につけた。それが、私たちの国民が大きく欠いている点であります。
  計画なきところに建築なしということを受け入れている彼らと、私たちはそれを受け入れようとしないという民との違いになっている。
  規制緩和と言うと、住宅や建築関係の容積率の緩和とかいう話になりますが、我々の国ほど、そういったものが自由な国はない。にもかかわらず、そのようなことが繰り返し言われている。従って、我々は日常の不便に優先して備えなければならないことがある、ということを受け入れない民であります。日常の不便を我慢することは全く嫌な民族であります。日常の不便解消に勝る優位性があるものは何もない、ということを受け入れている。
  それに対して、彼らの国の文明の一番行き着く先の国がアメリカでありますが、そのアメリカが国是としてセキュリティというものがある。何があってもセキュリティがまず一番。それが一番極端な形で表われている国だと思います。
  我々は、都市には実は住んでいませんでした。我々は今でこそ都市に住んで、都市が終の住みかになりつつあります。従って、都市での住まい方、都市の佇まいというものについて、我々は歴史上一度も経験しなかった時代を迎えつつあり、それに対して我々が都市をどのように構えるかということが、今初めて問われているのではないかと思います。
  日本人は大量死はしなかったのかというと、残念ながら、たくさん大量死をしています。それは自然災害によってであります。紛争によってではありません。天下分け目の関が原の戦いでも、そんなにたくさんの人間が死んだということはありません。が、我々は火山の噴火や洪水、地震で大量の人間が亡くなっています。彼らの国が戦争や紛争で大量に死んでいったのに対して、私たちの民は、自然災害によって大量死を経験しています。
  従って、私たちの生命観その他は、この大量死を目撃したり、経験することによって成り立っています。例えば、私たちはあきらめて死んでいっています。死んだ者は仏になるということを受け入れます。ところが、彼らの民は、殺されて死ぬわけですから恨みを残して死んでいっている。
  小泉総理が靖国のA級戦犯問題で、死んだ者は仏じゃないか、なぜそれがわかってもらえないのかという言い方をされたことがあります。まさしく彼は日本人であります。死んだ者をむち打つことはしない。しかし、皆さん方も中国の歴史等をお読みになったことがあると思います。これは中国以外、ヨーロッパでもそうです。攻撃した際に敵の墓をあばいて、墓から出した死体に対して、あるいは骨に対してむち打つということをやっています。これは恨みを残して死んでいった者の歴史と、そういうものを持っていないという歴史との違いであります。
  諸外国とわれわれの間には、そういう違いがあることは理解しておかなければならないと私は思うのであります。あきらめて死んでいった民と、恨みを残して恨んで恨んで恨み抜きながら死んでいった民との違いが、いろいろな面に表れています
  身近な例で恐縮ですが、私は時々ドアの話をすることがあります。私たちのドアは、自分のマンションにしても、圧倒的に外開きであります。ところが、アメリカの映画を見ていますと、外から誰かが攻めてくる時に、お父さんの指揮に従って家族が家中の家財道具をドアの前に積み重ねて、打ち破られないようにして防御するといった場面が出てきたりします。これが外開きのドアだったら何の意味もありません。スコーンとあけられてスッと入ってこられる。内開きのドアだから可能なわけです。しかしながら、内開きのドアは極めて不便です。その前に靴も置けないし、傘立ても置くことができない。自分のマンションをより広く使おうと思えば、どうしても外開きにしておく必要がある。これはセキュリティのレベルが全然違います。そんな万が一、何年に1度か何十年に1度しかないようなことを想定して、日常の不便を受け入れるよりは、日常の自分の靴を自由に置いておけるようにしたいというわけであります。
  そんなところにも表れているように、これは漫画みたいな1つの例ですが、強力な1つの例だと私は思います。申し上げたいことの1つがこれであります。
  もう1つは、先程ご紹介いただいた私の経歴でもおわかりの通り、公共事業論であります。冒頭も申しました。公共事業というフローの言葉を使って物事を表現したつもりになっているうちはだめだ、このように思います。公共事業という言葉はGDPに対する比率や、今年の予算に対するシェアや大きさというように、間違いなくフローの表現であります。ところが、公共事業というものは、その成果として都市や道路や空港、港湾が整備されて積み重なっている。河川改修が積み重ねられていく。積み重なることによって、私たちに初めて効用を果たします。道路もネットワークになって初めて、私たちにいろんな利便をもたらしてくれます。
  そのネットワークになって初めてもたらされる利便の大きさが、それで十分かということをはかる尺度に使う時の言葉として、公共事業という言葉ではどうしても足りない。それは私が「国土学」と言わせていただいておりますように、例えば、過去からの蓄積の成果の上で、私たちが今日、この日本国土の上に暮らせているということが、公共事業という言葉では見えません。それは単年度の言葉ですから、見えるはずがありません。
  しかしながら、我々が、東京メトロという地下鉄ネットワークを初乗り料金160円で乗れているのは、一番最初、昭和2年に現在の銀座線の一部、上野と浅草の間が供用されたように、非常に大きな過去からの蓄積があるから、大きなインフレを通り越してきた現在から見ると、ほとんどただのような値段でできたものを、今日使うことができるからであります。
  それは京都や仙台が、今頃になって地下鉄を造って、初乗り料金210円を払っても、数十キロのネットワークも使えない。100キロをはるかに超えるネットワークを持っている東京が160円で使えて、その160円の初乗り料金で相当な距離を行けるというのとは大きな違いになっていることでも明らかなように、堺屋太一さんの言葉を借りると「過去からの補助金」があるわけです。
  この「過去からの補助金」を持てているインフラ、つまりそれが国土に積み重なってきているわけですが、公共事業では「過去からの補助金」は見えない。
  また、我が国の東京湾の港湾は、1980年頃から比べると何倍もの大量のコンテナの取り扱いができるようになりました。1983年頃は東京湾、横浜港と東京港合わせて約160万TEUぐらいの取り扱いでしたが、今は600万近い取り扱いができています。
  なるほど日本も成長したな、日本の港湾もよくなったなと思っていたら、何と上海は、1980年頃はたった8万個ぐらいしか取り扱えなかったのが、現在では1000万TEUを取り扱ってます。太平洋を渡るような大型のコンテナ船は、日本の港に入れなくなっている。日本の港湾はよくなったと言いますが、はしけだとか、岸壁に横づけして、荷物をクレーンで降すという時代にこそ、アジアの中で全く卓越した港湾を持っていたのであって、物流形態のかなりの部分が、材料まで含めてコンテナ化されてきた時には、私たちの国の港は太刀打ちできないようになった。彼らは後発でしたから、われわれとほとんど同時のスタートとなりました。先行のメリットがないような港湾整備になってしまったが故に、上海は1000万取り扱えているし、釜山も1000万取り扱えている。なお上海は、上海沖の羊山プロジェクトというのがほぼ完成いたしました。そこでは2000万TEUが新たに取り扱えるというわけですから、合わせて3000万TEU。それだけのものが動く。東京湾のことを言いましたが、大阪湾は神戸と大阪を合わせても、もっと貧弱なことになっています。
  先程、過去からの補助金という言葉を使ったように、歴史的積み上げの成果がどのレベルに来ているかがわからない、あるいは過去の世代が努力したのに我が世代が努力しなくていいということにならないという意味で、公共事業ではだめで、国土学と言わなければならないと言いました。と同時に、この港湾の例でもわかるように、高速道路の議論にしても、空港の議論にしても、この国土にでき上がる極めてドメスティックなものではありますが、国際競争の中でそれを位置づけないと、整備の水準を議論することができないのです。したがって、公共事業という言葉ではだめだ、ということであります。
  そんなことを、幾つかの資料でご説明したいということであります。私が直接的に関係しました高速道路の議論にしても、我が国で起こった議論は、高速道路の採算性と、道路公団の長い間の積み重ねによる、例えばファミリー企業の問題、天下りの問題ばかりが議論されて、それが落ち着くまで一たん高速道路の整備を止めて議論してはどうか、といったような提案があったぐらいに、ドメスティックな議論をさらに内向的に議論したに過ぎない。我が国の国民のアクティビティーを支える意味で、高速道路が十分にでき上がったかどうか、ネットワークが、ドイツのネットワークやアメリカのネットワークに比べて、あるいは急激に追いかけてきている中国のネットワークに比べて、もう十分でき上がり過ぎていて、一旦止めて議論しなければならないようなレベルかどうかという、そんな議論も全くないまま、議論が始まって議論が終わりました。
  私は、道路局長だった頃に、大新聞の経済部の次長に、日本のネットワークとドイツのネットワークの地図を見せて、この地図を新聞に載せた上で高速道路是か非かの議論をしてくれと申し上げました。その次長は、載せようと言ってくれましたが、結局載りませんでした。もしそれを載せたら、我が国の高速ネットワークが何故こんなに貧弱なのかということを、読者に提示することになったからであります。
  私は、メディアリテラシーを国民が持つ必要があると思いますが、我が国のマスメディアは、多面的な情報を国民に伝えて判断を国民にさせるということをしていない。判断するのは国民である、それこそが主権国家であるという基本がわかっていないのではないか、という気がするぐらい判断を押し付けています。高速道路について言えば、公団がファミリー企業と入札契約と採算性で、もうにっちもさっちもいかないという情報が繰り返し国民に刷り込まれましたが、果たして高速道路網が、これだけGDPを稼いでいる国民の移動のしやすさや輸送の利便を確保するために十分なものかどうかということは、ついぞ提示されませんでした。極めて残念なことでありました。
  さて、ここからは、紙芝居を超えるぐらいのスピードで資料をご覧いただいて、私がこれが結論だ、と申し上げたような部分をご納得いただきたいと思います。

