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第2回NSRI都市・環境フォーラム

『 科学・技術と社会』

講師:  村上陽一郎 氏 国際基督教大学大学院教授

 
                                                                           

日付:2008年2月20日(水)
場所:大和ハウス工業株式会社大ホール

                                                                            
1.技術と社会との関係は、ほとんど人類の発祥と同時に始まる

2.職人の世界では、技術の伝承は縦

3.近代技術の特徴は、学問に近くなり、学校での伝播が実現した

4.技術者・職人は同業者組合を造ったが、クライアントが常に社会にあった

5.科学が制度化されたのは一九世紀、大学の理学部の創始は1875年

6.科学者も同業者組合(科学者共同体)を造ったが、クライアントは社会にはなかった

7.科学という営みは科学者共同体の内部で自己完結していた

8.二〇世紀半ば近く、大きな変化が起こった(産業、行政が科学のクライアントに)

9.その結果科学研究に二つのモード、タイプが出現した。

10.新しいタイプの科学は、行政や産業を通じて社会と直結する。

11.科学者に、技術者と同じような社会的責任が生じる

12.科学・技術と社会(STS)というジャンルの必然性

フリーディスカッション



 

 

與謝野 皆さん、こんにちは。
  それでは、定刻でございますので、第2回目の都市・環境フォーラム(通算で242回目のフォーラム)を開催させていただきたく存じます。
  本日は、皆さんにおかれましては、大変にお忙しい中をお運びいただきまして、また日頃より長年にわたりこのフォーラムをご支援いただきまして、誠にありがとうございます。
  さて、本日は、我々が日頃それほど意識することなく使用している「科学」そして「技術」およびこれらとの関係における「社会」等の概念について焦点を当てまして、3者の歴史的なかかわりと関係発展のかたち、さらに最近の「環境」領域における、これらの統合を必要とする新しい「知の体系」のとらえ方等について、「科学・技術社会学(STS)」という独特の視座から洞察する貴重な識見について皆様とともにお聞きして、その意義等について学びたいと存じます。
  本日の講師としてお招き致しましたのは、国際基督教大学大学院教授であられます村上陽一郎先生でいらっしゃいます。村上先生のプロフィールにつきましては、皆様のお手元のペーパーの通りでございますが、東京大学先端科学技術研究センター教授並びにセンター長を歴任され、学会等で指導的なご活躍をされておられる他、経済産業省資源エネルギー庁原子力安全・保安院の安全・保安部会長をはじめ、日本科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括としても、科学者の「倫理」そして「安全と安心の科学」等の知見普及のために実に幅広い社会活動をも長年にわたり展開されておられる方でもあられます。
  本日の演題は、「科学・技術と社会」としておられまして、科学と技術のそもそもの相異と成り立ちと、現下の重要課題であります「環境」にまつわる諸課題に取り組むに当たっての基本的な認識のとり方をはじめ、哲学的な視座に根ざした貴重な示唆深い基盤的なお話をお聞きできるものと楽しみにしております。
  それでは、大変にお忙しい中をお運びいただきました村上先生を大きな拍手でお迎えしたいと存じます。(拍手)
  それでは、村上先生、よろしくお願いいたします。

村上 過分のご紹介をいただきまして、ありがとうございます。村上でございます。
  日頃様々な現場で、文字通り第一線で活躍しておられる皆様方に果たしてお役に立つことが申し上げられるかどうか、いささか心もとないところもございますが、ご紹介いただきましたように、本来、私は科学・技術の歴史を勉強してきた者です。最近国際的な傾向として現代史という側面から言うと、現代の社会と科学・技術との関わりと言うのが、かつて歴史の中で存在しなかった非常に新しい局面を含んでいて、私達社会全体としてそれに対応するのにやや遅れをとっているようなところもございます。そんな問題点を指摘することも、皆様方の間接的なお仕事のお役に立てるかと思って、このようなタイトルにいたしました。
  私は、「科学」と「技術」の間に、印刷用語で申しますと、中黒という真ん中にポツを入れるのが習慣です。理由は非常にはっきりしております。科学と技術とは基本的には全く違う性格のものだという判断があるからです。
  日本語では、昭和35年ぐらいにできました「科学技術庁」という、現在では文部科学省の中に併呑されたお役所がありました。それから、大分新しいのですが、1995年に国会を通りました皆様ご存じの「科学技術基本法」或いは6年から始まりました「科学技術基本計画」といったものなど、中央政府が関与している様々な文献、或いは省庁その他もろもろでも、「科学」と「技術」の間に中黒はございません。「科学技術」という四字熟語が日本語では習慣化されております。私はそれが非常に気になっていることであります。何故それを分けるのかということから、少し立ち入ってみたいと思います。

1.技術と社会との関係は、ほとんど人類の発祥と同時に始まる

(図1)
  レジュメにも書きましたが、技術というのは、恐らく人類の社会が始まった時から既に、様々な形で存在していたと思います。例えば、非常に高度な技術としては天文学、或いは占星術があったでしょうし、医療もまた技術として存在していたと思います。
  天文学は、現在では世の中から非常に隔絶された科学の典型のように考えられておりますが、本来、カレンダーを作る、という政治にとって決定的な意味を持つ「編暦」に常に関わってきた技術です。また同時に、現代の言葉を使えば「ナビゲーション」ですが、海の上であろうが陸の上であろうが、自分の位置測定をするためにも、決定的に重要な技術として、人類の始まりから恐らく既に存在していたと思われます。
  その他に、もちろん調理技術、食べ物を作る技術、その調理器具を作る、矢じりを作るなど、その他もろもろの通常の意味での職人的な技術が存在していると思われます。

2.職人の世界では、技術の伝承は縦

 ただ、職人的な技術というのは、基本的に縦の伝承関係にあった。ご承知の通り、親方徒弟制度というのがどこの文化圏でもほぼ同じような形で生まれてまいります。親方が選んだ極僅かな徒弟のみに自分の持っている技術を伝えていくという形が、技術が伝えられる通常の形でございました。
  例えば、医療でも、ご承知だと思いますが、古代ギリシャのコスという島にいた医療技術者たちが共通に持っていた医療者の倫理綱領のようなものが、有名な「ヒポクラテスの誓い」という概念になって今日まで伝わっております。その中には、例えば自分の先生から教えられた医療技術は、先生の直系の親族もしくは先生が特に許した特別の人以外には決して伝えませんという項目が含まれておりまして、いかに技術が縦に伝承されていたかということがわかります。

