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第231回都市経営フォーラム

『景観にまちを見る 』

講師:  小浦 久子 氏 大阪大学大学院助教授

 
                                                                           

日付:2007年3月22日(木)
場所:ベルサール九段

                                                                            
1.まちの成り立ち都市空間のかたち

都市空間の規模と「かたち」―船場と御堂筋

3.景観まちづくりへ

4.地域の環境価値を発信する

5.景観にまちが現れる

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野 第231回目の都市経営フォーラムを開催させていただきたいと存じます。
  皆様におかれましては、本フォーラムにお運びいただきまして、誠にありがとうございます。また、長年にわたりこのフォーラムをご支援いただきまして、大変高い席からではございますが、厚く御礼申し上げます。
  本日は、都市経営フォーラムの本来的なテーマであります「景観とまちづくり」について、関西方面でご活躍されている若手の実践的な学識者から新鮮な視点でのお話をお伺いすることにしております。
  本日、講師としてお招きしましたのは、大阪大学大学院工学研究科助教授であられます小浦久子さんでいらっしゃいます。小浦先生のプロフィールにつきましては、お手元のペーパーの通りでございますが、80年代から関西の民間の都市計画、開発計画コンサルタント会社にお勤めの後、92年からご出身の大阪大学に戻られまして、97年から現職に就かれておられます。ご専門は都市計画、都市環境デザインの分野です。国交省社会資本整備審議会委員ほか公職を多く務めておられまして、景観法の下ごしらえの時期にも京都市他で尽力され、都市計画分野での若手ホープのお1人であられます。
  本日の演題は、「景観にまちを見る」とされておられまして、「まちを特徴づけるものは何か」また、景観を形づくっている要素としての「道あるいは界隈」等についての歴史的な考察を踏まえて、地域の環境価値を生み出す景観づくり、まちづくりの仕組みとの関係づけなどについて、歴史ある関西の都市構造の事例を交えての幅広い貴重な識見の数々をお聞きできるのではないかと楽しみにしております。
  それでは、小浦先生、よろしくお願いいたします。(拍手)

小浦 皆さん、こんにちは。今ご紹介いただきました大阪大学の小浦でございます。
  今日は、「景観にまちを見る」ということで、都市空間の成り立ちと景観を手がかりに、地域の環境価値を創って発信していくことが重要であるというあたりについて、ご一緒に考えさせていただければと思っております。
  いろいろこれまでの記録を見せていただきますと、関西の情報や事例は少ないようですので、今日は大阪の都心、関西の住宅地、地域環境を事例に見ていきたいと思っています。
  まず、「景観にまちを見る」ということで、今日お話しするにあたりまして、どんなところを基本的に考えているかというところを最初に整理しておきます。
(図1)
  まず、景観には、まちの時間、環境、活動が現れていると私は捉えております。それはどういうことかと言いますと、まず、時間は歴史であったり、その地域に蓄積されてきた様々な文化で、環境というのは地形や風土、活動は地域の経済産業活動あるいは社会の動き、そして住まい方、暮らしの文化であって、そうしたものが景観をかたちづくる、あるいは景観を生み出していくバッググラウンドとしてある、と思っています。
  つまり、景観の議論は、目に見える形だけではないということです。それを成り立たせているいろいろな背景、文脈に思いをはせることが必要だと思います。また、時間軸をどういうふうに捉えていくかということも大事だと思います。
  時間(歴史)、環境、活動が異なるので、地域ごとに都市空間の特徴が当然異なってきますし、それが景観の個性となってきます。ですから、地域の個性を一律的な指標で量ることができないというのが景観の1つの価値ではないかと思います。
  2つ目に、景観はまちの変化を映すということです。景観とか町並みへの関心は、もともと歴史的な町並みの保全であったり、自然環境の保存だったり、何かを守るというところから始まっています。その次に、アーバンデザインとか、開発の中でのデザイン、すなわち、造るところに関心が動いていったわけです。私たちが暮らす普通のまち、身の回りを見ますと、常に少しずつ動いています。その変化は、そのまちの活動、その時々の生産技術や文化によるわけですから、変化を止めるということではなく、まちの変化と同様に、少しずつ変化しながら持続していく、あるいは突然変化するのが景観というものだと考えています。変化を前提としてどうするか。
  だからこそ、そのまちの成り立ちや場所性、文脈を理解することが重要ですし、その場所性が単に消費されていくという状況が起こる時には、その地域の景観は失われていくのではないかと考えております。
  例えば、京都に古くから居る人たちは、自分のまちのことを歴史的都市と果たして思っているかと言うと、多くの人は思ってない。古代からずっと先端都市だったわけですから、歴史的都市なんていうのは、外から付けられたネーミングですし、ここ数十年の話なわけです。明治には近代建築が建ち並ぶ三条通りがいち早く出現しています。ですから、今も彼らは京都を先端都市だと思っていると思いますし、一緒に話をしていましても、マンションが悪いわけではない、それは新しい住まい方だし、町家もどんどん進化してきたわけですから。だけれども、あの不作法な建て方はないでしょうというのが彼らの意見なわけです。
  ですから、そういった景観に見えるまちの動きと折り合いながら、どういうふうに地域環境を持続させていくかというところで、その変化を映す景観への関心が高まっているのではないかと思っています。
  3つ目が、景観は地域の環境の質、性能と言ってもいいかもしれませんが、それを表現していると考えています。単に形の話ではないと言ったのはそういうことです。どう使われているか、あるいはどのような全体像を持っているかというところが景観にあらわれてくる。地域の空間を構成している要素に分解して評価するのではなくて、全体像を評価することが重要になってくる。
  ですから、景観の価値を示すには、地域空間を総合的に評価する、その方法を探していく、あるいは創っていかなければならないと思っています。
  特に、先程ご紹介で、景観法のことに触れていただきましたが、その続きで、景観評価の委員会ができているのですが、そこでは、景観法は規制であり、経済的にマイナスになるのではないかと、規制改革会議の方から景観法ができた時から言われている課題を議論しています。客観的評価と言うと、景観を構成する要素に分解して、それぞれの影響を地価に還元して、規制の項目と地価の関係から景観価値を評価するといった方法論が今のところ一般的ですね。それが客観的で合理的だと社会的に認められている。もちろん、要素分解型の方法で数字を作ることは可能ですけれども、そうではなくて、地域ごとに評価して欲しい価値を発信していくような取り組みも、景観法の活用と併せて重要なのではないかと考えています。
  こういったことを基本に、幾つかの事例を踏まえて考えていきたいと思っています。

 

