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第15回NSRI都市・環境フォーラム

『景観からまちづくりへ

都市は生きている

〜「割れ窓理論」と「伝染るんです」〜』

講師:  松葉 一清 氏   武蔵野美術大学教授

PDFはこちら → 

日付:2009年3月26日(木)
場所:日中友好会館

                                                                            
1. 割れ窓理論 Broken Windows Theory

2. 究極の割れ窓理論 軍艦島〜放棄された35年〜

3.脱アーケードのまちづくり ケース・スタディ01宇部市銀天街 〜伝染るんです、からの脱却〜

4. 最盛期への復元 ケース・スタディ02 山鹿と八千代座

5.ニュータウンをつくる ケース・スタディ03 幕張ベイタウンパティオス

6. 景観デザインのあり方〜近代主義批判を踏まえて〜

7. 国家の割れ窓 〜地方中心市街地の実情と放置〜

フリーディスカッション

 

松葉 ご紹介いただきました松葉です。私は1980年代から現代建築の批評を書いてきました。今日は「景観からまちづくりへ」という話です。2007年の初夏に朝日新聞で「都市は生きている」と題した20回ほどの連載を試みました。地方都市をどう立て直すかがテーマでした。それも踏まえて、主としてまちづくりと景観がそこにどういう具合に役に立つかという話をしていきたいと思います。
  「割れ窓理論」というのがあります。もうひとつ、吉田戦車という漫画家が、「伝染るんです。」というコミックを描いています。「伝染る」と書いて、「うつる」と読みます。この2つの言葉から、まちづくり、景観の話をしていきます。

 

1.割れ窓理論 Broken Windows Theory

 割れ窓理論は、「ブロークン・ウィンドウズ・セオリー」と言います。これは、まちづくりにかかわっている方は大半がご存じだろうと思います。アメリカ、なかでもニューヨークは、おっかなくて町を歩けない時代が、長くありました。その後、ジュリアーニが市長になり、強硬な治安対策で、ニューヨークの安全は回復していきました。
  それと軌を一にして、「割れ窓理論」が発表されます。
  これは、犯罪防止、治安維持の話ではあるのですが、私たちが抱えている地方都市の問題、あるいは都市近郊のさまざまな都市づくりに対しても、示唆するところが大きい。景観を考えていく時にも、1つの手がかりになるのではないかと思いまして、今日はこのお話から始めることにしました。
  「割れ窓理論」は、その町で割れている窓がなくなれば、犯罪はずっと減る、ということを訴えたものです。ある建物の1つの窓が壊れていて、それを修理しないで放置していたら、残りの窓はすぐに全部割られてしまうだろうという推論が最初です。1つの割れ窓を放置することは、犯罪者に対して、誰もここは気にかけていないのだというシグナルを送っているようなものだというわけです。さらに、1つの窓が割れたままなら、他の全部の窓を割るのにほとんど手間はかからないだろうということを、わざわざ犯罪者にメッセージとして伝えているようなものだということを、この論文は強調しています。
  逆にいえば、割れ窓を絶対に出さないようにすれば、犯罪は根治できるし、以後、多発することもなくなる。だが、1つの割れ窓を生み出して、それを放っておくなら、その町は手のつけられない状態になってしまう。だから、割れ窓を放置することをやめましょうと訴えるわけです。
  この話を、読みかえていくと、景観論やまちづくりに対しても、かなり効果的ではないかと考えるわけです。
  「コミュニティーの秩序を保って犯罪を減少させる」という論文の副題を、「美しい町の秩序が都市の荒廃を予防する」と読みかえてもいいのではないか。わが国で市民パワーの強いところに行くと、町は立派だけれども、ソフトがないから町が活気づかないと言いがちです。だが、それはそれとして、やはり美しい環境をつくることが、最終的には犯罪防止、あるいはみんなが安心して暮らせる、豊かな日常を送れるようになる、ということの一番の出発点ではないか、と私たちは再確認すべきだと考えます。
  近年、公共事業、とりわけ「箱物」をつくることが社会的に罪悪視され、ともすれば、ワークショップに時間を費やすのですが、それよりも、良い秩序、町のオーダー、そういうものをつくってあげることが大事だと思います。極言するなら、しっかりした箱なくして精神の安寧はない。美しい町の秩序を体現する景観こそが、都市の荒廃を予防するという考え方を持った方がいいのではないか、と考えるわけです。
 これは、割れ窓を生まないということと同じです。例えば、80年代の建築で、しっかりできているものは、全然落書きもされないで、今でもきれいなままです。つくった者の気迫があれば、誰も落書きなどしない。楽観的かもしれないが、その気概で町を美しくつくっていく。景観をなぜやるかというと、それは美しい町の秩序をつくって、精神の荒廃を究極のところで防止するためなのだ、という気概を持って欲しいと思います。
  「1つの窓が壊れ、それを放っておいたら、やがて全部の窓が壊されることにつながっていく」という言い方を、今の日本の地方都市に当てはめて考えてみると、アーケードの弊害に思い当たります。地方都市へ行くと、アーケードの下でみんなで肩寄せ合って、昔からの商売をやっているわけですけれども、1つ店が壊れると、必ず連鎖的に店が閉鎖されていく。それは先程の吉田戦車さんの漫画のタイトルの「伝染るんです。」なのだと思います。全国さまざまな地方都市に行くたびに中心市街地の商店街を訪ねますが、1軒壊れると全体が壊れるサインになっている。
  ですから、1枚シャッターを閉じた時は、町に危機がやってきた時です。町の処方せんというのはそれぞれあるかもしれないけれども、1枚の窓が割れた時と同じように、1つのシャッターが閉じた時は、町が危機に瀕している。そういうサインだ。あるいは、これは犯罪者にシグナルを送っているわけではないにしても、まちづくりにかかわっている立場の人たちにとって、1枚のシャッターが閉じた時は、本当に危機が始まった、さらに危機はすぐに全体を覆っていくのだということを認識しなければいけないのではないかと思います。
近隣というものを大事にしながら、地道に丁寧に専門家が近隣に気をかけていくことでしか、シャッターの閉じた町を助ける方法はないのではないか。その意味では都市づくりにあたって、景観、町の再生、さらには維持していくためにどんなことをすればいいかを考えろという提言として、割れ窓理論を読むべきだと私は考えるわけです。

