back

©日建設計総合研究所                 
(ここをお読みください)
著作権について    

第17回NSRI都市・環境フォーラム

『建築と都市の21世紀』

講師:  馬場 璋造 氏   株式会社建築情報システム研究所代表取締役

PDFはこちら → 

日付:2009年5月21日(木)
場所:日中友好会館

                                                                            
1. 法か人か

2. 「公」を再認識しよう

3. 入札を科学する

4. プロポーザルは間違っている

5. 連歌つくりの都市景観

6. 21世紀はこれから

フリーディスカッション

 

與謝野 定刻でございますので、只今より本日のフォーラムを開催いたします。皆様におかれましては、大変お忙しい中をお運びいただきまして、大変ありがとうございます。また、長年にわたり、このフォーラムをご支援いただき厚く御礼申し上げます。
  さて、世間は相変わらず騒がしい限りでございます。100年に一度の金融危機と言っても、その騒動の大もとの実態が昨日の日経新聞の記事などではアメリカ議会と金融界、産業界との癒着であったという見方も紹介されていまして、社会における政治、経済あるいは産業基盤などにおける人間社会の営みがかなり乱れているありさまは、洋の東西を問わず多く見られるという騒がしい状況でございます。
  今日は、そのような側面への視線を、都市と建築とのかかわりという領域、とりわけ建築がクリエイトされ、地域社会に送り出されまして、社会のシステムに組み込まれていくそのプロセスにおける職能機能のあり方、あるいはそれについての市民として備えるべき良識、さらには行政マン、専門家が備えるべき見識などについて、この分野の第一人者の方から、貴重なお話をお聞きすることといたしました。
  本日お招きいたしましたのは、株式会社建築情報システム研究所代表取締役であられます馬場璋造さんでいらっしゃいます。馬場さんのプロフィールにつきましては、受付でお渡ししましたペーパーのとおりでございますが、NHKの朝ドラの今の舞台になっている川越市のお生まれでありまして、長年建築界のトップジャーナルであります新建築社の編集長を務めて来られ、あわせて全国数多の公共事業における設計者選定のための設計競技、いわゆるコンペにおける審査員ないしアドハイザーとして枢要な役割を果たされてこられた方でもあられ、良質な社会資産の形成に向けておおいなる貢献を果たしてこられた方でいらっしゃいます。
  さらには、デザイン、産業技術の発展促進のための会議、展覧会のプロデュースも手がけられ、多数の著書も執筆しておられまして、受付でお渡ししましたペーパーの2枚目に紹介されていますように、最近「信頼される建築家像」という叢書を上梓されるという、まことに多忙な現代を代表する建築批評家でいらっしゃいます。
  本日は、ただいまご紹介させていただきました趣旨でのご講演をお願いしておりますが、演題として前に掲げておりますように、「都市と建築の21世紀」という題でのお話をいただくことになっております。
  それでは、大変ご多忙の中を本日のご講演をご快諾いただきました馬場璋造様を皆様からの大きな拍手でお迎えいただきたいと存じます。馬場様、よろしくお願いいたします。(拍手)

馬場 ただいまご紹介いただきました馬場でございます。本日、こういう席にお招きいただきまして、お話しさせていただくことを大変光栄に存じております。
(図1)
  テーマは、「都市と建築の21世紀」。かなり大げさなテーマのようですけれども、大げさな話ではなくて、具体的ないろいろなことの積み重ねの中から本当の21世紀が見えてくるのではないかというお話をしたいと思います。
(図2)
  今、ご紹介されましたように、「信頼される建築家像」という本をつい最近出しました。「新建築」の編集長を20年ほどやっておりまして、辞めてからもう20年経ちましたが、その後、時折書いたり、書き足したりしたものをまとめました。ここにありますように、現在、何かいろいろとおかしいなと思うことがあります。今、與謝野さんのお話でもありましたけれども、「規制」と「既成」。発音は同じですけれども、この体制の中でいろんな視野がゆがんでしまっているのではないかというあたりを、いろいろな角度から考えてみたい。そこで生じた矛盾、それに対してどうしていったらいいかということを多少でもお話しできればと思います。
  この規制と既成の体制の中で視野がゆがんでしまっているというのは、大分前ですが、ルネ・トムという人の「破局の理論」という本を読んだ記憶があります。これは大変面白いもので、鉄板に圧力がかかってくると、だんだん曲がっていくわけです。それをはね返そうとするけれども、ギリギリまでいかないと、反発力が強くならなくてはね返せない。あるいはそこで折れてしまうかもしれない。このどっちかだというんです。途中で頑張っても駄目で、いざという時にパンとはね返せるか折れてしまうか、どっちかです。これはもっともな見方ではないかと思うんです。今の時代、そういう意味では、鉄板にかかる圧力がかなり極限に来ているのではないか、それをどうしたらいいかという状況にあるのではないかと思います。
  こうした不透明な時代、何が間違っているのか、あるいはどういうことを考えなくはいけないのかということを今日皆様と一緒に考えていければと思っております。

1.法か人か

(図3)
  今日のお話の前提条件が2つあります。最初は、「法か人か」。これも大げさですけれども、日本は法治国家だということは皆さんもご承知で、当たり前だと思います。さて、本当に法治国家と言えるのだろうかとよく考えてみますと、どうも怪しい部分もあるかもしれない。
  世界中を見ますと、中国もそうですし、アラブなんかも、法よりも人なんですね。法はあるけれども、結局、どういう人を知っているかによって仕事ができるかできないかに分かれる。アラブですと、王様にどれだけ近いかによっていろいろなことができたりできなかったりする。
  昔ですけれども、私の同級生で、たまたま国連からサウジアラビアに行っていたときに、渋滞に巻き込まれていたら、横から自動車にぶつけられたそうです。耳が半分とれかかって入院していた時、ぶつけた方の人が病院にやってきまして、「俺の車が壊れたから弁償しろ」と言われたそうです。国連の職員でもそういうことを言われる。相手はもちろん王族の一員らしいんです。「俺が行くのに、そこにいるのがけしからぬ」ということです。これは法ではなくて、まさに人なんです。そういうことが日本の中でも今かなりあるのではないか。
  法律はあるけれども、日本の場合には運用ということになると思いますけれども、人によって治められている部分がかなりあるのではないか。
  法で全てを解決できるのは、むしろロボットの世界。これは本なんかにも書かれています。やはりそれはどうもおかしいやという方が多いと思います。法律だけではないということを考えなくてはいけないのではないかと思います。
  景観3法が数年前にできまして、いろいろ運用されていますが、この法律を見たところ、法律に書いてあるのは、景観法というのを各地方自治体でやっていいということだけで、その内容については何も書いてないわけです。
  後でもお話ししますけれども、景観というのは、法律で決めてできるものではない。どういう人がどう運用するかによってうまくいったりいかなかったりするということが当然あるわけです。今の法律だけで決まっていると思っているあたりを、そうではないということをこれからの時代考えていかないといけない。今日はお役所の方もおられると思いますけれども、よく言うんですけれども、お役所に言いに行っても駄目です。今ある法律を守って、それをいろんな形で運用していくのが官庁の役目であり、法律を変えたり、新しくつくるのは政治家の役目なわけです。
  そうしたことを考えていくと、政治というのは法をつくるけれども、結局人なんですね。我々が普通考えているように、全てが法でできているのではなくて、やはり人というものが常に大きなウエートを持っているということを考えなくてはいけない。