1.まちの成り立ち都市空間のかたち

(図2)
  最初に、景観を成り立たせている地域空間、都市空間の成り立ち、どういうふうにまちは造られているのか、都市空間の形ができていくのか、ということについて考えてみたいと思います。
  皆さん、いろいろなところに行かれると地図を買われると思います。地図というのは非常に情報豊かなものです。その中に、いろいろな時間と地域空間を読む手がかりが含まれています。特に、歴史的な市街地であれば、道とか街区の形にそのまちの歴史があらわれていることが多い。
  そういった道とか街区は、どうやって造られてきたのか。大きくは2つあると思います。歴史的な市街地については、1つは、計画的に開発された町割と、もう1つは、自然発生という言い方はよくなくて、有機的に建築が造ってきた都市空間、の2つのタイプがあります。
  計画的に造るとは、都市を計画的に町割することで、道を造り、街区を形成して、宅地割りをしていくものです。日本では、町割型は、古代の都城に始まって、現在の区画整理まで続いている基本的な考え方です。
  実は、古代のローマおよびギリシャの植民都市を造る時も同じだったのです。地形に関係なくグリッドの街区を整備し、そこに建物が建てられていく。ただ、そこに建てられる建築物の様相が日本とは違うので、まちの形、都市空間の形は大きく異なりますし、建て替えなどによっても変化してきています。
  もう1つの有機的都市空間も、古代の都市発生から見られる基本的なタイプだと思いますが、町割と違って、まず都市の領域を設定する。城壁で区切って、ここは「都市だ」とするということです。「都市」というものを明確にして、領域の中心に宮殿があったり、神殿があったり、あるいは教会、市庁舎があって、それと城壁をつなぐ道があって、そこに建築と建築の関係を規定するルールに基づいて、都市建築が空間を造っていくというタイプがあると思います。
  いずれのタイプでも、道は結構慣性力が強い。かなり面的な開発をしない限り、意外と強く残ります。
  その辺を事例でもって見ていきたいと思います。
(図3)
  これはフィレンツェに行った時に、キヨスクで買った普通のフィレンツェの地図です。行かれた方も多いかと思いますが、この地図は、いろんなことを伝えています。例えば、ここはローマ時代の植民都市だったところですね。他と比べてグリッドパターンになっているのが分かると思います。当時の道の形からは多少変わっていますけれども、かなり強く残るんですね。ですから、ローマ時代がフィレンツェの現在の地図には残っているのです。
(図4)
  次に、これが、最初の城壁で、フィレンツェの最初の都市の範囲です。次に、この道が、ちょうど中世の、コムーネと呼ばれた自治都市フィレンツェとしての最初の市壁の範囲です。川を挟んで両サイドを囲ったような辺りです。これを見ると、花の大聖堂と言われているフィレンツェの大聖堂は、ローマ時代に市街化されたエリアの外側にあることが分かります。この現在の環状道路は、フィレンツェが都市の領域を最大に設定した時の範囲です。というふうに城壁の跡が道になっていますし、それぞれの時代にできた道は、意外と長く残っていきます。
  城壁でまず、都市の範囲を設定して、その中が市街化していく都市では、建築と建築の間を最低でもどれだけ空けようというルールを持って、市壁の中が建て込んでいきます。フィレンツェが最も繁栄したといわれるメディチ家時代のメディチ家のお屋敷も、案外中心にないんですね。中心にはローマ時代があり、その周りに教会や市庁舎、広場が整備され市街化が進んでいたのです。
  地図を一度、読んでみて下さい。古いまちの地図の中にはたくさん歴史を教えてくれるものが残されていると思います。
(図5)
  ところで、最初に都市空間には2つのタイプがあると言いましたが、フィレンツェのように、市の領域、都市の領域を設定して建築が造っていく都市空間での街区や道の空間があります。建物はゼロロットで建ち並び、道は、建物と建物の間に生み出される空間として認識され、インフィルの形で建て替えが行われていく都市空間は、ヨーロッパの歴史的都市では一般的に見られます。
(図6)
  この2つの地図は、大体スケールを合わせていますが、ミラノの都心と大阪の都心です。ミラノの大聖堂があって、これがガレリアの十字のところですね。これが大阪の中之島の市役所、日銀大阪支店があって、これが御堂筋です。ミラノを見ていただいたら分かりますように、道は、建物と建物の間の空間として認識できます。それに対して、町割による都市は、まず道が街区を造り、街区を敷地割していく。建物は敷地ごとに建てられますが、敷地内に空地ができます。この街区の中央を見ていただくと、微妙に隙間があることがわかります。大阪の街区は東西方向に背割された敷地になっています。
  この街区は、街区の敷地がまとめられ1棟のビルに建てかわったところで分かりやすいのですが、建物の周りの道と建物の間に隙間があります。敷地の中に建物が建つという建て方では、こういう隙間、建物と道路の間に、敷地内の空地ができる。建物と道の間に、敷地内の空地があって、公共的空間と敷地内の空地といった2種類の空地が微妙に違いながらつながっている。これに対して、城壁で都市の領域を決めるタイプの都市空間では、多くの場合、敷地の中の空地は、通り側ではなく、街区の内側にあります。
  どういうふうにまちが造られてきたか、都市空間が構成されているかというのは、次にこのまちが更新していく時、建て替わっていく時、あるいは建て替わりながら、それをどう調整していくかという時に、その手がかりとなってくるものですし、変化や調整に非常に効いてくるところだと思います。
(図7)
  フィレンツェを例に、建築が造る空間を見ましたが、町割型は、典型的な日本の都市の成り立ちであり、空間のかたちだと言えます。
(図8)
  京都の場合を見てみたいと思います。
  京都は、皆さんもご存じのように、古代の平安京に始まります。古代の都城は典型的な町割型の都市整備をしています。それが町家という都市建築によって解体され、中世、近世期に、都市建築である町家が都市空間をつくる都市へと変化しています。
  ですから、現在の京都の町中には、ちょうどフィレンツェの真ん中にローマが残っていましたように、確かに古代の都城の町割パターンが残っています。けれども、道の幅員は当時から大きく変わっていますし、交差部が食い違っているところも多いことが、歩かれるとわかると思います。それは町家という都市建築が、都城の町割を解体しながら道が再定義されていった結果だ、と考えられています。
  近代の変化では、中世期に確立した両側町の基本は維持されていますが、敷地の中で1戸1戸の建物が建て替わっていく時に、そこに建つ建物の様式とか建て方が変化してきています。それが町並みの変化として、あるいは町並みの混乱といった形であらわれてきているのが現在の状況です。
(図9)
  京都の変化を歴史的に見てみましょう。これは、平安京の条坊制でできた京都のまちの全体像です。内裏があって、この両側に市が立って、格子状の道によってこの基本街区が形成され、その街区が分割され、それぞれの宅地が設定されます。この都城の範囲を今の地図におとすと、これが賀茂川で、ここが御所で、こんなに広かったわけです。結局、市街化が進んだのは左京側だけですね。右京は市街化しないまま早い時期に廃れてしまって、その結果、市が立たなくなってくる。市が立たないと日常生活は困るわけです。それで町中に店ができてくる。それが町家という形式を生み出し、この街区の構造を解体していくことになります。つまり、今までは敷地の中に建っていたのが道に面して建物が建つようになるのです。
  この緑線で囲っているのが戦乱期の市街地です。町衆が囲繞して自衛した上京と下京の市街地が成立し、室町通りが2つの市街地をつないでいました。
  近世の京都は、豊臣秀吉が京都を城下町にした時代です。御土居という土盛で市域を囲みました。少し今も痕跡が残っています。御土居に囲んだ市街地を豊臣秀吉が再開発をして、城下町化を促進した。京都の人にとっては、「御土居の内側が洛内」で、賀茂川を越えると洛内(京都)ではないという方は結構多いですね。
  京都のまちは、古代の都城から、何回も燃えては再建され、その度に新しい建物を建てて、先端の技術でまちを再生してきたわけです。だけれども、道のかたちは長く残ることが、今の地図を見ると分かるところです。
(図10)
  古代の都城の町割がどのように解体されたのか。都城の町割は、基本街区が120メートル四方です。これを東西に4分割、南北に8分割する四行八門と呼ばれる敷地割で、宅地を造ったわけです。120mを4で割ったら30mですし、120mを8分割しても15mですから、1宅地はすごい大きいわけです。普通の庶民が家を建てると、宅地内にポツンポツンとしか建たないわけです。階級に応じて1街区が1宅地とすることもありますし、街区の半分や4分の1の宅地もありますが、基本は32分割の敷地割です。
  敷地内にポツンと建っていたのが、道路に面して店を開いて、その奥に住む、町家という形式が生まれるのです。そうすると、道に面して店を開く町家が建ち並んでくると、街区は道路に面した4つのまちに分かれていきます。
  次に、4つに分かれたまちのうち、道を挟んで向かい合う2つのまちが1つのまちを形成する両側町が成立していくようになり、これが今の京都都心のまちの基本です。両側町では、街区の端にある両側の木戸を締めれば、町全体を締め切ることで防衛できるわけです。
  ついでですが、4つのまちが全部木戸を締めると、交差点の中心にある木戸の外側が辻で、辻は誰の管理にもなっていないので、そこで辻斬りがあったり、捨て子があったりします。
  この両側町を造ったのは、町家という建築様式なわけです。道に面して町家が立ち並ぶ、この道は、建築が造ったと言っていいと思います。
  もともとの平安京の道路の幅員からは、随分狭くなって、まちという1つの単位のコモンのスペースとして道は形成され、それを造ったのが建築、という意味で、京都の中世期から近世期には、町割型から都市建築型の都市空間に移行したと言えます。
  そうは言っても、大きな街区ですので、内側は使われずに畑になっていたり、共有地になっていた。それをもっと有効に開発促進しましょうというのが、豊臣秀吉の城下町としての京都の再整備で、街区の真ん中に南北方向に1本道を入れたわけです。今まで、街区内部が使いにくくなっていたのを、もっと効率よく土地利用しようというのが豊臣秀吉の京都の再開発です。その結果、現在の町中には、こういった形のまち、両側町が見られます。
(図11)
  現在の都心は、だいたい御池、五条、河原町、堀川に囲まれた範囲です。そのうち、御池と四条、烏丸と堀川通りに囲まれたところで調査してきました。室町期の下京が残っているあたりです。室町期に下京であったところは、町衆が生きていましたから、豊臣秀吉も道を入れることはできなかった。その他のところは街区の真ん中に道が入って、再開発が進み、市街化が促進しました。結果、2つのタイプの街区が今残っています。
  通りの景観は、両側町のため、お町内ごとに建っている建物を分析していくと、通りが見えてくるというのが京都の特徴です。
  用途、建物の高さ、セットバックなどから、お町内の建物の特徴を分析しました。町家は、通りに面してファサードが立ち上がってきますが、建て替わる時に、セットバックして高さが上がっていくわけですね。そうすると、隣の壁面が見えてくる。壁面がどれだけ見えるかは、セットバックと隣接地との関係を示します。個別敷地データから、お町内の通りの特徴がどうなっているかを見ました。
  地図を見てもらったら分かりますが、このまちの通りはほとんどオフィス化していきます。この辺は問屋さんが多かったので、事務所ビル化したわけです。こちらの油小路の建物は小規模で用途が混在しています。市街地図は屋根伏から作っていますので、敷地内の蔵とか離れは、別棟に見えます。複数の建物が敷地内にあるので、どこまでが1つの敷地かを地図だけで読み取るのはなかなか難しいです。それがまちの姿としてあらわれてきます。
(図12)
  京都の都城の町割を解体した町家は、通りに面して店があって、奥に居住空間があって、後ろに蔵が並んで、これは防火の役目を果たすわけですけれども、こういうものが連続的に建ち並びます。その結果、裏側では空地がゆるやかにつながって、採光、通風が確保されます。
  つまり、町家という様式がまちの空間を造って、そこの居住環境も維持しているわけです。時代とともに町家は変わっていきます。一番奥は、最近の建て替えで構造がコンクリートになっていますし、手前は2階が上がっています。ここで言っているのは、町家という形の中で変わっているわけですが、このマンションのように、セットバックが大きくとられ高層化しますと、道の沿道や敷地内部の空間のつながり方が変わってくる。景観としては高さの問題とか、セットバックで軒線が崩れるとか、いろんなことが出てくるわけですが、それは同時に生活環境やその質の変化も表しているわけですね。
  景観は形だけの問題ではなく、こういう環境の変化を表しているという意味があって、景観に何があらわれているかということを、地域ごとの歴史と状況の中に読んでいくことが重要です。
(図13)
  京都の場合は、それと制度と合わせてみますと何が起こってきたかが、分かります。まず歴史的都心は、近代の都市計画にうまく合わなかった。これは京都だけではなく、日本中の城下町起源の都市でも起こったことですが、町人地を形成している町家は、併用住宅ですから、当然、用途は混在しているわけです。用途が混在する都心ですから、用途指定では商業地域か近隣商業地域の選択になります。多くの場合は、近代化の中で都市の中心地として高度利用を図っていく場所だと認識されるわけですから、商業地域が指定されます。また、長い間、商業地域の容積率は400%が最低でした。ですから、周りに比べて突然高いものが建つということは往々にして起こり得る状況です。また、商業地域ですから、防火、準防火地域が指定されますので、木造の町家は既存不適格になるわけです。というふうに、歴史的なまちの都心の環境を十分に反映できない、むしろ否定して高度利用を進める都市計画が長く続きました。
  京都の場合は、規制緩和の影響が大きい。特に道路斜線のセットバック緩和(1987)です。それまでは道が狭かったので、あまり高い建物は建たなかったのですが、セットバックすると、道路の反対側の境界か同じだけセットバックしたところから、道路斜線が立ち上がるようになり、高いマンションがどんどん建つようになってしまいました。つまり、敷地の奥行があるので効果的にこの緩和が効いてしまった。高層のマンションが建ち始めたのは、この道路斜線の緩和が大きい。
  もう1つは、共同住宅の供用床の容積不算入(1997)です。これによって、オフィスビルは指定容積率400%ぎりぎりで建ちますが、共同住宅、マンションは400%であれば500%くらいの容積で建つものが建ち、周辺と大きく規模が異なる建物となります。このように、まちの基盤が同じでありながらも、少し基準が変わることによって、建て方が大きく変わる可能性があるということです。
  そういう中で、とりあえずマンションの高層化を抑制しようと、都心の職住共存地区と呼んでいます幹線道路の内側の街区に対して、特別用途地区、高度地区、旧の美観地区の都市計画を指定しました(2003)。
  そして、今、議会と都計審を通りましたが、景観法を契機にした全面的な景観施策の転換へ向けて、京都は動いているという状態です。
(図14)
  京都だけでなく、大阪も非常に歴史的な都市です。大阪なんてどこに歴史があるのだろうと思われる方も多いかと思いますが、まず、分かりやすい例として平野というところを見ましょう。場所は後でお見せいたしますが、ここは自治都市として、17世紀にはできている都市です。
  当時の絵図から起こした地図ですが、現在も全く道のかたちは同じです。お寺の位置もほとんど変わっていません。環濠は既になくなり、今は宅地や道になっていますが。ここは、ずっと経済的に豊かなところでしたので、時代時代の先端の開発が行われるのです。京都もそうです。ここには現在、当時としては様々な時代の先端の住宅が建っています。授業には良いところですよ、いろんな時代の住宅を1カ所で見せられます。今からお見せする住宅は全部このまちにあります。
(図15)
  これは江戸期の茅葺町家です。木造漆喰仕上げの2階の町家もあります。明治から大正には、近代建築が時代の先端です。そうすると、看板建築が出てきます。お医者さんとか床屋さん、当時新しいモダンでありたい職種では、表のファサードだけ近代デザインにしています。これは大阪で多いのですが、昭和初期には長屋の併用住宅が町家にかわって出てきます。多くは壁面にタイルを張っています。軒裏は塗り込めであったり、銅板箱軒だったり、防火対応をしています。時々袖壁のでている長屋もあります。防火の基準を持っていたからで、それがデザインにあらわれてきます。
(図16)
  昭和初期の長屋もありますし、昔の門構えのお屋敷もあれば、現在の住宅メーカー型のお屋敷もあります。これは大阪で40年代にはやったタイプで、コンクリートで駐車場を造って、その上に木造2階建てを建てています。
(図17)
  そして、現在になるとこうなります。平野は都市ですから町家が造ってきた歴史的なまちで、住商が一体となった商業地です。ですから商業地域が指定され、大阪の場合、容積率は400%です。京都と同様、このような高層マンションが建ってしまうのです。特にこれは、街区の内側の敷地で2面接道しているものですから、道路斜線が規制にならず、随分反対があったのですが、お寺の裏側に建ちました。
  また、大きな町家あるいは長屋は、こういったミニ開発で建て替わっていきます。
  それぞれの時代の生産技術の先端をいっているわけです。
  道は全く変わっていません。街区も変わっていません。道の幅員もほとんど変わっていません。だけれども、こうやって建物が建つことによってまちは変わる。しかも恐らく、その時代時代で最もいいものを造ってきたと思いますが、最近の変化はそれまでの建築物と全く異質で、いいとは言いがたいですが。
  町家から戦後の戸建住宅までは、ボリューム的には同じなんですね。ところがマンションになると全く規模や形態が変わってしまう。つまり、まちの全体的なシルエットそのものを変えてしまう。このボリュームの変化と、様相やデザイン、空間の配置の変化とでは、変化の意味が大きく違うのではないかと思います。