3.近代技術の特徴は、学問に近くなり、学校での伝播が実現した

 それが、抜本的に変わるのは、19世紀と言ってよろしいと思います。「技術の公共化」という言葉を使いましたけれども、最初に生まれました技術の学校が、現在ではフランスの理工系の高等教育の最も高い地位にある「エコール・ポリテクニク」。1794年、フランス革命の真っただ中にできた時には、もちろんプレステージがそれほど高くはありませんでした。エコール・ポリテクニクは、言ってみれば技術のための学校の最初と申し上げていいと思います。
  何故、革命政府はエコール・ポリテクニクという技術の学校を作ったのかと言うと、やはりフランス革命と非常に密接に関連しています。それまでは国家の運営は王室と宮廷の官僚が取り仕切って参りました。軍事技術や、市民的な、いわゆるシビル・エンジニアリング、国家運営の技術としては徴税制度、税金をどうやって取り立てるかということも大事な技術の一つでありますが、そういう技術を全て宮廷官僚、貴族が世襲で担って参りました。しかし、フランス革命で彼らを全部ギロチンにかけて殺してしまいました。
  さて、人民の政府ができて、人民は、いよいよ我々の時代が来たと言って自分達の政府を作ったのはよいのですが、今のような国家統制の技術、徴税技術も知らない、軍事技術も知らない。もちろん、メイソンのような石工も革命政府の中にはいたかもしれませんけれども、確かに石工は石を切って敷き詰める、或いは積み重ねる技術は持っていても、設計して施工するための統御技術のようなものは持っていない。こういう状況の中で、革命政府は大慌てに、エコール・ポリテクニクという学校を作って、そこで、言ってみれば促成に、大急ぎで、そういう技術を担ってくれる優秀な人材を育成するということを考えたわけです。
  当時は、エコール・ポリテクニクは軍事省に属していました。学生は学費を払わないでいい。むしろ少しお金をもらう。その代わり、卒業したら必ず政府の中央官僚として官僚制度の中で働くということを約束させられていました。
  これが市民革命が起こらなかった当時のドイツ語圏にも直ちに普及しました。そこに書いた「テヒニッシェ・ホッホシューレ・ヴィーン」です。「ポリテクニクム」というラテン語がドイツ語化されて、「テヒニッシュ・ホッホシューレ」。「テヒニッシェ」は「テクニカル」で、「ホッホシューレ」は、英語にそのまま訳すと「ハイスクール」ですが、今の日本の高等学校ではなくて、やや専門的な工科専門学校のような感じの学校です。ドイツ語ではテー・ハーとよく呼ばれておりましたが、このポリテクニクの後間もなくからドイツ語圏各地に広がります。
  アメリカでは、エコール・ポリテクニクをそっくり真似した「ポリテクニックスクール」に「レンセラー」という名前を冠した「レンセラー・ポリテクニックスクール」が25年にできます。これはこういう会にご関係の方々ならご存じかもしれませんが、当時アメリカはエリー湖からハドソン川の河口近くまでの大運河を造りまして、これに船を浮かべて運輸業を広げていきました。そのエリー運河を開発した時の技術がそのまま埋もれてしまうのはもったいないということで、レンセラーという人が中心になって、この技術学校を作って、運河の技術、開削技術というものを次の世代に残していこうというのが最初の出発点だったそうであります。
  それから約40年経って、アメリカに「モリル・アクト」、モリル法という法律が制定されました。このモリル法は、A&M、Aはアグリカルチャー、Mはメカニックス、つまり、アグリカルチュラル・カレッジとかメカニカル・カレッジと呼ばれるような農学校、工学校を作る法律です。それが1862年のことです。
  これも都市設計に関わっておられる方はよくご存じだと思いますが、このモリル法というのは、中央政府が、各州に持っている土地を州に無償で払い下げる、つまり、幕府時代の日本で言えば天領のようなものを藩にただで下げ渡す。その代わり、州は州の法律と予算に基づいて、そこにその州の産業に適した実業学校を作りましょうというのがモリル法の趣旨であります。
  その結果として、農業地帯には農学校が、工業地帯には工学校が、また両方あるところは農工学校が生まれます。皆様がよくご存じの札幌農学校を作ったクラークさんは、この時できた「A」の校長さんで、その人が日本に招かれて、札幌に全く同じものを作ろうということで農学校を作ったということになります。
  これらは全て大学ではありません。大学でないという意味は最も根本的なところでは学位授与権が一切ないということであります。
  こういう学校を卒業しても、フランス語で「エンジニエール」、エンジニアのフランス語なんでしょうけれども、エンジニエールという称号をもらえるだけで、ドクターはもちろんもらえない。BA、バチュラーももらえないという状況がございました。
  その後、エコール・ポリテクニクは、現在、フランスの最もエリート中のエリートが行く理工系ということとなっていて、大学よりも格が上のグランゼコール、大学校というジャンルに属する学校になりました。このジャンルで有名なのは師範学校として知られるエコール・ノルマル・スペリオール。これはどちらかと言いますと文系だと言われています。決して文系ではないのですが、高等学校の先生を養成する学校ですので、そういうふうに言われております。エコール・ノルマル・スペリオールあるいはエコール・ド・ミーヌ、ミーヌというのはマイニング、つまり鉱山ですが、このようにグランゼコールと呼ばれている学校に発展いたしました。
  それから、テー・ハーは、現在は、テー・ウー、つまり、ウニヴェルシテート(ユニバーシティー)になりました。大学に昇格したわけです。
  私は、10年ぐらい前に、1学期間、このテー・ハー・ウィーンで教えましたが、その時もう既に実はテー・ウーでございました。
  それから、A&Mは、これはほぼすべて州立大学に昇格していきます。アメリカのいわゆるアイビーリーグと呼ばれている私立の非常に優秀な学校は、植民地時代からあった大学であります。ハーバード、イエール、コロンビア、ブラウン、ペンシルバニア、ダートマス、コーネルといった大学ですけれども、その他に州が経営する大学が現在では大変盛んで、その州立大学の大半はこの時、モリル法でできたA&Mが昇格して大学になる、という経路をたどったものでございます。
  日本は、面白いことに、1877年、明治10年に東京大学と工部大学校という二つの高等教育機関を作ります。これは言うまでもなく、ヨーロッパやアメリカの真似をして、東京大学が、言ってみれば学問の府であり、工部大学校は技術の学校であるという二本立てをとったわけであります。
  非常に面白いのは、例えばイギリスですと、今では工科大学もかなりできているんですが、本当の意味でのエリートは今でも決して工科大学には行かない。それこそオックスフォード、ケンブリッジのような伝統的で最もエリート中のエリートが行く大学には工学部というのがなかなかできません。つまり、技術というのは伝統的な歴史を持つ大学が引き受けるべき相手ではないというのが基本的な理解なんですね。
  それに対して日本の場合は、工部大学校に応募して、卒業した初期の卒業生は、きら星のごとく、非常に多くの優秀で、日本を引っ張っていくような人材が生まれているわけです。最もボピュラーな例でいえば高峰譲吉がそうですし、下瀬火薬を作った下瀬雅允がそうですし、辰野金吾がそうです。このように極めて多くの、しかもエリートが工部大学校へ出願し、通っていたんです。
  ですから、日本の場合、エンジニアと言いますか、技術というものが、ヨーロッパのように、いわゆる知的エリートが見向きもしないという世界では全くなかった。近代化の出発点からそうだったということができます。
  ご承知の通り、現在でも大学で工学部というのは最も重要ですが、ポピュレーションから言えば、社会科学系全部合わせる方が多いわけです。経済学部、法学部、商学部、経営学部といった学部に所属している学生さんたちが大ざっぱに言って80万人ぐらい、工学部に属している学生さんたちがその半分の40万人、あとは、せいぜい4万や5万人という学生数であります。
  ですから、今でも日本の工学教育というのは極めて重要な役割を高等教育の中で果たしているということになりますし、もう一つ申し上げておけば、この工部大学校1886年までですから10年の命しかありませんでした。そして、この工部大学校は明治19年、大学令が改定されるのと軌を一にして、当時は工学部と言いませんでしたけれども、東京大学の工学部になります。
  1886年に、世界を見渡してみると、ユニバーシティーと名乗っているところで、エンジニアリングを自分達の平等な仲間として認めているのは東京大学だけであります。それぐらい日本社会は、エンジニアリングに対して重要視してきた。これは明治の近代化の出発点からそうだったと申し上げていいと思います。
  ただ、ここで申し上げたかったことは、親方徒弟制度の中で縦に伝承されている形態と、学校ができて、ある程度の資格さえあれば、誰でもが学べるということとは全く違う状況だということに気がついていただければということです。
  つまり、学校という制度において技術が伝えられることが初めて本格的に可能になったのは、この19世紀だったということであります。
(図2)
  ただ、この時期と殆ど並行して、産業革命が進行中でありました。イギリスの産業革命は18世紀の中頃と言うとちょっといい過ぎかもしれませんが、後半から次第にはっきりして参ります。その他のヨーロッパ諸国でも19世紀に入ると軽工業から鉄鋼産業に至る第一次産業革命、第二次産業革命が進行しますが、そういういわゆる産業革命を担ったアントルプルヌールと呼ばれている人たち、現代の基幹産業の基の形を作った人達を挙げてみますと、アメリカのカーネギー、エジソン、イギリスのウィットワース、ドイツ語圏のボルジッヒ。彼が死んだ54年にはドイツという統一国家はまだありませんでしたので、ドイツ語圏という言葉を使います。ドイツ語圏のボルジッヒは余りご存じでない方が多いかもしれませんが、当時最も優れた蒸気機関を造る会社を立ち上げたアントルプルヌールです。
  田中久重はご承知の「からくり儀右衛門」でありますが、芝浦製作所、その前身の田中製作所を作りました。今の東芝の半分の前身です。東芝は二つの出発点を持っております。東京電灯とこの田中製作所です。そんなことを言えばエジソンも、GEを作ったと言っても半分でありますが、とにかく豊田佐吉はもちろんのこと、こういう人達は社会が用意し始めた技術学校の卒業生ではないわけです。この点ははっきりしています。
(図3)
  それならこの人達は、親方徒弟制度の職人の社会から生まれてきた人達かというとそれでもないわけです。だから、アントルプルヌールというフランス語で呼ぶ他はない。アントルプルヌールというフランス語の意味は、「危険をものともせずに、あえてチャレンジするような人達」であります。現在では起業家、業を起こすと訳されていますけれども、まさにこの人達は学校で学んだ者ではない、それから親方徒弟制度の中で学んだ者でもない。文字通り、いわばでっち小僧だったわけです。カーネギーもそうですし、エジソンもそうです。ウィットワースは精密機械ですけれども、今でもウィットワースのねじが、それこそねじのデファクト・スタンダードになっているぐらいです。
  そういう人達は、全て、叩き上げのでっち小僧から徒手空拳、自分の腕だけでのし上がっていった。もちろん運はついて回った。それだけの運に恵まれなかった人達は消えていったわけでしょう。とにかくのし上がった人達であります。
  日本で、もう少し時代が下がると、例えば戦後でも本田宗一郎さんなどは、浜松工専に通ったということになっているわけですが、私は、ご本人と晩年の20年ほど割合親しくさせていただいておりまして、笑ってよく「いや、あれはもぐりで、聞きたい講義を聞いていただけです」とおっしゃっていました。とにかく本田さんは、いわゆる学歴としては高等小学校だけです。あとは文字通りでっち小僧から叩き上げてあれだけの会社を作られたわけです。本田さんの場合は、起業としては戦後になるわけです。
(図4)
  つまり、19世紀というのは、そういうことが可能であった時代。学校出の技術者でもなく、親方徒弟制度の中で生まれた職人でもない人達が、文字通り社会を担うことができる時代だったということになります。
  その後やがて、日本の場合に特徴的であるように、大学出の工学士、工学博士達が社会の中で活躍するようになります。
 