2.「公」を再認識しよう

(図4)
  「公」を再認識しようということです。今でも、例えば公園とか公民館、公開をする、公共サービス、「公」という字が随分使われていますが、それはもともとの「公」とは随分違ってきているのではないか。
  また、考えてみますと、前に言われていた公僕、奉公をする、公衆、こういう言葉は最近ほとんど使われていないんですね。特に、公僕なんてことは言われなくなってしまった。それはどうしてだろう。現在の社会では、「公」ではなくて、「官」になってしまっている。「私」か「官」か、どちらかというのが現代の問題ではないかと思うんです。
  考えてみますと、日本で昔からありました「向こう三軒両隣」は決して江戸の幕府で決めたようなことではなくて、「公」の基本が「向こう三軒両隣」。これは個人が集まって生活していく上では、個人の考えだけではいかない。それをどうするかということの基本が「向こう三軒両隣」というところにあったのではないかと思うんです。
  人が集まって住むということは、「私」と、それが集まると「公」になる。「公」というものがだんだん経つに従って、それを運用し、制度化していったのが「官」ということになってくるのではないかと思うんです。「私」と「公」と「官」と分かれているわけですが、今「公」の部分が随分小さくなってしまっている。実際には「私」か「官」かだけになっています。
  例えば自分の家の前の並木の落ち葉が庭に入ってくる。あるいは歩道にあるので、それを掃除してくれ、毛虫が出るから木を切ってくれ、という場合、それをやるのは全部「官」の役目であると考える。「私」の方にも個人というものが強くなってしまったのは、戦後の良かった点でもあるけれども、問題点でもある。「公」というのは、そういう意味では「私」も全部取り込んでいたけれども、戦後はむしろ「公」ではなくて、「私」の方がどんどん強くなっていってしまったということがあると思います。
  昔、私が建築を勉強したころには、コミュニティという言葉をよく使った。今でも使いますけれども、かなり形骸化していて、本当にコミュニティということを考える建築家も都市計画の人も余りいない。システムとしてのコミュニティはあるけれども、本当の意味でのコミュニティがない、むしろ考えなくなってしまっているということがあると思います。
  全てが「私」が解決するか、あるいは「官」が解決するか、どちらかだ。これでは社会がぎくしゃくしてくるのは仕方がないんじゃないか。その間に「公」というものがある。「私」と、それが集まったものとの調停をどうするかが「公」の立場であったのではないかと思います。
  これは皆さんもご存じかと思います。長野の宮本忠長さんが小布施のまちづくりでいろいろ役割を果たしています。宮本さんは、「外はみんなのもの、内は自分のもの」といういい方をしています。これはまさに町をつくっていく場合、自分の家だからどんなデザインをしてもいい、どんなことをやってもいい、自分の範囲の中だったら何をやってもいい、これは「私」と、それを規制する法律による「官」という認識の中で出てくるわけですけれども、向こう三軒両隣を考えて、みんながよく暮らしていく。これはただ我慢するということではなくて、本当にそういう意識を持たなくてはいけないのではないかと思うんですけれども、そうしたものがなくなってきている。これを改めて考える。
  公僕とか奉公する、公衆という言葉、これはなくてもいいけれども、公僕というのはもう一度考えてもらいたいなという感じがあります。そうしたことをちゃんと考えると、「私」と「官」ではなくて、「私」と「公」ということで人間の社会は成り立っている。そうすれば、当然そうした中でのコミュニティというのは、どういうものであろうかということが出てくる。これは決して抽象的な言葉ではなくて、具体的にみんながそれぞれつくっていくものであるのではないかと思います。そうした形での「公」というものが必要になってくる。何でも区分して分担化する、これは分業化というのがそうですけれども、そういう中で全部できるかというと、決してそうでもない。
  これは特に都市や建築をつくる上では、ここまでは俺の範囲だけど、ここからは俺の範囲ではないということは、実際できないわけです。する部分は限られていても、全体の責任をお互いに持つという中でうまくいくのではないか。
  例えていうと、昔は、人と人のつながり、社会のつながりは鎖みたいに、お互いに緩やかに動くけれども、がっちりと、それが次々つながっていった。ところが、今は、接着剤で板と板をパタンとつけたみたいにかっちりなって、動きもとれなくなる。壊れる時はパリンと折れてしまう。そういう形の社会のあり方になってきていると思います。そういうものでは本当の意味での人間社会はできないのではないか。そうした意味で、「公」というものをできるだけ考えなくてはいけないのではないか。
  ただ、「公」というものを精神論に持っていってしまうと、これまた危険なんです。戦前の全体主義あるいは軍国主義は、「公」の概念だけが全体になって、「私」がなくなってしまう。あくまでも「私」があって、「公」がある。だけど、それを両方成り立たせるためには、「公」というものが実はもっと大切なんだということ、これは「私」の方も「官」の立場からも十分認識していかないと、本当の意味での人間社会はできていかないのではないかと思います。
  今申し上げました「公」を考えるということと、「法か人か」、法だけではないんだというあたりを基本に置いて、次のお話をしたいと思います。