1.都市論―世界の都市の成立ち

(図1)
  これは自分の書いた言葉です。「朝鮮半島からイギリスに至るまで、都市とは『異邦人の攻撃によって、全員が皆殺しにならないための絶対生命圏を確保するための装置である』のに対し、わが国の都市にはその性格が全くない」ということは、都市を議論する上で絶対知らなければならないことなのではないかと思います。
(図2)
  それが証拠にと言うと、一部の方から怒られるかもわかりませんが、旧約聖書は、三大一神教の大元でありますが、これには、まず、イスラエルの民の側が、「外部の人間が私達を攻め囲んで皆殺しにし、私達の名を地から断ってしまうでしょう。それは神よ、どう考えるんですか」ということを言っている部分があり、その一方で、「その日、マケダという町を占領し、剣をもってその町と王を討ち、住民を滅ぼし尽くして1人も残さなかった」と書いている。これは正しい行為なんですね。こんな激しさを持っているのに対して、日本書記で神功皇后は、「自ら降参する者を殺してはならない」と言っている。要するに、私たちの国の戦いはこのレベルの戦いで済んでいた。彼らの国の戦いは徹底的にやらないと、今度は自分が危ないということであります。
(図3)
  トロイから始まって、英仏の100年戦争まで、彼らの戦いは途切れることがありません。私たちの国は、山折哲雄氏が言っているように、平安時代の350年、江戸時代の250年、ほとんど、戦争や紛争がなかった時期を持っていますが、彼らの国はそうではありません。これをもう少し整理したいと、私は今思っているところです。
(図4)
  この戦争の歴史の表は、物凄く省略していますが、16世紀から第2次世界大戦まででも、殺戮の規模は生半可なものじゃない。とんでもない数の人間が死んでいます。
(図5)
  だからこそ、サミュエル・ハンチントン氏は、日本文明だけが全く異質であると言っているのです。彼は日本文明を中華文明の中に入れていない。私も入れるべきではないと思う。かなり違う。朝鮮半島を含んでイギリスに至るまでの国が殺戮の経験を持っているのに対して、日本はそうではない。ハンチントン氏が、これはイスラエルについて、ユダヤの民について使う時の言葉ですが、ディアスポラをもたない。それが日本文明の悲しさというんだ、ということを言っている部分があります。
(図6)
  ローマの話。これは戦いの歴史を書こうと思って整理したんですけれども、時間と能力に余ります。
(図7)
  十字軍は、これだけ十字軍が起こっていて、死者の数もいろいろ記録が残っていたり、残っていなかったりであります。例えば、イスラエル側から攻め込まれて2000人死んだ、とかいったことが書かれているものも残っています。
(図8)
  それから、城壁に閉じこもっていることによって撃退することができたという歴史と、残念ながら打ち破られて大量殺戮を経験してしまった歴史とを繰り返してきています。これはコンスタンチノープルの包囲でありまして、撃退ができた経験と陥落してしまった経験の2つが書いてございます。これは大量殺戮はなかったのではないかということも言われていますが、かなりの数の犠牲を払ったことは間違いない。
(図9)
  エルサレムの十字軍による取り囲みは、取り囲んだけれども、うまくいかなかった。取り囲んで中に入られてしまった。記録によりますと、エルサレムの大通りや広場などには、人間の頭や腕や足がうず高く積み上げられ、兵士は死骸を押し分けながら進んだという大量殺戮でした。
(図10)
  ローマの歴史の中でもカルタゴとの戦争では、包囲には1次、2次、3次というようにありますが、これも破られたり、入られたり、撃退されたりといったことです。
(図11)
  ウィーンもそうです。今のポーランドのあたりから助けに来てくれて助かったとか、もう少しで危なかったといった歴史が刻まれています。守られたというのと敗北に終わったという歴史を持っている。
(図12)
  大量殺戮でいうと、これは邯鄲の戦い。この邯鄲の戦いというのは、こんな数の人間は死んだはずがないだろうと言っていたら、最近、開発のために掘ってみたら、何と何と骨が出てくるわ、出てくるわといったことがありました。魔女狩りにしても、200から300万人が死んでいると言われますし、スターリンの粛清によっては2000万人死んだ。これには書いてませんが、文化大革命でも相当な数の人間が死んだのではないかと言われています。クメール・ルージュなんかは、この国は800万とか900万しか人口を持たない国で120から250万人の殺戮が行われたということであります。そんな経験をしなくてよかった我々は、大変幸せな民でありますが、そのために、先程も言ったように、都市にまとまって住むという文化というか、ルールというものを持つ必要がなかったということです。
(図13)
  これは「国土学事始め」の中でも紹介させていただきましたが、パリの発達史みたいなものであります。真ん中のシテ島が城壁を囲んで、シテ、シティからパリができ上がっていって、順繰りにパリが成長するに連れ、最終的にはティエールの城壁という所まで行った。1840年代になって、これだけ大きな城壁を造って守っていたわけです。
  しかし、第1次世界大戦では空から爆弾が飛んでくる時代になってしまいましたから、城壁に意味がない、ということになったわけであります。
(図14)
  城壁の整備と侵略の歴史を表にしてみますと、紀元前2世紀の初めに、防御の城壁が築かれた。3世紀になって、島を取り巻く城壁を強化した。1190年にはフィリップ・オーギュストの城壁ができた。1358年にはシャルル5世の城壁ができた。1566年にはルイ9世とルイ13世の城壁ができたとあります。城壁をめぐって攻撃と防御が繰り返された歴史があります。ゲルマン種族が攻撃をしてきた、フン族がやってきた、ノルマン人がセーヌ川伝いにバイキングとして入ってきた、100年戦争が起こった、あるいはパリがイギリスに16年間も占領されたとかいう歴史です。
(図15)
  出入りする者から徴税を課すというので、徴税請負人の城壁と言われるものがあったようであります。
  そして、最終的に1841年にティエールの城壁が造られた。この城壁の堀の前200メーターは建築物を建てさせなかったということですから、これを1919年に取り除いた後、みごとな環状道路が整備されることになって、我が国の東京がいまだにろくな環状道路がないのに比べて、著しい特徴と言いますか、便利なものになっています。
  余談ですけれども、今フランスは、これの外にさらにA86だとかいう環状道路を整備しようとしております。
(図16)
  私は9月に韓国に行った時に、向こうの方にお願いして、慶州の山城を実際に見せて欲しいと言いました。そうすると、大学の歴史学者の人が一緒に付いて行ってくれまして、山登りをやりました。大変な苦労をいたしました。都の南にある南山城には、低い位置には土塁のお城がありました。土塁がずっと取り巻いていました。その後、新羅が力をつけたのか、その上にさらに石積みで積み上げたお城が取り巻いていました。石積みの所に到達するまでに1時間以上歩きました。残念ながら、それのほとんどは今は崩れています。
(図17)
  その先生にいろいろお聞きしたところ、こんな配置になっていると言うんです。この南山城、明活山と言うんでしょうか、そういうお城がこういう配置になって、時代に応じて拡張されたりしている。これは向こうの方にもらったものを、そのままパワーポイントにしたものであります。1期、半月城と言うのがありました。ここが都であります。これの東西南北に城があって、西から攻めてきたときは東に、北から攻めてこられた時は南に、といったようなことが可能になる展開がなされている。こういうものを持っていて、当然王様とその一族が逃げていったのであります。多分、その王様を支える側の人間も大分行ったのではないか。
  皆さん方でご存じの方がおられたら、今日教えていただきたいのでありますが、多分、都の中に住んでいた民衆も相当数がそのお城に逃げたのではないか。彼らは、都がある所を城壁で囲むことができない。朝鮮半島も我が国と同じように、非常に地形が厳しい所でありますから、囲むことができなかったにしても、いざという時には逃げ込む囲みを造っていた、こういうことでありました。
  この南山城は、私が聞いたのでは周囲8キロでした。周囲8キロというと、かなりな規模でありまして、多分王様だけが逃げ込むには広過ぎる。それを支える多くの方々、それは兵士だけじゃなくて、いわゆる市民も逃げ込んだのではないかと思うんですが、ご案内をいただいた歴史学者に、「そういう事実はありましたか」と聞いたら、その学者は「一般市民が逃げ込んだという記録は残っていません」、こういう説明でした。記録はそうなんでしょうね。実際どうだったかというのは、今日来ておられる都市が専門の皆様方で、ご存じの方がおられたら教えていただければ幸いであります。
  ここに実際に行ってきましたら、韓国で私たちと同じような仕事をしている人が一緒に行ってくれたんですが、こんな所に来たのは初めてでありますということを言ってくれました。私にとっては、自分の目で確認できたいい経験でありました。
(図18)
  古い町なら皆、城壁で囲まれた町なんです。近代になって建設されたアメリカを除いていうと、全部がそうなっているということであります。こうしたことが、先程申しましたような私たちの建築に対する、あるいは土地保有に関する概念の違い、考え方の違いになってきているということです。

