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第235回都市経営フォーラム

『 私の都市計画の軌跡 〜昭和40年から50年にかけて 』

講師:  伊藤 滋 氏 早稲田大学 特命教授

 
                                                                           

日付:2007年7月26日(木)
場所:日中友好会館

                                                                            
1. 昭和40年 IFHP東京大会

昭和41年 東大都市工学科第1回卒業生

3. 昭和44年 新全国総合開発計画

4. 昭和45年 大阪万国博覧会



 

 

 

 

與謝野 皆さん、こんにちは。外は相当な暑さでございますが、お忙しい中、お暑い中、本フォーラムにお運びいただきまして、まことにありがとうございます。また、長年にわたりまして、本フォーラムをご支援いただきまして、厚く御礼申し上げます。
  早いもので、今年は半年を過ぎまして7月になりました。例年7月には、長年にわたりこのフォーラムをご指導いただいております、早稲田大学特命教授の伊藤滋先生から、お話をお聞きする慣例となっております。この点については、むしろ皆さんの方がよくご存じのことと思います。それでは、本日の前置きのご紹介他についてはこれぐらいにさせていただきまして、早速に伊藤先生のご講演に移りたいと存じます。
  本日の演題は、皆様のお手元にご案内の通り、「私の都市計画の軌跡〜昭和40年から50年にかけて」ということで、いつもとは少し趣の異なる示唆深い貴重なお話をお聞きできるのではないか、と楽しみにしております。
  それでは、伊藤先生、お願いいたします。(拍手)
 
 
伊藤 今日は余りホットな話ではなくて、昔話なので、生産性は良くないんですが、お年寄りの方が多いので、昔を思い出しながら聞いて下さい。
  お手元の資料は、昭和40年から50年を1年毎に刻んでいますが、昭和40年からスタートというのはどういうことかを、まずお話します。格好つけて申し上げますと、僕は、昭和40年9月にアメリカから帰ってきました。38年の8月から40年の9月までアメリカにいて、その時はまだ助手の身分。アメリカから帰ってきて、昭和40年は、僕が初めて「助教授」という、名前としては安心するポジションに移った時でありました。
  助手というのはちょっと不安定な立場でしたから、帰ってきて、助教授になり、都市計画の専門家として、これでやれるな、と少し安心感を持ったのが40年です。それから10年間、格好つけた都市計画の話をすることができるのが、この10年間ですので、そういうことでお話をいたします。
  都市計画の軌跡ですから、途中に私のつき合っていた、非常に影響力のあった先輩の方の話も出てくると思います。