 
4.技術者・職人は同業者組合を造ったが、クライアントが常に社会にあった
 
  こういうところで生まれてきた技術者たちは組織化を試みます。工学者の学会というのが19世紀後半にはたくさんできます。土木学会、電気工学会、化学会、薬学会、様々ものがアメリカやヨーロッパ、日本にもできます。日本の土木学会は、私は11年生まれで今71歳ですから、ほぼ70年ぐらい前に行動規範を発表しております。これは日本の技術者の学会が発表した行動規範としては恐らくかなり早いものに属すると思います。
(図5)
  つまり、技術というのは、当然のことながら、そういうことに関心を持たざるを得ないわけですね。何故なら、技術や工学の世界は、当然のことながら、今申しましたように、職能者の専門団体を作りますが、その専門団体の中だけで自分達の仕事が完結するわけではなかったわけです。と言うのは、建築の世界で一番わかりやすい施主、仏教の言葉がそっくり使われるようですけれども、お金を出して自分の技術を買ってくれる人が、必ず一般の社会の中に存在している。施主という言葉はちょっと特殊ですから、クライアントという言葉で呼ばせていただきますと、クライアントが必ず外部社会に存在するのが技術や工学の特徴だということになります。
  そうしますと、私はそれをエクスターナル・エシックスという言葉で呼びますけれども、外的倫理とでも言いますか、つまり、お金を払って自分の技術を買ってくれたクライアントに対する責務が、まず責任として生じます。もちろん、その前に技術者として、同業者として守らなければならない倫理綱領のようなものがあるでしょう。それは職能団体の中で定められることであります。私はそれを内部倫理とかインターナル・エシックスという言葉で呼びます。それに対して、自分達の外の人達に対する責務として、まずクライアントに対する責務が問われるということになります。
  と同時に、一般の社会に対する責務、公共の福祉増進の責任というのがある。ですから、二重に外部に対して責任を負わなければならないのが技術者であると申し上げていいと思います。
  これは時に対立します。例えば、姉歯建築士が強度計算をした。クライアントはできるだけ安くしてくれと言う。そのクライアントの要求に応えるためには、適当に鉄筋を割り引くということもしたわけです。しかし、それは社会全体の公共の福祉に対しては、背く形になっていた。その意味で、技術者の場合、外部倫理、エクスターナル・エシックスとして、二重の責務を負っている。これは当たり前のようですけれども、確認しておいてよいことではないかと思います。
(図6)
  一方、科学者はどうだったか。私は、科学者というのは極めて遅く誕生したということを主張している人間です。私の仲間の中でも、必ずしも同調してくれない人達も多いのですが、私は、科学者は19世紀の半ば近くになってから社会の中に誕生したと考えております。そうすると、直ちに反論があって、それなら、ニュートンはどうしてくれるんだとおっしゃるに違いない。ニュートンが死んだのは1727年ですから、18世紀に食い込んでいましたけれども、彼は当時としてはかなり長生きをした人ですから、活躍をしたのは17世紀後半であります。
  17世紀後半に、私は、ヨーロッパに科学者という概念は存在していなかったと明確に断言することができると思っています。
  それは言葉の問題からも言うことができます。英語の「サイエンティスト」という言葉が初めて作られたのは1840年。これは造語された言葉です、ウィリアム・ヒューウェルというイギリス人が初めて作って使い始めた言葉でありまして、ニュートンが生きていた時には、このサイエンティストという言葉はイギリス語の中に影も形もありませんでした。
  ついでに申し上げますと、「フィジシスト」という物理学者という言葉も、同じ年にヒューウェルが作った言葉です。ですから、ニュートンの生きていた時には、やはり物理学者という言葉も影も形も存在しませんでした。
  だから、私は、ニュートンを物理学者と呼んだり、科学者と呼んだりするのは時代錯誤だと明言してよいと考えています。当時、彼は何と呼ばれていたかと言うと、言うまでもないことで、「フィロソファー、哲学者」と呼ばれていたわけです。もちろん、ここで言う哲学者の哲学というのは、今の何とか大学文学部哲学科で行われているような営みだけではなかった。ニュートンは、聖書神学もやっていましたし、錬金術もやっていましたし、後半生は大学をやめて造幣局、大蔵省に勤めましたので、現在で言えば経済学もやっていました。当時は経済学という言葉ももちろんありません。
  そういうものが全部哲学という名前で、非常に大きな雨傘をかけられて使われていた。個別の科学、物理学もなければ、地質学もなければ、経済学もなければ、心理学もない。生物学もない。そういう状況の中にあったということを、是非、ご理解いただきたいと思います。
  ドイツ語の「ナトゥーアフォルシャー」という言葉がその頃できているんですが、今はこのナトゥーアフォルシャーという言葉はドイツ語では使いません。科学者は「ナトゥーアヴィッセンシャフトラー」という長い単語を使います。
  つまり、1840年前後にヨーロッパのそれぞれの言葉で、科学者という言葉に相当する言葉が次々に作られたということを、是非、理解していただきたいと思います。
  トーマス・ハックスレーという有名なイギリスの知識人がおります。ハックスレーは、チャールズ・ダーウィンの代わりだった人です。ダーウィンが精神障害を持っていたものですから、なかなか人前に出ることができない。そのかわりにダーウィンの進化学説を世に広めた人であって、我々から見ると、彼は医師でもあって、生物学者と呼んでよい人なんですが、彼は自分が科学者と呼ばれた時に断固拒否していました。「私は科学者ではない。サイエンティストではない。サイエンティストと呼ばれることを拒否します」。サイエンティストという言葉が大嫌いだったんですね。
  サイエンティストという言葉をヒューウェルが初めて作り出して、少しずつ世の中に広まり始めた60年代ぐらいに、ハックスレーが、この言葉を最初に聞いて、何と言ったか。「何と醜い言葉だ)」。随分酷いことを言ったんですよ。「こんな酷い言葉を作ったのは、イギリス人ではないに違いない。きっと無知蒙昧なアメリカ人だったら、こんな言葉を作っても許してやれるけれども」と毒づいたという逸話が残されています。
  つまり、ハックスレーの頭の中に、サイエンティストという言葉の造語は、英語のルールに完全に違反しているという印象を与えたわけです。何故そうかと言うと、もちろんサイエンティストの語尾の「ist」というのは、人を表す言葉ですが、人を表す言葉にも、皆様ご承知のように、英語では幾つかあります。「er」、「or」は、ヨーロッパ語、どこでも大抵共通ですけれども、一番ニュートラルな、中立的な表現ですね。
  それに対して、「ist」と「ian」という語尾がございます。これは明確に意味が違うわけです。皆様方ご存じのistがつく言葉とianがつく言葉を頭の中で比較してごらんになるとすぐおわかりになります。例えば、ミュージシャンは、ミュージシストとは言えない。ピアニストは、ピアニアンとは言えない。デンティストは、デンシアンとは言えない。何故かと言うと、istの前につく概念は、ある非常に狭い専門的な領域を指すわけです。ですから、フルートを吹く人はフルーティストであって、ピアノを弾く人はピアニストであって、三味線を弾く人は多分シャミセニストとでも言うんでしょうね。
  それに対して、ianの前につくのは、デンティストは歯医者さんですから、歯だけをやる人で、これをデンシアンとは言えない。ianの前につくのは、非常に大きな広い概念、ミュージックは何でも入りますから、ミュージシストとは決して言えない。ミュージシャンとしか言いえない。
  それでいくと、「スキエンティア」はサイエンスの語源になったラテン語ですが、知識という意味です。知識というのは何でも入りますから、極めて大きなものです。何でも全部含まれるわけです。知識であれば何でもいい。だとすると、そのスキエンティア、知識という本来持っている語源的な意味に、istをつけるとは何事か。「英語のルールを知らないアメリカ人ならしようがないけど、こんな言葉を作って・・・」とハックスレーが毒づいたのはそういう意味です。
  そうすると、ハックスレーの頭の中では、サイエンスという英語、もとになったスキエンティアというラテン語、どちらもまだ知識という意味しか持っていないわけです。でも、ヒューウェルは、もちろん無知蒙昧なアメリカ人ではなくて、極めて優れた知識人としてのイギリス人でした。そんなこと百も承知なんです。そのヒューウェルが、サイエンティストという言葉を作れたということは、言うまでもなく、ヒューウェルの頭の中では、サイエンスという言葉はもはや知識という、あらゆるものを包含するような非常に大きなものではなくて、その中の極狭い領域としての自然科学というものを指している。知識全部を扱う人はフィロソファーなわけです。フィロソピアというのは知を愛するという意味ですから、フィロソファーでいいわけです。そうではなくて、知識の中でも極狭い、今生まれつつある自然科学と呼ぶべき領域、そこだけをやる人がサイエンティストだということです。
  つまり、19世紀の半ばぐらいにイギリスの社会の中に、サイエンスという概念をそういうふうに受け取れる状況にあったということです。つまり、今、サイエンスという言葉は英語で「自然科学」という代わりにも使えますが、自然科学という領域を指すためだけにサイエンスが使えると思い始めた人がヒューウェルであり、まだそう思えない人がハックスレーだった。ハックスレーの方が年若なんですけれども・・・。つまり、サイエンスという言葉について今私たちが自然科学を指して使うような習慣が、ちょうど19世紀の中頃にようやく生まれ始めていたということをこのエピソードは語っていてくれているわけです。