2.都市空間の規模と「かたち」―船場と御堂筋

 それでは、何が都市の空間の形を決めてきたのか、ということを、今度は船場と御堂筋、大阪の都心で見たいと思います。船場は建築行政が造ってきたまちで、御堂筋は都市計画行政が作ってきたまちではないかと感じています。
  建築物が変化する時、何が高さを決めるのか。経済活動とその時の規制基準がうまくバランスしている時には、一定の形が安定的にできることが、御堂筋を見ていただくとよく分かります。それに対して、多様な経済活動があるような都市だと、それが形の多様性にもつながっていく、というのが船場を見ると分かると思います。
(図18)
  実は、船場は歴史的なまちです。これは京都と同じ時期の明治18年頃の地図です。先程の平野はここです。
  その頃は、都市の形が明確に見えています。明治初期の地図では、近世大阪の城下町のエリアとその周辺しか市街化していません。大阪城はこれですね。ここに天満があって、これが船場で、堀江。このあたりが寺町です。
  既に鉄道ができていて、梅田の近辺、鉄道駅とこの間、難波とこの間が市街化されて、つながりつつあるというのが明治の状況です。
  大阪は、市域のほとんどで区画整理をしていますけれども、船場は区画整理をしていません。ですから今も、近世の城下町の町割のままです。もちろん御堂筋や堺筋、中央大通など幹線道路整備はしていますが、基本的な街区構造は近世のままです。
  これは余談になりますが、大阪は、明治に既に集落が形成されていたところは、区画整理の区域から外しています。ですから、今も集落のある辺りを歩かれますと、道のパターンが変わるので、集落だったところがすぐ分かります。その場所に行けば景観経験として分かる。建物は随分変わっていますけれども、道のかたちは残っていますし、蔵や建物も幾つか残っています。
  大阪というと、経済中心の近代都市で、汚いなどと言われていますけれども、実は歴史的、社会的ストックのあるところです。
(図19)
  これが船場です。これはガスビルです。これが御堂筋です。ガスビルが平野町のこの辺ですから、この現在の地図の範囲は、近世期の船場のこの辺りです。道の幅員は多少広がっていますが、基本的にはこの建設当時の40間、72メートル四方の街区で背割に、今も下水が残っています。間口が5〜6間で奥行が20間と長い敷地割が行われていたのですが、その当時の敷地割と見られる敷地も残っていますし、現在の町名の範囲も道を挟んで両側町になっています。
  歴史なんて全然ないように見える大阪ですが、地図をよく見ていただきますと、非常に古い歴史の痕跡が見えます。こういう当時の敷地のままのところで、町家がビル化すると、細長いビルになります。2敷地がまとまるとこういう形になっていきますし、4つぐらいまとまると、角地で大きなビルになります。
  こういう空間の基盤を持っているところでは空間ルールは案外作りやすいのです。ベースがありますから、空間の構造を基盤条件に基づいて読んでいって、そこからルール作りができます。
  東京では、街区という概念がうまく通じなくて、都市空間を捉える時に、市街地の成り立ち、あるいは地形、そういうものの影響は随分大きいと感じました。
(図20)
  船場では、明治期、近世の基盤の中で近代建築は建てられていきます。戦前までは大阪の経済力は日本で最も大きかったわけですし、こういった近代建築は、今も残っています。随分と減ってしまいましたが・・。ようやく最近、近代建築の価値が評価されてきましたので、少しお金をかけてもコンバージョンしたり保全したりして使うことに関心が集まってきています。近代建築で仕事をしたい、事務所を持ちたいという需要が出てきていますが、一時は本当につぶされる一方でした。
(図21)
  なぜ船場は、建築が造ってきたまち、空間かと言いますと、先程も言いましたように、船場では区画整理をしていませんので、道は近世のままです。明治に軒切りによって一応安定的に道空間は確保していましたが、東西が約8メートル、南北が6メートルぐらいなんですね。これでは、さすがに高層ビルは建たない。そこで、建築線を指定しています。中心線から東西は6メートル、南北は5メートルのところに建築線を指定して、建築基準法上、東西道路12メートル、南北道路10メートルとして建築を建てるようにしました。セットバックしたところは民地のままです。戦前でも、道路幅員による高さの制限がありましたから、建築線の指定により、少し下がって5〜6階が建つという形になっていきます。
  市街地建築物法から新しい建築基準法になった時に、建築線の概念がなくなります。現在は位置指定道路の規定で、道路境界線とみなして建築線を維持しています。制度的には位置づけは変わっていますけれども、船場建築線という名前は残しています。
  建築線は基準法上の道路の範囲ですが、土地は民地のままなので、建築する時には空地になっていたところに、店の構えや自動販売機などを置くなど、空地を勝手に使っていくことが起こっています。本来は歩行者空間なるはずですが、今、この空間をどうしていくのか、船場地区の協議会で検討が始まっています。
  そして船場の現状ですが、既に建っていた近代建築はセットバックしていません。戦後の復興の中で建ってきたようなものです。もともとの町家の7〜8メートルから12メートルぐらいの間口で、6階くらいの細長いビルが建っていきます。
(図22)
  こうした建て替えによるビルの他に、敷地をまとめて総合設計制度を使ったり、大規模ビルも当然建っていくわけですけれども、いずれも近世の街区を基盤に、敷地単位の変化によって船場の都市空間はできていきます。経済活動、事業所のニーズ、事業所の建て替えなど、事業者やオーナーの必要に応じた建築が建てられて、それがまちを造ってきました。
  ところが、今建てられているマンションは、そこで仕事をする必要から造られてきたビルとは違って、不動産開発事業ですから、買った土地を開発して利益を上げる、という全然発想が違うわけです。開発利益のために売れる床を最大にすることが目的になります。ターミナル地区でオフィス床が大量に供給されてきていますので、船場ではどちらかというとマンションしか事業性がないというので、超高層マンションが建てられています。
  オーナーが仕事をするために建てる行為と、土地を買ってその土地を売って、その土地で儲ける、事業をするための行為とでは、建物を造る時にまちに関わる関わり方が全然違う。土地で商売する人にとって、まちは売りやすい場所かどうかの価値でしかありませんが、仕事をしたり生活する人にとって、まちは長く関わる生活環境です。これが、社会性やコミュニィが景観にあらわれるということの意味で、単に形を規制するだけではなく、そこをどのように使うのか、建物や空間のメンテナンスなども、景観を支えているということを感じます。
(図23)
  大阪の場合は、特定街区はほとんど使わずに総合設計制度で開発を誘導してきているのですが、制度ができてすぐの73年に、最初の制度適用の建物が建てられ、その後、2005年度末までに94件許可が出ています。総合設計制度が多く活用されることで、隣接する敷地での公開空地をつないでいく誘導を行政指導でしています。歩道状公開空地は必ずつないでいく。広場的な公開空地の配置とかも隣接地の動きと合わせて造っていく。
  このように、船場では、個々の敷地での建築行為をまちにつないでいくことをやっている。うまくいっているかどうかの評価はなかなか難しいですが。
  ところが、大阪の中心業務地の中に超高層マンションが立地し始めました。建ち出した頃から、建築審査会の委員になって、どうしても船場での超高層分譲マンションには同意できないのです。何故同意できないかと言うと、こうしたマンションが船場において「市街地の環境の整備改善に資する」とは思えないのです。審査会は敷地を越えての議論ではないと常々言われているのですが、総合設計の根拠法になっている59条の2には、「交通上、安全上、防火上、衛生上支障がなく、かつ建ぺい率、容積率、各部分の高さについて総合的な配慮がなされていることにより、市街地の環境の整備改善に資すると認めて許可したもの」と書かれています。これは、基準法の枠をある意味で超えているような位置づけだと思いますが、市街地の環境の整備に資するとして、高さ、空地の配置と連動する建蔽率、容積率は、規模、ボリュームについて許可することになっています。繁華街やオフィス街に周囲に空地を取って超高層が建つことは、市街地の環境としていいのか、隣接とどういう関係があるか、その通りがどういうようなボリュームの配置になっていくか、などが関わってくるはずなんですが、敷地を越えるということで、ここがなかなか議論にならない。
(図24)
  左側は、業務地で、公開空地をつなぎながら歩行環境ができているところです。これはわかりやすい。歩道状公開空地をつないでいくことによって、まちの空間を造っている。しかし、超高層マンションはどうでしょうか。高さが突出し、住戸配置などから、北側に空地を取るケースが多く、また北側には設備とか駐車スペースが設けられるので、生活とつながらない暗いスペースがどうしてもできてしまう。果たして、それが連続した町並みや一定のボリューム感のシルエットを持っているまちにとっていいのだろうか。
  都心に居住が戻ることは決して悪いことではない。それでは、どういう建て方がいいのか。京都のまちの人たちと同じ心境です。マンション、共同住宅が建てられることは悪いことではない。だけれども、それぞれのまちに合った共同住宅の建て方というものがあるのではないか。それが景観から考えるまちづくり、ルール作りではないかと思っています。
(図25)