1.昭和40年 IFHP東京大会

 40年に東京に戻ってきて、すぐ、何があったかと言いますと、秋に、今の東京文化会館を舞台にした、IFHP東京大会です。何をおいてもそれを手伝えということになりました。
  ここで「IFHP」というのが、おわかりになる方はせいぜい5〜6人だと思います。インターナショナル・フェデレーション・フォー・オブ・ハウジング・アンド・プランニングといって、国際的な都市計画と住宅関係の専門家の寄り合いがあります。当時は、寄り合いのセンターはベルギーのブリュッセルでした。
  この組織を少し説明します。皆さん、エベネザー・ハワードという名前をご存じですか。エベネザー・ハワードというのは、我々の商売ではどうしても話をすることのある名前です。一言で言うと、ロンドンのレッチワースというニュータウンを20世紀の初めに造った有名な人です。株式会社を作って破産しちゃったんです。19世紀末期から20世紀初頭の正統派都市計画の巨頭であるという点で、我々のマーケットでは必ず出てきます。そのエベネザー・ハワードが田園都市協会というのを作った。そこに当時のいろいろな都市計画家達が集まりました。まだ若かった。当時エベネザー・ハワードが55〜56歳でしょうか。その後、ヨーロッパ系の都市計画家の40代、30代の連中が、田園都市計画協会を作ったんですが、すぐにそれを改組しまして、国際都市住宅連合という組織に変えました。
  今言ったことでご存じのように、この組織はヨーロッパを基点にしています。ヨーロッパの都市計画の連中はいますが、アメリカはいない。そういう組織です。
  1910年ぐらいと言いますと、大正の初めか明治の終わり頃です。その頃から、日本では内務省系列の官僚が、IFHPという協会がある、それに日本も入ろうということで、時々この国際会議に出て、報告書を持って日本へ帰ってきて翻訳して、世の中はこうなっている、ということをずっとやっていました。それが今でも残っています。
  内務省で都市計画をやっていた役人がちょっと外国かぶれしたりして、IFHPのある大会、例えば「アムステルダム大会での宣言はこういうものである」なんてことを日本語にして、「都市公論」なんかで出すと格好いいんですね。一種のヨーロッパ文化を都市計画を通して日本に啓蒙するという組織でした。
  この組織は、ほとんど官僚でできている組織です。イギリス人もフランスも役人です。もう1つは、日本ではピンとこなかったんですが、住宅改良の連中が入っています。これはキリスト教系の組織です。キリスト教系の組織に中央政府が住宅改良の資金を出す。そこで自由にアソシエーションを作って、住宅を造って、ずっと維持管理している。日本型でいう財団ではなくて、NPOに近い組織です。こういうところがヨーロッパでは勢力を持っていました。今でも持っていますが・・・。
  それに対して、日本は、昭和39年に東京オリンピックをやりましたから、一応ヨーロッパの国と大体同じくらいになった。是非、東京にこのIFHPの大会を誘致したいということで運動しました。
  その時に、誘致するにはどういうことが必要か。まずIFHPという組織の理事にならないといけない。理事会をビューローと言います。これまたヨーロッパ的です。官房です。官房の理事にならなければならない。その理事会における日本代表の理事の問題提起として、東京大会を誘致するということです。
  戦後のIFHPの一等初めの理事が、ご存じの方も多いかもしれませんが、井上孝という人でした。首都圏整備委員会に行ったり、首都高速道路公団に行ったりして仕事をしていた人です。この井上孝が建設省に戻って、理事になって、このIFHPの東京誘致を昭和35、36年頃決め、それが、実ったのが昭和40年の東京大会です。
  これは、今から42年前、東京オリンピックの後です。国際会議は、他の学会でもあまりなかった。そういう中でやったので、政府にとっても非常に大事な国際会議でした。
  都市工学科が昭和37年に東大で認められますが、そうした背景からわかるように、都市計画を政府の政策の中央に据えないと日本は経済的に力強くならない。公共投資をどんどんやれ、住宅公団もどんどん住宅を造れということで、都市計画が社会的にも真ん中にありました。そういう点では、今よりも昭和40年の都市計画のポジショニングはまさにアバンギャルド、前衛的官僚施策ということで、格好よかった。それで東京大会やろうとなったわけです。
  ところが、英語ができる人が当時あまりいなかった。井上孝は、ニューヨーク生まれで、お父さんが三井物産で非常にダンディ。育ちは大田区の大森育ち。一高、東大で、技術屋です。事務屋じゃない。ニューヨーク育ちですから英語も達者。彼は英語をしゃべる。他はなかなか英語がしゃべれない。東京大会は日本の官僚が主体になってやったんですが、英語で外人さんと会話できるのは3〜4人しかいなかった。でも、やりたかった。
  そこへアメリカから変な若いのが来たぞ、帰りたてだからペラペラ英語を話すに違いないというので、僕が呼ばれました。IFHPの東京大会で「歩行者と交通」という分科会の組み立て方をやれと言われました。テーマを設定して、その分科会のスタートの問題提起は、おまえがやれと言う。そういうところにドンと入れられました。当時、東京はオリンピックの後です。ヨーロッパでもようやく、「あの負けた日本が格好よくなっているな」という評判があったものですから、ヨーロッパから市役所の都市計画の局長さんや国の課長さんがたくさん来ました。アメリカからも来ました。
  1つ申し上げたいのは、アメリカから東京へ帰る間に、私は、ヨーロッパの街をずっと見て歩きました。ドイツも行きましたし、フランスも行きましたけど、当時僕の頭の中では都市計画の先進事例はスウェーデンでした。スウェーデンというのは何で先進的かと言うと、ストックホルムの周りに多摩ニュータウンのようなニュータウンを造ったんですが、日本の場合はニュータウンを造ってから5年か10年経って京王電車を走らせるなど酷いものでした。バスで行って、人出がないような住宅団地を造り上げました。
  ところが、スウェーデンは地下鉄を造って、そしてニュータウンを造った。初めから地下鉄の沿線にニュータウンを幾つか造る、というのを考えて地下鉄を造った。そして、すぐニュータウンをパッパッパと造った。順序はスウェーデンの方が当たり前なんです。人間を人間として扱おうとしている。そういうのを知っていましたから、スウェーデンに行って都市計画の話を聞きに行きました。
  ストックホルムの都市計画局長というのは、「おまえ、来たか」と、初めてなのにいやに馴れ馴れしいんです。何で馴れ馴れしいのかと思ったら、「実は昨日、とんでもないことがストックホルムに起きた。日本の建設大臣がスウェーデンの福祉住宅について聞きたいと言うので、随行と5〜6人で来る。ところが、日本のことを知っているやつは1人もいない。大体通訳だって難しいかもしれないということが、昨日ストックホルム市役所に起きた」と言うんです。その責任者が都市計画局長。そこへ僕は飛んで火に入るように飛び込んでいった。「おまえ、ちょうどいいから、通訳やれ」と言うんです。
  翌日、もっともらしく通訳をやりました。当時の建設大臣なんて誰だか全然知らなかったし、役人の記憶も全くない。当時は、完璧にスウェーデンのストックホルム市役所の都市計画局長の通訳として行ったんです。そうしたら、ストックホルムで点数が上がりまして、15年ぐらい、彼が局長の間は、ストックホルムに行って最新の極秘情報を手に入れることができました。
  その局長が、実は「この2カ月後の東京大会に行くんだ」と言います。ですから「来い、来い」と言いました。そうしたら、北欧ですから、ストックホルムの背の高い局長の後ろにノルウエーの課長とかデンマークの部長とか、4〜5人来ました。
  「IFHPの大会に来たのなら、飯を食おう」ということになりました。アメリカに2年いましたから、アメリカにいて重要なことは、人に飯を食わせる時は、食堂に行って飯を食うんじゃない。自分のアパートでも、とにかく自分の部屋に呼んで飯を食わせることと知っていました。これは今でも当たり前ですね。
  仕方がないから、僕は「自分の家に来い」と言いました。そしたら、十何人来ましたよ。北欧とアメリカがくっついて来た。そしたら、死んだ母親が仰天で、「どうしたらいいんだろう。一番いいのは何だろう」。日本料理では、皿も間に合わない。「中華料理だ」ということで、中華料理を日本風に作った。「この中華料理はヨーロッパのどこにもないぐらいうまい中華料理だ」という話になりました。小さくても自分の家に呼ぶということによって、お互いの理解が深まる。日本人は、まだやっていませんね。どこか洒落たレストランで飯を食べようか、とやっていますね。あれはあまり良くない。だから、日本人は、いつも外側に置かれている。
  さて、IFHPの分科会で、その時に僕は何を話したか。テーマは「歩行者と交通」。ただ単に、歩道がどうとか、日本の道路構造令に基づくと歩道は何メートルで車道は何メートルと言ったって、日本人の中での会話なら良いですが、そんなのはここでは全然通用しません。
  それで、どうしようかと思った時に、大森の貝塚を発見したモースという植物学者の、昭和24〜25年に創元社から出た、戦禍史みたいな本を見つけたんです。「日本その日その日」です。明治の初期の外国人は、日本のことを割合褒めて書いていますね。その1人で、モースも割合面白いことを書いている。「日本に来て一等初めに驚いたことは、道路の真ん中を人がゆっくりゆっくり歩いていること。当時、早馬があるけれども、牛の引き車が荷物を運んでいると、ゆっくりゆっくり歩いている人たちの両側を、避けて通っている。こんな素晴しい国があるか」。
  当時のアメリカもヨーロッパも、歩道というのは車を避けるために石畳で造ってあった。前に申し上げましたけど、ヨーロッパで車というのは、ギリシャ時代の戦車です。馬を2頭立てか4頭立てで、ダーッと走らせる。ローマのマカダム道路だって、戦車を速く走らせるために造った道路です。
  その伝統があります。一番象徴的なのは、パリとロンドン。町の中の歩道は、今でもこれぐらいの石積みで、それしかない。人は車道を避けて通るというヨーロッパの観念から見た時に、日本の道路というのは逆だ。今で言う「歩行者専用道路」を明治の初めにやっていた。明治の10年前でしょう。それを見つけましたので、そのことを話したんです。