 
 
5.科学が制度化されたのは一九世紀、大学の理学部の創始は1875年
 
  もう一つ申し上げておけば、ヨーロッパの大学に理学部と言うべき学部が生まれてくる最初が1875年です。全ての大学ではもちろんありません。極僅かの大学に理学部に相当する、つまり自然科学を専門的に教えたり研究したり学んだりすることができるインスティチューション、そういう組織が生まれたのが1875年のことです。19世紀も深く入って後半の半ばぐらいになってからであります。
  ですから、科学者という社会的ステイタスはそんなに長い伝統を持っているわけではないのです。

6.科学者も同業者組合(科学者共同体)を造ったが、クライアントは社会にはなかった

(図7)
  そこで、科学者って何だ。私は一つの定義として「論文を書く人」という定義ができると思っています。これは別に冗談ではないんです。と申しますのも、先程少し触れましたチャールズ・ダーウィンですが、皆様ご承知の『種の起源(Origin of Species)』を発表したのは1859年のことであります。翻訳は何種類もありますから、手にとってお読みになったと思うんですが、あれは書物であります。
  つまり、ダーウィンが生物学的な学問の成果を発表した時、それは不特定多数の読者を相手にした書物という形態をとっていたわけであります。
  今を時めく『ネイチャー』という論文誌は1870年代に生まれますけれども、これを作るリーダーシップをとった人の一人がダーウィンです。つまり、ちょうどダーウィンの頃、自分の科学的な研究成果を発表するのはまだ書物だったんですね。実際、「種の起源」は、10万部以上の売れ行きを示したことになります。2005年には、「世界物理年」と言って、「運動体の電気力学」という論文が書かれたことの一〇〇年祭を祝いました。アインシュタインが、『アナーレン・ディア・フィジック』というドイツ語の論文誌に「運動体の電気力学について」というドイツ語の論文を発表したのが1905年。これが特殊相対性理論の第一報であります。ここでは、文字通り論文として彼の研究成果が発表されているわけです。
  ここにある19世紀後半の半世紀、ほぼ50年という間に、事態が非常に大きく変わったということがおわかりいただければ幸いです。つまり、19世紀半ば過ぎには、科学者と呼ばれる人たちがポツポツ出てきて、そういう人たちが自分の研究成果を発表しようとする時、まだ専門的な学術論文誌、アカデミック・ジャーナルは存在していなかったと申し上げていいと思います。
  それが20世紀に入ると、『アナーレン・ディア・フィジック』をその一つにしまして、非常に多くの学術ジャーナルが生まれて、科学者はそこに論文を投稿し、発表するようになっていきます。

7.科学という営みは科学者共同体の内部で自己完結していた

(図8)
  科学者も、先程の技術者と同じように組織化いたします。科学者共同体とよく呼ばれますが、科学者共同体、英語では「サイエンティフィック・コミュニティ」であります。このサイエンティフィック・コミュニティの特徴は、先程の技術者の同業者組合と比較してみると、非常に明確に差が見えます。その差は、このスライドの最後に書いてありますが、科学者共同体の内部で科学者の仕事というのは自己完結している。つまり、外部にクライアントがいないと言ってしまっていい状況であったわけです。
  それはどういうことかと申しますと、科学者は知識をプロダクション、生産します。それをアキュミュレーション、つまり蓄積いたします。ディストリビューション、流通させます。コンサンプション、消費したり、エクスプロイテーション、利用、活用したりします。評価やご褒美、リウォードもあります。さて、こういったことがすべて科学者共同体の内部で起こるのが科学の特徴なのです。つまり、研究をすると、新しい知識が生産される。その知識はどこに蓄積されるかと言うと、今申し上げましたように、学術ジャーナルの中に論文という形で蓄積される。蓄積された知識は誰に流通するか。その論文誌は、基本的には、大抵の場合、学会が経営していますから、学会の会員だけに配られます。先程の『ネイチャー』とはちょっと特殊なんです。基本的にはアカデミック・ジャーナルというのは、一般の人々が書店で買えるものではないのが通常の形です。
  そういうふうにしてディストリビューション、流通も科学者共同体の内部でのみ進みます。そういう流通している知識を使って、さらに新たな研究に挑む。だから、それを使ってくれる人、活用してくれる人、それらは全部基本的に自分たちの仲間です。
(図8)
  つまり、科学者共同体の一員です。外にはいません。リウォード、ご褒美もそうです。リウォードは、1901年からノーベル賞が稼働し始める。それまでの19世紀後半も、20世紀に入って現在でも、科学者にとってのご褒美は何か。もちろん、ノーベル賞は今や最高のご褒美になったことは間違いないのですけれども、ノーベル賞のように、華やかな国際的な舞台に引きずり出されることを好まない科学者も今でもいるわけです。
  そういう科学者にとって一番ありがたいご褒美は「エポニム」なんですね。エポニムという英語は、余りポピュラーな単語ではございませんけれども、要するに、一番わかりやすい例で言えば、「間宮海峡」などですね。本来は、土地や場所、建物などに、それについてのゆかりの人の名前をつけて呼ぶことです。間宮林蔵がカラフトとロシアの東岸との間が陸続きであるか、海が隔てているのかということをついに突きとめた。その事実は、有名な間宮林蔵が告発をしたシーボルトによってヨーロッパに伝えられて、間宮林蔵の名前がヨーロッパに広がっていくことになります。そういう名前のつけ方、土地や場所、建物などにゆかりの人の名前をつけて呼ぶこと、それがエポニムです。
  科学の世界では、例えば、19世紀後半であれば、マックスウェルの電磁方程式があります。私どもは電磁方程式と言えば、殆ど紛れなく「マックスウェルの」電磁方程式を思い浮かべるのですが、わざわざ常に「マックスウェルの」という名前を冠して呼びます。
  或いは量子力学になれば、「ハイゼンベルクの」不確定性関係とか、「ボーアの」相補正原理というふうに呼びます。「不確定性関係」と言えば、量子力学のコンテクストの中で使えば、誰でも紛れなく理解できるわけですが、常に「ハイゼンベルクの」という名前をつけるわけです。
  プランクの逸話というのは私の好きな逸話の一つなんですけれども、今の量子力学の中に、一番大事な概念の一つとして、量子力学の定数、コンスタントがあります。これを私どもはプランク定数(じょうすう)もしくはプランク定数(ていすう)と呼んでいるわけですけれども、マックス・プランクは生涯自分の定式化したこの定数をプランク定数(ていすう)、プランク定数(じょうすう)とは呼ばなかったんですね。
  理由ははっきりしているわけです。このエポニムで呼ぶということは、感謝と褒め讃える、称賛の意味が込められている。こういう大事なことを見つけてきたプランクさん、ありがとう、素晴しいですねという意味が込められて、プランク定数と他の人が呼ぶ。ですから、プランク自身が自分で自分のことをそう呼ぶわけにはいかなかったというプランクの人柄が忍ばれるエピソードであります。
  つまり、それがご褒美なんですね。一番のご褒美だと思います。これもいわば内輪の話です。つまり、科学者共同体の内部の話です。
  そうすると、行動規範は完全に内的な構造、インターナルな構造になります。科学者としての自分自身と同じ仲間、同じ共同体に属する仲間、同僚に対する責任を果たせばそれでよいというのが科学者の行動規範になります。ここが、技術者、工学者と根本的に違うところであります。
(図9)
  最近は不正の問題がよく取りざたされるんですけれども、不正に関しては、これをチェックする機構は、追試という制度です。追試というのは、自分達の仲間がやってくれることです。こういうことがわかった。こういう手続でこういうことをやってみたら、こういう新しいことがわかった。それなら、その手続に従って、他の人がやってみた。同じようにできた。これもやっぱり仲間うちでチェック機構が働いていると申し上げられます。実際には、この制度は本当の意味でうまく発揮できるかどうか、今問われています。そこに立ち入りますと、それだけでまた時間をとりますので、そこに立ち入ることはいたしません。