2.都市論−日本の都市の成り立ち

(図19)
  これは平城京です。現在は遷都1300年に向かって、いろんな復旧工事、例えば朱雀門ができたりということは進んでおります。宮城はなるほど囲みました。しかし、都はついに我々は囲みませんでした。ところが、我々がお手本にした長安は、1辺約9キロぐらいの城壁で囲んでいて、その3キロごとぐらいに門がある。3つ門が見えていますね。この門から出入りしないと都に入れない。大変不便だったと思います。
  芥川龍之介の「杜子春」では、彼は城壁の外に佇んでいるのですが、朝夕にはラッシュが起こっている様子が、小説の中に書かれています。ラッシュが起こるということは、つまり出入りが非常に不便なわけであります。場合によっては、時間が過ぎたら門が閉まってしまう、出入りができない時間帯があるという不便を受け入れなければ長安の中には暮らせない。しかし、その代わりに長安の中では、ヨーロッパのようかどうかわかりませんけれども、これを守るためのコミュニティというものがあり得たと思います。
  我々の平城京は、それが必要でないということであります。もちろん異邦人、異人は攻めてこないわけでありますから、こういう都でよかったということであります。
(図20)
  これが、パリの14世紀後半の絵図です。見事に城壁で囲まれていて、真ん中にシテ島が見えています。城壁の中だけに暮らしている様子が見えています。
  これは17世紀の東海道の神奈川宿、現在の神奈川駅の周辺のようですが、我が国の現在の町の特徴が見事に表われている。要するに、幹線道路に沿って町が形成されていくという様子であります。道沿いに町が形成されていっている。ここは、防御のしようがありません。防御するという考え方が必要でなかった、ということです。我々は、住む自由というものを非常に得ていたということであります。
(図21)
  その違いの根本の1つが、これは先程も申しましたが、山折哲雄氏が言ったことです。平安時代の801年から1156年の保元の乱の間の350年間の空白と江戸時代の夏の陣が終わってから、本格的に、国を賭けての戦いというは、薩英戦争になるのか、その後の戊辰戦争になるのか、その間の空白があったことは間違いありません。
  2000年からの歴史を持っている国々の中で、これだけの空白を持っている国は存在していません。我が国だけであります。我が国は、これだけ平和な国であります。このことともう1つ、自然災害による大量死ということが、我々の物事の考え方にいろいろ反映している、こういうことであります。
(図22)
  つい先般、東京財団の機関紙に都市構成の論理の違い、彼我の違いを書いたんですが、その最後に、我々もついに都市に住む民族になったと書きました。これは大げさに言うと、昭和30年以降の話と言っていいと思うんです。2005年10月でいうと、日本人の65.9%が10万人以上の都市に住んでいます。それはアメリカの27.5%、イギリスの31.2%、フランスの15%なんかに比べると、著しい違いに今はなっている、ということであります。数も多いですね。これがこれからどうなるか。
  我々は、都市に生まれて都市に死んでいく民になりました。ついこの間までは、田舎に生まれて田舎で死んだ。比較的最近は、田舎に生まれて都市に住み始めたということでしたが、現在は都市に生まれて都市で死んでいく。パリに生まれてパリに死んでいった人々がたくさんいるのですが、われわれもそういう民族になったわけです。
  そうなると、我々が長い歴史過程の中で持ち得なかった、都市に住むための作法、ルールというものを再構築しなければならない。あるいは新構築しなければならない。それは、マナーなどというレベルではない。そういうことになったのではないかというのが、私が提出したい仮説の1つであります。
(図23)
  これは、国土計画と関連付けた人口の変化図であります。全総との関係で書いてございます。就職列車が走った時代には、東京圏、関西圏、名古屋圏が大量に地方圏からの人間を、収奪しました。従って、転出超過のピークが1961年ですね。その時には約66万人が、1年間に地方から3大都市圏に出てきています。
  そして、1975年頃になって3大都市圏への人口流入が止まりました。この時に神奈川県に長洲という知事があらわれて、この現象を捉まえて「地方の時代」が来たと言いました。彼が地方の時代と言ったのは、これを見てのことであります。地方圏が人口減少をしていません、という時代が少し続いたのであります。従って、この年に立てた3全総は流域圏だとか、定住圏だとか、そういうことを標榜できたんですね。3全総が流域圏構想だったというのは、そういう時代背景があります。
  そして、4全総です。昭和62年は、今から思えば、東京一極集中のピークの年でした。3大都市圏は人間を集めなかったけれども、東京だけが地方から人口を収奪していくという構造が始まって、そのピークだったということであります。従って、国土庁は当時東京の性格が変わり始めたのではないか、東京が世界機能を持ち始めたのではないか、ということを仮説的に提出しようとしました。4全総の原案は、世界機能都市東京というものを謳おうとしたのであります。
  これが不幸なことに、人口の東京一極集中のピークの年でありましたから、最も強い攻撃をしたのは細川熊本県知事でありまして、「とんでもない。東京が世界機能を持ち始めたなんてことを全総に書くと、それでなくても地方からの人口収奪が激しいのに、それを助長することになる」と言って大反対をいたしました。知事会が大反対した。従って、中曽根総理は全総の計画策定を半年延ばすということをしまして、世界機能という言葉は少しは残ったのでありますが、全面改定になりました。結局、この時は多極分散型交流ネットワークという全総ができ上がったというわけであります。
(図24)
  そして、全総を進めていくと、今度は、東京が人口を吐き出し始めるという時代がきた。なるほど、この時はアジアの中で世界機能を担える都市は、まだ上海でもない、ソウルでもない、北京でもない、そういう時代で東京がその機能を担わざるを得ない。世界エンタプライズ企業のアジア総局みたいのが、もう東京に立地せざるを得ない、そういう時期だったんだろうと思いますが、それが東京圏も人口を出して地方回帰が始まった。地方圏が人口を増やし始めたといったことが起こったんですね。これは4全総ではいかぬというので、5全総の議論に着手し始めたということです。
  その後も、我々は、この傾向が継続するのかなと思っていましたが、今、就業機会の確保という意味から言うと、東京の有効求人倍率が1.6とか7で、北海道が0.6とか7とかいうわけですから、東京に出て来ないと、働き口がない。不況の時代は、特にそうなるわけでありますが、そういう状況の反映なのか、現在なお、東京は人を地方から収奪していっているという状況が続いています。
  終戦の1945年は、我が国は第1次産業の人口が最も多い国でありましたが、急激に第1次産業から3次産業への人口のシフトが進んでいるというわけです。
(図25)
  二次、三次産業は都市で成り立つ産業です。こういう所に人口がシフトしていますから、これは違う見方で見ても、我々はついに都市に住み始めた、と言いたいのであります。
(図26)
  皆さん方は、「そんなことはないよ。我々は昔から、例えば江戸は100万だったじゃないか。京都だって江戸時代から大きな町だった。大阪もそうだったじゃないか」と思われるかもわかりませんが、2つ言いたいことがあります。江戸は、いわゆる市民から構成された町ではありませんでした。市民というのは、城壁の中にあって、いざという時には機能的な役割分担を持つ、つまり、コミュニティを維持するために共同戦線に参画するといったような意味であります。だからこそ、市民としての自覚、市民としてコミュニティを守り抜くためのルールを受け入れる。そういうことを前提としている民が市民という意味で言うと、江戸時代に江戸に住んでいた100万人は市民ではありません。江戸に住んでいた100万人は、いざという時に将軍の下知に従うために集まってきている武装集団が50万人、その武装集団を支えるための町衆が50万人。その中には、近隣から来ている日傭層だとかが多く含まれていて、当然専門の職業人として町人が多く暮らしたわけでありますが、町人同士支え合うということももちろんあったでしょうが、基本的に町人の存在は、武士の存在を支えるための存在でありました。ということから言うと、江戸という町を全体として、いざという時に外部に対して市民として立ち上がらなければならない、という構造で江戸に暮らしていたわけではないし、その江戸も、今から思えば、非常に小さな大きさでありました。
  東京大学の近くに「かねやす」という店がありますが、「かねやすまでが江戸の内」と言われた言葉があるように、今から思えば、あんな近くまでが江戸の内と言われたということでありました。明治の市街地図を国土地理院からいろいろ古いのを引きずり出させて絵にしてみました。これは明治20年頃の絵であります。江戸時代よりは大分膨れ上がっているかもわかりません。鉄道も既に入っています。
(図27)
  これが平成の市街地です。ご覧いただきますと、この黒い所がこれだけ広がっているわけであります。この枠の所を少し拡大して、戸田とかがあるあたりを見てみますと、一番最初が江戸時代。これは大正時代。同じ場所です。荒川が、このように蛇行して流れています。
(図28)
  そして、戦後の初め。
(図29)
  40年代。荒川の線形が随分改善されています。
(図30)
  そして、現在ですね。このように広がっていったというわけです。これは、だから住んでなかったよ、と言うことをいうんですが。
(図31)
  大阪です。大坂城。左側が明治です。結構南の方なんてパラパラですね。仁徳天皇陵があるあたりとか、大坂城のあるところの東側もパラパラです。
(図32)
  大正時代。ここが大阪城です。大阪城の東の方、現在でいう城東とか鶴見、東成あたり、松下がある門真なんていうのは、こんな状態でした。
(図33)
  戦後の初め。かなり大きな区画が割られていますね。
(図34)
  そして、40年代。随分都市が大きくなりました。
(図35)
  そして、現在。これは私の仮説なんですが、昭和30年頃から本格的にモータリゼーションが始まって、それまでとそれ以降というのは、非常に大きな国としての違いが起こってしまったと思っております。現在7700万台を超えている自動車の保有台数が、昭和30年には全国でわずか90万台であります。ここから高度経済成長が始まり、人々が都市に住まうようになった。
(図36〜40)
  名古屋であります。左側が明治。熱田神宮と名古屋城をポイントで入れてみました。右側が平成であります。黒い所が広がった所です。/大正初期。名古屋駅はぎりぎりのあたり。/戦後の初め。40年代。/そして、現在。
(図41)
  京都。京都大学の名誉教授の土岐先生が「もし、阪神・淡路大震災が京都に起これば、我々が長年保ってきた木造国宝建造物を火災で失うことになるだろう。これは何としても避けなければならない」と言うことで、いろいろ運動しておられます。国土交通省でも立体公園制度というのができましたので、それを利用しながら、例えば琵琶湖からの疎水の水を貯めるタンクを地下化して、上を公園にするとか、駐車場に一部使うといったやり方で、たとえば東寺に火災が起こった場合に、その類焼を防ぐような装置を入れようといった議論をしていますが、ご覧いただきますように、明治には東寺の周辺は市街化されていませんでした。先生の言い方を借りると、「二条城も市街地の中にあったわけではない」このように言っておられます。京都御所の南の方が市街化されていただけだ。この市街地図は、私が見たよりも大分時代が下っているようであります。こんな状況であります。
  東寺は、この当時は、町の中にない。現在の文化財保護法は、自らが出火した場合に消火できる能力を備えることとなっていますから、阪神・淡路のように類焼が来た場合にはどうしようもない。類焼に対して防御できる体制を整えなければ、もし京都で阪神・淡路が起こったら、我々はほとんどの木造建造物を失うぐらいに、市街地に囲まれた中に木造建造物を持っています。
(図42〜45)
  大正時代の初め。東寺をずっとポイントに入れています。/そして、戦後。/40年代。大分市街地に囲まれてしまいました。/そして、現在ということであります。
(図46〜50)
  ついでに、札・仙・広・福までいってしまうんですが、札幌。明治の初めです。平成が右側であります。そして、大正。戦後。40年代。そして、現在というわけです。間違いなく、我々は都市に住むようになりました。
(図51〜55)
  仙台。駅の東側は何もありませんね。/大正。/戦後。/40年代。40年代に爆発が起こっていますね、どこも。/そして、現在。
(図56)
  広島。広島は、それこそ平清盛が厳島を造営した頃は、広島市があるようなエリアは全くありませんでしたから、極めて新しい。わずか1000年弱で構成された沖積平野であります。従って、現在でもなお、三角州の様相を大きく残しています。
(図57〜59)
  大正。/戦後。/現在というわけです。
(図60〜65)
  福岡。/大正。/戦後。/40年代。戦後と40年代の間は、どこの都市も著しい変化。/そして、平成ですね。
(図65)
  先程、土岐先生が言われたものを絵にしました。このポツが国宝木造建造物です。
(図66)
  その中の世界遺産。これが、いかに市街地に囲まれているかということが見てとれるわけであります。これは独特の画法を先生が発明されまして、赤い所はこれらの建造物が一たん火災等でなくなっていた時代を表していて、手前にせり上がってきている様子に見えていますが、これは、それぞれの建造物の時間軸であります。
(図67)
  文化遺産は、市街地に飲み込まれています。
(図68)
  これは大和村を書きました。六義園の隣です。ここから石井紫郎先生の考えのご紹介であります。
(図69)
  現在、こうなっています。
(図70)
  そして、田園調布。これは開発当初の地割であります。
(図71)
  現在と見比べてみますと、なるほど大ざっぱな幹線街路は変わっていないけれども、土地割が極めて狭小化していっている様子は明らかであります。