  日本の道路は車のためにあるのではない。人が歩くためにあるんだ。そういうことを考えながら、ヨーロッパの都市計画の連中も、東京を見てくれ、と話しました。その時、自動車がこんなに増えるなんて夢にも思わなかったものですから、逆手をやったんです。そうしたら、評判が良かった。本当のことを言った。役人の言葉じゃない、本当の話をおまえは日本でしていたということでした。井上さんというのは役人中の役人ですから、そんなことを聞いていたら、絶対に僕にしゃべらせなかったんですね。だけど、しゃべっちゃった。というようなことがこのIFHPでありました。
  ですから、僕がアメリカから帰ってきて一等初めにやったのは、上野の国際文化会館での「歩行者と交通」の分科会。当時、帰りたてだから、割合英語でペラペラしゃべった。重みがない英語でしたけれども。
  その後、IFHPはどうなったか。その頃は非常に花盛りでした。何で花盛りだったかと言うと、都市計画で花盛りと言うよりも、住宅で花盛りだったんです。昭和40年代というのは公営住宅がヨーロッパ中ダーッと広がっていました。イギリスのカウンシルハウジングはその代表ですね。だから、住宅を国民のために供給するための専門家が集まっている国際会議であるIFHPは、その頃本当に賑やかだったんです。昭和40年から14〜15年はとても格好よかったです。
  井上さんがその中核にいましたけれども、IFHPが昭和40年ですから、当時僕が34歳で、井上さんは50歳。僕が50歳になった時に、井上さんは65歳ぐらいですね。井上さんが東大を退官してしばらく横浜国大に行っている間に、「おまえ、IFHPの理事をやれ」と言うんです。
  「何で僕ですか」と聞いたら、IFHPに行くには海外ですから旅費がかかる。都市計画協会の冠で行くんですが、当時の、都市計画協会は旅費を1文も出さない。理事会が年に2回あります。その他にカンファレンス1回で、3回ぐらい海外に行かないといけない。当時は安い切符はないですから、行って帰って1回40万円かかります。3回行くと120万円。そんな金を出せる役人は1人もいない。「おまえは金持ちだ」(笑)。「何で金持ちですか」と言ったら、「おまえのおやじは印税でたらふく儲けた」(笑)。こういう酷い話がずっと私にあったんですよ。今では、そういう先輩はいなくなったからいいんですけど、何かと言うと、「おまえは金持ちだ。おまえは印税でたらふく食っていたから、旅費ぐらい出せるだろう。だから、おまえなんだ」。これ、酷いですね。
  だけど、片っ方では、理事会で英語で話して、とにかく言いたいことを言えるのは、大学院か助手の頃にアメリカに行って習ってきたやつが一番いいということもあったと思います。そうでない役人が行くと、じっと黙っているんですよ。何もわからない。ニコニコして帰ってくる。あとは、もらった本を翻訳するだけ。これは良くないというので、僕にしたんでしょう。
  僕はずっと理事をやっていました。建設省都市局の中ではIFHPというのは割合大事な組織です。何故かと言いますと、建設省の中には、官費で行っていいという国際会議が幾つかあるんだそうです。道路局では何と何、河川局では何と何。都市局ではIFHPがそれでした。役人も行けるんです。IFHPというのは世の中では誰も知りませんけど、建設省都市局の中では割合格好つく。だけど、客観的に言いますと、世界中みんな役人は貧乏です。貧乏なやつが集まる会議ですよ。
  それに比べると建築家のUIAは、格好つけることはうまいですから、表向きは派手にやるんです。が、借金の塊になってつぶれるとか・・・。だけど、こっちは借金も作れないし、動きもいじましい。だけど、黙々とやっている。こういう組織です。
  そこの理事を僕はやっていまして、その間に日本での大会を2つ呼びました。その話をするだけでも面白い。1つは千葉大会。もう1つは仙台大会。千葉大会の時は、バブルの真っ最中だったかな。昭和62〜63年。幕張が昭和の末期でしょう。あの頃は、企業も儲かり、税金も入り、土地の値段も上がり、危ないぞ危ないぞと言いながら、みんなが適当にお金を動かした。その時、僕も相当商売っ気がありまして、沼田知事とどういうことか仲よくなったんです。沼田知事と僕を取り持つ人に変な国の役人がいたんです。それが千葉市に出向していた。それが取り持って、仲良くなった。
  そしたら、ここに知恵者がいました。都市局の若い課長補佐と住宅局の人、それから実際に仕事を動かしたのは、住宅公団から当時千葉市に出向していたある男です。その3人が知恵を出しまして、幕張は千葉県の企業局の仕事でしょう。だから、IFHPを幕張完成の大ページェントにしようということになった。
  そして、「伊藤、幕張でIFHP大会を呼ぶのに、働きかけろ」ということになりました。当時IFHPの事務局はオランダのヘーグにあって、今でもヘーグにありますが、事務局が言いました。「日本は遠い国ですよ。何か、やってみようかと思うものをつけなきゃいけない。」その時しみじみと思いました。結局日本が音楽会でもOECDの国際会議でも、東京で国際会議を呼ぶためには、向こうのプロダクションにプラスアルファの金をつけなければ来ないということです。東京レートです。同じ値段では、東京は遠いですから、来ないですよ。
  千葉県の場合は、「沼田知事、呼ぶけど金かかるぞ」と言って、知事が考えていた相場の倍の値段をかっぱらいました。金額を言うと皆さんびっくりするから言いませんが、倍の値段。その代わりに、私が責任を持つとも言いました。全てにおいて責任を持つ。そして千葉でやりまして、これはお祭りとしては非常にうまくいきました。朝日新聞でも取り上げてくれましたし、NHKでも確か取り上げた。メディア的にも全部手配を打った。意外と僕はそういう能力があるんですよ。
  知事にとっては、今日、千葉でやっている国際会議が、朝日に出ていたとか、NHKが取材に来たとか、それで十分です。
  そうすると、ヨーロッパの連中が、「日本は、やっぱり出すものを出すな」となります。「また日本か」となると、途端にやつらは豹変するんです。ヨーロッパの町の中の貧乏都市でやるより、食い物はうまいし、旅行にも連れていってくれる。旅行は連中は官費ですよ。旅費はただ。自分の金は出さない。日本へ来ると、飯はうまい、旅行はする。弁当作ってやると言ったら、鎮座して待っている。これはいいと味をしめて、「またやれ」と言うんですよ。IFHPのイギリスの理事とかフランスの理事は、本当に悪いんです。それが何となく僕の顔を見て、「日本は凄い国になったんだぞ。千葉だけじゃないぞ」なんて言うんです。
  僕もついついその気になって、その代わり今度は安いのでいいかと言ったんです。安くてもいいと言う。契約の金を半分にしました。仙台でやりました。その時は劇的でした。当時、宮城は本間知事でした。バッハホールを小さい町で造って、当時有名でした。バッハホールを仙台の田舎の町でよくやると言ったら、仙台の奥様方がたくさんバッハホールへ聴きに行ったというのは有名な話です。本間知事は新聞記者上がりだった。お父さんが政治家だった。それが知事になったんです。僕は彼が新聞記者の頃からつき合っていたんです。知事になった時に、本間さんはブンヤだから、「伊藤さん、仙台で1つ面白いことをやってくれよ」と言っていました。それを僕は小耳に挟んでいたから、ヨーロッパ代表のイギリス理事とかドイツ理事に「うんうん」と言っていました。それはバブルのはじける直前だったぐらいだったかな。千葉が終わって6年か7年経ってから仙台でやりました。
  「それなら、やるか」と言って、建設省に行って、「もう一回仙台でやるぞ」と言ったら、今度は建設省の役人も手慣れていまして、「では、作りましょう」と組織作りを始めた。最終決定をやる理事会は、理事会がいつもヘーグではつまらないので、次の大会をやるところを前もって視察するということで、そこでやるんですが、それがどこか港町でした。そこで理事会をやって最終承認。宮城県の局長とか建設省の役人が行きました。行って、会議を開く前に突然電報だと言うんです。「何だ」と言ったら、「本間知事がお縄になった」。本間知事が汚職で捕まっちゃった。その後に浅野が出てくるんですよ。今から12年前のことです。
  さすがに、理事会ではそれを言えないですよ。何食わぬ顔をしていた。これは宮城県たっての願い、IFHPが来てくれるということは宮城県にとって非常に大きいことだ、是非、承認してくれと、何食わぬ顔して承認とりました。
  ところが、県知事が替わると、全部チャラなんですよ。特に反対側の知事がなると。宮城県の予算は千葉県の予算よりも少なくても、それでもかなりとりました。浅野知事になったら、こんな金出せないということで、また半分にさせられた。4分の1ですよ。
  そうすると、ヨーロッパで国際会議をやるのと同じぐらいの値段なんです。これは大変でした。それでも、必死になってやりました。役人は苦労して、会場も自前の県の施設を使ったり、やりくり算段して、なんとか成功裏におさめました。
  ところが、浅野知事は都市計画のことを知らないんですよ。厚生省上がりの知事は、建設省の都市局の連中や住宅局の連中が勝手に県庁に乗り込んできて、変なじじいみたいな学者と、自分の縄張りを荒らしていってうるさいな、そんなものですよ。全然ありがたい感じがないんです。今でもないです。都市計画って、そんなもんなんですね。
  千葉県の時は、田中角栄の日本列島改造とかありましたから、まだ良かったんですけれども、浅野知事の時はそういう点で非常に様変わりした。ただ、千葉県の時のIFHPの日本リポートに比べて、宮城県の日本リポートは質がいいんです。金があるからうまいものを作るんじゃない。金がない方が質の良いものを作る、そういうことを習いました。
  だから、僕が今怒っているんですが、東大とか京大の特定の教授のところに年間何億という金がおりている。とんでもない馬鹿なことを日本政府はしています。金さえあれば能力発揮できるなんて、絶対そんなことはないです。お金のない方が頭動きますよ。(笑)だから、日本の科学技術政策は遅れをとっていますね。
  という話が40年にありました。
 