8.二〇世紀半ば近く、大きな変化が起こった(産業、行政が科学のクライアントに)

(図10)
  アメリカの社会学者として有名なロバート・マートンという人がおります。そのロバート・マートンが、「CUDOS」と通常呼ばれている四つの概念を提案しました。1949年のことです。マートンは、科学者共同体の「エトス」という言葉を使います。エトスというのはギリシャ語で、あるグループの中に共有されている行動の習慣のようなものを指します。
  マートンのCUDOSというのは、科学者共同体に共有されている、いわば科学者であったら、こういうふうに考えて行動する、という共通する心理的習慣のようなものであります。
  「C」は「コミュナリティー」、私どもはそれを公有性と翻訳します。先程も出てきましたように、マックスウェルが電磁方程式を発見しました。マックスウェルのというふうにエポニムで呼びますが、マックスウェルの電磁方程式は、電磁研究に携わる人間は誰でも使っていいわけです。
  マックスウェルのものだから、マックスウェルにお金を払わなければ駄目なんていう、現在のIPR(インテレクチュアル・プロパティ・ライト)、知的財産権みたいなことはこの段階では一切言わない。新しく発見した知識は、もちろん素人は使えませんが、その研究者仲間であれば誰でも使っていいですよ、それがコミュナリティーですね。公有性、公に所有されているという言葉であります。
  「U」は「ユニバーサリティー」。問題ないと思います。普遍性ということです。
  その次の三番目、「D」は「ディスインタレステッドネス」。インタレストというのは関心、興味という意味もありますが、この場合はむしろ利子とか利益という意味です。ディスがついていますから、利益を要求しない。日本語に訳す時は「無私性」と訳す人もいます。無理な訳かもしれませんけれども、意味はわかりますね。私のないこと、無私であること。つまり、科学をやるということは、別段、自分の利益とか自分の名誉とか名声といったことのためにやるのではない。
  ここの最後に書いてある「キュリシティー・ドリヴン」という言葉がそうなんですが、好奇心に駆動されて研究を行う、これがわからなければ死んでも死に切れないからやるという。それが科学者の本質だ。だから、それはディスインタレステッドネスだ。
  最後の「OS」というのは、「オーガナイズド・スケプティシズム」。つまり、きちんとシステム化された懐疑主義とでも訳せばいいのでしょうか。とにかくこれが科学者を動かしているエトスだと、マートンが1949年に発表した時は、まさにそうだったに違いありません。
  1950年というのは、科学者が生まれて百年ぐらい経っていたわけですが、そういう科学者たちを動かしているエトスはこういうものであるというのが、マートンという社会学者が観察した成果だったということになります。
  もう皆さん気がついていらっしゃると思うんですが、今、これはなかなかそうでないわけです。

9.その結果科学研究に二つのモード、タイプが出現した

(図13)
  それでは、科学者共同体は、外部社会とはどういう形でつながりがあったのか。研究費の援助があります。20世紀に入ると、政府や特別の財団、例えばロックフェラー財団或いはグッゲンハイム財団というアメリカの財団が有名ですけれども、そういう財団が科学研究にもお金を出すようになって参ります。何故出したんだろうかということを考えてみますと、それを支える原理は、芸術活動などへの支援と同じなんですね。
  つまり、それは「フィランスロピー」だということになります。フィランスロピーという言葉は、今は、皆様方の中にも携わっていらっしゃる方があるかもしれませんが、企業が自分の利益追求の企業活動によって得た利益を社会に還元するための活動のことをいうことになっています。けれども、もともとこの言葉の成り立ちは、「フィル」はフィロソフィーのフィルであり、フィルハーモニーのフィルであり、「愛する」というギリシャ語です。「アンスロピー」は、言うまでもなく、ギリシャ語で「人間」であります。アンスロポロジーというと人類学になります。ピテカントロプスというと、ピテクスが猿で、アントロポスが人間ですから、ピテカントロプスで猿的人間ということで猿人ということになるわけです。
  ですから、フィランスロピーというのは本来人間を愛することなんです。どういう意味かと言うと、芸術活動もそうでしょう。オペラをやらなければ死んでも死に切れないという人が人間の中にはいるわけです。オペラなんて別段どうってことないと言う人もいる代わりに。或いは芝居をやらなければ死んでも死に切れないという人もいるわけです。そういう人と同じように、この自然についての知識をわからなければ死んでも死に切れないという人達も、人間の中には確かにいるわけです。
  そういう人間を愛する行為。人間というのはいろんなことに関心があって、いろんなことに興味を持って、いろんな活動をする。それなら、そういうものを大事にする、大切にしてあげよう、だから、お金が要れば少し差し上げましょうというのが、フィランスロピーという言葉の本来の意味です。
  ですから、芸術活動、オペラに国が支援をする、財団が支援をすると同じ意味で、科学研究にも財団や政府が少しお金を出して、「どうぞやって下さい」というわけです。ですから、こういう場合には受け取る側はテーク・アンド・テークでいいわけです。出す側はギヴ・アンド・ギヴでいいわけです。何も見返りは出す側は期待していない。受け取る側は、そのお金を使って誠実に自分の研究活動を実行すれば、それで責任を果たしたことになる。それが科学者の外部社会との唯一のつながりであったわけです。
(図12)
  科学者の行動規範の典型として、アメリカのNAS(ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンシズ)、全米科学者協会がパンフレットを89年と95年に出しました。これは年代を理解していただきたいんですが、1989年、今から二十年前です。つまり、現代と申し上げて差し支えのない時期です。初版が出まして、95年に改訂版が出た。タイトルは、『On Being a Scientist(科学者であるということについて)』というのが直訳です。池内了さんという物理学をやっていらっしゃる方が『科学者を目指す君たちへ』というタイトルで日本語で翻訳されています。化学同人という本屋さんから日本語の翻訳も出ております。
  実は、これは二十二ページぐらいのパンフレットなんです。このうちの二十ページは基本的に、先程から申し上げている内的な倫理規範だけです。1990年代になっても、科学者の倫理綱領というのは、基本的には内部綱領だけです。
  つまり、例えば研究をやっている時に、他人の研究はどんなふうに評価したらいいかとか、不正を働きたくなった時はどうすればいいかとか、いろいろあるわけです。何人もで研究をやっている時に、誰がその研究の責任をとるか。責任をとるというのはどういう意味か。ノーベル賞をもらう時は誰がもらえるのか。誰はもらえないのか。そういうことはびっしり書いてありますが、外部社会に対する責任というのは、最後の一ページだけ。何と書いてあるか。「どれほど純粋な科学研究をやっている科学者でも、自分のやっている研究の成果が、時に、社会に対して大きなインパクトを与えることがあるかもしれないということに、目覚めていてほしい、気をつけてほしい、忘れないでほしい」。その一文だけです。
  実例が二つ書いてある。一つは、核兵器です。もう一つは、DNAの組み換えです。つまり、DNA研究をやっていることが、組み換えDNAになって、例えば、GMO、遺伝子組み換え作物などで社会的に大きなインパクトを与える。また、核兵器、原子核研究をやっている人たちの研究成果が、大量殺戮兵器を作るために使われる。社会的に大きなインパクトを与える。こういう例があるから、ビー・アウエア、忘れないでほしい。そういうインパクトがあるかもしれない可能性があることを忘れないでほしい。それ以上のことはここでは論じないと書いてあるわけです。
  95年ですと、十年前ですが、アメリカで出されたこういうパンフレットの中では、若い科学者に科学者としてあるべき姿はどういう姿かということを求めている時に、殆ど全てが内的倫理、インターナル・エシックスである。