3.入札を科学する

(図5)
  本の中にも書いたのですけれども、「入札を科学する」。入札というのは、皆さんご存じのように、もちろん経済行為の一部で、全部入札するのが当たり前だというのが今の立場ではあるわけです。
  建築の設計の世界では、かなり前から、與謝野さんも役員をされているJIA(日本建築家協会)あたりは、設計料というのは入札にはなじまないんだ。そうでなくて、自分たちの職能であるという言い方をしておられます。そういういい方ですと、どうも社会的な説得力がない。自分たちではいいと思っても、他の人がいいと思ってくれなかったら意味がなくなるので、社会が本当に理解をしてくれる形で入札は違うんだということを考えなくてはいけないのではないかということを考えたわけです。
  皆さんご存じのように、質が同等のものを価格競争で決める、これが入札なわけです。ただ、先程言いましたように、人間生活というのは決して法律だけではないし、経済だけでもない。今、経済が一番強い形ですけれども、英語でいうと「エコノミー」ですが、日本語の「経済」のもとは、中国から来た言葉の、「経国済民」から来ているわけです。経国済民というのは、国を経営して民を救う。それが本当の経済の意味ではないかと思います。そうしたものがなくなって、全部入札にするということがあるかと思います。
  考えてみると、建築の設計にしても、戦前は設計料入札なんてなかったわけです。これはむしろ戦後できたものです。それは何なんだろう。今でも、民間での会社では、コンペなんかはありますけれども、入札というのはほとんどないですね。値切られることはあると思うんですけれども、入札で決めるということはない。
  これは考えてみますと、建築だけではなくて、例えば手術する時に、外科医を呼んで、入札をして一番安い外科医に決めるかということです。これはどう考えてもおかしいし、多分誰もやらないと思います。自分がいいと思うお医者さん、あるいは高くないけれど、このくらいだったらここでいいとか、いろんなことの中でお医者さんを決める。お医者さんを入札というのは聞いたことがないです。
  また、公共であっても、絵画や彫刻を買い入れる、音楽や小説を決める、これもまた入札では決められないわけです。芸術、文化は、そうした質にかかわる問題であるから、常識として入札ではないということはわかり切っている。
  ところが、建築の設計は入札だというのは、便宜的にやったことがそのまま続いているだけのことです。建築の質が、設計によって随分変わってきますが、そうしたものは入札にもともとなじまないものであるということが言います。
  入札が一番いい理由として、金額で一番安いものに決める。そういう意味では公平であるということがあると思います。ところが、世の中考えてみると、本当は公平より公正であることが大切なわけです。それを忘れてしまって公平だけにしようということが問題としてあるのではないか。
  今の時代、実際の社会の中では入札というのは本当はあまりない。例えば、食料品を買う場合に、値段が安いから買うか。最近は食の安全問題で、やはりいいものを選ぼう、産地で選ぼう。値段が品質によって変わってきても、安いものを買う人はいない、そういう形にどんどんなってくるわけです。着るものでもそうで、1000円ぐらいのTシャツでもいいし、何十万する洋服でもいい。これは入札では決められない問題だと思います。そうした入札では決められないものは随分あるわけです。それが、いわゆる今の官庁が決めるものではなくなっているあたり、これが1つ問題ではないか。
  今、絵画や彫刻を買う場合は、有識者の委員会をつくってそこで決めるという形になっていますけれども、これも考えてみると、ちょっとおかしい。本当はそれを買う首長さんが、自分がいいと思うものを選べばいいということではないかと思うんです。
  先程言いました宮本忠長さんが小布施市のものを幾つかやっていて、町のものもやるようになった時、一度、議会で、「どうして町長は宮本にだけ建築の設計を頼むのか」という質問があったそうです。そうしたら、「いや、宮本さんというのは建築における私の本妻である。本妻を置いて、めかけをつくって浮気をしろというのか」と言って、みんな大笑いをして終わりになったということがあるわけです。これはある意味では、いい方は違いますけれども、入札だけでは選べない、お金だけでは選べない、質の高いものをつくることによってみんながプラスになると理解しているからこそできるのであって、それでみんな大笑いして、議会も終わりになった。議会も結局、宮本さんのやっていることが、先程言った「内は自分のもの、外はみんなのもの」という考え方が効果を発揮しているということでそういうものが決められたと思います。
  そういうことが建築の質。みんな言わないんですけれども、この質の問題が、かなり大きいものではないか。建築設計というものは基本的に入札に合わないものである。例えばこの部屋にしても、壁にしても、じゅうたんにしても、天井の高さにしても、あるいは部屋の大きさ、全てのものは設計で決まるわけです。これは初め決まっていて、それをどうするというのではなくて、そういうものを考えていくのが1つの設計でありますし、まちづくりにしてもそういうことはあるわけです。これはやはり入札で決めるものとは基本的にはなじまないのではないかということを言ったわけです。(図6)
  建築の施工。これは、請負ということで、昔から入札だということになっているわけです。これも実は本当は入札にはなじまないのではないか。何故かと言いますと、例えば同じ設計図をかいても施工者の質が異なってくると、建築の質が当然異なってくるわけです。このことは建築家でも、あるいはそれを使う人でも、それを買う人でも、みんな最近かなりわかってきているわけです。ところが、それをわからないようなふりをして入札をしているというところがあります。
  実際は、施工会社だけではなくて、現場の責任者の熱意などによっても随分違ってくるわけです。私は、前に、ある町で、建築家を選ぶのに、コンペではなくて面接で建築家を選びました。そこで、施工者を選ぶ時も、今の法律ですと入札をしなければいけないというので、その時は入札の下限を高くして、実際に工事をやる人、所長よりも工事代理人というんですけれども、その人に1カ月ぐらい前に図面を渡しておいて、よく見てもらって、この建築をどういうふうに考えて施工をしていくかということを町長さんと設計者と私も加わって、面接をして、それで会社を決めるということをやったことがあります。そうすると、やる会社も、特に選ばれた人も、大変だ大変だとは言いながらも、本当にいいものをつくろうという気になってくるわけです。
  建築の設計でもそうなので、入札で決めたからこの値段でやるというのではなくて、やはり選んでもらえたらばもっと頑張ってやるはずです。これは人間の当たり前のことなんです。ただ、経済行為で安ければいいということではない。設計もそうですけれども、施工もまさにそういうものではないかと思います。
  それから、施工によって、ここに書いてありますように、LCC、ライフサイクルコストが異なってくる。結局この建物ができてからなくなるまでどのくらいのお金がかかるか。建物の寿命が異なるということはわかっていることです。日本でLCCが言われる前に、たまたまアメリカの例を調べましたが、建築のイニシャルコスト、つくる時の価格は約20%、建築ができてからなくなるまでにかかる費用が80%です。
  入札というのは20%だけを決めるわけですけれども、残りの80%、これはお金がうんとかかっても、その時は関係ないわけです。いいものをつくるというのは、LCCも十分考える。それからまた、寿命がどのくらいもつかということも考える。そうしたことで本当に社会に対してプラスになる建築ができるということだと思います。
  そういうことを全部考えてやる。お金の問題も目先だけではなくて、全体を考えて決めていくことは、社会的に当たり前のことではないかということです。これは、社会に対して、お役所であっても十分説明できることでありますし、今、建築の設計をやる場合は、みんなLCCも一応は計算して出すようにしているわけです。
  私も、コンペなどにおつき合いしていて、初めの頃はなおざりにつけていたけれども、やはりそういうことを考えるだけで建築の設計自身も変わってくるわけです。それが経済的にいっても質が違ってくる。そうしたことがあり得るということを是非考えていただくと、施工というものは本当は入札ではなじまない。
  昔から談合は良くないと言われていますけれども、談合というものも全くの悪ではなくて、そうしたことを人間的にちゃんとうまくやっていく1つの知恵であったといえるのかもしれません。談合がいいということではないけれども、あまりにもぎくしゃくした、入札だけで決めるということに対してのある意味での人間の知恵だったのではないかと思います。