  船場は、近世の町割を基盤に、建築線や総合設計制度など敷地ごとの建て替えにより、都市空間が変化してきました。そこで、例えば超高層マンションは船場の新しい価値を創っていくことはできるんだろうか。床需要がこれ以上拡大する時代ではない時に建物更新の経済性とは何なのか。コンバージョンは、少なくとも都市空間のかたちは変化しないわけで、都市空間や町並みを継承していく時の手がかりが残ります。敷地単位で変化していく時に、敷地ごとの建築行為についての対応だけでなく、そうした個別敷地の変化を調整していくような仕組みとそのための都市の空間像を持つことが重要なことだと思っています。
(図26)
  一方、御堂筋は、経済と規制がうまくかみ合って町並みができてきたのが、かみ合わなくなると崩れていくという例だと思います。
(図27)
  戦前、御堂筋が整備された当時は、大阪ガスビルがあって、向こうの方に日本生命ビルがあるぐらいで、沿道にたくさんビルが建っていたわけではありません。当時は、商業地域が指定され、31メートルの高さ規制がありました。しかし、まだ町家が多く建ち並んでいまして、イチョウ並木もヒョロッとした状態でした。だからこそ、高層の大きな建築物が競って建っていくようになり、町家と並び合う状況に対して、都市美観上あるいは都市の品位を守る上からも、都市美を実現していくためのコントロールは必要だということで、美観地区が指定(1934)されています。御堂筋を造った当時は、都市美という概念が、大阪の都市計画の中で明確に位置づけられていた時代でした。
  大阪の玄関口であるターミナルやメインストリート、公共施設群の周りに美観地区を指定しています。都市美が明確に自覚されていた時代ですし、日本で多分初めてだと思いますが、大阪駅から中之島までの間のアーバンデザインコンペをやっています。日本建築協会という、その当時の都市計画の理論をリードしてきたところが主催したコンペです。戦前の大阪はアーバンデザイン、都市美に対して意識があり、それを都市計画としても位置づけていくということをやっていたわけです。
(図28)
  ところで、この大阪ガスビルは、実は近世のルールにのっとって建っているんです。近世は大阪城と港をつなぐ東西軸が都市軸です。船場の道路は東西が12メートル、南北は10メートルというのはそういう意味です。東西道路のほうが、幅員が大きい。また、両側町は東西の道路に面して、全部間口があいていました。大阪ガスビルは、御堂筋に面していますが、戦前の近代建築も、北側の新館も東西道路に面してエントランスを持っています。
  建築は、そのまちの歴史的成り立ち、社会的文脈や計画の考え方を読んで造ることが、当時の品位であったと思いますし、まちに対する作法だったと思います。それは戦後、崩れていきます。
  ところで、御堂筋の高さの揃ったスカイラインができたのは、戦後の昭和40年代です。商業地域で高さ規制が31メートルの時代です。旺盛な経済力で、制限内で最大のビルを沿道の全ての敷地で建てていくと、高さが31メートルに揃うわけです。同時期に、土地がまとまって、それぞれが同じような経済力があり、限度いっぱいのビルが建てられていくと、規制が都市空間のかたちと一致することで、こういうスカイラインができるのです。
(図29)
  一般的な市街地では規制の基準がまちのかたちと乖離しています。それほど大きな容積率が要らないところでも、必要以上の容積率が指定されていることは多いです。規制の制限いっぱいまで建てる人もあれば、必要なだけの規模を造る人もあって、ばらばらになります。経済活動が求める床需要と基準とが合っている時には、規制の基準と都市空間のかたちとの関係に意味が出てくるのであって、その時には、このスカイラインができます。
  ちょうど御堂筋で開発が一斉に進んだ時期は、新しい都市計画が検討されており、高さ規制から容積規制への移行が、これらのビルの工事中に起こっています。しかし、容積規制の移行後も、この31メートルを維持することについて沿道地権者の合意を得て、行政指導によって、このスカイラインが形成、維持されてきました。
(図30)
  それが、90年代の初め、バブル期に、ある会社が、建て替えたいが、今の情報化に対応しようとすると、高さが31メートルでは指定容積1000%が消化できない。だから、高さを緩和して欲しいという要望があったわけです。
(図31)
  この時、御堂筋の景観価値とは何だったのか。31mのスカイラインは数少ない整った近代都市景観ではないかという議論もありましたが、経済の方が強かったし、古い歴史的町並みと違って近代の景観価値をきっちり言い切れなかった。行政指導であったということもありますが、沿道の関係者の間で、今のままだと建て替えはきついというのが、ずっとくすぶっていたところがあります。都市は経済活動によって活力を維持していくわけだから、必要に応じて変えていく必要がある、という議論がずっとあったわけです。
(図32)
  そして、タイミングや時期など、いろんなことが重なり合って、規制緩和が行われました(1995)。
44メートルの幅員に対し4メートルずつセットバックをして、そこから壁面を立ち上げて50メートルの高さで揃えるという基準に変わりました。
50メートルを超えるところは、10メートル以上セットバックして、1対1の斜線内で建てる。ただ、バブルがはじけて、結局、長く建て替えは起こらなかった。一体これは何だったのかというのが、当時の率直な気分でした。こんなに市場に振り回されていいのだろうか。
(図33)
  ようやく2000年ぐらいから動き出しました。沿道の何十軒というビルの中の数軒が動くだけでも、スカイラインは大きく崩れていくと感じます。この31メートルラインが、50メートルのラインに変わるわけです。1棟が変わるだけで、かつてのスカイラインの景観価値は喪失します。
  このルールでは、50メートルの新しいスカイラインを造っていこうという計画的意図があります。4メートルのセットバック空間を、賑わいのある歩行者の空間にしたいというので、建築行為をつないでいくことにより道の景観、道の空間を造っていくという計画意図がありますが、今年また、都市再生のための緩和が決まりましたが、そこには御堂筋をどうしていくかという意思が見えません。
(図34)
  前の緩和要請は建て替えのためだったのですが、今度は開発です。買った土地は開発して回収しなければいけないわけですから、できるだけ高度利用したい。発端はそうだったと思います。今回はあまり社会的な議論が起こらないままに、3月、地区計画の変更と都市再生特別地区の変更で、淀屋橋と本町の交差点に面しては140メートルまで建てられるようになりました。これは先程の31メートルから50メートルへの変更とはフェーズが違うと思います。淀屋橋地区と本町地区は御堂筋の玄関口、エントランスに当たる部分で、そこにシンボル性の高い、ゲートを造るという理屈はあるのですが。
(図35)
  この計画を本当にメリハリのある都市空間として造っていくためには、そこがシンボルになるような、船場も含めた地域の全体像がないといけないわけです。船場に既に超高層があれだけ建っている。しかも共同住宅です。御堂筋には50m規制があっても、船場には高さ規制はないわけで、もし、すぐ裏側の隣接敷地で超高層マンションが建てられたらどうするのか。船場を今後どうしていくかとか、大阪の都心をどうしていくか、御堂筋は、どういう位置づけにあって、景観として何を目指し、経済活動として何を求め、そしてそこのシンボルをどう造るかということが、担保されて初めて意味のある特区だと思うんですけれども、これがなかなか難しい。
  結局、特区の変更をしたのは、今すぐ事業化する開発用地だけなのです。交差点が対象ではないです。地区計画の方針では交差点を位置づけてはいますが、結局、動くところだけの特区。それでは、動かなかったらどうなるのでしょう。関空のゲートタワーと一緒ですね。あれは2本建つはずだったのが未だに1本です。
  そういうことでいいんでしょうか。ご存じかどうか分かりませんが、関空のりんくうタウンというのがあって、そこに玄関口として超高層2本建ててゲートタワーを造ることになっていますが、1本だけ建って、1本はいまだに建たない。
  同じことが起こりうるのです。都市は長期的な、ある種の継続的な意思を計画に残す必要があります。それが経済活動を阻害するのは問題ですが、そこの折り合いのつけ方が、これからのまちの価値、まちの環境の良さ、性能を創っていく上で重要になってきていると思います。大阪市は、今、景観法にもとづく景観協議会を設置していますが、この景観協議会のメンバーは御堂筋沿道なのです。それで御堂筋の都心での位置づけを議論できるのでしょうか。
  御堂筋の例からも分かるように、経済活動とまちのかたち、まちの環境の質、性能について、敷地単位に変化することを前提に、その変化をどのように調整するか、それを計画に反映させていく技術あるいは調整の仕組みが要になってきていると感じています。
(図36)
  御堂筋の景観がどのように形成され変化して来たかを見ると、都市計画と経済活動とのバランスの中でスカイラインが形成されたり、崩れたり、分からなくなったり、混乱したりというのを続けて来ている。そうしたところで、これからの御堂筋の景観価値は一体何が作っていくのか。それは本当に経済活動と開発なのでしょうか。そうではないような気がしています。土地で儲けるというのと、土地を仕事の場として活用するというのは全く違うと思うのです。建築行為には違いないのだから、同じように経済あるいは市場の問題だとするのではなく、もう少し丁寧に対応する必要があるのではないか。
  御堂筋の景観は、まちのステイタスになり、それがまちの不動産価値になっていましたが、それが単なる開発事業における市場価値の形成という見方になると、やっぱり違ってくるのではないかと思います。