10.新しいタイプの科学は、行政や産業を通じて社会と直結する

(図12)
  ただ、20世紀に入って、後半ですけれども、科学の変質が起こったことは無視できません。一番最初の例は、皆様ご承知のカロザースです。カロザースは、もともと博士号を持ち、ハーバード大学で化学を教えたこともある完全なサイエンティストであり、ケミストです。科学者であり、化学者です。そのカロザースがある時、デュポン社に雇われます。つまり、企業に雇われるわけです。そして、デュポン社のミッション、つまり、絹よりも強く、絹よりも安く、絹よりも光沢がある、そういう人工繊維を開発せよというミッションを与えられて、自分の持っている知識を使って見事に作り上げたのがナイロンです。35年のことです。
  35年というのは、33年にヨーロッパでは、ドイツでナチスが政権をとっていますから、第二次世界大戦の足音が聞こえ始めている時期ですね。そして、それから五年後、40年には核兵器の開発が始まります。
  つまり、科学研究の成果を自分達の目的のために使う。金を出すか出さないか、カロザースはナイロンを発明したおかげで白紙小切手帳をもらったそうです。小切手に幾ら書いても、デュポン社が裏書きして払ってくれる小切手帳ですけれども、彼は37年に自殺をしてしまいます。この小切手帳はほとんど使われませんでしたので、デュポン社は丸々儲けをしたということになります。
  今、中村修二さんが青色ダイオードを発明したので報酬をよこせと、何億というお金を要求したり、或いは最近、東芝で森さんのチームにいた方でしょうか、日本語ワープロの開発に携わったけれども、自分は殆ど報われていないと言って、金額を要求した方が出てきたりしますが、デュポン社にしてみれば、給料を払っているんだから当然だということになったのかもしれません。
  マンハッタン計画の場合は、これは非常時ですから、ロスアラモスの研究所に全米から科学者、物理学者を集めてきて、そして彼らの知識と頭脳、それに技術を徴用して、三年間の間に、見事にという言葉は我々は使いたくないけれども、原子爆弾を開発したわけです。つまり、第二次世界大戦において、クライアントが科学の研究に出現したわけです。
(図13)
  そこで、先程のマートンのCUDOSに向こうを張って、イギリスのザイマンという私どもの仲間で、もともと物理学者として非常に優れた仕事もした人がいるのですが、最近はこういう分野に関心を持って、1999年だったか、『プロメテウス・バウンド(縛られたプロメテウス)』という本を書きまし。これは私が翻訳したんですけれども、その中で、マートンのCUDOSはもはや現代には通用しませんよということで、「PLACE」という新たな五項目を発表しました。
  「P」は「プロプライエタリー」、所有的な。全て形容詞です。つまり、マートンのC、コミュナリティーに向こうを張って、プロプライエタリー。もはや科学的知識は、IPRなんかで要求されているように公有的ではない。誰それさんが見つけてくれたものに対しては、誰それさんにそれなりの報酬を払わなければならないのではないか。知財権なんていうのがまさにそうです。
  「L」は「ローカル」。普遍的でない。今ここで通用する知識であれば、それでいいではないか。何も普遍的にどこででも通用する知識を探さなくてもいいよ。この開発にうまく適するような知識をここで開発すればよろしい。それがローカルです。
  「A」、「オーソリテリアン」。これは権威主義的なという意味です。
  四番目の「C」が、私は一番大事だと思っています。「コミッションド」という、過去分詞形を使っているわけですが、コミッションという動詞は、「委託する」という意味です。権利や仕事を誰かに委託する。つまり、それが受け身ですから、「委託された」というわけです。科学者の立場からすれば、仕事を委託される立場になる。つまり、先程のカロザースではありませんけれども、デュポン社から人工繊維の開発を委託された。された科学者はそれに基づいて仕事をする。別段、自分がこれがわからなければ死んでも死に切れないからやるのではなくて、たまたま委託されたからやる。委託するにはもちろんお金が出ます。研究費がせしめられるわけです。研究費をもらうために請け負うわけです。私は、このコミッションドという英語を日本語に訳すときは「請負」と訳しました。いわば科学者が仕事を請け負うわけですね。請け負ってやってみる。そういう状況です。
  「E」は「エキスパート」。これは専門的なということです。
  そこで、「ミッション・オリエンテッド」という言葉がよく使われる。使命達成型とでも言いましょうか。先程のマートンのCUDOSがキュリオシティー・ドリヴン、好奇心に駆動された科学であり、ここではクライアントはないわけですが、ザイマンの場合は、ミッション・オリエンテッド、使命に向かって研究が進められる。使命を請け負わせるクライアントがいるわけです。科学が新たな姿を帯び始めたということがわかっていただけるのではないかと思います。

11.科学者に、技術者と同じような社会的責任が生じる

(図14)
  科学はある意味で技術に近づいてきた。だから、こういう事態においては「科学技術」という言葉もまんざらおかしくないと私は思っています。
  そうしますと、当然のことながら、ここでようやく「社会」が出てくるんですが、科学研究もまた社会的な様々な課題、イシューと関わり合いを持つようになります。
  科学の研究の成果が産業や行政、国家を通じて社会の中に隅々まで取り込まれていく。産業も行政も国家も地方行政も、人々の生活を支配する非常に大きな権力機構ですから、従って、産業の中に科学の成果が取り込まれる。或いは行政の中に科学の成果が取り込まれれば、当然全ての生活者一人一人に、産業や行政を通じて科学の成果が影響を与えるようになる。つまり、社会における政治的なイシューに科学が密接に関わるようになりました。それが20世紀後半、80年代以降、特に目立つことになります。
  皆様ご承知の科学技術基本法は95年にできたわけですけれども、まさしく科学や技術が政治的、法的意味を持ち始めたということの表れであります。
  そして、そういう場合に意志決定には、当然のことながら研究に携わる専門家の判断が要求されることになります。例えば、BSE問題あるいはGMO問題、GMOというのは遺伝子組み換え作物のことです。その他もろもろ。日本の社会の中では古くは原子力発電という問題もその一つになると思います。
(図15)
  さて、それでは、専門家の判断で全てが決定されていっていいか、と申しますと、専門家の専門家たる所以は、ある特定の狭い領域に関して十分な知識を所有していることであります。そういう専門家が政治的、社会的イシューに関する判断に専門的に関わることが十分であるのかどうかという問題は、たちまち問題を引き起こすことがおわかりいただけると思います。
(図16)
  専門家はもともと外部の介入を非常に嫌います。「ボルティモア事件」というのは、詳しくお話ししていると非常に時間がかかりますけれども、アメリカでボルティモアという人を中心にしてある不正事件が起こります。ある下院議員が調査に乗り出した時に、ボルティモアは、政治が自分達の研究に口出しをし始めたと言って、これを「第二のガリレオ事件」という言葉で呼んで、全米の科学者に檄を飛ばしたので、全米の科学者がこの下院議員に抗議の葉書を書いたということが起こりました。
(図17)
  つまり、それほど専門家というのは、言ってみれば自分達の共同体を堅く守ろうとする意識を持っているということがおわかりいただけるのではないか。つまり、専門家の姿勢というのは非専門家の介入を許さない。研究は全て認めるべきである。また、当該領域に関しては、自分達を上回る判断者はいないと確信しているのが専門家であります。
(図18)
  しかし、第一に、自然現象でも環境問題のような大域的な領域、この大域というのは空間だけではなくて時間も含みます。非常に長い時間かかって、或いは非常に大きな地球全体を覆うような領域では、そういうものを因果的に完全に掌握できる科学は、今のところ私どもは持っていません。
  不確実性、例えば温暖化にしてもそうです。「サーモハライン」というのは、熱塩現象と呼ばれます。「サーモ」が熱で、「ハライン」が塩で、海水中の熱エネルギーと塩の作動、動き方がどういうふうに動くかによって、海水の温度が変わったり、それが気候に影響を与えたり、様々な地球規模での気候変動などにかかわり合いを持つだろうといわれている現象であります。そういうものは明確な因果性の中で全ての現象を把握することができないという問題点を含んでおります。
  さらに、ヒューマン・ファクターが多い領域があります。「機長、何をするんですか」というのは覚えていらっしゃる方が多いと思います。イージス艦が人間の目で視認している限りにおいてああいう事故を起こす。ヒューマン・ファクターの関与が大きい領域では、不確実性はさらに広がります。
(図19)
  そういう中で意志決定が、科学的合理性だけによって行われてよいのか。つまり、ここでいう科学的合理性には限界があるということが一つ。第二には、不確実なものを相手にしなければならないという限界と、専門家の限界です。専門家は専門の自分の門しかわからないということを考えた時に、そういう専門家の判断で意志決定が行われて、社会的、政治的イシューに関して十分であるかということに対しては、極めて大きな疑問が現在起こりつつあります。
  それに対してユネスコやEU、ヨーロッパ諸国から、非常に強い声が上がってきたのが、「プリコーショナリー・プリンシプル」という概念であります。このプリコーショナリー・プリンシプルというのは、予防原則と訳されている本もあるんですが、私はそれは誤訳だと思います。予防というのはプリヴェンション、或いはプロテクションであり、プリコーションではないと思います。私は、「転ばぬ先の杖原理」と訳すんですが、これは学問の世界では人気がなくて、こんな日常的な言葉は思わしくないと言うので、「事前警戒原則」という言葉が、最近、学問の世界では使われつつあります。要するに、プリコーションというのはあらかじめ注意をしておくことでありますから、文字通り転ばぬ先の杖なんであります。
  何故、この転ばぬ先の杖が大事になってくるのか。科学的合理性の中では不確実であるようなこと、例えば環境問題に対してどうすればいいかという時に、ある種の合理性をもって語られるのは、「ウェイト・アンド・シー・プリンシプル」と英語でよくいわれるものです。これは私は「様子を見よう原理」と訳します。もうちょっと様子を見てみよう。温暖化に対するアメリカ政府の姿勢も随分変わりましたけれども、かつてずっと長い間とってきたアメリカ中央政府の姿勢というのはまさにそうだった。科学的に完全に温暖化が立証されているわけではないではないか。
  今、近々温暖化防止のための手を打つことが、他に与える悪影響を考えると、もう少し様子を見ていてもいいのではないか。それがウェイト・アンド・シーであります。これも決して全面的に非難される原則ではないと思います。ある場合にはそれが合理的である場合は十分考えられます。
  ただ、プリコーショナリー・プリンシプルというのは、そういう時に使いましょうという原則です。万一恐れていることが起こったら、やっぱり今手を打っておくべきだったと後で後悔することがないようにしましょうよというのが、プリコーショナリー・プリンシプルであります。
  これはリオサミットから京都議定書を通じて、そして今日のヨーロッパ的な環境問題に対する基本的な原理になりつつあります。アメリカ政府はなかなか認めません。ここの中には中央行政府にいらっしゃる方もいるかもしれませんが、日本政府、霞が関の方々、例えば、経済産業省の課長さんの中には、「先生、それを原理と呼ぶのは勘弁して下さい」「何て呼ぶんなら許されるんですか」「アティテュード(姿勢)ぐらいなら、まあまあ我々も考慮しないわけではないけれども、原則、原理、プリンシプルといわれるのは困ります」と非常に強くおっしゃった方もいらっしゃいます。
  日本政府も、これを全面的に正面からは認めません。ただ、アメリカも例えば州政府では、例えば、カリフォルニアは、ご承知のように、そういう問題では非常に厳しい規制をとっている。例えばケミカルズに対するようなレギュレーション、規制では、かなりプリコーショナリー・プリンシプルをとっています。また、日本が日米交渉の中で、BSE問題に対してとった最初の姿勢は、明らかにプリコーショナリー・プリンシプルに基づいた姿勢をとっていたわけですね。万一、プリオンが入っていたら困るからという言い方で、全頭検査をするということを強く主張し続けたわけですから。
  これはヨーロッパが強く押し出して、ヨーロッパの北洋における協定や様々な国際協定の中には既に明言されています。我々はプリコーショナリー・プリンシプルに基づいてこういう行動をとるというアグリーメント(協定)やコンパクト(協約)が作られ、ここ十年ほどは特に目立ちます。それはある意味では、安全の問題のマネジメントではなくて、安心のマネジメントであります。
  皆様の世界である工学の世界では、例えばシックスナインズなんていう言葉がよく使われます。99.9999%安全である。それでも0.0001%はリスクがあるという時、或いは10のマイナス6乗とか7乗年に一回のリスクがあるという時、私達は人類の歴史よりも長い間に一回だけ起こるわけですから、そんなものに対して手だてを講じることはナンセンスだというのが基本的な姿勢だったとしたら、ウェイト・アンド・シーでいいではないかという合理的な判断もあり得るわけです。問題によって、ウェイト・アンド・シー原理であるか、プリコーショナリー原理であるか、どちらかをとることになる。原理が二つあるのは困るじゃないか。原理の言葉に反するではないかと言われれば、結局はアティテュードということになるのかもしれませんが。
  しかし、そうではなくて、0.0001%のリスクに対しても、講じておけるかどうかは別にして何とか講じておきましょう、というのは安心マネジメントですね。安全と安心とは全く違う側面を持ったものであります。
(図20)
  そして、このプリコーショナリー・プリンシプルというのも、結局は常識です。例えば私達は病気で癌かもしれないと言われる。どうしましょう。実際私もつい最近そういう経験をしました。癌かもしれない。でも、癌でないかもしれない。もう少し様子を見ましょうか。私はその時「いや、やっぱりとって下さい」と言ってとってもらいました。とってもらったために、勤めは休みませんでしたけれども、かなり痛い思いもしましたし、不便な思いもしました。けれども、とってもらって、マリグナント(悪性)である可能性はほとんどないという結果をいただきました。それで安心をしたわけであります。
  つまり、安心マネジメントなんですね。それは文字通り常識の世界である。科学的合理性をはみ出した合理性の世界であると言っていい。