  ここで、会計法。会計法で入札が義務づけられている。いつも建築家はそういうふうに言われて、仕方がないと言うわけですけれども、多分、ほとんどの建築家は会計法というのを見たことがないのではないかと思います。
(図7)
  会計法というものを見ますと、これは1947年、昭和22年にできて、何回も何回も改正されて、一番新しいのが2006年に改正された現在の会計法です。
  会計法というのは、全部で8章225条から成る大変膨大なものです。その中で入札に関してあるのは、第4章29条、225分の1だけです。そこの中に「契約」というのがあって、そこでしか入札に関して書いてないわけです。
  第29条の3項に、前は略しますけれども、「売買、賃貸、請負、その他の契約を締結する場合においては、第三項及び第四項に規定する場合を除き、公告して申込みをさせることにより競争に付さなければならない」とあります。これが入札の1つの理由になっているわけです。ここに「第三項及び第四項に規定する場合を除き」とありますが、これが実は問題なんです。
(図8)
  第3項というのは、「契約の性質又は目的により競争に加わる者が少数で第一項の競争に付する必要がない場合及び同項の競争に付することが不利と認められる場合においては、政令の定めるところにより、指名競争に付する」というのがあります。これは指名競争をやってもいいということです。
  もっと大事なのが、次の第4項です。「契約の性質又は目的が競争を許さない場合、緊急の必要により競争に付することができない場合及び競争に付することが不利と認められる場合においては、政令の定めるところにより、随意契約によるものとする」ということがあるわけです。
  これは、先程申しましたように、設計によって建築の質、値段など、いろいろなものが違ってくるわけです。これは今言った本当の金銭的な競争、それに付することが不利の場合に当然該当するわけです。それを無視しているのが現在の入札ではないかと思うんです。
  下の第5項に、「入札の方法をもってこれを行わなければならない」とは書いてあります。特にこの第4項、これが質を考える場合、質とは書いてないんですけれども、そこではやはり一番重要なことです。これはちゃんと説明をすれば、これを入札にしたら不利ですよということが当然言えるわけです。それを言わないで、ただ、今までもそうだからそうだということだけで入札にしているということが問題ではないかと思うんです。
(図9)
  ここで抜けているのは、会計法を見ても、質を競うということに関しては全く条文がありません。だから、結局、質を考えることは、法律ではない。これは法律が不備というよりも法律の守備範囲の外である。法律で決められるのは量であるけれども、質というのはできないのではないか。ですから、質というものを量に置きかえる。しかし、その使いやすさとか高揚感などの質は、経済的価値に転化できないものであります。質を量に置換することもあります。これは先程言った手術もそうですし、あるいは芸術的な行為もそうです。そうしたものは決して法律の範囲ではないんではないかということです。
  これは、先程申し上げましたように、経済的にも、イニシャルコストだけで決めるというのは近視眼的なものであって、LCCなど長もちをする、使い勝手がいい、そこの空間が居心地がいい、そういうことを含めて決める、これが人間社会では当たり前のことである。逆に、法律というのは物凄く狭い部分しか決めていないと考えなくてはいけないと思います。
  最近は、景気が悪くなったせいもありますけれども、建築でも量より質を尊ぶといういい方を最近するようになってきています。これは何かといいますと、ここでいう経済的な質というのは利益率が高いことなんです。量というのは売上高を競う。質というのは利益率が高い。だから、売上高は少なくも利益率がちゃんとあって会社が成り立てばいいというのが経済でいう質のわけです。
  経済における質も決して悪いことではないと思います。過ちでもないけれども、ただ、経済以外の人間にとって質は何かというもっと大きな部分があるということを忘れて、ただ、お金だけの問題で決めていくのは違うのではないか。これは説明をすれば、大抵皆さんわかって下さるのではないかと思います。
(図10)
  それでは、建築の設計の場合どうすればいいかということです。今言ったように、これは経済の競争ではなくて、文化の質、そうしたものの競争にすることが必要なのではないかと思うんです。
  建築の種類や規模によって設計料というものは自動的に算出できるわけです。その設計料で最も質の高い設計者を選ぶことができ得るのではないか。後で言いますけれども、これは選ぶ側の人の質の問題があるわけです。こんなことをいうと怒られますが、大学の先生だというだけで委員になってやったのではなかなかできない。やはり質の高い設計する人、いろんな経験者、そういう人がそういう設計者を選ぶ。社会から認められるような形でなくてはいけないと思うんですけれども、そういうものが必要なのではないか。
  これは前に私のところでシンポジウムをやったりして、外国に行っている人に話してもらったときのことですけれども、ドイツでは、国の施設建設が、大体年間500ぐらいあるらしいんです。すべてコンペによることが義務づけられている。大きさとか何かで決まるんですけれども、設計料の平均が23.5%だということです。これは、凄いという感じがします。
  実は、設計というのは何かということがあるわけです。日本の場合、数%というのが常識ですけれども、実は施工費と設計料を足した金額というのは、外国でも日本でも同じわけです。そのうち誰がどの部分を負担しているかだけであって、実際のトータルとしては変わってないわけです。そうした中で、ドイツでは、極端なことをいうと、原寸図、施工図から近隣の交渉なんかも全部建築家の役割になるわけです。そのかわり23.5%の設計料をもらっているわけです。
  イタリアの例が面白かったんですけれども、イタリアもやはりそうした形で設計料が自動的に算出されるわけです。設計料で値引きしますと、イタリアの場合は建築家協会から除名されるそうです。除名されると設計はできないわけです。
  ただ、イタリアの場合には、政治的な要素が随分入り込んだり、いろいろなことがあるけれども、とにかく設計料を値引きしてはいけない。ある日本人で、イタリアで建築の設計をしている人は、イタリアには幾つかの党がありますけれども、それぞれの党の党員になっている人が必ずパートナーにいる。例えば、町長がどこかの党であれば、その人に担当させるということで、政治的な配慮ということをかなりやっているみたいです。それにしても、設計料で決めることはありません。
  これはそれぞれの国のシステムの成り立ち、歴史的な背景によって出てきているものですから、一概に日本でそういうのができるとは言えないかもしれませんけれども、考えておいていいことではないかと思います。
(図11)
  施工に関しては、積算士が積算を的確に行う。これはクォンティティー・サーベイヤーというわけです。そのためには設計図面をかく人も、ちゃんとした図面をかかないと積算ができないわけですから、これも日本とはシステムが違うわです。ちゃんとした図面をかいて、積算をして、その金額で最も質の高い建築を施工するであろう会社を選ぶ、これが1つのシステムになっている。
  これは国によっていろいろありまして、アメリカのQBSでは、例えば金額を設計者とお役所が交渉して決めるなんてこともあるし、いろいろなことがあるので、どれだけが絶対よくて、どれだけが絶対悪いということではないけれども、少なくとも日本みたいに入札を原則とするということはないわけです。
  先程も申し上げましたけれども、設計図があっても施工計画をどうするか、どういう人が施工を担当するか、そうした質によって選ぶことが、社会に対して一番いい建築を残していく一番基本なのではないかと思います。
  質の高いものを選ぶ。これが人間にかかわってくるわけです。そのために、選ぶ側に、今までのただ頭がいいとか○×式ではない、質に関しての理解度がなかったら、これはできないわけです。それをどうするかという問題が大きな問題としてある。
  ただ、これは決して不可能ではないと思うんです。お互いに何かいいものというのは大体わかるわけです。食べるものでもいいもの悪いものがみんなわかるように、建築でも、そのつもりになれば、かなりの人が、いいものはどうであるかわかるということがあると思います。
  そうした形でのシステムをちゃんと考えなくてはいけない。これは特に地方自治体では、うちではそんなことはできないというところも多分にありますけれども、決してそうではない。というのは、昔の千利休のお茶器を選んだりするような絶対的な美意識がなかったらいけないということではなくて、ある程度社会のレベルに合った高いものが選べればいいのではないかと言えるのではないかと思います。