3.景観まちづくりへ

(図37)
  ここまで、都心を見てきましたが、普通のまちでも、同じような状態になっています。これは大阪ですけれども、どこも似たようなものです。古い長屋はどこでもあるというものではないかもしれませんが、マンションがあって、高度成長期の建て替えがあって、ミニ開発があってというのが混ざっています。
(図38)
  景観は、まちの状態のあらわれですから、土地利用が市街地の環境を変えますし、建て替えや更新が漸進的に続いていますから、その変化をどうやってつないでいくかということを考えなければならないのです。しかも、まちの場所とか空間をどう使うか、管理するか、メンテナンスするかということが景観にあらわれます。
  路上駐車がたくさんあることは、景観にも関わってきますし、緑が丁寧に管理されているのも景観に出てくるわけで、そういうもの全て総合的に関係しあってまちの姿になります。特に住宅地は、どのような家を建てるか、増改築、庭の手入れなど、敷地の使い方がまちを造っていると言ってもいいくらいです。
(図39)
  芦屋は緑豊かな住宅地とよく言われるんですが、道には、公共空間に街路樹は1本もない。住宅地の街路に街路樹なんてないです。緑の豊かさは、背景の山の緑と宅地の中の緑が作ってきています。ですから、これらがなくなると、緑豊かな住宅地ではなくなるわけです。だけれども、緑豊かな住宅地のイメージを売って、そういう環境価値を消費していくと、緑豊かな住宅地はあっという間に消えていく。今その微妙なところに、多くのいい住宅地と言われているところがあると思います。
(図40)
  この3枚の写真は震災後、調査で好きな風景を撮ってもらったものです。撮った写真について後で説明をしてもらうと、3枚とも山について語るのです。芦屋の人は風景の中に、地域の環境を特徴づける大きな構造である山を見ている。住んでいる人は、環境価値としての山、地域の環境構造を経験的に知っています。これを、新しく来る人に伝えるのは難しい。この調査では学生と一緒に、写真ついて同じことを同じように聞いたのですが、彼らは全く、住民の人が話している山に反応しない。経験が違うと、同じ風景を見ても、話を聞いても、認識が違うのです。
  地域の特徴を伝えるという意味では、震災の時に作られたガイドラインの中で、これが一番いいと思うのですが、「山、海が見え、山風、海風が感じられるまちづくりをしましょう」というチェックリストです。あんまり活用されなかったようですが、これはとても良いガイドラインです。どうやってまちのこと、地域の環境を伝えていくか。その時に、景観が一番分かりやすい材料です。
(図41)
  これは芦屋川です。昭和7年に河川改修しています。改修前の堤防にあった松を、今も道路に残しています。痕跡を残していく。これは東京の住宅地の中にも幾つかあると聞いています。お屋敷の樹木が残こすとか、セットバックして道は広がるけれども、樹木は残る。何か手がかりを残して、先程のガイドラインで伝えるのと同じように、その場所の歴史であったり、環境を伝えることが重要だと思います。
(図42)
  これは震災の時に有名になった長田の鷹取地区です。この大国公園を通る道から東側は全焼しました。西側は残りました。この道で焼け止まりました。焼失した東側では区画整理をしています。もとの街区は、100メートルのグリッドで、条理制が引き継がれてきた大きな街区です。100メートル街区は大き過ぎるので、街区内に路地が入って密集していく。これは関西の密集市街地の多いパターンです。
  東側地区での区画整理設計では、もとの街区内の路地の位置やかたちを継承して、区画道路を入れています。東京の専門の方が来られた時に文句を言われました。区画整理をして、こんなT字路や食い違いがあるのは何事かということです。でも、区画整理は手法であって、どのようなまちを、どういう空間を造るかは、地域の問題なわけです。そのための手法です。手法が目的になってしまうと、まちから地域性がなくなると思うのです。これは区画整理で造った道、先程の食い違いのところです。
(図43)
  西側の焼けどまったところは、地区計画と街並み環境整備事業で建て替え促進をしています。街区内の路地は二項道路ですから、中心線を決めて、そこからそれぞれ2メートルのセットバックが必要です。そこから50センチ、セットバックするところには構造物は造らずに緑化すると、実質5メートルの空間ができます。緊急車両は入れるという想定です。
(図44)
  街並み環境整備事業で中心線を決める測量と路地の舗装をしています。そのためには路地に関わる敷地の人の合意が条件です。あわせて、街並み誘導型地区計画と、神戸市条例による近隣住環境計画制度を組み合わせて、建ぺい率緩和と高さ10メートルを決めることで斜線緩和を行い、3階建ての家が建つということで、もともとあった住宅の規模をある程度維持しながら建て替えを促進しています。この50センチの緑が5メートルの空間と緑を生み出しています。これは1つ1つの家が造っていく景観であり、生活空間です。
  道の造り方によって、沿道に建つ建物と道の関係も変わります。ですから、住宅地では、道をどうやって造るか、そこにどういう建物をどういうふうに建てるかというルールがまちを変えていく。
(図45)
  また、JR新長田駅の北側地区では、景観形成市民協定で、区画整理後に家を建てていく時に、どういう建て方をするのかについて、ルールを作っています。
(図46)
  ここでは、隣同士は隙間をできるだけ狭めて建てるようにしましょう、というルールがあります。普通、戸建て住宅を造る時は周りに空地を取りますが、これは敷地が狭い密集市街地では逆効果なんです。窓も開けられないような中途半端な隙間ができるだけで何の役にも立たない。それであれば、できるだけゼロロットのように隣棟間を詰めて、協調して前後に空地をまとめて取る。町家と同じですね。町家もゼロロットで横は詰まっている。敷地奥の空地が街区内で集まっているわけです。そうすることによって環境の性能はよくなる。
  これを「いえなみ基準」と呼んでいまして、景観協定ではありますが、同時にそのまちの条件に応じた環境をどう作るかということと対応しているわけです。景観は、単に形をきれいにすることや、町並みの連続性を整えることだけではないのです。それによって、そのまちの環境性能を上げることが必要です。心地よい、安心できる、安全である、そういった性能を、まちが実現していく時に、個々の建物はどういうふうに建てていくのがよいのか。それをみんなで考えることと景観形成は連動しています。だからこそ、景観とまちづくりは親和性があるわけです。
  「景観からのまちづくり」という資料を入れさせていただいています。景観は単に形を整序することだけではないです。もちろん結果的には、それは出てくるかもしれないけれども、それによってまちが元気であって、安全であって、心地よくあるということが重要です。
  ここでも、道路に面して生け垣以外は設置しないようするルールがあります。狭いですから、緑でやわらかい空間を担保することによって何かあった時に通れる。こういった密集市街地の町並みは密集市街地の環境改善とリンクしているということです。
(図47)
  結局普通のまちの景観からのまちづくりという時、今の課題は、1つにはマンション問題のような激変をどうやって調整するか、また、少しずつ建て替わる時に、その変化を既存の市街地のかたちと、どのようにつないでいくかです。変化は少なくとも地域の環境構造に呼応する必要がありますし、地域の基本的なアーバンフォルムは継承すべきだと思いますし、敷地で守られてきた作法みたいなものも考えないといけない。
  もちろん不要な容積や高さに対してダウンゾーニングをするとか、いろいろ都市計画の手法もあります。でも、例えばダウンゾーニングをしようとすると、して欲しいと言っている人でも、して欲しくないわけです。隣にマンションは建って欲しくないけれども、自分の土地の規制がきつくなるのは嫌だというのが一般的です。開発容量と連動して考えられやすい建築物の形態だけでなく、環境や、安全とか、安心など、地域の環境性能に関わるところも含めた評価から、ルール作りを組み立てていくということが要るんじゃないかなと思います。 
  この地域の特徴や景観の作法をどうやって伝えていくか。外からやって来る経済性を追求する事業者に、どうやって、地域のことを伝え、環境価値につながる商品になるようにしていってもらうかというところが、なかなか悩ましいところです。