3.都市論−日本と世界の都市の違い

(図72)
  繰り返しですが、これはフィレンツェの城壁で囲まれている様子です。
(図73)
  ところが、駿府城は、なるほど城は囲んだけれども、こういうわけですね。先程のあれと同じ。
(図74)
  大和郷がお手本にしたのは、ベルリンのある地区なんだそうです。先生のお話によりますと、その地区は100年以上地区割が変わっていない。1つ1つの土地ロットが崩れていないというのに対して、私たちは土地ロットが崩れてしまったというわけであります。土地ロットが崩れていって、より品格ある敷地利用になっていない。これは相続税の問題なのか、品格の問題なのかわかりませんが、相続税が確保されることの方が、市街地が崩壊していくよりも優先するという思想を持っている。持っているからこそ、それが成り立っているんだといっておられますが、私も似たような感覚を持っています。
  大和郷もそうですし、田園調布もそうであります。我々が、利用優先というよりは所有優先という土地保有観を持ってしまった。ということは何故なんだろう、というのに対して、私が知る限り、唯一の仮説が先程の石井先生の仮説であります。
(図75)
  もう一度触れますが、シャンゼリゼ。これは凱旋門から見た写真であります。スカイラインが通っている。
(図76)
  これは、ドイツの中でも、特別かもわかりませんが、フロイデンベルグの街並み。ここはBプランを入れているところでありますが、非常に厳しい規制を受け入れている。この規制を受け入れない限りは、この中に住むことは許されないことになっている。都市計画の内容として、屋根材の材質まで、あるいは窓材まで、窓の色まで決められているということを受け入れている。我々は、江戸時代にはこれに近い街並みや、イザベラ・バードが褒めたような山野、地方都市を持っていたのに、何故そうなってしまったのかと言うことです。
  我が日本民族は、江戸時代まではこれに近い街並みを造ることができていた。世界中を回ってきたイザベラ・バードが、山形とか東北地方を、供を1人だけ連れて、安全に旅行した彼女の旅行記で、日本の山野の佇まいを褒めちぎっています。最大級の賛辞を与えています。それを、我々はなぜ失ってしまったんだろうか。
  それは、先生の説でありますが、ここにありますように、ヨーロッパには2つの所有権が過去にあった。例えば、領主が上級所有権を持ち、農民が下級所有権を持つということがあった。こういうわけです。私は、これは日本でもあったんだろうと思います。
  例えば、各大名は江戸の藩邸を与えられていまして、江戸の藩邸は各大名が建設し、運営しなければなりませんが、あくまで将軍から与えられた土地であります。従って、その土地利用については当然一定の制約がある。その一定の制約を受け入れて、各大名は上屋敷なり下屋敷なりを造営することができたし、その中に、例えば家老が自らの屋敷を建てようとすると、当然領主というか藩主、お殿様の了解の範囲でしか建てられるわけがないわけで、自分が支配する土地であるにもかかわらず、当然上位所有概念があった。このように思うわけであります。
  お百姓さんが耕していた土地もそうであります。多くの土地には作付けの制限がいろいろありました。つまり、自分の土地なのに自由に使えない、これは農民の土地もそうでした。このヨーロッパだけじゃなくて、土地の所有権という概念そのものに制約性が内在しているということを、私たちもずっと受け入れて来ていたんです。
(図77)
  ところが、それが変遷したのは、明治の初めの、地租改正。地租というものが入ってきた時に、そういうことが起こったのではないかということであります。つまりは、収穫に対して税がかかる時代から、土地の交換価値に対して税がかかる、土地の値打ちに対して税を払う。そして、土地所有者を固定して税額を確保する、こういうことを緊急にやらなければならなかった結果、土地保有が持っていた上位概念というものがなくなって、一物一権ということが成立してしまったのではないか。それまで近代国家になる時に、土地所有の上位概念を持ち得ていたのを、我々はここで外してしまったのではないか、というのが先生の説だと思うのであります。
(図78)
  明治の初めに、地租というものが政府の財政の中でどれぐらいのウエイトを占めていたか、ということを見ると明らかであります。それを確定して、とにかく税を確保しなければならないという明治政府の焦りが、そのことを生んだのではないか、これは私の仮説でありますが、そう思います。
(図79)
  そこで、ここで土地の収穫高から税を取る形から、土地の交換価値によって税を取るという形にして、一挙に土地所有者を確定しなければなりません。土地面積を確定しなければなりませんでした。
(図80)
  我が国は、先進国の中で情けない状態になっています。世界の国々が地籍が確定しているのに、われわれの方は地籍が確定していない。
(図81)
  各県別に地籍の確定率を見ると、こんな状況になっていて、国土交通省は、この調査を進めていますけれども、1年間に全体の1%も上がらないという状況になっています。特に関西方面がひどい。地籍の確定というのは、1筆ごとの土地の所有者、地番、地目、境界、面積というものが確定している状態をいうわけですから、大阪の土地の98%は、争いの可能性を抱えていると言えます。地籍確定は、言えば寝た子を起こすようなことにもなるわけで、なかなか進まないということになっています。東京は18%、大阪が2%ということですから、実際の土地売買その他についても、いろんな影響が起こるし、公共事業をやってきたサイドから言いますと、これは公共事業に大変大きな影響を与えます。
  私の経験でも、道路に土地を出すことは我が家としてはいいけれども、実は隣の家の杭が、おじいちゃんの時代かおばあちゃんの時代に私の方に50センチほど入ってきている。従って、隣の人に余分にお金を払うようなことだったら私は絶対に許さない、そういう、隣地間の争いを抱えているのを解消しながら進まないと、道路の用地が買えないんです。両方の方が道路に賛成してくれていても、この両者の間、甲さんと乙さんの間の争いを解消しなければ土地が確保できない。これだけ土地所有に関する観念が強い所で、そのことをやるのは容易なことではありません。
  従って、地籍が確定していっているところで道路事業をやる場合もありましたが、そういう場合には用地買収が非常に楽でした。それを公共事業側が、公共事業のコストの中で消化させられているということをほとんどご存じない。公共事業費が高くなってしまうことに繋がっている。土地を買うために、皆さん方もご経験おありでしょうけれども、一体何度、その方の家を訪ねなければならないか。何度、お話をしなければならないか。何度、事業の重要性を説明しなければならないか。何度、他の人に比べてあなたの土地の価格算定が不合理ではないかということを説明しなければならないか、ということをお考えいただいても、隣地間の争いをその中で解消しなければならないことが、どれだけ困難な作業を公共事業サイドに負わせているかということは、簡単に想像できます。
(図82)
  道路を見てみましても、これは163号という大阪から三重に行っている道路です。163号という道路はこのように走っていっていて、公図を直さなければいかぬといわれている範囲がこれだけだというわけです。現実に公図、字限図を見に行きますと、この赤い所が163号として登記されています。こんなんで、どうやって自動車が走るのといったことになっています。皆さん方、不動産取り扱っておられる方も多いと思いますので、ご経験おありだと思います。
  実際に公図を取りに行くと、こういうことになっていて、特に山林では混乱していることが多いです。こんな基礎的なインフラをきちっとしていないということで、近代国家と言えるかと言いたくなるぐらいであります。
(図83)
  先ほど言いました租税の図です。明治8年を、国の収入としては、地租が85%です。とにかく地租を確定するのに政府は必死だった、ということがよくわかります。近代国家を作らなければいかぬ。学校も建てなきゃいかぬ。国立大学も作らなきゃいかぬという中で、政府がこの地租を得るために払った犠牲、それが、石井紫郎先生の表現でいうと、一物一所有者といったことになって、さらに機能的所有権論みたいなことになかなかつながらない、という嘆きを言っておられます。
(図84)
  まとまって住んでこなかったが故に、我々は、道沿いにダラダラと町が広がるという経験を高度経済成長時代にやります。
(図85)
  土浦の辺ですが、固まって住んでいません。
(図86〜87)
  ベルリンです。これが住居表示の境目です。かなり明確ですね。
(図88〜89)
  パリです。/ これも境目が分かり易い。
(図90)
  ところが、横浜と川崎の間に市境に線を引けと言って、引ける人がだれかいるでしょうか。
(図91)
  現実はこうです。これ、引けるわけがない。
(図92)
  そして、道路管理者が、大変苦労させられているのが道案内です。日本の道路標識は、わかりにくい。日本の道路管理者は怠慢であると言われますが、この地図でも明らかなように、ここが横浜ですよ、ここが川崎ですよ、というのを案内するのはなかなか容易じゃない。(笑)
  道路管理者が怠慢なのではなくて、町がそういう町になっているんですね。
(図93)
  従って、カーナビがこんなに普及するのは当然なんですね。彼らの国は道路標識で案内できるような都市を持っていたから、カーナビの普及が非常に遅れている。私たちは道路標識では案内できないような都市に住んでいて、習志野と船橋の間に線を引けと言ったって、まず引けない。市長さんだってなかなか引けないかもわからない。
  だから、技術はジャンプするというのは、こういうところでも言えるわけです。従って、ケーブル電話を持たなかった中国に携帯電話が著しく普及して、我が国よりも普及率が高かった時期がありましたね。現在は、我が国がもう追いついているかもわかりませんが。というように、技術というのはジャンプしてしまうんですね。飛び越えてしまう。我々の国のカーナビを着けている車は、道路標識に頼って走るヨーロッパよりも便利になってしまっている。こういうことであります。
(図94)
  さて、「私」を支える「公」というところにいきたいと思います。六本木の開発にしても、汐留の開発にしても、プライベートセクターがビルを建てて、立派な街を造っています。しかし、それを支えるための「公」がなければ、成り立たないわけです。六本木ヒルズができますと、できる以前に比べて、例えば道路に対する負荷とか下水道に対する負荷は高まるわけです。それが処理できるだけのものが下水道サイドに、あるいは道路サイドに用意されていなければ、非常に使い勝手が悪いか、利用制限をされたようなビルしかでき上がらないというわけであります。
  例えば、オープンスペースの存在を見ても、都心に大きなオープンスペースがある、ないということが、街の成り立ちを変えるということであります。東京とニューヨークの真ん中の幹線道路を重ね合わせていきます。ニューヨークと、東京の新橋付近とを重ねてみます。日比谷通りというかなり広い通りがありますが、ニューヨークには、それをはるかに凌駕する道があります。パリの凱旋門付近も、重ねてみますとこんな大きな通りがあります。従って、道路率が全く違うというわけであります。
(図95)
  これは森ビルの資料をいただいたものであります。100メーター以上のビルがどれだけ建っているか、というわけであります。アメリカのニューヨークのマンハッタン、ミッドタウンでは、白い色が100メーター以上のビルであり、これだけのビルが建てられるのは何故かというと、これは当然のことながら、大きなストリート、アベニューが持っております容積率を、このビル側で使えるからであります。
  ところが、我々の国では貧弱な細い道路しかありませんから、高いビルを建てられないということになっていて、森ビルの言葉を借りると、東京は平面過密だが、立体過疎の町にならざるを得ないわけであります。ニューヨークが非常に高い容積率、例えば2000%とかいう容積率を用いているのに、これだけの低い容積率にしかならないといったことを言っています。
 