 
2.昭和41年 東大都市工学科第1回卒業生
 
  40年はそれで暮れたんですけど、1つ学校の話をします。私は、当時都市工学科で一番ペーペー助教授だった。ペーペー助教授はどういう状況に陥れられたかと言うと、年寄りの教授がもう忘れちゃったような算術の授業があるんです。僕は力学なんて全然わからないんだけど、年若の助教授は当然そういうことをするもんだと上の教授が言うんですよ。例えば、高山英華とか丹下健三、井上孝が、「伊藤さんがやるのが一番能力があって若々しいから」と。
  都市工学科に進学が決まった学生が、駒場の2年で秋学期に数学、力学演習をやります。僕はアメリカに行って何をやっていたかというと、力学のリの字もやっていない。せいぜいやったのは、線形代数学ですとか行列、それから統計です。品質管理とか分散、分布関数。どうしようもなくて、力学及び数学演習なんですが、一等初めに、「僕は、力学は知らない。数学の微分方程式も解けない。統計をやる」と言ったら、学生は、普通、統計のトの字もやっていなんです。微分方程式とかああいうのは格好いいですが、一番嫌なのが統計なんです。
  それしか能力がないから、黒板に統計の問題出す。解けと言うと、学生は全然やらない。やる気になれば能力はあるんですよ。やる気がない。ポカンとしている。3分経ってもポカンですよ。本当に生意気だった。堪りかねて、仕方がないから、僕が答えを書くんです。すると後ろから拍手する。
  そういう学生が昭和43年卒なんです。都市工学科の3回生。それが今もう退職ですよ。そういうところから始まった。
  それから、時間割があるでしょう。当時は8時から10時、10時から12時。1時から3時、3時から5時です。2時間授業。時間割の間に休み時間はない。次の時間割までに1分で駆けていけと言うんです。年をとった教授は10時から12時を選ぶんです。僕はペーペーでしょう。授業を2コマ持つと全部8時から10時です。8時から10時の授業なんて、学生が2人か3人しか集まらない。それで壇の上でしゃべる。しゃべりにくいですね。我慢して僕はずっとやりました。一番若い助教授はどれだけ酷い目に遭っているか。
  そういうことで、駒場の数力演習をやったのが、43年卒の3回生なので、割合3回生とはつき合いがあるんです。2回生は、3回生に比べて、優秀で大人しかった。1回生は野人ですね。何で都市工学科に来たのか。都市工学科というのは不思議な学科で、昭和37年にできて、4年経つと41年でしょう。一等初めに、昭和34年か5年頃に土木が衛生工学科というのを作った。土木と建築の決定的違いは、物事を早く知って情報を集めているのが土木です。建築はポカンとしている。常に土木より一歩遅れるんです。土木が衛生工学科を作ると申請した。当時、ちょうど所得倍増計画で工学部の定員倍増ですから、僕がいた昭和30年、31年というのは、10学科で1400人だったか、昭和42〜43年にそれを20学科にして2000人にしたんです。池田勇人の所得倍増です。
  そういうところで、北大なんかも衛生工学科ができている。多分大阪大学も衛生工学科はできている。建築で都市計画なんか出さなかった。建築というは、京都大学のように、第1建築、第2建築なんです。土木の方は衛生というのは先進的で、水質問題なんかいろいろあったから、土木だけじゃなくて、応用化学の連中も入れて作らなきゃいけないというので、気配りが凄い。
  土木は必ず、自分の学科だけでなくて、他の学科を少し入れるんです。例えば、5学科作ると4学科は土木で、1学科は応用化学を入れるんです。文部省の認可は受けがいいんです。非常にうまい。東大では45年に衛生工学を出していた。
  それを建築の連中が後で聞いて、何とかしようといった時に、高山英華という僕の師匠がいました。当時、地域開発とか都市計画、東京オリンピックなどを、丹下建三さんと全ての仕切り屋として後ろにいた人です。若かったです。50歳になるかならないか。だけど、この人がこのタイミングで都市計画を作ろうと言って、36年に都市計画学科ができた。さあどうするかと文部省に来た時に、実は土木と建築に1つずつ作る余裕はない。1つにしろということでした。何とかしよう。その時は建築の構造の武藤清という先生が工学部長だった。霞が関の超高層、霞が関ビルを鹿島建設の副社長になって設計して造った人です。この間死んでしまったけれども、彼は文化勲章を貰っています。
  片方は都市計画。片方は衛生工学、一番通用するには、都市計画の「都市」と衛生工学の「工学」をとって都市工学科にした。これ、本当の話です。
  そんなことも知らないで都市工へ来た学生がたくさんいるわけです。だけど、当時そういうことを強引にやれたのは、やっぱりいい加減だったからですね。京大へ行くと絶対そうさせない。建築は建築で第1建築、第2建築。土木は土木で交通土木とか衛生。京都の方が真面目ですね。自分の職務を忠実に守る。東大というのはいい加減で、烏合集散、会った時は良いけど別れたらもうお終い。そういうところがありますね。
  そういう経緯があって、第1回の卒業生を出したのが41年。その時に、この学科はどうしようもない学科で、建築でもない、都市でもない。そして力学を教える先生はいない。数学を教える先生も1人いたけど、非常に偏った数学だけが好きな先生。だから、実験に関わる数学というのは教えなかった。おまけに就職と言ったって、どこもない。住宅公団ぐらいしかないんです。
  1回生はどこも行くところがないというので、住宅公団に土木4人、建築4人をまとめて入れました。建設省も土木4人、建築4人入れましたよ。都市計画系が50人のうち32人、それを住宅公団に8人、建設省8人で16人、半分役人。みんな主流でない役人。そういうことをやりました。
  1つ良かったのは、ガチガチの昔からの工学教育に対して、この学科というのは物凄くフレキシブルです。教師が、真面目さでは大体ろくな教師がいなかった。例えば、一番有名な例は、1回生がよく言っていたんですけど、駒場から本郷に来て授業を聞いた。井上孝の授業を聞いた。高山英華の授業を聞いた。日笠端の授業を聞いた。誰かもう1人。4人とも、エベネザー・ハワードの話しかしない。(笑)そんなもんなんですね。
  普通の機械や土木だったら、絶対にそれは駄目なんです。この先生はコンクリート、この先生は水利、この先生は力学と、完全に授業内容が違うでしょう。ところが、都市工学科というのは授業が都市計画第1、第2、第3、第4なんです。何をしゃべってもいい。そういうところだった。
  そこで僕は何をやったか。僕は都市工学科で一番最後に拾い上げてもらった助教授ですが、他は全部、1歳とか2歳とか先輩です。新谷先生なんか僕より1歳上です。川上先生は2歳上。僕はアメリカに2年いたでしょう。その間に授業科目とかいいところを全部他の先生がとっているんですよ。一番教えたいのは、土地利用計画。それは先輩の助教授がとっちゃっている。その次はアーバンデザイン。アーバンデザインなんかできないからどうしようもないけれど、これも誰かとっちゃっている。住宅政策、これも住宅局から来た下総という素晴しい先生がいて、とっちゃうでしょう。交通もとられちゃう。残ったのは何だと言ったら、防災しかない。
  僕はアメリカにいた時に何をやっていたかと言うと、交通と経済学っぽいことをやっていた。交通予測をずっとやっていた。アメリカはそれが一番重要だった。でも、都市工学科では全然そうではなくて、火災の延焼方程式を勉強しろとか、着火と延焼とは違うとか、そんなことをやれと言われて、絶望ですね。だけど、やらなければいけない。必死になってやりましたよ。やって50年。やっぱり嫌でも20年ぐらいやると何とか格好つきますね。
  41年、42年頃何があったか。42年から美濃部都政です。41年までは東都政です。東都政は8年。37年、都市工学科ができた頃に東都政の1期が終わって2期に入った。その頃、東京大学の地震研究所で非常に不気味な発言があった。関東大震災から50年近く経った。地震研究所としては、関東大震災のことを忘れるわけにはいかない。統計学的に調べてみると、関東大震災から大体70年サイクルで次の地震が起きるということになった。70年というと昭和67年。そういうものを昭和37〜38年に出した。20年先ぐらいとか四半世紀先と言うと、まず先だとは言えない。
  それを地震研の先生が言い始めた。当時の東京というのは完璧に木造都市です。オリンピックの前後の年の頃を、皆さんご記憶の方もあると思います。完璧な木造。裸木造というカラカラに乾いた下見板で作られた2階建てのアパートが沢山あった。これは今は想像できない。火がついたら完全に大火になる都市だったんですね。それを36〜37年頃、危ないということが出た。それに呼応して、当時建築に浜田稔という先生がいた。コンクリート材料と建築防火の先生。浜田稔先生というのは物凄く器用な人で、地震が起きたら、どこから出火して、どういうふうに火が大きくなるか、一応の工学的な簡単な計算で、チャッチャッと書いてくれた。そしたら、何が起きたかというと、東京の下町には、当時70万人ぐらい人がいたんですけれども、あの下町の市街地、墨田区の向島は全滅、全焼、本所は半分、江東区が大体半分、全部燃える、そういう結論が出ました。
  これを東都政のど真ん中でやった。それを受けて東都政の2期目で非常に面白いことが起きた。東都政は37年に2回目の選挙。35〜36年に問題提起が東大の地震研から出てきた。それを一番深刻に受けとめたのは東京消防庁です。東京消防庁の当時の総監が江藤という人です。この人は物凄く気真面目な人で、こんな凄まじい被害想定が、地震研究所と東大の建築防火の方から出てくるなら、行政的に自分は都知事になって体を張って東京を防火都市にしなきゃいけないというので、確か東さんの対抗馬で知事選に出ました。今ならそういうことあり得ますね、黒川紀章だって出てくるし。
  だけど、昭和37年、役所の統制、官僚の統制がカチッとしているところで、そういうことをやる地方公務員が出たのはあり得ないことです。結果は惨敗しました。というのは都民もわからなかった。要するに、防災というのはみんな起きるまでわからないんです。