4.地域の環境価値を発信する

(図48)
  そのためには、景観法をうまく使うのが良いかと思います。景観法は大きく2つ特徴があると思います。
  1つは、これまで定性的な基準になりやすかったことから、法定基準としにくかった形態意匠を法定の基準にしているということ。もう1つは、地域ごとに自治体が自由設計できるということです。ですから、その地域に応じた、まちづくり、地域づくりと連動した景観基準を考えていくことができます。
  地域環境の価値を景観の基準にすることによって発信していく、ここはこんなまちなんだよということを伝えていく、知ってもらうことだと思うのです。本来、まちは、自らの姿かたちによって、その地域環境の特徴を発信できていたのですが、技術的に環境条件が建て方を左右しなくなり、多様なものが建てられて混乱してくると、地域の地形や歴史文化に根ざした本来の良さを発信していかないと、見えないので伝わらなくなってきていますし、外から入ってくる人がそれを知ろうという姿勢がなければ伝わらないんです。景観法は、ある意味で地域の環境価値の情報発信の意味もあると思っています。
  景観法では、実は景観の定義をしていません。良い景観とは何か、とかは言っていますが、景観とは何かということを法的に規定してはいない。良い景観とは国民共通の資産であり、将来に継承する。つまり公共性があると言っています。また、地域の自然、歴史、文化、人々の経済活動等との調和によって形成される土地利用を通じて整備する。つまり、総合的なものだということ。これは景観法第2条に書いてあることです。
  また、地域の固有性を生かし、多様な形成を図るというように、地域性を認めています。これまでの法律は全国一律の枠組みだったわけです。それに対して地域の固有性を認めて、地域性を認めたというのは大きな変化だと思います。
  地域間交流の促進を担い、地域の活性化に資するように自治体、住民が一体的に取り組む。これは景観づくりにおける協働性と言ってもいいかと思います。良好な景観を保全するだけでなく、造っていくということも言っています。これまで、景観というと、守るところが強かったと思うのですが、そうではなくて、造っていく、育てていくも、含めた景観のあり方を位置づけていることは、大きい変化だと思います。