2.究極の割れ窓理論 軍艦島〜放棄された35年〜

 先々週、長崎の軍艦島に行きました。軍艦島は、三菱系の炭鉱が閉山になって、島から人がいなくなり、無人島になって35年間経っている。その時、町というか、環境はどうなるかをあらためて考えさせられました。
  軍艦島は見方を変えれば「究極の割れ窓理論」の島です。建築はほとんど鉄筋コンクリートだが、人がいないとどうなってしまうのか。地方都市のシャッター街とは違いますが、極端な状態が生まれます。
  100年もつといわれる鉄筋コンクリートがどうなっていくのか。人がいない、ケアをしない。つまり、割れ窓を放置するようなことをやっていくとどうなるかということを、軍艦島は物語っています。
  長崎市から南に20キロほど行った海上に、軍艦島はあります。1810年に石炭が発見され、炭鉱になっていく。明治の半ば以降、石炭を八幡製鉄所に供給した。鉄は国家なりと八幡製鉄の人たちは言っていましたが、国家を支え、あるいは地理的に日本の大陸進出の原動力にもなりました。
  ここが興味深いのは、大正5年に最初の鉄筋コンクリート住宅が登場しています。大正7年になると9階建ての連棟の鉄筋コンクリートの住宅が建ちます。一番多かった時は、島の人口は5300人に達しましたが、細長い島は、幅160メートル、長さ480メートルしかない。それでも、もともと本当に小さな島だったのが、石炭採掘で出てきた土砂と鉱滓で埋め立てて広がりました。
  そこに5300人が住んでいた。高密度で住まなければいけない環境でした。世界遺産にしようという動きのなかで、かつての生活を美化しがちですが、水洗便所はなく、エレベーターもない。島の外へ出るにも届けをしなければいけない時代もあった。1974年に閉山、35年間ずっと放置されたままになりました。閉山の時には、2000人ぐらい残っていたのですが、全員家財道具を持って他のところに移っていって、コンクリートの上屋だけが残った。
  私は30年前に東京電機大学の阿久井喜孝先生と滋賀重實先生に連れて行っていただいた。先生たちは、コンクリートの風化実験場だと位置づけられていました。コンクリートは20世紀の素材、材料であって、鉄筋コンクリートは20世紀の一番主流の建築の工法であったが、どれぐらい耐久性があるかは誰も体験したことがない。阿久井先生たちは、この島を見ていれば、コンクリートがどういう具合に風化していくか、言っているように100年もつのかどうかを見ていくのに大変いい場ではないかという冷厳な見方をされていた。
  坑夫の人たちを高密度に収容するため、先に述べたように、大正時代にいち早くコンクリートの住宅が建った。ここのコンクリートの住宅は1910年代の建築です。世界のモダンデザインの流れの中で、最初期と言っていいものです。ル・コルビジェやヴァルター・グロピウスという人たちがこの存在を知ったとしたら、これは大変なものだと評価をするぐらいの住宅ができ上がっていた。
  大正5年の最古のコンクリート住宅の中庭は、ロの字型の平面をしている。ここは潮の害があるので、鉄は使わないですべて木で窓枠や手すりをつくっています。そのために窓枠がどんどん落ちてきた。奥さんたちが洗濯をしていた洗濯槽が残っていますけれども、建具の木が落ちてきて、難破船の残骸が流れ着いたような状態になってしまうわけです。
  戦時中、1945年に建設された建物では、鉄が腐食して膨らんでコンクリートの被覆を全部破ってしまう。コンクリートがそこから落ちてしまう。人が住んでいたらどうだったんだろうというと、ここまではならなかったのではないかと思わないでもない。確かに、割れ窓放置の状態で置いていくと、廃墟にまで行き着くのかと思います。