12.科学・技術と社会(STS)というジャンルの必然性

 そして、現代、私たちの社会の中には、「PTA」と呼ばれる、或いは「CBPTA」と呼ばれる、「パーティシパートリー・テクノロジー・アセスメント」ということがあります。つまり、そこに関与するあらゆる人々が参加して、参画して、そしてテクノロジー・アセスメントをやっていく。アセスメントというのは評価と訳されていますが、私は「吟味」と訳したほうがいいと思っています。
  ある技術的、科学的なことが行われようとしている。例えば携帯電話でこういうものがある。或いはこの地域でこういうダムを造る。そういう様々な事柄に対して、政治的にイシューが生まれますと、そこに専門家だけでなくて、生活者が様々な形で、自分達の常識を持ち寄って参画していく。特に、最近では、アップストリーム・テクノロジー・アセスメントという言葉も聞かれるようになりました。アップストリームというのは上流。物事の上流ですね。
  今まで日本の社会でも、参加型というのはないわけではない。例えば原子力にしても、最近では円卓会議というものを開いて、多くの人々の意見を聞くようになっています。でも、これはもう原子力の場合は明らかに、アップストリームどころでない、河口も河口、海に出てしまってから、どう考えますかということをやっているわけですね。
  GMO、遺伝子組み換え作物に関しては、アップストリーム的ですね。例えば北海道で2002年にGMOの圃場を造る条例ができます。これは多くの反対者と賛成者とが、一つのプラットホームでお互いに自分達の考え方を持ち寄って、突き詰め合わせた結果、生まれた条例であります。GMOをどういうふうにするかということは文字通りどおり今アップストリームの状態ですね。
(図21)
  問題が発生しかけている時に、或いはこういう開発をしよう、こういうことをやろうという時に、時間はかかります、労力もかかりますが、そういうアップストリームから、関与者が参画していくと、専門家だけで決めていって、かなり河口に近くなってから、こういうことをやりたいんです、やりましょうといって示す時よりも、より好ましい結果を生み出すことができるのではないかという考え方が国際的に今広がりつつある。そこには専門家だけの知識やノウハウだけでなく、普通の人が持っている感覚や常識、時にローカル・ナレッジと呼ばれるようなものが必要とされています。
  例えば、これは皆さん方ご承知かもしれません。30年ぐらい前に小貝川という群馬県から流れて利根川の支流になっている川が氾濫したことがありました。あの時に流されて、被害を受けた家の九十何%は新住民と言われる人でした。つまり、宅地造成で新しく住みついた人達。土地の人は「あんなところへ家を建ててなあ」とひそかに言っていたという話を聞いた当時の国土庁の次官をやっておられた下河辺淳さんという方が、新しく宅地造成をする時にはボーリングや地質調査という科学的な調査はもちろん、その他に土地の古老に必ず意見を聞きなさいというマニュアルを国土庁でつけ加えた。そのマニュアルが今国土交通省の中に生きているかどうかわかりませんけれども、このことを私は下河辺さんから直接伺ったので、多分これはミスインフォメーションではないと思いますが、そういうことがあるわけです。
  特に、ローカルな話に関しては、その土地その土地に蓄積されてきた、科学的には必ずしも言葉になってないけれども、ローカルな知識というものがあって、これがなかなか侮りがたいということも含めて、このPTA、特にコミュニティ・ベースト・PTAと呼ばれるような動きの中で、私たちは物事を決めていく方が望ましいことが多いのではないかという問題意識が国際的に広がりつつある。
  それが恐らく科学、技術と社会との間をつなぐ。特にそういうつなぎの働きをする人達が、双方向的なコミュニケーションを公共空間の中で行う。先程の北海道の場合もそうなんですけれども、様々な試みが今行われつつあります。
(図22)
  インター・メディエーター、まさに専門家と非専門家の間の橋渡しをする役割が必要です。専門家へは一般の人たちが持っている常識と総合的な考え方を、非専門的な人たちには科学的な考え方を双方向的に橋渡しをする。今、「オルタナティブ・ディスピュート・レゾリューション」という概念、「ADR」という概念が、特アメリカから出発して今日本にも広がりつつあります。ADRというのは言うまでもなく、法律的な訴訟以外、それがオルタナティブです。別の形でいろいろな厄介な問題を解決していくことであります。「訴訟外問題解決」と日本語では訳されています。そういう場面では、専門家はなかなか非専門家に近づけない。非専門家もなかなか専門家に近づけない。その間のギャップが広がれば広がるほどこういう橋渡し役というものが必要になってきて、今まさに社会はこういう役割を果たしてくれる人たちを要求しているということにもなるのではないか。
  インター・メディエーターが科学技術の専門家と一般の社会とをつなぐ役割を果たしてくれるために重要な存在になっていくのではないかということが期待されているということ、これはあらゆる問題に適用できる一つの論点ではないかということを申し上げて、私のつたない話の締めくくりにさせていただきたいと思います。
  少し質疑の時間を残すようにというご指示でございましたので、少し時間を残して終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