  しかし、42年に美濃部都政になった。美濃部都政は東都政がやってきたことに対して批判をしています。公害です。こういう時に皆さんのお仕事に一番関係するのは美濃部都政の昭和44年の東京都の公害防止条例。これは何かと言うと、煙突から亜硫酸ガスを出すことは禁じる、ということです。もちろん、下町の工場は沢山出していましたが、当時、丸の内でも、暖房で石炭をたいて、亜硫酸ガスを出していた。全部禁止。とんでもないことです。そしたら、何が起きたか。地域冷暖房をやるしか仕方がない。
  嫌々、三菱地所が丸の内に地域冷暖房をやりました。昭和50年ぐらいに地域冷暖房を造ったんです。こんなの絶対やりたくない。それはそうですよ。当時、地域冷暖房は、べらぼうにお金がかかるし、オペレーションもかかる。だけど、今、30年経ったら、丸の内の地域冷暖房会社は、丸儲けですよ。日本人は、うまいんですよ。こういうとんでもないことでも、15〜16年きちっとやっていくと、とにかくいいものにしちゃう。する能力がある。
  美濃部都政を公害で打ち出した。例えば隅田川が酷かったのも、美濃部都政で大騒ぎした。その代わり美濃部さんは公共事業憎しだから、例の外郭環状道路をやらなかった。その時に、大向こうを狙って、彼はメディア操作がうまい都知事だったから、「地震が来るぞ」とやった。地震に対しても美濃部は自民党の東と違って正面から取り組まなきゃいけないというので、その時に話題になったのは、向島の悲惨な裸木造で全部燃える絵姿です。
  僕も、昭和41年の時は都市防災をやれというので、仕方がなくてそういうことをやりました。延焼モデル、3時間経つとどう延びるかとか、北西の風でどうかとかです。木造の市街地が燃えるのを止めるストッパーのコンクリートの建物が何にもないんです。どんどん燃えていく。
  美濃部さんは、都も協力して都市防災のことを考えろと言われて、昭和43年に東京都の都市防災会議で大地震の対策をこうしろ、というのを出した。43年の答申を受けて僕は結構忙しくなってきた。何をやっていたかというと、白鬚の東の防災拠点。完成したものですが、その都市計画を僕はやらされた。昭和40年代の都市防災というのは、美濃部さんが社会党を背景に出てきたということもあって、完璧に江東デルタ問題であると言うことができます。
  そこで僕が考えたのは、報告書があるんですけど、これが江東デルタですね。江東デルタの亀・大・小。亀戸・大島・小松川と、両国を真っ直ぐ結んだ帯状の一帯と、それと錦糸町で交差するように木場から白髭東方面に結んだ一帯を、不燃化しろと言ったんです。全部不燃化できないから、ここの縦と横だけ不燃化しろ。これを称して、防災十字架ベルトと名づけた人がいました。まるで火柱みたいな十字架。ジャンヌ・ダルクみたいになっちゃう。ここが両国、そしてこれが亀・大・小。亀戸・大島・小松川。それからここが木場。ここが錦糸町。ここに白鬚東。それから、ここに荒川の荒川堤防の外側です。これで6。防災6拠点構想というのを東京都は打ち出したんです。
  この総事業費幾らか。当時の金で6000億円。昭和40年価格です。実態はこんなものではない。大体役人というのは倍の仕事をします。6000億円と称して1兆2000億円の仕事をするのが役人の一番いい仕事だと言われています。常識なんです。
  当時、ここに70万人が住んでいた。仮に60万人にします。今は60万を切っている。6000億円を60万人で割ると、1人100万円でしょう。勘定は合っていますね。4人家族だと400万円。だったら、6000億円はこの6カ所しか土建屋にやらせるとできない。それが1兆2000億になる。
  だけど、もし、この60万人のうち半分の家族だけだとすると、6000億円を30万人で分けると200万円ですね。当時は核家族だから4人で800万円。800万円を持って、千葉ニュータウンの土地を買って、800万円に400万円ぐらい自分のポケットから出して1200万円にすると、当時、非常にいい1戸建ての家を建てられました。千葉ニュータウンは地震でびくともしないです。関東ロームの下総台地です。
僕は、馬鹿なことするなと思っていました。ちょっと勘定すれば、こんなのを6000億円かけたって、20年かかったってもできやしない。実際、白鬚東が完成したのは、やろうと言った昭和45年から20年以上かかっています。それに比べて、京成電車で千葉ニュータウン。千葉ニュータウンに楽しい我が家を構えて、お父さんだけここに来て、地震の時はお父さんだけが死ねばいい。お母さんと子ども2人はここで生き延びられるんじゃないか。助教授の時に、そういう論文を書きました。教授だったら書かない。(笑)そうしたら、土建屋から完璧に無視された。
  だけど、そうおかしくないですよ。今ならそういうことをやりますよね。今だって、地震が起きて柏崎で建物が壊れた人に、つかみで300万円やるかやらないか大議論です。300万円やるからどういうふうにでもしてくれ。300万円つかんだ人は仮設は遠慮してくれ。その代わり、遊んでもいいよ、パチンコでもいいよ。人生幸福にするのは何も仮設だけじゃない。そういう生き方もあるんじゃないか。随分柔らかくなりました。
  当時は、これを造らねばならない。白鬚だけで3000億円ぐらいかかっている。美濃部さんは革新系だから、こっちはポイントゲッターなんです。余り金がかかり過ぎるというので、少なくとも錦糸町、両国、木場はこういうガチガチの防災拠点作りを止めました。コンクリートのオフィスビルとか公営住宅をなるべく沢山ここに集めて下さい。区役所も、コンクリートで燃えない公会堂とか病院も集めて下さい。そして、周りに比べて不燃化率を高める。そうすると、燃えにくくなる。
  例えば、不燃化率。木場なら木場の市街地に仮に100ヘクタールとります。そこに、棟数で、3000棟あったとします。3000棟のうち6割不燃化していれば大火にならないんです。火が木造の建物を2〜3軒燃やしても必ずどこかでコンクリートにぶつかりますから、そこで火が止まる。だから、大火にならない。不燃化率、正式にいうと燃焼領域率と言うんですけど、不燃化率6割ぐらいを目指して、住宅公団とか区役所、大企業の工場跡地の再開発などで、なるべく少しかたい建物にしようというやり方をとったので、これ程高くはならなかった。ですが、それでも、仕上げるのに時間がかかった。
  それで、白髭を造りました。ドレンチャーという放水銃がついている。建物の地下に物凄いタンクがあって、そこから電気を使って水を上に上げて、放水銃から、窓に向かってダーッと水を流すんです。凄まじい、軍艦みたいな装置を作ったんですけど、一度も使わないで40年経ってしまいました。錆びた。ドレンチャーが効かない。地獄門じゃないけど、ここに入る門がある。ここに逃げれば助かるぞというやつです。この門の鉄の扉がギーッと閉まる。これもうまく動かない。だから、機械装備はメンテナンスが大変なことになる。
  もう1つ、細かい話ですが、これが、何に金がかかったか。再開発でやったんですけれども、美濃部さんは、木造住宅のお店屋さん、魚屋さん、八百屋さん、洋服屋さんなどのお店の間口だけは絶対小さくするな、ということでやりました。普通、再開発というのは三間間口でも、最後に立体化して完成する時には、二間半でお揃いになるのは当たり前なんです。同前面幅でマンションを造った。これはべらぼうな金がかかった。魚屋が3軒あったら、そのままのところでコンクリートにする。とんでもないことをやって造りました。
  僕が何を言いたいかと言うと、これができた時が昭和54〜55年、10年ぐらいかかって造ったんです。当時は、45〜46年から10年間かけて丸の内が、ロンドン1丁から14〜15階の建物に全部造り替えていた時期です。丸の内に凄いクレーンが立っていた。再開発で丸の内の建物を建て替えているから見せてやると言って、カリフォルニア大学の45〜46歳の非常にセンスのいい建築の教授を連れて言ったら、「世界でこんなにクレーンが立っている都市を見たことがない」と言った。それぐらいで、三菱地所はあそこの再開発をやっていました。それは褒め言葉です。「こんなにクレーン立っているのを見たことがない」。
  次に、白鬚ができたから見に行こうと言って、割合得意で行ったんです。そうしたら、白鬚を見て、彼の顔がひきつって、「これは刑務所である」。言われてみると、あれは刑務所です。あんな板でガチガチ。凄いでしょう。入り口の鉄板ゲートなんか、本当に刑務所ですよ。彼は真剣になって、「こんな刑務所のような建築を造る日本の官庁の建築家は大悪人だ。キリスト教的に言うと、罪一等縛り首だ」と言うんです。
  それは話を聞いているうちに分かりました。建築の持つ、人に対する訴え方が非常に重要なんです。ところが、白鬚の建物は何にも人に訴えてない。ただ、性能だけはいい。その性能も万が一の時だけ、こうですよということです。実は僕が助教授になって、防災をやれと言われた時の防災十字架ベルト構想と6拠点構想の流れで、白鬚東のところをやって、それが我々はいいと思っているんですけど、国際的視点から見ると全く酷い、そういう話につながるんですね。
  昭和40年代は何だったか。今思いますと、昭和39年はオリンピックですよ。1点集中。これは日本人が一番得意。何の情報も要らなくて「仕事、仕事」とやる。そこで、大体でき上がった国の姿は、ヨーロッパの中心国並みの所得。スペインとかギリシャ、そういうところまで日本の1人当たりのGDPがなればいい。昭和40年はそれが狙いだった。これが、今の平成19年のドル換算でいくと、昭和40年、オリンピックの後が5000〜6000ドルでしょう。今、ギリシャやポルトガルが1万ドルぐらいありますかね。昭和40年のドル換算だと多分4000ドルとかそんなものです。そこまで上がってきた。
  それから50年です。この時は国際化という視点は全然入っていなかった。40年までに日本が作り上げた原動力をもとにして、国の中のシステムを、よりお金を受け入れて仕事しやすいように組み替えることだけに突っ走ったのが昭和50年。国際化というのは、仮にお役所の報告書に書いてあっても、ほとんどなかった。あるとすれば、外国へ行って、日本人の通例で、何を見てきて、これはいいから、そういうふうにしようという情報しか入ってこない。
  例えば、ドイツの住宅政策は何が欠点で何がいいかという情報は入ってなかった。品物といいものを見に行って、これはいいよと得々とそれを紹介する大学の先生が学位論文なんか書いて偉くなる、そういう時代でした。それが昭和50年です。
  そうすると、先程言ったように、独善的、ひとりよがりでいいものだと言う白鬚北なんかは、国際的評価から言うと、とんでもない一番まずい建築です。
 