 

3.脱アーケードのまちづくり ケース・スタディ01宇部市銀天街 〜伝染るんです、からの脱却〜

  それでは、どうやったらいいだろうか、とくにアーケードのシャッター街をどうするかということで、山口県宇部市の脱アーケードの話をさせていただきます。残したままでは「伝染るんです。」だから、壊そうということをやっています。JR宇部新川駅は、宇部興産への通勤駅だった。その通勤路の途中に銀天街という商店街がある。村野藤吾さんの宇部市民会館に近いこともあって私は、ここが歩けないぐらい人通りがあった時代を知っています。
  宇部興産にみんな車で通勤するようになったため、だんだん寂れた。しかし、不思議なことにアーケードのない1本こちらは夜の町になっていて、スナックが並んでいて、現役の繁華な町でもある。つまり、アーケードをかけたところだけがつぶれる。そういうことが起こっている。
  アーケードを全部壊し、新たなまちづくりを宇部は試みている。中心市街地再生の時に、1つは地産地消、特に生鮮食料品を売ったらという話がありますが、シャッター化して元気がなくなると、ここで生鮮食料品を買えるかという話になってしまう。
  それなら、壊してしまえというわけです。山口大学に日本のタウンハウスの草分けである藤本昌也さんが赴任されていた。宇部市役所と地元の商店街、それと山口大学の三者一体で、「伝染らない町」をつくってみようということになった。原動力は、宇部発祥のユニクロの一族の千田秀穂さんです。ユニクロを引退なさって看板屋さんをやっています。
ここに住みながらアーケードを壊して、商店街を変えていこうという提案です。実際、千田さんが商店街を奔走して、50数軒あったのを19軒に減築して、商店街を再構成した。道も広げて、アーケードを壊して、明るい、南欧風の町をつくったわけです。ご本人も看板屋さんを1階でやって、自分は上階に住んでいる。まちづくりをやる人がここに住んで、商売もやり、余裕があれば、建物内に賃貸住宅を設けて町を維持しています。

 