フリーディスカッション

與謝野 村上先生、大変にありがとうございました。
  期待していた以上に深遠かつ非常に啓発される貴重なお話をいただきました。特に「科学」と「技術」の相異の歴史的な軌跡を踏まえての今の社会の課題、とりわけ「環境」をとらえる上での「専門家と非専門家とのコラボレーションの必要」の意義の重さ、さらにはその職能としての「インター・メディエーター」のご紹介等々、非常に啓発されるお考えを大変にわかりやすい解説とともにご披瀝いただき愁眉が開く思いでお聞きしておりました。ありがとうございました。
  それでは、せっかくの機会でございますから、会場からのご質問をお受けしたいと存じます。いかがでございましょうか。
佐瀬(東京ガス梶j 貴重なお話ありがとうございました。
  先生の今のお話は、科学者はもともとは好奇心ドリヴンであったものが、だんだんミッション・オリエンテッドになっていったというところであるかと思います。最後、科学者、専門家という方たちが、BSEにおきましても、原子力発電におきましても、産業界寄りと言うよりは、学識者としまして中立性が保たれている。ただ、今その中立性が委託研究のようなところで揺らいでいるところもあるかと思うんです。
  そこで、科学者の方々は、中立性を保ちつつ、やはり企業との産学連携ということも盛んになっております。今後どのようなアティテュードをとられていくのか、プリンシプルをとられていくのか、教えていただければと思います。よろしくお願いします。
村上 ありがとうございます。おっしゃるように、科学者、技術者、基本的には中立であるはずであります。私は、たまたまご紹介にありましたように、原子力の保安院に関わっておりますが、保安院では検査をいたしますが、最近は、その検査の基準の中に、学協会の基準というものをできる限り取り込んでいくというやり方をしている。つまり専門家の方々は、利害関係抜きに、決められたことが検査の基準になるべきであるという方針に向かって進められてまいっております。
  実際に、そういう意味では、専門家と呼ばれているものが常に、政治的イシュー、社会的イシューの意志決定の側にプラスに参加しているというわけではない。これはご指摘の通りであります。しかし、これまでの歴史を振り返ってみますと、これは別に日本社会の中だけではないのですが、例えば行政、これは別に悪い意図があってではなくて、社会をよくしようとする意図があっての話ですが、行政が、これこれしかじかのことをやりたい。その時に、それに完全に否定的な専門家を、当然コラボレートするわけではないわけです。そうすると、大抵の場合には、そういうことをやることにいわばサポートするような専門家に協力を依頼する。実際に専門家の方も、そこで協力をすれば、自分の研究も進むだろうし、仕事も広がるだろうという思惑もあって、協力をするという形になっていく。これはやむを得ない一種の社会力学の中でそうなっていくのも、ある意味でごく自然なことだと思いますけれども、という形になってきたために、生活者が専門家の意見に対して、それを全面的に信頼しないという状況が生まれてきてしまったということも事実なわけです。
  私が非常にショッキングだったのは、今度の柏崎の災害で、東京電力の1号機から7号機までが被害を受けました。あの時に原子力安全・保安院の専門家が出かけて行って、少なくとも放射能漏れとかそういう問題に関しては全く心配がないということをマスメディアにも知らせたし、新潟県当局にも知らせた。でも、殆ど誰も信頼してくれなかった。IAEAの連中がやってきて、ザッと見て回って、「何でもないよ」と言ったら、突然マスメディアの論調も変わりましたし、新潟県の体制も変わるわけです。
  ということは、それは日本の社会のメンタリティー、メディアのメンタリティーもあるんでしょうけれども、専門家と称する人たちが、一般的に言うと、必ずしも信頼されていない。どうせあの専門家は向こう側についているだろう。そういう思惑がかなり広がってしまっていることも事実なわけです。それは極めて残念なことですけれども、実際に水俣病の発掘の場合でも、チッソに対して全面的に肯定し続けた化学者も確かにいたわけですね。
  そういうことを考えてみると、専門家が常に中立であるかどうかということは、一般の社会から見ると、必ずしもそう判断されていないという状況の中で専門家は行動しなければならないという厄介な事態に私たちは置かれていると思います。
  そういう意味で、専門家は、私はやはり専門家としてだけの判断、専門家としての判断はこうだということは明確に言うべきだと思うんですね。かつての原子力の世界は、リスクという言葉も使えなかった。実際そうなんですよ。原子力の世界でリスクという言葉が使えるようになったのは本当にここ二十年ほどですよ。
  そういう状況ではなくて、リスクはこれだけある。或いは科学的に見た時に、これだけしか安全は保障できないということはきちんと言う。その上で、常識としてここはウェイト・アンド・シーでいっても大丈夫だと私は思うとか、やはりプリコーショナリー・プリンシプルでいった方がいいと思うということを言う。科学者として、専門家としてだけでなくて、その上に一人の人間、それだけの生涯を送ってきた成熟した人間としての判断をかけて、自分はここでは科学者としてではなくて、社会の一員としてこういうことを言いたい。そういう二段構えの姿勢で臨んでいただくことが、私は望ましいのではないか。自分も、自分にそういう場面が出てきた時にはできるだけそのように行動したいと思っております。
  お答えになったかどうかわかりませんけれども。
鈴木(日本総研) リスクマネジメントをやっている者としての立場から、一つ教えていただきたいんですが、科学技術者、科学者、技術者は何かを作り出します。これは知のものもそうですし、有形のものもそうです。新しく作るということは、これは仮説ですけれども、社会にとってはあるリスクを生み出してくる行為だろう。これを原則として考えると、それを提供するということは社会に対してリスクの原因者になっているはずです。一般的なリスクマネジメントでいくと、リスク原因者が、当事者能力がある限り、リスク負担者として、社会のある被害を最小化する。個人的リスクから社会のリスクまで範囲はありますけれども、それの役割を果たすことが、社会的な効率性だろうと考えます。
  ただ、時間遅れと言いましょうか、科学者、技術者が生み出したリスクが、リスク化する、顕在化するまでの時間があって、本当に当事者能力が残っているかどうかわからない。そういう立場の人たちが本当に社会にとってのリスク負担者になり得るかどうか。
  科学技術者、あるいは科学者、技術者が本当の意味で、その時社会のリスクを最小化するような役割を果たすべきなのかどうなのか、それはどう考えたらよろしいでしょうか。
村上 おっしゃることよくわかります。ありがとうございます。先程ご紹介いたしましたPTAというのは、実を言うとある意味では、リスク負担の責任分担を広げることなんですね。つまり、今まで専門家が決めていたことだったら、今おっしゃったように、専門家が全ての責任を負うべき話になる。でも、医療の世界でもインフォームドコンセントができ上がってみたら、「患者さん、あんたがこの選択でうんと言ってくれたでしょう。だから、それをやっただけですよ」と言われた時に、患者さんの方はもうそれ以上何も言えなくなるわけですね。実は言えるんですけれども、表向きそういうことになります。つまり、インフォームドコンセントというのは、ある意味では医療の責任を患者さんも分担することになるわけです。
  そういう意味で言えば、生活者が参加するということは、そこにそれだけの責任が生じる、自分もリスク負担をすることに同意をするということにつながること、これは一般の人たちにわかってもらわなければいけないんです。
  でも、それは何故そうしなければいけないかと言うと、今おっしゃったように、専門家は専門家の立場だけで考えていますから、あり得るべきリスクを全て、専門家が専門の立場から全部描き尽くすことができ、それに対して何か手を打つことができるかというと、実は、そうではないということなんですね。だから、専門家は専門家の立場だけから見ていますから、そうでないところから沸き上がってくるリスクに対して、専門家は必ずしも当事者能力を持たないわけです。
  そういう当事者能力を持たない人達に、おっしゃったようにリスク負担させることは、それだけでも間違っているではないかという考え方もPTAの中には含まれていると考えて下さればいかがでしょうか。
與謝野 村上先生、ありがとうございました。
  皆様におかれましては、非常に熱心にお聞きいただき、またご質問もしていただきましてありがとうございました。また、これに対して村上先生からは非常にわかりやすく、また熱っぽく誠意溢れるご説明をいただきまして大変にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。
  それでは結びにあたりまして、皆様から村上先生に大きな拍手をお贈りいただきたいと存じます。(拍手)
  それでは、以上をもちまして第二回目の都市・環境フォーラムを締めさせていただきたいと存じます。皆様、ご清聴頂きありがとうございました                                   

 

 


 




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