 
3.昭和44年 新全国総合開発計画
 
  もう1つ、都市計画法改正。これをやると話が長くなるので、44年の新全総にいきましょう。
  43年頃は、千葉ニュータウンに人を移してやったほうが安くなるじゃないかと言ったけれど、当時、国交省は裸の王様だったから、本当のことを言うと機嫌が悪かった。だから、僕なんか総スカン食っちゃったんです。先程、僕はペーペーの時に授業を2つ持っていたと言いました。一番人気の悪い授業で、1つが都市防災。もう1つは、たまたま僕の師匠が変わった師匠で、広い話も大事だと言うので、国土および地方計画という講義をやりました。当時、土木に国土計画という授業はありませんでした。建築にも、ありやしない。だから、ちょっと広い話を聞くとなると、都市工でずっと拾ってきた国土・地方計画しかなかった。朝8時でも、防災は2人か3人しか来ないけど、こっちの方はもう少しいました。都市工の学生はいなくて土木が多かった。この授業も、先程言ったように人気がないんです。衛生系の人には全く関係ない。建築計画からは、「余っちゃったからおまえやれ」と言うことでした。それで高山師匠の名前で僕が全部やりました。一番半端者の僕が、また半端物の都市防災と半端物の国土・地方計画を両方持っていた。
  それでも、授業はちゃんとやらなければいけないから勉強しました。防災も国土・地方計画も全部アメリカから帰ってきてから勉強した。つけ焼き刃もいいところなんです。その時に僕が非常に感銘を受けたのが、昭和24年に岩波から出た、和田小六の翻訳でリリエンソールという原子力技術者が書いた「TVA」という本です。書いたのは昭和15〜16年ですけど、日本で翻訳したのは昭和24年。和田小六というのは東工大の学長で、この息子さんは有名な生物学者です。和田小六は名前だけ出して、本当に書いたのは違うんだという説もあるんです。
  この「TVA」の話が物凄く面白い。何故かと言うと、経済大不況の時にルーズベルトがニューディールをやった。このニューディールの申し子としてTVAが浮かび上がってくるんですけれども、その後ろにTVAを造るまでの第1次大戦の時からの話がつながっているんです。ニューディールの経済大不況というのは昭和4、5、6ぐらいです。第1次大戦というのは大正の初め。TVAを造るという話は、ニューディールではなく、第1次大戦まで遡ってくるわけです。
  第1次大戦の時のTVAとは何か。アメリカは、第1次大戦にいよいよドイツ撲滅で参戦しようとした時、戦争が終わったんです。アメリカは第1次大戦行くために、大砲を作らなければいけない、軍艦を造らなければいけない、一番問題は火薬を沢山作らなければいけない、ということになっていました。そうすると、窒素が必要になる。窒素を固定する。昔の話がありますね、窒素固定を行うエンドウ豆の話です。ところが、空中窒素固定やるとべらぼうな電気を食う。それは原理としてはわかっていた。硝酸を作るために実はTVAを軍事用ダムにして、水力発電で作った電気は全部、その下にある硝酸製造工場、言ってみれば軍需工場で使い、硝酸を作って、火薬を作る。第1次大戦の軍需物資を増幅する計画の中にTVAが入っているんです。
  ところが、戦争を止めた。だから、10年間休止したまま、TVAは本来の目的を失ってどうしようかという議論が議会の間で延々とやられた。これは日本の議会と同じですよ。その後にフーバーとか出てくるんです。フーバーはカジノのところに造ったけど、TVAのダムは人気が悪いからほっぽってある。それがニューディールで生き返った。「TVA」の著者のリリエンソールは、戦争中に、TVAの近くで原子爆弾のための工場を造っていて、それに参加していた理事でした。原子爆弾はおかしいんじゃないか、TVAの電気を、広島、長崎に落とした原子爆弾製造に使うのはとんでもない、邪道であるということを言って、TVAを首になった。その後に書いたのがこの本です。
  それを読んでいて、物凄く面白かった。小説のようです。砂をかむような国土計画とは、なんていう教科書があったら、僕は国土・地方計画を絶対やってなかったと思う。TVAには、強烈な、なるほど地域計画ってこういう意味なのかということが書いていあった。今の日本で言えば、環境庁がやるようなことを全部やっているんです。
  例えば、電気をとるので取水すると、ダムの水面が下がる。下がると湿気のところが乾く。乾くと蚊が猛烈に発生する。その蚊が牛に食いついて、牛の搾乳量を減らす。どうするんだ。結局何をやったかというと、蚊が発生しないように水力発電の水量調整をやるんです。蚊が出てくると水位を上げる。大丈夫だと下げる。非常に微妙なダムの水位コントールをTVAは作り上げるんです。
  そういう話は面白い。貧乏なテネシーの電灯1つしかついてない農村で、その電力は何に使われるのか。冷蔵庫を貧乏な農家でも持てるように電気を供給するわけです。その冷蔵庫というのは、今僕たちが家庭で使っているようなものではなくて、搾乳した牛乳のビンを入れておくんです。入れておくと腐らないでしょう。冷蔵庫がなかったら、毎日毎日夏なんか牛乳を集めなきゃいけない。えらく手間がかかる。冷蔵庫があると、3日に1回、回って回収できる。途端に牛乳の値段が安くなるんです。そうすると、そのミルクはチーズ工場とかバター工場に持っていって売れるから、貧乏な農家が豊かになる。
  そんな話がずっと書いてありまして、これでいけると思った。それで国土計画を教え出した。多分、防災より国土計画の方が面白かったと思います。相当熱っぽくしゃべったから。
  そうしているうちに何が起きたか。そういうことを物の本に書いたりしていたら、当時、経済企画庁に、全国総合開発計画を作る総合開発局というのがあったんです。そこに大蔵省とか通産省の経済屋の役人が来ている。ちょっとした本を僕が書いたら、これは変なやつだということになった。よく見ると建築屋のくせにとんでもない変なことを書いている。それで、経済計画を作るような委員会に呼ばれたんです。呼ばれたら、そのうちに新全総を作るぞという話になった。新全総は昭和44年にできているんだけど、スタートの準備は昭和42年頃からやりました。
  それから後、必ず出てくるのは下河辺という僕の先輩です。今84〜85歳になったかな。その下河辺をキャップにして、当時、大蔵省の事務次官を辞めて日本開発銀行の総裁になった平田敬一郎という人がいた。死にましたけれども、なかなかの男です。平田敬一郎をトップにして、下河辺が総合開発局の調査官か何かで事務方を支えて、そこで平田敬一郎が新全総を作るための全国何とか審議会の会長をやっていました。その人は割合若者が好きだったので、勉強会を作った。平田勉強会。大来佐武郎も別の勉強会をやっていた。平田勉強会と大来勉強会と2つあった。大来さんの方は経済計画。平田敬一郎の方はその他。土木、建築、農業経済、人口から、物的な要求全部。そこへ僕は入れられた。昭和42年だから僕は35〜36歳ですね。
  そこで、心ゆくまで日本の将来について議論しました。日本経済が対前年比6%〜7%に広がっている。貿易が拡大している。無限に経済機能が広がっていく時期で、その無限に広がっていく時期のマイナスで公害が起きたんです。
  1つ面白いエピソードがあるので、それを皆さんにご紹介しますと、平田勉強会で、国土計画を作るために必ず検討して答えを出さなきゃいけない問題が幾つかあるというので、20ぐらいの設問をしたんです。昭和42年頃は、日本はまだ米を台湾とかタイから輸入していました。米が100%自国内で作れなかった。米を自分の国の中だけでどういうふうに賄うことができるかというのが、当時の国土計画にとって重要な国家政策だった。勉強会に、東大の東畑さんの講座を継いだ今村奈良臣という男がいます。僕の大親友です。農業経済の教授になって、農政審の会長をやった男です。当時、僕より2つ下の33歳ぐらい。黒川紀章も若いグループに入っていました。そのころ黒川紀章は素直でいい子だった。(笑)
  議論しているうちに、日本は米を100%自国内で生産できるか、という話になり、「今村、おまえの出番だ」ということになりました。「できる」「そのためにどうしたらいいか」「2つ手がある」。1つは、江戸川区と葛飾区と草加の市街地を全部取っ払って水田にしろ。大阪の淀川流域の戦後できた汚い住宅地を全部取っ払って水田にしろ。名古屋もそうだ。木曽三川のところにできている一番汚い住宅地を全部取り払え。
  何故かと言うと、江戸川、中川流域の下流と木曽三川の下流と淀川の下流は、何千年という歴史の中で、川上の山でできた木の葉が腐ったような養分を水が運んで、最後に下流で溜めている。それを戦後数十年の間に住宅にしてしまったのだから、そこは何百年と積み重なった腐葉土が沢山あると言うんです。そこで水管理をやっているんだから、ここが米の生産性が一番いい。だから、本当に米を増やしたかったら、あの住宅を取っ払えって、僕の顔を見るんですよ。おまえが元凶だと言うんです。僕のせいじゃないよと言うんだけど、やっぱり農業経済から見ると、都市計画が一番唾棄すべき存在でしょう。今のエコロジー的に言えば理解できますね。
  それをすれば、米はすぐ100%自給できるけど、それは駄目だ。できないならどうするか。2番目の答え。1反当たり、白米にしない殻つきは平均500キロぐらい。それを1トンにすることができると言うんです。米の土地生産性が2倍になる。そうすれば、一番水田にすべきところが都市化でつまらない住宅地になってしまっていても、例えば当時の宮城県とか岩手県、新潟県の都市化しないところにある水田の生産性を倍に上げたら100%自給できる。
  農業というのは水の管理が勝負なんですね。水田は、一番下を粘土で水を入れないように固くするわけです。その後ろに腐食土、栄養土がある。そこへ水が来るわけです。一等初めに、水田にずっと田植えをする。田植えする時は水がある程度必要です。ところが、田植えした苗が1本から分かれます。その時に水を引けと言うんです。この時には水を入れない。そうすると、田んぼの苗は乾いたので、気象に対して抵抗力がつく。よく分からないけど、乾いた時に分蘖(ぶんけつ)させて、実がついた時にもう1回水を元に戻す。そういう実験を、今から40年前やっていました。ついこの間、青森の農業試験場でそれに成功しました。
  それはいけるなと思ったけれど、考えてみたら、その当時の技術ではできないことが分かった。非常に完璧な水位コントロールには、コンピューターとマイクロチップが沢山要るわけですよ。おまけに膨大な公共事業が要るわけです。粘土の上に塩ビか何かポリエチレンの水道管みたいなのをずっと入れて、そこに穴をあけて水を出すわけです。凄い人工的装置を中に入れて、なおかつ水位のコントロールをコンピューターでやらなければいけない、という話になって、面白いと言ったけど、それはそれで話は終わっちゃったんですね。