4.最盛期への復元 ケース・スタディ02 山鹿と八千代座

 熊本の山鹿には、八千代座が残っています。明治の終わりの劇場建築ですが、テレビが広がっていくなかで、映画館に変えられ、最後には廃墟同然になってしまった。それを文化庁の肝いりで保存補修した。ここでやったことは、創建の明治43年の形に戻すのではなく、増築など手は入っているが、一番元気だった大正12年の形に復元しました。
  山鹿は、菊池平野の米の出荷地で、菊池川から米を出す卸問屋さんが集まっていた。明治、大正は大変に繁華なところで、その時のお金をつぎ込んで八千代座が出来たわけです。地下に回り舞台の動力装置が残っていますが、鉄はドイツのクルップのものを使っています。明治の終わりにこの山鹿の山奥で建築をした時にドイツ製の鉄鋼を使った。クルップはヒトラー時代の代表的な産軍共同体企業ですが、そこの会社のものが使われていた。それを知ることがまた、山鹿の人が、私たちは立派な町に住んでいる、この町を何とか復興させなければいけないと立ち上がる原動力、後押しになっていきました。
町づくりの中心になっているのが、熊本県建築士会山鹿支部まちなみ研究部会です。宮大工の息子さん、工務店の2代目、東京の大学で建築を学んで帰ってきた人など、40代の中堅どころが会をつくりました。彼らが市と一体になって、市の骨格である豊前街道沿いの町屋を改修し、景観整備を続けています。彼らの方針ははっきりしていて、八千代座を手本に、もとの姿に返すのではなく、盛時を復元補修の基本にしている。家主から注文があると、そこの家が一番元気だった時の話を聞かせて下さいと言って、例えば江戸末から明治に建ったものでも、昭和に一番元気だったら昭和の形に戻しましょうということをやっています。

 

5.ニュータウンをつくる ケース・スタディ03 幕張ベイタウン・パティオス

 団地、集合住宅の景観はどうなんだろう。敗戦後の日本社会は民主主義を徹底しすべて平等を原則としてきた。団地もたとえば多摩ニュータウンでは、兵舎のように全住戸で均等な日照と通風が得られる形で規則的な配置をとってきた。それが無機質で面白みに欠けるということで、さまざまな試みが80年代以降に起こった。
  実験の舞台は千葉の幕張で、新しい住宅街区をつくる試みが、90年代から計画された。もともとは「海浜ニュータウン」といって、1960年代に千葉都民を収容するための住宅団地として計画されました。しかし、都市計画のブロックが大きすぎたため、住宅地としての整備は遅れ、都市計画家の梅沢忠雄さんが中心になって、メッセの建設を手がかりに、80年代にオフィス街区として整備されました。
  ここで働いている人たちが暮らす住宅の計画が、「パティオス」と呼ばれるものです。各住棟の形式はパティオ、つまり、広場を囲む配置をとりました。原則はロの字型の住棟で、必ず中庭を囲う形です。こうすると、街路に面したところに生活空間を持ってくる形になり、ヨーロッパの都市住宅のような街並みが実現しました。
  幕張のガイドラインでは、ひとつの街区を完全には囲わないで、ボリュームを2つ、3つに割って、中庭を通り抜けられるようにするなど、開かれた住宅街を目指している。決め事もかなり細かく厳格で、壁面から出るのは75センチ以内にする、窓は小さく壁の率を60%以上にして下さい。仕上げは、頭、胴体、足の部分でデザインを変えて下さい。これはヨーロッパの建築の定法です。沿道外壁のルールも、広告物は絶対に上に出すな。入り口は透過性のある素材を使う、つまりガラスで内部が見えるようにして下さいといった具合です。そうやって、建築家の手を縛ることで、一体感のあるパリなどにみられるヨーロッパ流の景観を目指しています。
でき上がって十何年経った姿を、この間見に行きました。みなさん、きれいに暮らしています。秩序を持たせれば、それを理解し、共感する人たちが増えてきて、そのひとたちが街を支えている。住民が十分に住みこなしている手応えがあった。これこそ、割れ窓の対極なわけです。景観がまちづくりにいい方に作用したすばらしい成功例です。

 