4.プロポーザルは間違っている

(図12)
  それに続いてもう1つ言えるのが、プロポーザル。今官庁では建築はプロポーザルという形になっています。プロポーザルというのは基本的に間違っているわけです。もともと建築の質を念頭に置かず、むしろ量的なものの公平性にウエートを置いて決めるのがプロポーザル。今日は土木の人もおられると思いますけれども、これはもともと土木の方のシステムです。土木の場合には、お役所でほとんどの図面を決めて、それにどういう技術を提案するか。これがもともとのプロポーザルで、建築の設計みたいにどういうデザインにするかということは基本的に含まれていないわけです。
  それを、建築家を選ぶ場合に安易に応用したのがプロポーザルです。これは入札と違っているようだけれども、やはり同じ考え方なんですね。平面とか立面とかデザインを提示しなくてもよいという理由で参加報酬なしということで気軽にできるからというんですけれども、この場合、審査員とか審査基準、審査過程というものを明らかにしていない例が多い。こういうことを含めて問題があるのではないかと思うんです。
  ただ、一般の社会では、いわゆる営業努力というものがあるわけです。いろんなことをやってもお金をもらわないけれども、仕事をとるためにやる。これは当然建築の設計でも、施工ももちろんですけれども、あってもいい。それをどこまでやるかという問題があると思います。
(図13)
  プロポーザルが間違っているのは、結局、どういう平面にするか、どういうデザインにするかということを示してはいけないというのがプロポーザルなんです。そうすると、何をやっているかというと、みんな一回図面をちゃんとかいて、それをぼやかしてプロポーザルに出す。二重手間をかけているわけです。
  コンペよりもずっと負担が大きい。しかもかえってわからなくなる。それをまた判定する人もなかなか難しい。これがプロポーザルの問題です。ちょうど手と足を縛ってボクシングをしろと言っているようなものが建築におけるプロポーザルなんです。まともに勝負をしてはいけないというルールで勝負をさせようというのは、やっぱり間違っていると思うんです。
  真っ当な勝負でないことによって設計する人に無益な負担をかけている。これが今のプロポーザルの現状だと思います。しかも、これは報酬がないからいけないとは言い切れない。これはいろんなやり方にもよります。そうとだけとは言えないけれども、少なくともプロポーザルのほとんどは、むしろ常識的な社会のルールを考えると、それにもとっている、間違っているシステムではないか。一見、質で決めているように見せかけているけれども、えせの質なんです。それは質で選んでいるんではなくて、逆に入札よりもある意味ではもっと悪いのではないかと私は思っているわけです。
(図14)
  建築の、特にコンペの場合、コンペというのは建築家にとってはある意味ではお祭りなんですね。お祭りというのは経済というものをかなり度外視して、もちろん経済の発展を無視してはできないけれども、少し無理をしてもとにかくお祭りしたら後は何もなくなったということがあります。しかし、それは人間の生きる形として、経済だけではなくて、今でもブラジルのカーニバルなんて、まさにそうで、1年間カーニバルをやるために働いている。経済的に見たら馬鹿げているけれども、人間の生きるシステムとしてはそれもあり得るなというところまで考えなければいけないのではないかということになるわけです。
  そうした質的に新しいものを選んでいくことがコンペなどでは行われているわけですけれども、残念ながらプロポーザルでは、そういうことは行われていない。
  考えてみますと、皆さんどこまでご存じかわかりませんが、例えば、割合新しい建築の時代を開いていった高知の坂本龍馬記念館、仙台のメディアテーク、横浜の大桟橋、これはいずれもコンペなんです。これは全部、磯崎さんが審査員に入っています。磯崎さんは、今まであったものは選ばないという信念を持っていて、それをうまく他の審査員に説得した。私も横浜の大桟橋をプロデュースしてつき合っていまして、その時審査委員長だった芦原先生が一番最後まで反対していましたけれども、お役所の人を含めて一般の市民の審査員の方々を磯崎さんが納得させた。これは3つともつくるのはかなり大変でした。それによって文化の進歩というものはかなりあったのではないか。
  今、日本経済新聞で、磯崎さんが「私の履歴書」をちょうど5月いっぱい書いています。その中にまだこのコンペの話は出てきませんけれども、磯崎さんは建築よりも、こうしたコンペによって新しい時代を開いていく、そうしたことを私は一番高く評価したいなと思っているぐらいです。
  それでは、それをどうしたらよいかということになるわけです。建築の目的によって、コンペは、案を出してやるわけです。あるいは規模や地域によって指名してコンペをする。プロポーザルもそれに適するものがあり得ると思うので、そういうことがあってもいい。
  それからQBS。これはクォリフィケーションズ・ベースド・セレクションということで、むしろ実績主義になるわけです。その人の実績を見ながら、提案をするよりも、審査員がその人たちに話を聞いて、一番いいと思う人を選ぶ。これは日本建築家協会が割合推薦しています。ただQBSだと若い人が出てこられなくというところが多分にある。
  それから、インタビュー方式というのがある。これは指名コンペの一種で、案を全く出させないで、建築家を何人か選んでその人の話を聞いて、それで選ぶ。
  それから、もちろん特命。この場合には、最近の一番いい例ですと、高知の牧野富太郎記念館。今、東大の土木の教授になっていますけれども、内藤廣さんが、知事の指名で設計しました。知事が委員会か何かつくっていろいろしたらしいんですが、コンペでもなければ、プロポーザルでもないし、QBSでもない。これは内藤さんに頼もうとなりました。なかなか素晴らしい建築ができています。
  それから、例えば倉庫などの場合、入札というのもあり得てもいい。これを全く否定することはないと思います。
  このようにいろいろなシステムがあります。
  医者は手術は1日に1回、週に2〜3回やるかもしれないけれども、建築は何年かに1つやるかやらないかです。大きな事務所であっても、数十の人間がかなりの時間をかけてやるものです。住宅であっても、せいぜい5〜6軒しか年にできないわけですから、それほど経験を重ねられないけれども、いろんなやり方があるということで、建築家はそれがわかっています。一方で、建築を依頼する方は、一生の間に1回頼めばいいほうです。大きな会社でも、10も20も次々にやることはないわけです。そうすると、どういうのがいいかということを相談に乗るような、設計者選定の機構みたいなものをつくったらどうか。相談に乗る人はただ有識者ではなくて、この人ならみんな信用してもらえるという人、それはそれぞれの地域の中で無意識に見えることもあるかもしれませんが、そういう人を選んで、相談を受ける窓口をつくる。これは公共建築ももちろんそうですけれども、民間でもそういう必要があれば相談に乗る。
  これはまだ先の話になるかと思いますが、できるだけそういうことを考えて、本当に社会にとって一番いい建築をつくって、社会をよりよくしていく。そのための努力というものを、建築界としてしていかなくてはいけないのではないかと思っております。