4.国土学からはどう見るか

(図96)
  「国土学」と言いましたのは、まずは国土への働きかけですから、どういう国土を私たちの国が持っていて、諸外国が持っているかということを知らないと議論になりませんよね。経済財政諮問会議は、そのことがわかった上で日本の公共事業が多いの少ないのという議論をしたでしょうか、というわけです。
(図97)
  これは中国の八達嶺。北京に行って、万里の長城を見に行こうとなると、ここに行くことが多いですが、行った場合に見た高速道路のオンランプの絵です。皆さんはすぐ感じられると思います。このピアは日本では建ちません。日本で地震力を考慮したら、このピアでは、これだけのものを支えることはできません。が、中国のここでは地震力を考慮しなくていいから、これでいいんですね。この高速道路の建設費は、日本の高速道路の建設費に比べて当然安いものになります。
  セメントの金額がどうのこうの、コンクリートの金額がどうのこうの以前に使用量が少なくて済む。あるいは、基礎工事をやらなくて済むといったことでもあります。
(図98)
  あの阪神高速も復旧しましたが、これだけの太さは持っている、ということであります。
(図99)
  これは倒れた所です。復旧しても、結局門型にはできませんでした。崩壊形を考えると門型にできればよかったんですけれども、土地利用の制約から門型にできなかった。許容応力は同じだとしても、より靱性というか、破壊する時の形態がかなり違うと思います。
(図100)
  公共事業は、地方の業者が腹減ったと言えば、事業費を確保して、業者が施工する。施工してしまえば事業量がなくなるから、また腹減ったと言う。腹が減っては飯を食いという繰り返しじゃないか。従って、要りもしない橋がどんどんできている、通りもしない橋ができているという言われ方ですが、これは私はほとんど嘘だと思います。
(図101)
  何故かというと、こういう絵の描き方をさせていただきます。あそこに橋を架けてくれ。橋がない故に私は通院できない。毎日行くことは難しい。それだけの時間をかけられないという人がおられた。そういう人が多かった。それを行政ニーズとしてとらえて、なるほど橋を架けました。そうすると、その人は通院することができるようになりました。今まで通院できなかった人が通院できるようになるということは、生活の高度化であります。それは生産の高度化にも繋がるし、消費の高度化にも繋がる。今の私が使った例で言うと、生活の高度化ですね。その人は年に何日間か入院して診てもらうということではなくて、通院で処理できるということになったから、余った時間を他の生産活動等に使えて、つまり、その人の生活が高度化しました。
  そうすると、今まで通院できなかった時代には気にならなかった、その橋の先にある斜面を切った道路が、1年間に1度雨が降った時には止まるといったことになっていたとする。それでは困る。せっかく通院できるようになったのに、通院日に限って大雨が降って通れなくなるから、そこの所は雨量通行規制区間を解消して欲しいというニーズが当然起こってくる。そうすると、トンネルを掘るかバイパスを造るかして、事前通行規制区間、連続雨量100ミリが降っても止めませんという道路が必要になって、それが整備されるというわけであります。そうすると、その人はまた安心して行けるようになる。安心して通院できるようになるということは、つまり生活の高度化です。新たなインフラが生活の高度化を生んで、その高度化された生活がまた新たなインフラを要求していく。
  これは我々が法律制度を作っても、毎年各省庁から通常国会に100本からの法律をかけなければならない、国土交通省だけで言っても10本からの法律をかけなければならないように、時代が変化すれば、当然法律という制度は変わって行かなければならない。例えば著作権の概念も変わるというように変わって行かなければならない。それと同じように、これは都市のビルも含めて、装置が変わって行かなければならない。それが生活の高度化を生んで行っているんです。
(図102)
  現実に、これは東北の宅配便の配達圏を描いたものです。1978年には、南東北の一部しか関東圏からの翌日配達圏ではありませんでしたが、1993年には、全域が翌日配達圏になって、2003年には、中部圏からでも翌日の配達圏になったというわけです。当然これは、クロネコヤマトだけが儲けているんじゃなくて、このことによって孫に物を送る、あるいはおばあさんから何か貰える、孫の写真を送ると明日見れるといったような、生活の高度化を生んだわけです。
  これは、先程の橋の例じゃありませんが、ネットワークが全体として整備される効果のことを説明しています。主としては、東北道が青森と八戸まで繋がったということが、こういうことを生んでいるわけです。
  また、1950年に日本の赤ちゃんはどこで生まれたか。95%が自宅等で生まれている。ところが、現在は99.9%が病院等の施設で生まれている。ということは、当然病院という高い医療システムを持った所で生まれているから、我々は安全な出産を手に入れることができたわけです。これは、個別輸送手段が家庭に入ったからできているのです。我々は、1950年には個別輸送手段を持っていなかった。従って、産婆さんが走ってくるというようなことだったわけですが、今の時代では、いざという時にお父さんが夜中でも病院に送り込むことができる。そういう生活スタイルを持ったから、安全な出産を手に入れたわけです。間違いなく、インフラが我々の生活の高度化を図っているわけであります。
(図103)
  それを、国土学的に整理すると、まず基本原則として、世界の民との競争下だということを前提に置かなければなりませんが、そのために私たちは国土に都市を形成したり、港湾を開いたり、道路を造ったり、河川を改修したりすることによって、国土を造り上げてきた。これは我々の世代だけやったのではありません。腹を空かしていたにもかかわらず、昭和20年代に大洪水が東京で起こったが故に、江戸川を改修し、荒川を改修してくれたから、我々は現在の治水レベルを持ち得ているわけです。我々は満腹になるまで食べられる世代なのに、次の世代のための投資は嫌だと言っていることになってはいませんか。あるいは、世界の中で、特にアジアが著しく台頭しているのに、先程港湾の話をしましたが、我々はそのことに目をそむけてはいませんか、ということなのであります。
  制度と装置は、時代が変わるにつれ改善されていかなければなりません。
(図104)
  構造物比率です。実際にフランスで言うと、この10年間に整備された高速道路の構造物の比率は4.2%です。同じく、日本が5年間に整備した高速道路の構造物比率は33.4%。橋梁とトンネルの延長です。盛り土するのと橋梁を架けるのとトンネルを掘るのと、どっちがお金がかかるでしょうなんていうクイズをやるまでもない。
  このことが、経済財政諮問会議の皆さん、わかっていますかということなんです。わからないで議論してませんか。
(図105)
  赤い所は用地費です。日本の用地は高い。高いだけではない。大変な手間がかかる。フランスは、我が国でいう土地収用法にあたる公益事業認定という手続きをもっていますが、公益事業認定をやった時には、土地を持っている人はフランス政府に対して、あるいは整備をしようとしている人に対して、その事業は無駄な事業であるから、私は用地を提供しませんという裁判なんかやれないという仕組みになっているんです。彼らの国では、公益事業に認定されたら、事業の有用性を争うことはできません。彼らが争うことができるのは、唯一単価提示が低いということだけですが、それに対して、私たちの国では、圏央道に公共性があるかどうかといった裁判を延々とやっている。こういう違いこそが、用地コストを引き上げているのであります。
(図106)
  これは地震の有無であります。白い所は地震力を考慮しなくて、建造物を造ることができるというエリア。日本は全部真っ赤。なぜかドイツとフランスは国境を接している所があるのに、ドイツは見ないし、フランスが見ていると言う、これはなかなか不思議なところであります。(笑)それでも、フランスの赤い所の平均水平震度は0.03なのに、日本は0.20。
  私は冗談でよく言うんですが、フランスのパリに姉歯さんが行ったら、過剰設計だと怒られる。日本だと過少設計になるんですが、パリに持って行ったら、絶対過剰設計です。ドイツのどこに持っていっても過剰設計。あれだけの過少設計にするだけで、大きくコストが下がるわけですから、彼らの建造物がいかに安いか。
(図107)
  これは鉄に置きかえたんですが、これだけ、ひずみエネルギーが加わっていますよ。
(図108)