5.景観にまちが現れる

(図49)
  法の構成については、皆さんよくご存じだと思いますので、さっといきますが、景観法では、景観行政団体が景観計画を策定することになっています。都道府県と政令市、中核市までは自動的に景観行政団体になります。市町村は都道府県の同意を得て景観行政団体になります。今、景観計画ができているのが大体30近くあります。用意しているところが30近くあります。60ぐらいが取り組んでいます。
  景観計画は、景観法による法定計画です。基本は区域を決めて方針を作って行為に関する基準を作ることです。そこで、景観重要建造物とか景観重要樹木の指定方針も決めます。景観重要公共施設の整備に関する事項、屋外広告物、景観農業振興地域整備計画に関する事項を位置づけることもできます。
  景観計画を決めると、その区域内において景観協議会が作れます。景観協定もできます。景観整備機構も機能させていきます。文化的景観も位置づけられます。景観農振もできるということで、景観計画は、いわば風呂敷みたいなものなんですね。これを広げないことには景観法で決められているいろんなことが十分使えないということがありまして、景観計画をどう作るかというのは、とりあえず風呂敷を広げる場合もありますし、マスタープランとしてきっちり書くという場合、特定地区に対応するものもあり、いろいろな可能性があります。自治体の選択だと考えています。
  景観地区は、地域地区の1つですので、都市計画決定します。位置、区域、面積、名称を決めて、行為の基準を決めます。ここでの特徴は、形態意匠の基準を決めることが必須だということです。これは認定という形で運用されます。工作物とか開発行為に関しては、条例で位置づけていくことになります。
(図50)
  景観法の特徴は、自治体が自主的に考えること、形態意匠が基準の主な項目と位置づけられていること、景観計画は都市計画区域の内外にわたって区域を設定できること。都市計画区域外に対して、建築規制に近いことができるわけですから、総合的な土地利用規制、また文化的景観、景観農振とかを合わせていきますと、かなり総合的な土地利用計画が描けるのではないか。これも使い方次第、というところの1つではないかなという気がしています。
(図51)
  景観計画の作り方はいろいろあります。京都は、これまで多くの制度を活用してきました。風致、美観、歴風、条例で決めている様々な地区、いろんなものが市域にかかっています。それらを景観計画の方針で全部位置づけて、総合化しています。
  神戸は、市域全体に条例にもとづく計画と大規模協議の位置づけがあって、景観の重点地区を景観形成地域として基準をかなり細かく決めていました。この景観形成地域だけを景観計画区域として、そのまま移行しています。
  大阪は、風呂敷型です。とりあえず大規模建築物対応をしています。大きな方針を決めて、条例で大規模以外は届け出対象から外し、条例の中で、もう1つ指定エリアの位置づけを作っておいて、例えば先程の平野のように、地区で景観の基準を決めたら、この、今は対象地区がない個別基準タイプの地区指定を行うと、全ての建築行為が届け出対象になる。景観計画の変更で、届け出対象を変えられるようにしようと、条例を頑張って作ったのですが、東京都がこれを全部条例の規則でできるような条例にしてしまいまして。それができないというので、頑張って一緒に考えて作ったのに・・・という感じです。
  東京都の条例ができるなら、それは自治体にとってはいいことです。景観計画区域の区分と届け出対象の設定が、条例改正を伴わずにできるようになってきますし、進捗に応じて決めていくプロセス型の景観計画が、かなり楽になりましたので、自治体にとっては東京都がやってくれたということで、使い勝手は良くなったと思います。
(図52)
  小田原は、市域全体を景観計画の区域とし、方針をマスタープラン的に活用し、景観形成の重点地区を決めています。鎌倉は、景観の特徴に応じて地域をきちんと区分して、地区ごとに基準を決めています。近江八幡は、市全体の景観形成のための条例作りを進めていたところに、景観法ができたということで、既に位置づけていた市域の景観区分をふまえ、文化的景観の選定をまず進めるということで、対象の水郷地域について先行的に景観計画を作り、残りの区域については順次、計画を立てていく方針で進めています。今、第2段の景観計画作りをやっている途中です。
(図53)
  このように景観計画と言っても、いろんな考え方、いろんな作り方があります。同様に全市域を景観計画区域にしていても、大阪みたいにバサッと風呂敷を広げて使っていこうというところもあれば、鎌倉、小田原のように、景観計画の方針を景観マスタープランのように使っているところもあります。鎌倉は、区域区分もきっちりして、区域ごとにまた方針を細かく書いています。小田原は、方針で全体像を示すマスタープランをきっちり書いて、全市共通の基準は色彩のみ。つまり数値化できる基準だけにして、あとは重点地区に特定の基準を作っていくということをやっています。
  届出への対応をどのように運用するかということを考えた時に、それぞれ自治体の事情、目標、やりたいことに応じて、基準の項目や内容、対象範囲などの組み合わせを考えていくことをやっています。
  面白いなと思ったのは、鎌倉などでやっている「方針をきっちり書く」ということの意味です。つまり、行為の基準だと個々の建築行為の届出に対して合理的に説明ができる判断が求められますので、どこまで基準にするかで自治体ごとの判断がでています。そこで基準に書きにくい、基準に書いてしまうと運用しにくいという気分の項目もあるわけです。その時に、景観計画の方針も、法定計画ですから、法定計画の内容は勧告の対象ではないかもしれないが、法的拘束力がある、少なくとも法的な意味があるのだから、協議あるいは景観誘導していく時の考え方として使っていこう、そういう趣旨が、鎌倉や小田原の景観計画の方針にはあります。行為の基準に書くと、ちょっと運用がしんどいかもしれないけれども、やっぱりこれとこれは地域の景観づくりには重要で調整していきたいことを方針にきっちり書くという方法も、1つの選択肢としてあると思われます。
(図54)
  地区別基準型は、市域を特定の地区に分けて、地区ごとに基準を作るタイプです。これも段階的に計画を整備していく前提で、全市を区分するタイプと、まずできるところからやっていくというタイプと、2つありそうです。
  京都は先程言いましたように、今回大きく変わりましたので、これについては詳しくまたの機会にご紹介できると思います。
  神戸は、最初全市を対象にしようとしたのですが、大規模協議を法定基準にして運用できるかどうかというところを随分と議論されまして、基準が明快な景観形成地域からまずやって、今全市に移行ということでやっているということです。
  近江八幡は、先程も言いましたように、文化的景観の対象区域を位置づけることが急がれましたので、まず水郷地域のところから景観計画を作り、今、歴史的市街地のところに入って、次に駅の裏側の開発のところ、田園風景のところ、街道のところというふうに景観タイプごとに景観計画を作っていく方針で、順次進めておられる。順番に増やしていくというタイプです。
  景観法は自由設計ですので、それぞれの地域に応じた使い方ができます。こんなことをしたい、あんなことをしたい、こんなまちでありたい、こんな風景を守りたい、こんなまちを作っていきたい、これが大事だと思うんです。そこから景観法をどう使って、何が一番有効な組み立てなのか、今何をしなければいけないのか、急ぐことは何なのか、ゆっくりやっていくことは何なのか、決めてしまってから後で変えていくということも視野に入れて、どういうプロセスをイメージしていくのか、その時に最初に何をするのか。例えば、市域全体を対象にして、まずは景観法のいろいろな仕組みを使えるようにしようということで、大規模な建築行為による大激変だけはチェックするけれども、あとはゆっくり考えましょうという発想もあります。それでも、市域が景観計画の対象区域となることで、景観重要建造物とか景観重要樹木の指定ができます。景観協議会も立ち上げることができるようになります。
  ゆるやかな基準で市域を対象に景観計画を作り、まずは、地域の景観資源を守っていくところから始めようという発想もあるかもしれませんし、あるいは、景観まちづくりをやっていきたいという地区で景観協議会を作ることから始めるというのもあるかもしれません。協議会は景観計画区域内で、何カ所でも立ち上げることができます。まず協議会を作って取り組み、決まったところから景観計画の内容をもう少し濃くしていこうというやり方もあるでしょうし、景観計画の方針を、先程も言いましたように、運用レベルで法定計画であるということを生かして、協議の場を作っていくことも考えられます。こうした運用を考えて、方針に書く内容と行為の基準に書く基準をうまく組み合わせながら、それぞれの自治体の事情に応じた組み立てをすればよいのです。
(図55)
  基準の作り方も、規模別、建物タイプ別、地区別に分けて決めていくこともできますし、形態意匠の基準は、表現にかなりいろいろな工夫ができます。緑化もその他の項のところで書けます。届出対象の限定は、条例事項だったので、なかなか苦しかったんですけれども、東京都の例を見ていただいたら分かりますように、条例改正しなくてもできるような組み立てができるということがわかりましたので、届出対象の限定をうまく使いながら、地区ごとのそれぞれの計画ごとの基準と届出対象の組み合わせを、景観計画の変更レベルでできそうです。
  変更命令を活用することもできます。変更命令の対象は条例で規定するのですが、全ての行為を変更命令の対象にしているところもあれば、インパクトの大きいかなり大規模な建築行為とか、ここは景観形成上重要なところだとか、これだけはとにかく阻止したいという対象が明確である場合は、そういうものだけを変更命令の対象として、あとは届け出で調整していくこともできます。
  また、既に景観条例で景観づくりに取り組んでいるところでは、これまでの取り組みを活かしていくことです。景観法の委任条例と、それぞれの自治体が今持っている自主的な景観条例を組み合わせることも検討するべきでしょう。景観法は、建築行為における建築物の形態意匠等についての基準は作れますが、例えば、メンテナンスに関わるようなこと、お掃除しましょうとか、ここに車をとめるのは止めましょう、あるいはみんなで花を飾りましょう、照明の時間をこうしましょう、とかについては対象外です。これらについては、景観協定である程度できますが、法定の景観協定は全員合意の建築協定型の協定なんです。でも、恐らく自主条例で持っている協定は、この地区のルール作りという発想で、全員の判こを押すというタイプではなく、まちづくり型の協定として景観協定を位置づけているところが結構多いです。
  ですから、そういうまちづくり型の柔軟な仕組みを残す、重要公共建築物とか樹木に指定する前の段階として、地域の人が大事に思う景観資源を登録したい、開発やまちづくりとあわせて景観協議をしたいなど、地域ごとに必要なところは、自主条例で書いて、委任条例部分と一体で条例を作ったり、複数の条例を組み合わせたり、それぞれに工夫されています。他に、景観計画の区域に入らないけれども、地域の中での景観まちづくりの活動を位置づけようとか、自主条例でやってきた地域にとって重要な部分を残しつつ、景観法の法定の部分を生かしていこうということで、融合した形で作る景観条例は結構あります。京阪神の景観条例は全てまざっています。
  これまで公共施設は、大規模でありながら、縦割りのなかで、なかなか調整しにくかったのですが、それが景観重要公共施設という位置づけができて、協議の対象になってきたのは大きなことだと思います。
  他の関連制度との連携も景観法の特徴です。農水省とは、景観農振計画で連携していますし、文化庁は文化的景観で連携しています。環境庁なんかも景観アセスとの関係で景観法を意識しています。もちろん国交省内の様々な制度とは、景観重要公共施設の調整が必要となるでしょう。今まで調整しにくかったところと、景観法をうまく生かして連携できれば、地域にとっては選択肢が広がります。文化的景観は、景観農振によって農水の事業と連携できれば、維持に関わる支援の可能性が広がります。ただ省庁間はどこまでも縦割ですから、自治体がつなぐ必要があり、実は制度はできても、運用にはかなり力が要ります。
(図56)
  最後に、この4枚の写真は、ブラジルのサルバドール、ハノイ、ベルリン、東京ですが、どれがどれかおわかりですか。今はどこも同じような風景になっています。もちろん、同じように見えても、それぞれに環境価値がありますし、それなりに計画されていたり、開発の活力があったり、それぞれに景観の良さはあります。左上から、サルバドール、ハノイ、ベルリン、東京の汐留です。今、こういった風景に対して、それぞれの地域がローカルの価値を見直しつつあります。それを支えるのが景観法ではないかと思っています。
  ですから、景観は地域の環境価値を作っていくこと、それを発信していくことであり、まちの空間像を見せていくことが景観であり、まちづくりであると思うのです。それはまちの変化を否定するのではなくて、変化を活力として、どうまちづくりにつないでいくかということが大事です。
  歴史的な資源とか風土、そういった誰もがいいと思うような資源がなくても、個々の住まいをつないでいくことによって、その地域らしさ、地域の安全あるいは心地よさ、そういったものを景観として表現していくことができるということだと思います。それが、地域ごとの環境価値を作るということであり、それが景観の重要な役割ではないかと思っています。
  そのためには、地域の環境価値を評価し、社会化する必要があります。景観は地域の環境価値を作っているということを説明することが、社会的に求められているのです。外部資本は、市場とか経済の合理性を求めてくるのです。どこでも同じ価値評価基準によって比較せよと要求してきます。これに対して、地域はどう対抗するか。なかなか難しいけれども、枠組みは一緒でもここにしかない、そういう評価の方法を示していかないといけないのではないかと思っています。
  例えば、地域型の融資条件と書いていますが、京都銀行は町家に融資しています。これは一般的な融資条件では無理でしょう。建築年数、木造の構造、所有者の年齢、土地の高度利用の実態など、どれをとっても一般的な融資条件から言えば出せないですね。だけれども、地域の資産として評価し融資を始めています。こういうことが地域型の評価だと思うんです。
  景観も、土地の価値、地価で評価できると皆さんおっしゃるんですが、例えばマンションがドンと建った時に、隣の家の評価は取引価格には出ないわけです。売買が起こらない限りは、そのマイナスは顕在化しないわけです。そうすると、マンションのところだけの地価が、あたかも地域の地価水準のように出てくるのです。これって、変ですよね。建った結果、周りへ外部不経済を起こしている可能性があるのに、それは売るまでそれは顕在化しないわけです。それなのに、地価で評価することが求められるのは、やっぱり変だと思うんです。
  地価に替わって、地域の環境の価値、環境の変化を評価する方法もあるのではないか。例えば、地域マネジメントという観点から長期的な社会コスト負担を位置づけて付加していくとか、何かそういう社会的な仕組みが要るのかなと最近思うわけです。人々の生活とまちの関係が希薄になってきていて、長く当たり前だった地域らしさや景観の価値について地域でも共有できなくなってきており、計画をするものとしては、あまり言いたくないですが、そうした社会的な仕組みは、地域の環境価値を共有するプロセスに思えます。
  今日は、景観が、単なるかたちの問題ではなくて環境の価値として社会的に位置づけていきたいというところを、いろんな事例をもってお話しさせていただきました。ちょっと長くなりましたけれども、ありがとうございました。(拍手)