6.景観デザインのありかた 〜近代主義批判を踏まえて〜

 建築は進化するものなのか。トーリー史観とホイッグ史観という話を少しします。建築のあり方はなかなか難しくて、人類は進歩しているけれど、建築は、本当に進歩しているんだろうかと思います。
  例えば、ローマの建築を見た時に、現代建築よりずっと立派にできている。もちろん奴隷制度があったとか状況は異なりますが、それにしても現代建築は頼りないものだと思う。ところが、新しい建築は古い建築より必ずいいという価値判断を、近代以降の建築界は強制してきた。この進化のあり方への評価を変えた方がいいのではないかと思います。
  近代建築は現代の素材を使って世界中の建築を一新しようとしたわけです。ミース・ファンデル・ローエのような人は、レス・イズ・モア、つまり、より少ないことが、より美しいと言って、禁欲な美学を強制した。これが戦災復興にあたって便宜的に解釈されもした。機能主義、合理主義は、国を再建するのに便利だったということが近代主義を後押しした。
  一方、例えば、工場が1つの型の窓枠を次から次へと短時間につくり出せば、その窓枠を使うために建築は同じ窓が連続するデザインに変わってしまう。しかも、各国で違うものを使うより、工場がつくったものを各国で使い回してくれた方が効率はいいわけで、産業資本の要請によって建築は変わっていった。豊かな景観をどうやってつくっていくかとなると、そうした一律の近代賛美や単純な進化論は取り下げなければいけないのではと考えます。
  ポスト・モダンは、そういう意味では、近代のクールさだけから脱して、もっと猥雑なものまで含めて、装飾的なものに感情移入できるような建築をもう一度考えていかなければいけないと主張します。大事なのは、様式というのは100個あってよくて、それに対して好き嫌いは言ってもいいけれども、ル・コルビュジエがゴシックよりまさっているということは絶対言ってはいけないわけです。つまり、すべての様式を容認する。そのうえで都市の一体感を表現する景観をどうやって確保していくかが、ポスト・モダンの考え方です。
  トーリー史観とホイッグ史観という話をします。トーリーとホイッグというのはイギリスの2大政党の名前で、それぞれ自分に都合のいい歴史観を持っていた。ホイッグ史観は、時代を追ってすべてのものは進化し続けて、現時点のものが文明の最高点を示している。その他のものは全部退けるわけです。トーリー史観は、歴史は一直線に進化するものではないし、様式は1つの時代で廃れるものでもない。廃れてもまたリバイバルで生き返ってくる。新しく見えるものも必ず原点があるという考えです。過去の様式というのは現在を築くための捨て石でもない。これがトーリー史観です。
近代建築の歩みをあてはめると、究極の高みの位置に近代建築があるのではない。直線的ではない歴史観をもとに、トーリー史観に立って建築の歴史的な歩みと蓄積を評価した上で、現代の創造に臨むべきだというわけです。

 

7.国家の割れ窓 地方中心市街地の実情と放置

 最後は、国家の割れ窓という話をします。たまたまこの1、2年ですが、複数の地方中核都市の中心市街地に近い一角で、火事で焼けた建物が長く放置されているのを見かけました。昔だったら撤去されてきれいになったところが、例えばもう市にお金がないとか、市に無駄なお金を出すなとねじ込む人たちがいて、こういうものが放置されている。
  これは国家の割れ窓ではないか。つまり、都市、あるいは日本の国というものが破壊されつつあって、公共性が看過されている。いくら観光客に来て下さいと言っても、片方で火事現場が放置されている。治安上もよくなく、放火を呼ぶかもしれない。
  「割れ窓」というのはそういうことです。自治体や地元の商店街は、やれることをやるのではなくて、やるべきことをやる。つまり、アートでシャッターを上塗りするのは、やれることをやっているだけでしかなく、つぶれた店舗でおかみさんの店をつくるのと同じことで、そんなことでは根本の解決には至らない。
  50年前に、石炭が国家エネルギーとして棄却された。そして、軍艦島の廃墟が出現した。しかし、小泉改革以降、国際金融中心の国家にする片方で、地方の商店街のような非効率なものは捨てられていった。地方で捨てられている商店街に火事現場が残されている姿は、軍艦島に他ならないのではないか。つまり、これは二重写しになってしまうのです。そういう意味では、国家を軍艦島にしないように、私もしっかり声を上げていこう、皆さんと一緒に是非、やっていきたいと考えています。
長い時間ご清聴ありがとうございます。以上です。(拍手)


 