  河川の流れ方。流れ方で注目していただきたいのは、例えばテムズ川が計画高水で溢れてもロンドンが全部水につかることはないのに、江戸川が計画高水で溢れたら、下町は全滅です。武蔵台地にある所以外は、みんな駄目ということになる。
(図109)
  これは、国土への働きかけが文化を生んだ、ということを言いたいところなんです。江戸時代の初めに大変な耕地開発をやった。これは「国土学事始め」にも書きましたが、大河川は江戸時代の初めまで全く触れなかった。我々日本人が、江戸川だとか荒川、北上川を触れるようになったのは、それこそ秀吉が備中高松城を水攻めにできたような土木力を、あの戦国時代を通じて、生き残りのために必死になって身につけたからで、その技術力で、あれだけの河川を改修することができた。その結果として、大変大きな耕地面積の拡大を生んでいます。
(図110)
  これは耕地面積の拡大。その耕地面積の拡大が人口増加を生んで、文化を育くむ。これをご覧いただきますと、耕地面積が拡大した時代は、高度経済成長時代です。1720年以降になりますと、違う時代となるのですが、我々が、江戸時代の文化だと言っているもの、関孝和の数学まで含めて全部この元禄時代に生まれている。つまり、江戸文化は、国土への働きかけが経済成長をもたらし、それが生み出したわけであります。
(図111)
  日仏独のネットワーク比較です。日本の道路は長いと言う人がいる。従って道路整備費を減らしていいと言う。何で、こんな何も考えない人が出てくるのか不思議で仕方ありません。なるほど日本の道路総延長は110万キロで、60キロ以上で走れる道路に比べると、はるかに長い。はるかに長いのは何故かと言うと、土地が細分保有されているというのが1つです。土地と土地との境目には道路が必要です。従って、土地が細分保有されているから、道路延長が長い。道路延長は長いのだが、60キロ以上で走れるネットワークはこれだけしかない。山が多いということと、残念ながら市街地を貫いて道路があるから、速度制限を入れざるを得ないというわけであります。そういう違いがあって、フランス、ドイツでは60キロ以上で走れるネットワークがこれだけある。これで日本の産業界の方々、特に日本海側の方々が、ドイツの国々で立地している産業といい勝負ができるでしょうか、ということなんですね。

5.公共事業批判は正しいか

(図112)
  アメリカの連邦政府の公共事業です。日本は減り続けていますが、アメリカは増えています。アメリカは、道路が50%を超えています。
(図113)
  調達制度です。会計法の原則は、一般競争入札と最低価格の原則です。現在もそうですね。みんなはこれでいくのが正しいんだ正しいんだと言っているけれども、トヨタ自動車の車を買う時はそれでいいかもわからない。市場が評価していますから。多くの人が参加して安い値段を提示してきてクラウンを買えば、一番賢い買い方ですね。クラウンである限りは品質を保証されている。1年間に何万人も買うことによってその品質が保証されているけれども、今隅田川の下流に橋を架けようという時に、それは市場評価されているでしょうか、というわけです。市場評価は、台風が来たり地震が来たりして建設の後で起こる。車は、評価されたものがマーケットにあるわけです。マーケット評価がどの段階で行われるか、調達制度の違いに反映されなくていいはずがない。にもかかわらず、調達全体は一般競争入札と価格に縛られています。EUの基準を見ても、アメリカの各州の基準を見ても、価格と品質、一部では価格と品質とランニングコスト、それで調達を決めるんだという所もあるのに対して、私たちの物の見方は、余りにも狭過ぎはしませんか、ということであります。橋梁談合事件の時に、東京大学の武田晴人先生は、品質と価格を総合的に評価する仕組みを欠いていることが原因だと、このように言われましたが、なかなかこんな議論にならない。
  従って、地方公共団体の調達では現在くじ引きが起こっている。7.7分の1の確立でしか仕事がとれない。そういう会社が、優秀な技術者を残しておこうと思うでしょうか。優秀な技術者ほど金がかかります。そんな人を残そうとは思わないですよね。どうせいい仕事をしたって次に取れるかどうかわからない。発注者に高く評価されようなんて、全く思う必要がない。次は抽せんが勝負ですから、ということになるわけです。(笑)
(図114)
  最後に、道路特定財源に触れさせて下さい。これが現在道路にいただいておりますお金の全てです。約5兆7000億。国と地方で道路特定財源をいただいています。それは、かなりの部分が暫定税率になっています。ガソリンは、揮発油税と地方道路譲与税というものから成り立っています。48円60銭国がいただいて、地方が5円20銭取っています。合わせて53円80銭いただいているんですが、そのうち、国分の24円30銭と地方分の80銭は暫定税率であります。
  暫定税率は、道路の長期計画を定める際に、その都度決めています。一番最近では平成15年ですが、平成15年に道路の長期計画を定めた時に、必要な道路整備費に充てるだけの財源が足りないので、本則税率に戻すわけにはいきません。本則税率では税収がどうしても足りないので、道路整備の必要性から暫定税率をそのまま、もう5年間延長させて下さいというように決めたものなのです。この丸印が、それを国会で説明し、法案として提出して国会の了解を得たものであります、ということでありますから、自動車重量税も、昭和46年の福田赳夫大蔵大臣の答弁によって道路に充てられているなんて言いますが、そんなことではありません。毎回毎回5カ年ごとに、国分の8割を道路に充てるということを国民に説明して、ご了解を得て成り立っている。
  従って、これをもし、一般財源的に道路整備以外に使うのであれば、その説明をやり直さなければなりません。少なくとも暫定税率の分は、そうなります。過去にさかのぼって行くと平成15年に、平成10年に、平成5年に、昭和63年に、昭和60年に、58年に、という様にその都度国民に説明してきて、国民の皆さんから暫定税率をいただいているわけです。これは道路諸税が道路にリンクしているから、道路整備費が無駄なものに使われているということを言われる方がおられますが、だけど、何故特定財源を外したいか。道路特定財源諸税を一般財源化したと言いたいのかというと、これなんです。
(図115)
  暫定税率で高どまりしていると言われますが、この25年間、日本のガソリン税は上がっていません。しかし、一般財源になっているイギリス、ドイツ、フランスでは、イギリスは約5倍、フランス、ドイツは約3倍にガソリン税が上がっています。ガソリンは担税力があります。この間までガソリンが高騰しました。石油が高騰しましたが、ガソリンの消費量はあまり減りませんでした。つまり、価格弾性値が低い。税を上げても国民は使う、使わざるを得ない。特に地方の生活になりますと、車なしでは生活できないから使わざるを得ない。そういう税をあげれば、確実に税収は上がるというわけです。イギリスもフランスもドイツも、EU内にとどまるためには、赤字の幅が3%以内といったことが確保されなければなりませんから、一般的には消費税を持っています。付加価値税を持っていますけれども、その上げ幅を少なくする意味でも、ガソリン税に負担を載せるということです。
  日本は暫定税率で高どまりしていると言いますが、これに比べたらそんなことは言えない。道路にリンクしている限り、道路の事業費を増やさない限り、これは上げられない。道路の事業費を減らし続けている現在では、そういうことだということです。
  野口悠紀雄さんは、だから日本のガソリンは高どまりしている、と言われますが、本当にそうでしょうか。
(図116)
  日本のガソリン税負担は、世界的にも低いほうです。アメリカ、メキシコは極端に低い。これよりはるかに低い国に、イランという国があります。あの国では10円です。その隣のトルコは、とんでもなく高いことになっています。イギリスを見ても、ドイツを見ても、フランスを見ても、イタリアを見ても、日本よりははるかに高い。117円で換算していますが、日本は十分低いわけです。
  むしろ、日本のガソリンは税をあまり負担していない、ということが言えるというわけであります。もっと税を負担させたい。が、道路にリンクしている限りは負担させられないというわけであります。
  したがって、一般財源化の議論は、増税に道を拓く可能性があります。だって、世界各国はこうなわけですから。ということをご紹介させていただいて、冒頭に申し上げましたことが意を尽くせたかどうか。相当疑問だとお思いになる方がおられるかもわかりませんが、私が言いたい、国土に働きかけなければ国土は恵みを返さない、という国土学と都市論のプレゼンテーションを終わりにさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
 