5.連歌づくりの都市景観

(図15)
  次に、もう少し具体的な話にいきたいと思います。「連歌づくりの都市景観」といいます。皆さんご存じかと思いますが、連歌というのは日本の室町時代、13世紀か14世紀に出てきた歌のシステムで、和歌の五七五七七を五七五、次の七七と、両方に分けて、人をかえて歌を詠んでいく。前の歌の意味を受けなくてはいけないし、連換していなければいけない。しかも、連歌には式目というのがあり、例えば、ここでは花を詠まなくてはいけない、ここでは月を詠まなくてはいけないという規則があり、恋の歌は全体の中で何句以内でなくてはいけない。大体100句詠むのが基本ですが、36とか1000句なんていうのもあるわけです。連歌を詠む資質があるのが条件です。それを、連衆というんです。
  そうした前の句を受け継いで、意を転じて詠むということをやっていく。式目にも合わせる。そのためには連歌師=宗匠という人がいます。これは式目をよく知っている人で、また歌を詠むのにも優れた人です。ということは決して試験を受けてきたわけではなくて、評判でそういう立場になるわけです。例えば、松尾芭蕉は、俳句の聖人、俳聖といわれていますけれども、宗匠でした。実際には全国を旅しながらその土地土地で連衆が集まって連歌をする。1週間ぐらいの場合もあれば、1カ月ぐらいの場合もある。いろんな話をしながら、次々詠んで、そこにその句がふさわしいかどうかという判断をする。そういう宗匠が何人かいて、日本中をグルグル回っていた。
  前に小説で、芭蕉は幕府の隠密であったというものがありました。これも、嘘か本当かは別にして、当時日本中を回っていろんな人の話を聞いてというのをできる人はそんなにいなかったので、本当にそういうことがあっても不思議ではないと思います。いずれにしても、そういう形で地方を回って詠んでいたわけです。
  そうしたもののひとつ天正10年の愛宕百韻。100詠んだわけです。これはよく知られている明智光秀が謀叛を起こす時に愛宕で連歌の発句を詠んだ。発句というのは一番初めの句で、普通は宗匠、連歌師が詠みます。一番最後は挙句。挙句の果てというのはこの一番最後の挙句になるわけです。そういう詠み方です。
  この場合、光秀が詠んでいるのは、「時は今天が下知る五月かな」。これは謀叛を起こす1つの合図だと言われています。この時光秀は、光秀ではなく、秀光という名前で詠んでいます。行祐という人がその次を詠んでいます。「時は今天が下知る五月かな」を受けて、「水上まさる庭の夏山」、パッと転じちゃっているわけです。かなり重いのを軽くしている。またそれを受けて、紹巴が「花落つる池の流れをせきとめて」。こういうふうにどんどん変えながら詠んでいく。これが連歌なわけです。
  これは絶対的にこうなっていくというのではなくて、その場その場でどんどん変わっていく。逆に言えば、その中の1句を詠みかえても連歌は成り立つ。宗匠でも、この連歌がどうなるかはわからない。常に変わっていくというのが連歌なわけです。
  当時よく例えられていたのが、西行。これは12世紀末ですけれども、部屋に閉じこもって、顔を日に当てて詠んだのが、「都をば霞とともに出でしかぞ秋風ぞ吹く白河関」。これは全然旅行をしないで詠んだ句ですが、何カ月かかかって1句詠んだといいます。芭蕉はもっと後になって連歌をやるわけです。
  和歌は、お城を攻めていくようにみんな1カ所に出かけていくわけですけれども、連歌というのはむしろ野戦である、どうなるかわからない、あちこち戦をしながら勝つか負けるかというものが連歌なわけです。
  ただ、明治になってから連歌はほとんどなくなった。連句という形でやっているものもありますけれども、芸術の絶対性が重んじられるようになって、連歌の曖昧さみたいなものがどうも時代に合わなくなって消えていってしまったわけです。
  逆に考えてみると、それが行き過ぎてしまった今、連歌というものを考える、私の場合は建築で考えるということが必要ではないかと思います。
(図16)
  昔の町並みは良かったとよく言いますけれども、昔の建築は10以下の材料でつくられていて、技術も安定していたわけです。何十年、何百年かけてきた民家の良さはそういう中で自然に洗練されてできてきている。そうした時代ですから、町並みも全部そろっていたわけです。
  しかし、1760年からイギリスで始まった産業革命以降、いろいろなものが大量生産になった。それ以前は、王宮や神殿をつくるのだけが建築家の仕事でしたが、住宅や工場も産業革命以降、建築家の仕事になったわけです。そうなってくると同時に、材料の数も増え、今は100以上、1つの建物に使われている。しかも、それだけではなくて、人間的なスケールを超えた大きなものが材料として使えるようになった。
  例えば、レンガの大きさは、ご存じかもしれませんが、ちょうど職人1人が持てる大きさなんですね。アメリカのツー・バイ・フォーというのも西部を開拓していくときに1人が持ち運べる大きさであるというところから、人間の手の扱える範囲、これがもとの材料だったわけです。現代は機械でやるようになってどんどん変わってきている。色も変わってくる。そういう意味で、様々な技術が出て、様々なデザインが今可能になってきているわけです。
(図17)
  そうした時代に、昔のような揃った町並みをつくっていこうということは、どうもやはり無理なのではないか。古い町並みはいい町並みであるが、それを今にできるかというとそうではない。古いいい町並みがあればそれを保存することはいいけれども、新しい町並みというのはそれなりのものでつくっていかなくてはいけない。
  そうすると、変化を続けていく現在の町並みというものは、予想図を描いて、その通りにやる。都市計画を描いて、これが20年後、30年後、50年後の姿を描いたけれども、それが完全に昭和30年代破綻をして、一番最後に丹下先生がやった東京計画1960がありますが、あれがある意味では変わりの始まりになったと思います。都市計画で町を決めるということができなくなってしまっている。むしろプログラムをするよりもプログラミング、常にどんどん変わっていく、それをいかに受けとめていくか。ある意味でダイナミックバランスということになると思います。
  例えば人間が動いていくということは、バランスを崩して前へ出て、足で受けとめてまた前へ出る。走るとなるともっとですね。そういう形で、ずっと立ったままの人間ではなくて、歩いたり、走ったり、横に行ったり、バランスを崩しながら次にバランスをとるというものが町並みにも求められるのではないかと思います。
  法でそれを全部規制しよう、いわゆる都市計画法で全部それを決めようということになると、時代の文化というものの活力を奪っていってしまうのではないか。そうではなくて、破綻したまま、都市計画というのがどうも違った形になってきてしまっているのは、新しい仕組み、プログラムではなくてプログラミングということを考えなくてはいけないというところまでなかなかうまく進んでいないからではないかという気がいたします。
  そして、変化しながらさらによくなっていく。常に変わりながらよくなっていく。これは連歌と同じで、連歌の歌を変える場合には、前後左右あるいはそこの歌がどういう座にあるか。その座というものを考えて、そこによりふさわしい歌を入れる。そのためには、できれば町筋の人たちが昔の連歌を詠んだような連衆になって、みんなで検討して、できれば連歌師がいることで町並みをつくっていく、そうしたものを考えていかなくてはいけないのではないかと思います。
(図18)
  連歌のような町並みづくりをするためには、それを指導する連歌師という立場が必要なのではないか。連衆のレベルも高くなくてはいけないんですけれども、連歌でいうと、式目を知っていたり、歌を詠む術にたけている連歌師、町で言えば、美とか景観のあり方、そうしたものをよく知っている人、こういう人がいると思うんです。そういう人たちがまちづくりの指導を果たしていく。これはシティアーキテクト、タウンアーキテクトです。
  実は亡くなった黒川紀章さんが、イタリアのある町のシティアーキテクトを依頼されたことがある。黒川さんから直接話を聞きました。そのシティアーキテクトというのはどうかというと、市長さんが新しくなると、その市長さんが誰か建築家を指名して、その人にその町の新しくできるいろんな建物の、これがいいかどうかを判断してもらう。そういう役割です。その町に住む必要はないというわけです。黒川さんはそれを受けました。いわゆる建築担当助役という感じです。彼独特の共生の思想や何かで、とにかく頑張りますと言ったんですが、一番最後に「私は皆さんの意見を十分聞きながらいいまちづくりをしていきます」と言ったら、すかさず手が挙がりまして、市会議員の方に「我々は世界的建築家である黒川紀章ということを信じてシティアーキテクトを頼むんだ。何で我々の意見を聞くのか」と言われて、彼もギャフンとしたということです。
  これは逆に、町の人たちが、本当のまちづくりというのは、民衆の意見を聞いて、自分たちの意見を聞いてやるのではできない、むしろそれを超えたものが必要であるということを知っていた。中世の教会や王宮でも、民衆がそれがいいからと選んでやったのではなくて、ある程度の資質を持った人に頼んで、その人が頑張って初めてその町の文化というものができていったわけです。そうしたものがなくてはいけない。
  これは愚民政治というと怒られますけれども、ただ、みんなの意見を聞けばいいということではなく、その資質をみんなが認めて選ぶことはできる、いうことだと思うんです。その選ばれた人がそれにふさわしいデザインをしていく。あるいはふさわしい選択をしていく。これはちょうど連歌師と同じように、例えば、その建物はこう直せと言うのではなくて、ここはこうこうこういうところのこういうものだから、こういうのはふさわしくないとか、そういうことを言って、設計した建築家にもう一回直させるということをやるらしい。そういうことにしていかなければいけない。民衆の意見を取り入れるのではなくて、シティアーキテクトあるいはタウンアーキテクトという人の見識でそれを行う。これが一番大切なのではないかと思うんです。
  それができないと、決していいまちづくりにはなっていかないのではないかということが言えると思います。
(図19)
  そこで、さきほどの「公」の話なんですけれども、今言ったタウンアーキテクトというのは「公」の存在なわけです。「公」というのは、ビジネスでもなければボランティアでもない。これは例えばくまもとアートポリスというのがあります。いろんな建築家をコミッショナーに選んで、次々建築を建てているわけです。くまもとアートポリスについていろいろと決める立場に一番初めに磯崎新さんがなって、それから高橋青光一さんがなって、今は伊東豊雄さんがなっています。これは自分がなりたいというのではなくて請われてなるもの、受け継ぎです。彼ならばいいという形になっていく。そういう立場というものがタウンアーキテクトの役割であるし、「公」というのは基本的にそういうものではないかと思うんです。
  そのためには、金銭的、経済的な信用ということではなくて、人間的な、あるいは資質的な信頼、そうしたものがないとそれはできないと思います。そうしたものが必要になっていくと言えると思います。
  本当に日本中でタウンアーキテクトが必要となると、やっぱり何千人という単位で必要になる。それがいないかというとそうでもないですが、この間の一級構造建築士の試験でも6000人の建築士が誕生しています。しかし、残念ながら今の建築士の試験にはデザインの項目はありません。デザインではなくて、法律に合わせることができるかどうかということだけで決めているわけです。タウンアーキテクトは何千人単位の人が必要になってくる。都市計画家でも建築家でもできると思いますが、そういうものが何らかの形で、ちゃんと社会から認められるようになってやっていくことで、それぞれの町筋が違ったデザインでありながら、全体に変わりながらよくなっていく。ダイナミックバランスをとる。そういうものになっていくのにはタウンアーキテクトの役割が必要なのではないかなという気がいたします。