  そういう、非常にチャレンジャブルで夢の多い議論が、新全総の時にはできたんです。だから、今でも全国総合開発計画を若い経済学者からは、「全総」、「新全総」、「三全総」、「四全総」、「五全総」と最後までずっと並べると、日本国全体について、技術革新の要素も入れながら、なおかつ公共事業の広域性も議論しながら組み立てたのが「新全総」であるという評価がある。
  これは43〜44年頃の議論です。43年というのは、僕たちにとって物凄く忙しい時だった。ゲバ学生がいた。今は団塊の世代で定年退職ですよ。それが不穏になってきたのが43年の春ぐらいからです。事の発端は、2つあって、1つはパリの学生騒動、もう1つは江青の文化大革命。日本というのは、本当に他所から来たものは批判なしに受け入れる。学生騒動なんて、もともとは医学部だと言うんだけど、都市工までそんなところに巻き込まれるというのは、およそ思慮分別がないですね。自主的じゃない。それが今、60歳で定年ですね。僕は、60の連中は信用しない。
  その時僕は学生委員だった。いろいろ議論につき合いました。最後の安田講堂乱入の時には、その頃は工学部の中で建築と都市工がどうしようもない、というのが教授会の評判でした。学生は格好いいからと言うんで、いい気なもので、教授会とは全く別な評価。建築と都市工は格好いい。親元になってみれば、これだけやったら、もしかしたら研究費だっていじめられるかもしれないと思いますね。
  学生委員だって、一番ペーペーです。本当にペーペーってよくないですよ。その頃、ノンポリとか何とかとか、何が何だか分からないんだけど、毎日、昼頃になると竹竿みたいなものを持って歩くんです。民青は短い棒を持って歩くとかで、昔の戦国時代のような映画のプロダクションみたいな感じになっていた。
  その時は、小さいことはいいことだ、ということになっていました。小さいことはいいことだというのは、紅衛兵運動の時、毛沢東はインテリの下放をやったでしょう。農村の中でも鉄を作れとやった。鉄は何も新日鉄の高炉だけで作るものじゃない。毛沢東は、大馬鹿で全然知識なかったから、近所の薪を持ってきて火を燃やして鉄鉱石を乗せれば鉄ができるぞ。鋤、釜ができると言っていた。鋤、釜はできるけど、船は造れません。だから中国中、小さい鉄釜を作る。それをまた、社会党系の日本の先生は、小さいものでやるほうがずっといいと思っていたわけです。
  根本的大議論。当時、都市工の中でも衛生工学は大変だったんです。衛生工学科の大議論は、小さいことはいいことだというのは本当か、という話。何かと言うと、公共下水と広域下水。この論争ですよ。
  当時、建設省は広域下水道のネットワークを造ろうとしていた。だけど、公共下水も前にやっていたから、広域ネットワークの公共下水を造らなくても、こっちは公共下水でいくと言うと、例えば草加市は、市域の中に公共下水のネットワークを造って、そこの中に下水処理場を造る。それはそれで理屈はあるわけです。これは相当深刻な議論で、公共下水の小さいものにした方が住民監視の力は強い。確かにそうでしょうね。みんなが気にするんだから。変なことやったら市長さんは首だ。そういう住民監視の力は強い。問題は、下水処理場の性能です。先程の鉄と同じように、公共下水を20個、30個造って、それからみんな最終的に川に流すと、水質汚濁してしまう。それと広域下水で、非常に性能の高い、何次処理かをやって出すのとどっちがいいか、という話なんです。
これは哲学的な問題で、当時僕はよくわからなくて、中西準子がいやにヒステリーにキーキー言っているなんてぐらいだったけど、これは都市計画の丹下健三より学問的にずっと権威がある。それは時代の先端で、43年の学生紛争の重要な議論です。当時は、僕は、都市計画で水のこと知らないから、そんな深刻な議論をやっているなんて思わなかった。だけど、やっぱり小さいことはいいことだというのは、時間を追っていくと、もしかすると、全てをそういうふうに割り切るわけにはいかないという問題があったようです。
  もっと深刻なのは、当時は衛生工学科が日本の負の部分を全部背負っていた。公共事業で下水を良くすると言ったって、そう簡単に下水は良くならない。土を掘って土管を入れて、怒られながらやるので、そんなにうまくいかない。だけど、片っ方で、工場はいろんな廃液なんかをどんどん流す。すると、昭和の42〜43年頃、下水処理場は造れないんですよ。パイピングだけやって下水処理場は造れない。
  1つ、上水道の先生がこういうことを言っていた。例えば、水源地の近くで青酸カリを流す。その2キロか3キロ下の川で水を飲めるかと言うと、飲めると言うんです。それは希釈するから。上水で、よくそういうことをやりました。原水で薄めればどうにかなるだろう。どうしようもない。下水処理場ができなくてパイプだけ造るんだから。これは、ちょっとした悲劇でした。
  駿河湾の田子ノ浦で、パイプだけ造って処理場を造れないから、パイプを駿河湾の奥までずっと持っていった。そこで薄めればサクラエビも採れるだろう。採れますよ。無限大で大量の水で薄めれば、採れる場合あるんですよ。パイピングは駿河湾の沖合30キロぐらいの推定地下1000メートルぐらいまで持っていってやれば、こっちでサクラエビ採れる。こういう深刻な議論があった。そういうことを知らないで、僕はチョカマカチョコマカやっていたんです。それが昭和43年です。
  44年に「新全総」ができるんですけれども、その頃から面白いことが起きた。学生運動はマイナスよりも、プラスの方の意味があったということが1つあります。それは学生紛争が起こるまでは明確に覚えてますけれども、教授会に行っても、電気工学科の先生はここ、機械工学科の先生はここと全部分かれているんです。それぞれが工学部。電気工学科という工学部。機械工学科という工学部。土木建築として、ちょっとはずれものの工学部。
  ところが、学生紛争の時に、学生がいろいろ理屈を看板に書くでしょう。こっちも若い助教授だから、理屈を書いて対抗しようと、そんなことを思った人がいるんです。建築で、鈴木という人です。面白い。当時助教授だった。それを、学生委員会でやると言った。それぞれアイデアを出して、文章を書く。それを校閲する。要するに雑誌の編集部みたいなもので、気がついたら電気の先生とも仲よくなるし、応用化学の先生とも仲よくなる。今まで考えられない学際的交流がブワーッと広がってくるんです。これはみんな言っています。ゲバ学生はどうってことないけど、むしろプラスになったのは若手助教授だった。それで、いろいろな学科を超えた横のネットワークが、昭和44〜45年でき上がるんです。このネットワークがその後の日本の技術政策とか経済政策に、物凄い影響を与えた。
  これは日本国家に貢献しました。今、定年になったかつてのゲバ学生に、我々はお礼を申し上げなければならない。(笑)
  例えば、皆さん、猪瀬博という人を知っていますか。マルコニ賞を貰った素晴しい人です。電話の音声圧縮をずっとやって、それまでの古い技術では、1つの電話線で1回線しかできなかったけれども、何千回線と入れることができる。そういうことをやった有名な人です。電気の秀才です。猪瀬博と、どういうことからか仲良くなった。不思議なことに最先端の応用数学の先生と、どうしようもない都市工の先生が仲良くなるんですよ。学科が両極端なんですね。建築の連中と航空の先生が仲良くなったりと、お互い相足らないものを求めるらしい。電気の先生と随分仲良くなりました。「何でですか」と聞くと、「伊藤さんが芸術家だから」なんて。何言っているんだ。芸術のゲの字も知らないのに、外から見ると格好よく見える。そういうネットワーク作りが、この時代の学生運動を契機にして動き出してきました。
  新全総の話に戻りますと、新全総があったから、実は新幹線ができました。新全総があったから、全国の道路網計画ができたんですね。これは昭和42年です。
  思い出すと、昭和43年の時に、日本の粗鋼生産は昭和60年に何トンにするかなんかも話をしていました。製鉄所から出る鉄です。当時、新全総の頃は多分2000万トンぐらいだったかな。昭和60年目標で1億トンにする。凄いと思ったけど、平成19年、今の日本の粗鋼生産は大体1億トンいっています。九千何百万トン。そういう意味では、日本の装置系技術の改善とか、そういうものについては随分勉強しました。
  もっと勉強したのが、スクラップ・アンド・ビルドというのが大事だということ。今、銀行なんかで設備投資に何億円投入されているという話があるでしょう。僕は、子どもの時、何でおれたちの日常生活が豊かになるのに、工場の設備投資で金を振り向けるのかが、馬鹿だったから、理解できなかった。昭和37〜38年頃。設備投資なんて理解できなかった。
  ところが、新全総をやっていた時に初めて、国際競争力という話が出てきて、川崎とかにある石油化学系の装置は、スクラップ・アンド・ビルドをやるから、平均寿命が8年である、とか、そういう話が出てきた。製鉄所は15年。石油化学系の設備投資の期間が6年だとすると、6年経ったら全部新しくなると言うんですね。10年経つと古いやつは1つもない。それならば、今、川崎の石油化学系工場はこれでいいけれども、もっと設備投資をきちっとするなら、苫小牧の何もないところに、より船の荷にも近い、北米にも近い、大規模な石油コンビナートを造る。1つ1つ造っていく。6年経つと、こっちが全部駄目になる。うまく原材料の受け渡しや船で運ぶのを6年何とかやりくりすると、ここにもっと素晴しい性能の大コンビナートができる、という話が出てきた。
  それが、新全総でいう大規模工業地域開発の考え。それの根底は、日本の製造業系の力が国際的に負けないためにはスクラップ・アンド・ビルドをやらなきゃいけない。スクラップ・アンド・ビルドのリサイクルのタイミングを図って、苫小牧に大工業地域を造ろう。それを真に受けて、苫小牧東部の埋め立てをやった。でき上がったのが昭和50年。トヨタは昭和80年、30年経って、ようやく入り出した。だけど、その間苫小牧東部は全滅です。北海道開発庁は、あれでなくなったんです。あんなことをやっている開発庁は要らないと潰れました。
  そういうことで、まだ44年。45年に大阪万博があるんですけれども、大阪万博も面白いです。
  あれは、お人よしの企業が役人にちょろまかされたんです。阪急。これも長い歴史の中で見れば、阪急はようやく元に戻っているんです。