フリーディスカッション

與謝野 大石理事長、大変ありがとうございました。
  国土学のすその広さと奥行きの深さと、取り扱われるデータの重さ、現実の重さ、愁眉を開く思いで聞かせていただきました。ありがとうございました。
  時間が15分ほどございますので、この際ぜひお聞きしたい、ご質問したいという方がございますれば、どうぞお聞き下さい。省かれたところについて少し追加的なご説明が欲しいとか何かございますれば、それも遠慮なくお申し出下さい。
水谷(日本上下水道設計梶j 先生がおっしゃられた国土学なんですが、今までの経済状況を前提にされたご議論だと思うんですね。だけど、どうも今世の中、世界的な経済が変わってきて、特に一番大きいのは、資源制約時代になりつつあるわけですね。それがトレンドとしては非常に変わってきていると思うんですけれども、そういう時代には国土学としてはどのようなことを考えておかなければならないのか、ということをお伺いしたい。
大石先生 なかなか難しいご質問だと思います。答えを返すことになるのかどうかですが、荒廃するアメリカというものがあったのはご存じだと思います。それはアメリカのガソリン税が大衆課税であり、長い間増税できなかったが故に、多くのインフラストックを持ったにもかかわらず、税収の伸びがメンテナンス費用に回ることができなかったという結果、ニューヨークが穴ぼこだらけ、ブルックリン橋が渡れないといったようなことになった。それの反省を踏まえて増税をしました。その後、彼らの国は、日本の5カ年計画を真似してと言ってもいいと思うんですが、日本の5カ年計画よりはるかに後から、道路とか公共交通に費用を当てはめるガソリン税を道路信託基金に入れる、という長期計画を作り始めました。その改定が、昨年の8月になされました。
  対前回計画に比べて、3割も増えた、31%も増えたという大きな計画でありまして、これを彼らはSAFETEA・LUという名前をつけました。最後のLUというのは、レガシー・フォー・ユーザーという、将来に引き継ぐべき資産として、使用者のためにというのがついています。これができ上がった時に、ブッシュ大統領は演説をしています。彼が行った演説は、アメリカは石油の輸入量を減らさなければならない。アメリカの石油の輸入量を減らすためには、効率的な、21世紀にふさわしいハイウエーネットワークを整備する必要があるんだ、というものでした。つまり、彼らの道路のハイウエー計画は効率的な輸送ネットワークを作り上げることによって、無駄な資源消費がなくなるということを明らかに1つ入れています。
  これは、中国が高速道路計画を造った時も同じことを言いっているわけで、私は、効率的な移動や安全な環境、そして持続できる環境というものを作り上げるためには、ここに書いておりますように、これは自然にでき上がった国土ではありませんから、国土に働きかけなければそれはでき上がらないと思います。
  資源制約が厳しいが故に、いろいろ工夫しなければならない点はあると思いますが、だから我々が国土に働きかけなくていい、ということにはならないのではないか。ブッシュ大統領の演説が事例として適切だったかどうかはありますが、そういった議論も彼らの国ではなされたという紹介をさせていただいて、答えにかえさせていただきたいと思います。
藤澤(住信基礎研究所) 2つお聞きしたいんです。1つは、前半に城壁の話をされました。公共事業で非難されているのは、必要もない林道を造ってしまうとか、バイパス道路を必要もないのに造ってしまっているんじゃないかという話が出てきていますね。特に地方圏なんですけれども、城壁のある都市であるならば、都市エリアという線が引けると思うんですね。今現在、そういった林道とかバイパスとかいう道路を造っている、という現状に対してどう思われますかというのが1点です。
  もう1つは、地籍の件なんです。土地収用に当たって、不動産鑑定士が入りまして、かなり高額で収用するという話もお聞きするんです。そのあたりのコスト概念とか、実際のところどうなのか、というのを教えていただきたいんです。以上2点です。
大石先生 冒頭のところの答えはもう明確ですね。無駄なバイパスはありません。もし無駄なバイパスだと地域の方が理解しているようだったら、全く用地は買えません。これは私の経験でもそうですね。彼らが必要としている、それができ上がると便利だと考えておられるからこそ、用地提供がなされるわけで、もしそうでなければ本当に用地は買えません。
  私が経験した例ですと、先程もちょっと例に使いましたが、圏央道という道路が今のところでは東京の一番外側に環状道路として整備されようとしています。これは、八王子、川越、成田の方に向かって、木更津に出てきて、横浜に向かう、そして大きな環状道路になるという道路の一部です。一番最初、川越のあたりから八王子の方向に向かって用地買収の仕事が始まりました。私が課長補佐の頃です。この時、用地買収が全く進まないんです。何でということになったら、川越の方はこう言ったんです。「私たちは東京の都心に速く行きたいんだ」と。別に八王子の方に行きたいわけじゃないんだ、と言うわけです。
  だからこそ、我々の国は、私、環状道路が遅れていると言いましたけれども、地域のニーズ、例えば茨城県の意向を尊重したら、放射状の道路ができるんです。栃木のの意向を尊重したら、東北道ができ上がるんです。国の意向ででき上がっていると言いますけれども、そうじゃありません。そうだったら、環状道路はもっと早くできていたんです。そうじゃなくて、そういう地域の意向を尊重した所ほど、先に整備されたから、私たちの国は環状道路ができなかった。
  環状道路は、目的に沿う方向の交通が流れる道路ではありません。目的に沿う方向の交通が乗る道路ではありません。ほとんどの交通は都心を向いているし、都心から出ていっている。その都心の真ん中での交通混雑を解消しようと思うと、初めから分散的に入れてこないとだめだというわけです。外環でもそうですね。現在の外環を通られる方多いと思いますが、外環を走っている限りは多分目的の方向に走っていない。目的の方向は都心なんです。多くの場合が都心と地域なんです。それを分散する機能を持たせているわけですから、私たちが用地買収した時に川越の人が、何で八王子に行かないといかんのだ、と言われたということです。だから、用地買収が全く進まないんです。地権者が必要だと考えないものについては、この国では用地買収は進みません。
  従って、今造られているバイパスに無駄なものがあると言われたとすると、それはどういう無駄なのか。私もよく無駄な道路と言うが、どの道路か言ってくれと言うんですが、具体的にこの道路だという答えが返ってきたことなんか一度もありません。
  誠に明快な答えであります。(笑)無駄なバイパスはありません。
  それから、用地買収が、収用をやるとしても高どまりしている、高い価格で買っているんではないかと言われますが、これは、そこに田中さんの顔が見えていますが、彼は収用法の大家であります。決してそんなことはありません。価格算定は、近隣の取引価格というものを参照して決めることになっています。現在の公共用地補償というのは、昔に比べてということじゃありませんが、そんなに収用に遭った方々が、生活再建が困難になるような金額でないことは確かです。だからこそ、用地を提供していただけるわけです。当然のことながら会計検査もありますし、いろんな監査が働いている仕掛けの中で買収するわけですので、近隣に比べて異常な高値で買うということが起こっているわけではありません。
  むしろ我々の用地買収が価格弾力性を持った交渉ができないということから、かえって無駄があります。例えば時間がかかり過ぎるといった無駄、過去の投資分のお金を長い間寝かさなければならないなどです。そういう無駄の方が大きいのではないか、と私は思います。
  高い価格で購入しているのではないかというご指摘は、私は必ずしも当たっていないのではないかと思います。両方の質問を否定してしまうような答えだったんで、大変ご不満かもわかりませんが。(笑)
天本(鞄V本俊正・地域計画21事務所) 建設省OBの天本俊正と申します。
  答えがわかるような質問ですけれども、GNPに対する公共投資の比率が高かった、そういう非難があって、だんだん下がってきて、今、先進国並みになったというお話なんですけれども、私の持論としては、GNPに対して公共投資と軍備費と足すと大体同じぐらいになる。つまり、それは若い男の働き場ということを考えると、軍事費と公共投資とを足すと7〜8%。日本はご承知のように、軍事費1%ということです。私は、必ずしも軍事費を上げることに反対じゃないんですけれども、そんなことを考えると、日本の経済構造、社会構造で当然の公共投資が高かったということじゃないかと思います。割合が高かったと思う。そういう意味でGNPに対して公共投資が多いということはむしろ誇っていいことじゃないかな、と思っているんですけれども、その辺の公共投資観というのは、どのように思っていらっしゃるでしょうか。
大石先生 GDPに対して各国比較の議論が成り立つためには、まずストックがほぼ同様の水準にきているという前提がなければ、GDP、今年のフローで議論ができるはずもありません。従って、経済財政諮問会議が言ったような、GDP比較論が成り立つためには、日本の公共事業で実現できるストックが、比較している彼らの国々に比べて遜色がないものだという前提が成立しなければ、この議論はまず成立しないと思います。