6.21世紀はこれから

(図20)
  今2009年、21世紀になっているわけですけれども、実は世紀末というのは少し違うんです。「建築の20世紀はまだ終わっていない」とここに書きました。
  20世紀というのは近代建築の時代であったとされていますけれども、実際には19世紀というものが20世紀に大幅にずれ込んでいるわけです。
(図21)
  これも写真で幾つお見せしようかと思います。これはデザインを見せるのではありません。シュタインホーフの教会。オットー・ワグナーです。ウィーンの郵便貯金局で、大きなガラスの空間をつくって、最初の近代建築をつくったと言われている人です。この人が1907年、20世紀に入って、前時代のこういう建築の設計をしているわけです。ガラス張りの大きな空間のある国立郵便貯金局が1906年にできていますが、その次の年にこの教会ができた。近代建築と言われているものは、今から見ると鉄とガラスの近代建築だと思いますが、実際にそれができるのはまだ後のことで、20世紀の初めは、かなり混沌としていろんなものがあったと言えると思います。
(図22)
  これはたまたま日本です。日本は、1868年が明治維新ですが、ちょうどヨーロッパでは様式建築と近代建築の境目ぐらいなんですね。日本の初期の建築家というものは様式建築を学んだ建築家。逆に言うと、時代からはかなり遅れている。当時は、考え方としてはいろいろ出てきていましたが、日本では、そうではない確立した様式でつくっていて、それの象徴的な例が、片山東熊設計の赤坂離宮です。こうした何々様式というものですが、部屋によって赤坂離宮はそれも違っているわけです。外観も様式建築を模している。あるいは折衷様式。19世紀にヨーロッパでは、様式と様式を合わせて建築をしていました。これは1909年です。1909年でもまだ、こうしたものが代表的な建築であったわけです。
(図23)
  もう少し時間がたった1914年。今、改装が行われて、2階建てから3階建てのもとの形に直そうしていますけれども、これは辰野金吾が設計した東京駅です。これは、ルネッサンス様式を中心にいろんな様式を組み合わせることで、こういうものをつくっていた。日本の近代建築家の第一世代である辰野金吾が、1914年、まだこういう建築をやっていたわけです。
  建築の方はご存じかもしれませんが、ル・コルビュジエがドミノという床と柱だけの建築のあり方を提案しました。実際はできていないんですが、その提案が実は1914年だったわけです。今はそれが大きく評価されていますけれども、近代建築になってからそれが大きく言われただけで、当時はそういうことは言われてなかったわけです。
(図24)
  これはマーチャンツ・ナショナル銀行。アメリカ。ルイス・サリバン。この人も様式的なものから近代へ移行しようということで、アメリカで設計をしていた人です。ルイス・サリバンもこういう様式的なものをやっていたました。建物の入口の威厳を求めるのもそうですし、とにかく近代建築ではなくて、様式的なものが1914年、東京駅と同じ年代に、アメリカでもやられていた。
  日本に来た建築には、西回りの建築と東回りの建築があります。西回りの建築は何かというと、ヨーロッパからきたものです。その前の中国から来たものは別として、いわゆる近代建築です。辰野金吾なんかの例もそうですし、片山東熊の迎賓館もそうですけれども、ヨーロッパの西回りものが、すなわち様式が輸入されて来て、その後、前川先生なんかも、ヨーロッパからの近代建築を持ってきました。一方で、このルイス・サリバンなんかも日本にかなり大きな影響を与えています。これはヨーロッパからアメリカに行ったものをアメリカで独自に発展させた様式です。この様式は日本では丸ビルがその典型だと思います。東回りの建築です。これはオフィスビルや商業ビルに多いわけです。西回りの建築というのは、公共建築、住宅なんかに多い。
  西回り、東回り、これは今でもあります。建築でいうと、アトリエ建築家はどちらかというと西回りですね。大きな設計組織というのはやはり東回り、アメリカから学んだものが大きい。それほど意識はしていないんですけれども、かなりつながってきていると思います。例えば、ガラス張りのカーテンウォールというのは、決して西回りで来たものではなくて、東回りで来ているわけです。アメリカはこの後近代建築が発達するわけですけれども、1914年には近代を志向していたルイス・サリバンも、まだやっぱりこういう建築を設計していたわけです。
(図25)
  スウェーデンのストックホルム市庁舎。これはラグナール・エストベリの設計で、これも近代建築家が皆、感心しました。今井兼次さんや村野藤吾さんも行って、物凄く感心した。これもまさに様式の建築で、ただ、中の装飾はかなり少なくなって、部屋の片隅にいろいろな模様がある程度です。
  この建築も近代建築の初めと言われています。1923年に建ちましたが、当時これが良いと言われていた形でできていたのが、こうした様式建築なわけです。
(図26)
  これは次の年の1924年です。ヘリット・トーマス・リートフェルト。いわゆる近代建築らしい建築です。シュレッダー邸という有名な建築です。リートフェルトは家具で有名なんですね。構成主義の家具をつくった人が、家具のような感覚で住宅をつくっているわけです。
  私も見たことがありますが、空間構成などが、いわゆる近代建築の構成という意味ではなくて、近代的なモチーフで建築をつくったということで、当時ショックを与えました。しかし、建築の近代に対しては、それほど大きな影響は与えていなかった。ただ、プロポーションもいいですし、いろいろな意味で衝撃的だったことは確かです。それにしてもこれができたのが1924年なわけです。
(図27)
  日本ですと、1925年。これは東大の安田講堂です。内田祥三先生が設計しました。これはちょうどゴシック様式を折衷様式でやったもので、簡素化していますけれども、これはまさに19世紀の折衷様式が日本に入ってきて、これがむしろこの時代の建築の主流だったと言えると思います。これが1925年。だから、時代としては、20世紀はまだ来ていない。19世紀が続いているわけです。
(図28)
  これは大阪の住友ビルディングです。日建の先駆けである長谷部鋭吉さんが設計されました。石積みで、かなり端正な近代建築に似たような形ですが、よく見ると、1階のエントランス部分に、イオニア様式の柱が立っています。中に入ると完全な装飾が施されている大変素晴らしい空間なんです。これも1926年。まだこういう建築が日本では主流であるし、すぐれた建築であるとされていたわけです。
(図29)
  これは関東大震災と前後してできた丸の内ビルディングです。アメリカから来た新しいオフィスビル、新しい建築の形がやっと出てきたのが1926年なんです。
  これは建て替えましたが、この場合、1階が特に十字に吹き抜けていてショッピングが入った、オフィスと商業施設を一緒にしたのはかなりユニークだったということです。これができたのが1926年。この地区にあった三菱一号館が再現されましたけれども、これは1894年にできたレンガ造の古いスタイルでした。だから、この丸の内ビルディングが日本で初めてのいわゆる近代的な建築。しかも、それは東回りから来たものでできた。
(図30)
  そして、世界的に近代建築というものを意識したのは、これもやはり1926年なんですが、バウハウス・デッサウです。バウハウスの校舎をワルター・グロピウスが設計しました。これが今のカーテンウォール、全面ガラスができた一番初めです。当時かなり斬新なデザインだと言われていました。考え方を含めて、これが世界的に近代建築のスタートになったと言えるのではないかと思います。1926年ですから、四半世紀19世紀がずれ込んでいて、このくらいになってやっと近代建築というものができてきた。
  その前にアールヌーボーがあり、アールデコは1930年ぐらいですから、後でも様式的なものも出てきますけれども、今の建築の歴史で言いますと、このバウハウスが近代建築のスタートであると考えていいんじゃないかと思います。
(図31)