 

 フリーディスカッション
 
與謝野 ありがとうございました。大変幅広い視野での景観造りのあり方について語っていただきました。
  関西の京都、大阪、神戸の歴史的資産の豊かなまちの構造についての分析の道筋を1つの理解のガイドとして、景観造りあるいは景観法についてかなり実践的な取り組み方に敷衍しつつ、本格的な示唆深いお話であったと思います。
  時間がありますので、ここで若干皆さんからご質問をお受けしたいと思います。
松原(松原建築D・I研究所) 今日は物凄い勉強になりました。私、日本建築家協会でいろいろお手伝いをしているんですが、出身はまさに建築の設計の立場です。都市計画あるいはまちづくりについて、一番興味を持ちましたのが、2年前に景観法ができた時で、私がたまたま建築家協会で、それを物凄く評価をしたんです。それで、初めて都市計画の方々、まちづくりの方々が一緒にこれから仕事しなければいけないということを、両者ともに、認識し、未だにそれをやっています。
  この景観法をテーマに大会をしたんです。実はその大会の後、何となくそれで終わってしまったんです。私は個人的には心配しました。私は今、目黒区に住んでおりまして、目黒区の区役所に、これは一体どうなっているんだと聞いても、余りよく分からない。東京都が動き出さなければ何も動けないんだという話があって、ようやく東京都が動き出したので、去年あたりから、そろそろこの話が目黒区でも動き出した。
  実は、その過程の中で、僕もよく分からないんですけれども、東京都は、今言われたように、特に色の問題で今騒動がたくさん起こっています。
  そういうのが各区にどういうふうに伝わっていくのかなと思って見ているんですが、全然そういう気配が感じられない。
  今、先生からいろいろな地区についてお話があって、他のところをのぞいていきましたが、少なくとも東京は一体どうなっているんだということを、もしお分かりでしたら、教えていただければと思います。
小浦 東京は余りよく知りませんが、東京都はまず都としての景観計画を作り、それをベースに区が景観行政団体になることに同意をするという方針で動いており、区からの同意要請についてはずっと拒否してきたという経過があります。
  それは兵庫県も同じです。兵庫県もずっと拒否してきました。何故そういうことが起こりうるかというと、広域景観のルールをどう作るかという課題があって、本来景観は基礎自治体というか、地域に最も身近な行政が取り組むのがよいと思うんですが、同時に、山並みであったり、河川であったり、流域環境であったり、そういう広域の景観もあるわけです。それは県とか広域行政で考える必要がある。
  ところが、1つの法律で、同じ景観を対象とする計画を2つの主体が作ることはできないのだそうで、これは法律上の問題らしくて、計画屋にはよく分かりませんでしたが、誰が作るかが問題になる。もともとは基礎自治体が計画主体になることで動いていた法律ですけれども、広域景観の問題が起こったために、まず県が景観行政団体になって、市町村の要請に同意することになった。県が作った景観計画があるとします。都が作った計画。次に区が景観行政団体になると、区の景観行政団体になった範囲は、都の景観計画から抜けるんです。区域が抜ける前に都の計画を作っておけば、その内容を継承しなさいと言えますし、都の景観計画区域の中で景観協議会を立ち上げて、都と区の協議会を作るという形で計画内容を維持していくとか、調整の仕組みを置けるわけです。多分そういうことも考えられたんだと思います。そういう意味で都はまず、都が作るまで、一切同意しないという方針で今に至っているということでしょう。
  都の景観計画ができましたので、区市が景観行政団体の同意を求めた時にどういう対応をされるかというのは、これからだと思います。
長谷部(みずほ総合研究所) 一番最後におっしゃった景観価値をどう評価するかというのが、お聞きしながらすごくはっきりしない。だけど、何とかしなければというお気持ちがおありだな、あるいはそれが課題かなと思ったんです。
  ただ、私はお聞きしていて、景観価値って、経済的な価値で評価しなきゃいけないものかどうか、そういう議論を本来しないといけないのではないか。例えば、社会的に一体化する、アイデンティティを持つということは多分経済的な価値では評価できないんでしょうけれども、景観という価値を共有するというのはすごく大きな価値だと思うんです。あるいは経済的価値というと、たかが10年かぐらいにしか見ないですが、それこそ京都のような目で見れば50年の時間スパンの中で評価する。それは地価などでは量れっこない価値ですね。そういうふうに価値軸がたくさんあって、その中で景観の価値を置いていく、そういう議論が必要なんじゃないかなと思ってお聞きしたんです。どういうふうな方向で、景観価値を世の中に向かって訴えていかれようとされるのかを、ちょっと教えていただきたい。
小浦 私は経済的指標で景観価値を量る気は全くありません。今、そういうのに付き合っていますけれども、そこでは、いかに限定的にしか量れていないかということを言う役割だと思って参加しています。今おっしゃるように、景観の価値は、地域ごとに、アイデンティティの価値であったり、文化の価値であったり、歴史の価値であったり、いろんなものが総合化された価値です。それを示す評価軸としては、いろいろあるわけです。
  ではそれを、社会的にどう伝えていくか。景観についての計画であったり、空間像であったり、基準も、その1つの方法だと思っています。建物を造っていく時、昔は当たり前と思っていたことが今は当たり前じゃないんですね。その地域にとって当たり前だったことが当たり前じゃなくなって、いろんな人が入ってくるわけです。
  例えば、私は芦屋にいますが、震災の後、50%人口は入れ変わっています。外から来た人たちに伝えなきゃいけないのです。地域にとっての山は何かとか、緑は何だとか。それらが景観の価値を作っています。そのために、計画を作り、基準を作り、伝えていく、そういう制度的な伝え方があります。
  もう1つ、それを何らかの経済的な評価をできるようにしたい。つまり、全国一律的基準で土地を評価するのではなくて、地域ごとに地域の基準で土地を評価できるような、こんな価値があるんだよと言えるような仕組みであって欲しい。
  だから、地価とは言ってません。融資条件と言っているのは、今までだったら、土地にお金を貸していたのを人やビジネスモデルにお金を貸しましょうという変化と同じように、土地にお金を貸すんじゃなくて、景観にお金を貸しましょう、ということで、私の言っている経済とは、そういうことですね。
  一律的経済基準で量ることで、環境価値を示すのではなくて、新たに評価を作っていく。それが今、大事なんじゃないかという趣旨でお話ししました。
山名(日本技術開発梶j 前半の歴史のところに興味があって聞いていたんですが、ただ、現実問題として、景観法ができました。これは私は道具だと思っています。この道具をどう使うか、国民的にこれを使うための意思、そういうものが非常に大事であって、それがないと、この道具は使い切れないんじゃないかと危惧をするわけです。
  というのは、美観地区という制度がありましたけれども、実際はほとんど使われていない。あれがいい悪いは別なんですが、あれはあれなりに使い勝手があるのかなと思ったんですが、実際は使われていない。使われてないところにこういう景観法で立派な道具ができてきた。この道具を本当に使うために、そういう意味では、今ご質問がありましたけれども、こういう評価なり価値を国民的にみんなでコンセンサスをどう持つかというのが、実は非常に大事なことではなかろうかと思っております。
  そこで、ご質問なんですけれども、先生から見て、そこら辺、そういう考え方でいいのかどうかということと、そういう動きが今後ずっと前向きに展開していくのかどうか、その辺の将来の見通しについて、ご意見をお聞きしたいと思います。
小浦 景観法が道具というのはその通りですね。どういうまちでありたいかとか、どういう環境を作っていきたいかというのがあって、それを進めていく時に使う選択肢の1つであるというのは事実だと思います。
  マスタープランのように、そのまちの方針を示していくような役割、マスタープラン的計画の役割もある。都市像の何らかのメッセージを伝えていく、そういう役割も持たせられるものではないかと思っています。そのメッセージを作っていくプロセスの中で、地域の人たちで議論していく、あるいは地域の景観の価値を確認していく、どういうものを目指していくのか、ということを確認していくというプロセスがあるんじゃないかと思っています。
  ただ、景観の価値と言ってしまうと、何となくフィジカルな、物的なイメージが強いと思うんです。建物がどうであるとか、電柱をなくそう、道路をきれいにしようとか。けれども、先程も少しお話ししましたように、景観は、そこに住んでいる人とかそこで事業をしている人たちのあり方でもあるわけですね。その道をどう使うか、どういう家の建て方をするのか、密集市街地であればどういう安全性を求めるのか、どういう豊かさ、心地よさを求めるのか。ですから、景観価値というのは、同時にそのまちの生活環境、都市活動環境の価値として一体的に、総合的に見ていくことによって単なる物的な景観じゃなくて、もう少しまちづくりの中で位置づけていくことができるんじゃないかなと考えています。
與謝野 皆様におかれましては、今日のお話を熱心に聴かれ、また質問もして頂きましてありがとうございました。また小浦先生におかれましては、前半は歴史的考察に重きをおかれた考察をご紹介頂き、その上、後半ではご自身の景観法草創の頃の経験を踏まえての極めて実践的なまちづくり・景観づくりの取り組み方の知見の数々をご紹介頂きました。ありがとうございました。皆さまにおかれましては、日頃のお仕事に資して頂ければ主催者としては誠に幸いであります。
  今日は大変幅広い視野から「景観とまちづくり」について、実に幅広い識見を示唆深く小浦先生から頂きましたが、それでは最後に、貴重なお話をいただきました小浦先生にいま一度大きな拍手をお贈りいただきたいと思います。(拍手)
  それでは本日の都市経営フォーラムをこれで締めたいと思います。ありがとうございました。

 

 

 


 


 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 



                                  

 


 

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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