  と同時に、今日説明しましたように、今度はフローでありますが、事業費、構造物の比率や地震のあるなし、あるいは土地が細分保有されているだとか、横断通路が必要だとかいうこともほぼ同じ条件ででき上がるということがなければ、GDP比率議論はそもそも成り立たない。姉歯物件が過剰設計になるようなところと、姉歯物件では過少設計になるところで金額の比較をしようということは、どだいめちゃくちゃな話だというように思います。
  軍事費の話はよくわからなくて、要するに政府が使うお金として、一定規模のお金が必要なんだという議論がある中で、軍事費と足し込んだ議論が行えるべきだみたいなことがあることは、私も承知いたしておりますが、今のご質問に対しては今のようなお答えでお返ししたいと思います。
與謝野 こちらに掲げておられるのは……。
大石先生 これは先程の質問が気になっていて、余りに全否定なので、(笑)後でおしかりを受けると嫌だなと思ったものですから。これを描いたのは、例えば、東京をイメージして下さい。Aが川越、Fが柏です。環状16号も何もなければ、お互いに行き来しようと思うと、都心に出てきて都心からこちらの方に向かわなければならない、ということになるわけですね。その方法は1通りしかありません。
  ところが環状を一つ入れると、A〜F間が17通りに増えたんですね。なるほど、環状道路というのは、分散交通だけじゃなくて、いざという時にここが切れたり、ここが大渋滞したりした時の代替路を保証するという意味で、極めて大きな効果があるということがわかった。
  そうこうしているうちに、これもシミュレーションですが、E〜F間を欠いてみた。いろんなところを欠いたシミュレーションをやったんですが、E〜Fを欠いてみた。その時のA〜F間の連結性にどれだけ影響を与えるかというのを見てみたら、何と、E〜F間なんてA〜F間におおよそ関係がないと思われた所が、11通りもなくなって、A〜F間の行き方が6通りに下がった。ということは、E〜F間というA〜F間におよそ関係のない所が、A〜F間の連結性を助けている。A〜F間の連結性あるいは代替性、フレキシビリティー、リダンダンシーといったものを助けているわけです。そうすると、このE〜F間の効用をE〜F間の建設費とE〜F間の交通量だけで判断することが果たして妥当か。ということが思われるわけで、こういう効用はなかなかわかりにくい。
  実は道路局も、こういうことは余り言ってこなかったということがあるわけで、先程の60キロのネットワークをお示ししましたね。そうすると、ドイツなんてほとんどインターネットのウェブですよね。どこが切れても必ずつながるという状態になっている。私は阪神・淡路大震災が起こった時に、ドイツの州都を連絡しているアウトバーンが最短距離で切れたら、一体幾つバックアップができるかと考えたら、ほぼ無限大なんですね。日本だと、県庁所在地間を結んでいる国道にしても幹線道路にしても、必ずアウトになるところがあります。海峡を渡ったりしていますから。
  これを考えた上で、ネットワークを評価するのに、こういうことをやってみたんですね。現在の下関と大阪。四国の高速道路の松山〜高松間のこのあたりが土砂くずれで切れたことがあります。新聞社はこの辺に印刷工場を持っていたんですね。川之江とか、こんなあたり。朝日新聞はこれが切れたので、松山に新聞を運ぶのに、一たん、本州側に出て、こう運びました。かなり遅れましたが、ちゃんと新聞を配達することができた。
  それは現在のパターンで言いますと、下関と大阪を結ぶパターンはしまなみとかを含んで30パターン、30通りの行き方がある。もちろん最短コースいろいろありますが、迂回して行く行き方もいろいろあって、30の行き方がある。将来ネットワーク、現在提案されている無駄の見本みたいに言われている山陰道は、9号が走っていますし、確かに交通量はそんなに乗らないと思います。しかしながら、自専道が1本もないということですから、私は必要だと思いますが、これができ上がった時には、630パターンです。
  東北で書いてみますと、現在東京と仙台の間は、現在のネットワークでバックしないという前提で9通りなんです。郡山から以北については、代替路が全くありません。従って、この間は1通りしかないんですね。郡山と仙台の間は1通りの方法でしか結ばれないということですが、もし、ここに、こういうネットワークができ上がっていったとすると、東京と仙台の結び方は832通りに増えるということであります。郡山から北についても、大変大きな代替路が出てきます。
  また、郡山から新潟に至る道路ができ上がったことによって、東北から関西や中部に向かうネットワークは、これを入ってくるよりも、日本列島は弓なりになっていますから、これを通る方が50キロほど短くなります。というような使い道が可能で、つまり、東北−関西との物流は東京を経由しない方が有利だという、東京の混雑を非常に緩和するようなネットワークができ上がっていったということを数的に説明できるようなものができ上がった、こういうわけであります
  従って、それが無駄かどうかというのは、そこに乗っている交通量だけで議論していいのかどうか。ネットワーク性だとか、いろんな考慮も必要ですよということをちょっと追加的に申し上げたくて紹介しました。
長谷(都市再生機構) 今、大石理事長のお話、大変興味深くお伺いしたんですが、そもそも、ここに書かれている「国土学」という名前をつけられているんですけれども、土木とか建築とか経済、いろんな観点をトータルして、網羅しておられるように思うんですが、先生が国土学と言われている一番強い思いというか、何故そういう名前をつけられたのか。あるいは、それが都市論と並列でタイトルをつけられているんですが、文化的な背景とか相当言われたように思います。どうして、こういうタイトルをつけられたのか、そういうことを、ちょっとお伺いしたいと思います。
大石先生 ご存じのとおり、私は土木専攻です。土木の働きかけは、建築と対照する言い方でいうと、自然と人間の違いになるんだろうということを漠然と若い頃から思っていました。建築の関心が主として人間であるのに対して、土木の関心が主として自然というか国土と言ったらいいんですかね。今、土木学会なんかも土木の定義をいろいろやっています。この中には土木学会に参画している方も何人もいらっしゃると思うんですけれども、あんな定義じゃ、全然だめだと思っているし、国語辞典で書いているような土木の定義というのはほとんど噴飯もの。一番ひどい辞書なんかは土と木を使って行う工事。(笑)私らは土木専門だから、そんな辞書を引きませんが、子どもたちはそれを引いているかと思うとゾッとしますよね。だから、今、土木の志向者が非常に少なくなっているというのはそんなことも効いているのかなと思ったりします。それは冗談として。
  私が若い頃に土木につけた定義は、「偉大な自然の営みの中で人間の存在領域を確保するための技術体系」、こういうものでした。私は、これでそんなに大きく狂っていないんだろうと思います。治水にしても、林野にしても、山林にしても、そういうことを治めることによって、私たちは都市での暮らしが成り立つわけだし、都市においても、国土への働きかけで、道路を大地が支えていただいているから、我々は都市で暮らせるといった思いがあり、国土という言葉に対する思いは、そんな頃からありました。
  それと、国土庁に勤務して国土計画に参画したのも結構効いています。国土への働きかけによって国土からの恵み、ということを思ったのはそういうことでした。
  国土論という言い方でいくか、国土学でいくかというのは迷ったことがありまして、川勝平太さんに、私は国土学ないし国土論というので考え方をまとめていきたいんだという話をしたら、川勝先生は「それはいいことだ」とおっしゃっていただいて、「それは論より学だ。国土学と言った方がいいんじゃないの」と言われたんです。人に言われたからつけているんじゃ情けない限りですが、自分も、国土に働きかけることによってという、時間軸と空間軸が見える言葉として言うと、今のところは国土経営学というよりは、国土学という言い方がいいのかなと思っています。少しロマンがないかな。
與謝野 ありがとうございました。
  皆さんにおかれましては、熱心なご質問をいただきまして、ありがとうございました。また、大石理事長さんにおかれましては、ご丁寧またウィットに満ち、明快にお答えいただきまして、まことにありがとうございました。
  本日は、国土づくりの過去、現在、未来についての大変に示唆深いお話をいただきました。最後に、大石理事長にお礼の気持ちを込めて大きな拍手をお願いしたいと思います。(拍手)
  それでは、フォーラムはこれで終了させていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 



                                  

 


 

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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