フリーディスカッション

與謝野 松葉先生、誠に示唆深いお話をお聞かせ頂きましてありがとうございました。
それではただいまの松葉先生のお話についてのご質問をお受け致します。

河合(樺|中工務店)今日は、多様なお話をどうもありがとうございました。
質問が1点あります。街並みや景観の素晴らしいものをつくる。例えば建物が素晴らしいとその凄さで長い間生き残ったり、周りの方に影響を与えたり、或いはそこに住んでいる人がプライドを持ったりすることができるというお話がありました。
  例えば、昔、東京に発電所の大きな3本の煙突が立っていたというのが、東京に住んでいる方々の共通の風景で、そういうもので力強さを感じていたということがあります。
今も建設費などが削減されている面がある一方、凄くお金が使われている部分もあります。例えば高度な医療施設です。この間、放医研といって千葉の原子力を使った重粒子の治療施設のなかを見てきたんですけど、そういうもののことです。NHKのテレビでやっていた地下の共同溝、見るだけでワクワクするような建造物、こうした構築物があります。そういうものを身近に見たり触れたりするような機会がこれからできないか。そういうものの意義みたいなものは、景観的に将来性があるのかどうかということにコメントをいただけませんでしょうか。

松葉 ロンドンにすばらしい催しがあります。1年に1日のアーキテクチャーデーです。その日はどんな建築でも内部の見学が出来る。王立建築家協会が建築家と発注主の人たちと話し合って、セキュリティーの高いところでも事前に申し込むと入れる。それに人がどのくらい来ているかというと、人気のある建築では、登録しても3時間並ばなければならないほどです。それだけ人気があるということです。
  2011年に、東京で世界建築家会議があります。そういう機会に、オーナーにも協力していただいて、例えば今おっしゃったような共同溝などを含めて、それぞれ登録すれば見に行ける1日というのをやってみたらどうでしょうか。ロンドンは30〜40ページぐらいある立派なカラーの冊子も、毎年、用意している。建築にもっと親しんでもらう機会をつくろうということです。あの現代建築の内部に入ってみたいとか、ロンドン市役所のインテリアを見てみたい、写真を撮ってみたいひとが潜在的にたくさんいるはずです。
東京では、完成してしまえば、内部まで入れないところがたくさんある。だから、年一回でよいから、そういう公開を地道に続けていくのは、大事なことです。世界建築家会議で、国際会議ばかりやろうとしていますけれども、そうではない。せっかく強権的な知事がいるんですから、知事にも話をして、都庁の知事室も見られるようにするとか、そのような形でやっていくことが大事ではないかと思っています。

横山(都市再生機構) 今日は本当にたくさんのスライドを感心して見ておりました。今日の先生のご指摘の中で非常にいい例として褒められた幕張のパティオス、これはうちの都市再生機構がやっておりまして、その前に紹介があった多摩ニュータウン、高島平も我々がやりました。私はその中で多摩ニュータウンをやってきた者です。
  これも考えますと、先生の提唱されるトーリー史観に従いますと、それぞれが時代が生んできた様式ではないかと思うんですね。従って、このような多摩ニュータウンも1つのその時の価値観、様式の表現だと思いますし、パティオスもまたそこからの流れの表現と考えますと、余り甲か乙かという話ではなくて、それぞれあるのではないでしょうか。
特に私が思いますのは、多摩ニュータウンの今日のスライドのところは、金太郎あめ的な近隣住区としてやってきた最たるものでした。その少し西の方に行きますと、鶴牧地区というそれを踏まえたパターンの住区構成もあります。このような例も紹介していただきますと、全国的に先生のような高名な方が、多摩ニュータウンを悪い例と評価されますと、それだけで全国に影響が大きいものですから、あそこのところはこういう初期の多摩ニュータウンはありますけれども、多摩ニュータウンはこのように変わってきたという、ニュータウンの中でそれぞれ様式があるという紹介をいただければ非常に幸せだと思います。感想でございます。