4.昭和45年 大阪万国博覧会

 大阪万博、昭和45年。大学でこういう仕事をやりながら、いろんな仕事をやらされることがあるんです。1つは、先程言った防災。その他に、アメリカから帰ってきた昭和41年から2つ仕事をさせられました。1つは立派なもの、1つは取り合いのもの。1つは、山形の都市計画。これは僕の師匠が持ってきたんじゃなくて、僕が前からつき合っていて、僕が自分で特別に受注した仕事です。
  当時、都市計画で、実態は別として、言葉として流行ったのが基本計画。とにかく、マスタープランを作らなければ都市は良くならない。内容もよく分からないのに、マスタープランと言うと、みんな、そうですかねという雰囲気です。
  僕は、山形県に基本計画を作れと言っていたんです。これは正念場だと思って、全力を挙げて、今は名誉教授になった当時の大学院生なんか集めて、ゲバ学生も集めました。ゲバ学生なんて、マスタープランの時は殊勝に大人しい顔をして、教室で土地利用計画とか交通計画をやる。「おまえ、こう書け」と言うと「はい、分かりました」。夕方になると突然ヘルメットかぶって、「先生、ちょっと失礼します」と、彼らは出ていった。その後で、今度は「伊藤、何だ」ですよ(笑)。本当ですよ。
  だけど、全力を挙げて、その当時、基本計画とは何かということが一番わかる山形市のマスタープランを作った。それは当時、昭和43年に、先程意図的にお話したように、都市計画法改正で、1つは市街化調整区域に線引きの話があった。その線引きの事例として、山形市は、こういうふうに線を引いているということで、非常に使われました。
  それから、県庁移転を取り扱いました。その後、県庁移転の話題が幾らでもあった。それも取り上げられた。山形市の基本計画というのは、私の人生の中でも、研究成果として非常に重要な仕事だった。これは、まさに学究的です。
ところが、僕の師匠は何でも持ち込みますから、それをやっている時に、「大阪万博が始まる。おれの知り合いで、京大の交通で米谷という先生がいて、米谷先生からちょっと頼むと言われたから、おまえやれ」と言う。「何ですか」と言ったら、北大阪急行でした。大阪万博で千里中央まで延びましたが、千里中央で止まっていて、本当はもっと延ばして大阪万博まで入れるか入れないかということでしたが、結局入れませんでした。
  その千里中央の駅を出たところに、駅舎を造らなければいけない。地下街も阪急のデパートも造らなければいけない。昭和41年頃、駅の上にデパートと言ったら、僕のイメージでは、渋谷の東横ですよ。あの程度でいいんだろうと思って、描いたら、阪急のおじさんに怒られました。「おまえ、デパートというのは、そういうもんじゃない」。直しました。阪急が喜んで、これならデパート造れるということになり、駐車場も造りました。
  その時僕は、千里中央の前の道路の線形を全部作ったんです。ロータリーがあるでしょう。ロータリーを回って千里中央の中心街に行く道路回しの図面を全部描いた。僕は、建築屋だけど、道路設計を昔やっていました。高蔵寺ニュータウンの道路設計も僕がやりました。建築屋としてはおかしい人間です。東京都の連中なんかは、昭和50年ぐらいまで伊藤滋というのは土木だと思っていた。
  その時、失敗したのは駐車台数の読み間違い。相当多目に見たけど、結局千里中央が何でパンクしたかというと、駐車台数の読み間違いでした。根本的に平成に入ってから直しました。まだ、千里中央の駅を上がっていった骨太の細長いショッピングセンターが残っていますが、あれは僕たちがやった。それから、千里中央の駅の道路の反対側に、当時、大阪の企業庁が土地を持っていまして、そこに今、貸しビルがたくさん建っています。千里中央の西側です。あの辺の設計も、道路を造って区画割りをしたのも、僕たちのグループです。
  本来は、そういうことではありませんでした。実は、大阪万博の竹藪は阪急が持っていた。多分、小林一三が戦争前から持っていた。いずれ、そこを住宅地にしようと思っていたんでしょう。そこへ大阪万博です。国家ですから、大阪府ですから、居丈高に「阪急、おまえの土地よこせ」と言うんです。阪急の小林の孫で、今、80歳ぐらいになる小林何とかというお坊ちゃんの、慶応ボーイ。あれでは、抵抗できない。結局、泣く泣くそこを国に売ったんです。それが万博です。
  その替わり、どこを貰ったかと言うと、とんでもない北千里の奧を貰った。ようやく今、モノレールが入ったところです。お上の命令だと言う。そこは宅地にならない。すぐバブル崩壊。大阪万博をやった敷地ならば、絶対いい値段で宅地開発やって、非常に質のいい住宅地で売れたんです。阪急は、あんなにつまずかなかった。それが北千里に持っていったでしょう。北千里はすぐ商品化できないですよ。住宅公団だって、あそこを造るのに慎重に二の足を踏んでいたようです。
  ようやく、この3〜4年、モノレールが入るというので、儲け出した。それまで阪急というのは万博被害者です。それで大変な赤字を背負った。ようやく回復したのはこの3〜4年です。そういう裏話があります。
  ということで、この続きはまた別な機会に。どうも失礼しました。(拍手)
 
  與謝野 伊藤先生、ありがとうございました。
  昭和40年代の世の中の動きを伊藤先生ご自身の活動の軌跡に重ね合わされまして、国土計画の立ち上げから、防災体系、エコロジー体系の学問体系としてのシーズ植え付けの頃のお話まで、実に分かり易くかつ具体的なイメージを伴った示唆深いお話を頂きました。また、国づくりの基本認識についての豊かな知見の数々を学習出来たのではないかと、ありがたく拝聴いたしました。今日は、伊藤先生から充分に思いのままにお話しいただこうと思いましたが、時間が参りました。このお話の後半は、次回に引き続きお聞かせ頂くと言うことで楽しみにしております。ありがとうございました。
  それでは、これにて本日の都市経営フォーラムを締めたいと思います。本日、貴重なお話を頂きました伊藤先生に、いま一度大きな拍手をお送り頂きたいと存じます。(拍手)ありがとうございました。  


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