松葉 私はずっと公団はしっかりやるべきだと話していますし、公団のタウンハウスの先駆性にも以前から評価してきました。今でも、URは分譲住宅をつくるべきだと思っています。以前、公団時代に編集したコンクリート住宅の住み方というノウハウ本があって、そういう本を見ていると、復刊したらどうかと思うほどです。
  そんな水準の高い組織が、まるで民間デベロッパーの邪魔になるかのような扱いをされて、分譲住宅をつくるな、賃貸だけ、あるいは都市開発だけやれということになってきている。私は昔の公団のような公的責任を担う組織は今こそ充実すべきだと思っています。
  たまたま荻窪団地が建て替え中で、先日見に行くと、単身者棟というのがまだ残っていました。これは壮大な建築です。共同トイレで、同潤会の初期よりも大変な感じもあったんですけれども、そういうところを見ていると、昭和30年代に物をつくられた方たちの意気込みというか迫力を感じます。それはおっしゃる通りで、先程の金太郎あめのところでも歴史的にちゃんと評価をしてあげるべきだということを思っています。
荻窪団地の中に、スターハウスといって、星型のプランニングで、3個のワンフロアの住宅が均等に光を得て、風も通るようになっているものが残っているのを見ると、戦後民主主義のなかでの住宅のあり方、それまでの戦前の封建的な住宅から抜け出し、昭和30年代になって理想ができるようになった気概というのを感じます。市浦健さんの設計などを見ていると思いも感じていまして、決して敵ではありません。そのように申し上げておきます。

松原(松原建築D・I研究所) 今日の演題は「景観からまちづくりへ」という今の時代の難しいテーマでもあるんですが、これを見た時に、今から確か5年ぐらい前に景観法ができたことを思い出しました。その時に、そちらにいらっしゃる佐藤さんとJIAのなかで景観法に注目して、東京都の国会議員にアンケートを出したりしました。それがいよいよ景観行政団体として、自治体の方に実際にどういうふうにして実現していくかというところにおりてきているわけです。
  2〜3年前に東京都がそういう団体になって、実は先頃私が住んでいる目黒区が景観行政団体になろうとしています。それに対してのパブリックコメントを出している。我々の方にもそういうことの意見を聞いてきています。
今日のこういう演題のなかで、非常に具体的なお話が出ていて、近隣重視という話がありました。この景観法というのは上の方からおりてくるものだと思うんです。こういうことについて今、松葉先生がどのようなご意見をお持ちかということをお聞かせいただければと思います。

松葉 最近見ていると、国交省も少し空気が変わってきたかなと思います。今、私は、都市景観賞の審査をやっていますけれども、景観を名乗る課ができたりして、賞の所管も変更になりました。この間は、福山で港を壊そうとして橋をかける動きに対して、金子建設大臣がストップをかけたりしていています。景観という概念が、政治家の方にも少しずつ伝わってきているのではないか。
制度の細かいことについて、なかなかお答えしかねるところがあります。ただ、大きな流れとしては啓蒙が進んできているのかなという期待は持っています。今日は気持ちの話をしてしまいましたけれども、気持ちの方が私は大事だと思っています。制度のことについては十全に答える能力がないので、申しわけないですが、そういう答えです。

 

與謝野 ありがとうございました。
  最後に、今日のお話は都市が本来持っている生命力の発露の歴史的展開の大切さという点についていろいろと学ばせていただきました。いま少し私の方からのお願いですが、景観からまちづくりをとらえるという視点の中での「景観デザインのあり方」の実際について、もう少し理解を深めるお話を頂けますと幸いなのですが。

 

松葉  実は先日、多摩地区のある市議会議長さんが同席されているところでお話をしたら、彼が、建築の話をされると思って来たのに、まちづくりの話をされましたねと言ったんです。なかなかこれは溝が深いなと思いました。つまり、私は建築も景観もまちづくりのためにあるのであって、生活空間、近隣の大切さの前提として存在していると思っている。だが、そこのところの理解が進まない。何故、建築を勉強しているんだ、何故、景観をやっているんだというと、やはりそれはまちづくりのためにあるんだということです。ジェーン・ジェイコブスは、既に60年代に近隣こそがパラダイスだということを書いています。そこに帰っていくしかないのかなと思います。こんなに建築家も苦しく、公共事業も苦しい時代に、みんなで近隣をよくしましょうというところから、もう一度やり直したいなということです。

與謝野 ありがとうございました。今日は大変に貴重なお話を多々いただきました。最後に松葉一清先生に皆様からの大きな拍手をお贈りいただきたいと思います。
(拍手)ありがとうございました。それではこれにて本日のフォーラムを締めさせて頂きます。

 



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