  そうしたことで考えますと、どうやら、まだ後10年ぐらいは20世紀が続くのではないか。20世紀が1926年であったとすると、そこまで行くか、あるいはもっと過ぎるかどうかわからないですけれども、本当の建築の21世紀までには、まだ10年以上あるのではないかということが言えます。
  これは建築だけではなくて、例えば元禄花見踊りなどと言いますが、江戸時代の元禄というのは世紀末と言われていました。これはちょうど17世紀末です。元禄というのは17世紀末から18世紀にかけてで、18世紀初頭がむしろ元禄の一番華やかでした。これも世紀末がずれ込んでいる。2000年になったので、20世紀は終わって21世紀だと言いますけれども、これは建築だけではなくて、いろんな面で実はまだ20世紀が続いている。21世紀はまだこれからだと。今はまだその助走段階だと考えてもいいのではないかと思います。
(図32)
  現代は多様化といわれて、いろんな意見が出てきたり、いろんなデザインが出てきたりしています。多様化というのは、英語ですとダイヴァシティです。差異、多様性のことです。
  これは考えてみると、ちょうど20世紀の初め頃、いろいろな建築の考え方が出てきて、本当に錯乱していた時代がありました。それと現在はやはりかなり似ているのではないか。多様化というのは、まだ全体どういうふうにいくかという道筋が見つかっていない時代ということで、今さまざまな思想とかデザインというものが輩出してきているところだと思います。
  それが多分、だんだんと何かに収斂していく。どういう形でどうなるかというのは、まだ10年以上先かもしれません。それは後になって歴史がそれを証明する。実はバウハウスができた時でも、ル・コルビュジエやミース・ファン・デルローエが建築をやった時でも、新しいものをつくろうと意図していたことは確かですけれども、これが本当の20世紀と後で位置づけられるとは自分たちでも本当は思っていなかった。だけど、全体を後になって収斂して、20世紀の半ば頃、日本ですと戦後ですが、その頃になってそういうものがどんどんできていく。鉄とガラスとコンクリートの建築は、19世紀から20世紀も、かなり後であった。そう考えると、もうその芽は出ているかもしれません。しかし、今これが実際の21世紀だという形で共通認識を得ているものはまだないと思います。
  私も、いろいろな建築の考え方、海外の建築の考え方、デザインを見ていますけれども、それぞれみんな新しい試みをやろうと取り組んでいます。だけど、見ていて、これが21世紀だなと思うものは残念ながらまだ出てきていないのではないか。あるいはこちらの見方が間違っていて、後になってあれがそうだったと言えるかもしれません。その可能性は当然あるわけです。けれども、少なくとも今こういうものだというものではない。ただ、そのためのいろいろなものが出てきていると言えると思います。
(図33)
  新しい21世紀というのはどうかと考えましたがどうも中世のイメージなのではないか。ヨーロッパで言いますと、4世紀から15世紀中頃までが中世と言われていました。日本で中世というと鎌倉時代から室町時代で、ちょうど連歌ができた時代です。中世というのは、以前の歴史でいうと、ローマ時代の中央集権が4世紀ぐらいになくなって、暗黒の時代と言われていました。その後のいろいろな歴史の調査によって、いや、むしろ暗黒の時代ではなかった。中央集権はなくなったけれども、それぞれの地域でいろいろな文化が成熟している時代、これが中世だった。いわゆる技術の進歩はないけれども、文化的には成熟していったのが中世である。新しいものは起こらないけれども、それまでにあったものをそれぞれの地域で熟成していったのが中世であるという見方になっています。
  日本でも、江戸時代の藩に分かれていた時代では、それぞれの地域で、それぞれ豊かな文化があったわけです。そういうものがあるのではないか。もちろん、現代は当時の中世とは当然いろいろな意味で違うわけです。
  例えば、情報がどんどん進んでいるわけです。旅行するのもかなり簡単に世界中どこにでも行ける。
  今考えると、20世紀というのは、黒川さんが「ホモ・モーベンス」という言葉で言いましたけれども、いわゆる定住しないであちこちへ行く時代だったと思います。当然コミュニティはできないわけです。それに対して、中世はそれぞれの地に住まざるを得なかった時代でしたが、これからの21世紀は、そうではなくて、むしろ進んで地方に定着していく時代ではないかということが考えられる。
(図34)
  今のIT化が進むと、かえって人々を成熟させる。それを現在に実現している例を1つ挙げますと、アメリカの北西部、サンフランシスコから北東に1000キロぐらい行ったところにボイジーという町があります。スマートシティといわれているところです。アイダホポテトで有名なところです。1940年代は3万何千人の町だったのが、現在20万人の町になっている。しかも、まだそこでは、アイダホポテトもありますし、アメリカで最大手のスーパーマーケットのアルバートソンというのがここで発祥しています。
  ここが何故3万人から20万人になったかというと、その町の人の努力もあるわけですが、ここでは1940年代以降、町として、開発をするよりも、環境を重視したまちづくりをしようという政策をとり続けてきたことが理由に挙げられます。これはアメリカでも日本でもそうですが、都心というと、普通400%ぐらいの容積率がある。ところが、このボイジーでは、今でも都心の容積率は150%に抑えられている。これは結局、「みんなそれでやろうよ」ということで、その中でどうなるかということです。実は残念ながら私は行ったことがないんですが、池澤寛さんという私の友人が調査に何回か行ってきた。おいしいレストランが多いらしいです。とにかく楽しんで生活できる環境ができている。IT産業を誘致して、大変優れた人がこの町にどんどん住みついて、増えている。
  これは経済中心ではない。ボイジーに住んでいても、ニューヨークでもロサンゼルスでも同じ仕事ができるという時代です。必要があれば飛行機でどこでも行けるということを含めて、むしろ住むところでは、ゴミゴミしたところよりも、人間の生活を楽しめる、こうしたところに住もうという人が住んでいるいい実例ではないかと思います。
  そして、豊かな住環境ができると、こうしたIT産業のすぐれた人材が集まって定着していく。仕事のために大都市に住む必要性もなくなっていく。その結果として、住みやすいところに定住が高まっていく。そうすると、当然それぞれの地域の特性というのも出てくると思います。そうしたものがこれからどう出ていくか。
  今日本でも、地方分権などと言っていますが、日本で言っている地方分権というのは、どう区割りをするという話をしているだけです。これが基本的に違う。地方分権の一番重要なことは、昔の藩の政治もそうですけれども、中央に出す税金があっても、基本的に財政がそれぞれの地域で独立できるということです。これができなかったら地方分権にはならないわけです。そうした中で、それぞれの地域の特性を生かす必要がある。
  今の日本ですと、どこどこの地域が収入が低いから国からお金を配分しないといけないと言うけれども、それは間違っていて、むしろ本当に地方分権して、10年、20年経つと、力のある地域は東京よりも豊かになる。そういう可能性は、現在の税金のシステムだけで地方を見るとあるのか。地方から吸い上げて分配しているわけですけれども、そうでなくて、本当にそれぞれの地域で考えていく。その上で、日本という全体のあり方を考える。
  これは先程言った法と人の問題。「公」をどう考えるかという問題ともつながっていくと思います。そういう形で、人々が、移動はするけれども、住む場所はそんなに変えないで、その場所での生活を楽しむ。当然コミュニティもできると思いますし、楽しみながらそれぞれの地域の競争もしていくということがあり得ると思います。
(図35)
  一番初めに「経済」というのは、経国済民と言いましたが、これが生きてくるのはそうした地方分権がうまくいって、それによって地域間の競争が起こってくるときではないか。これはかなりプラスに働いてくると思います。そういうものの芽を摘み取っているのが現代だと思います。
  建築と都市の21世紀のあり方と、そうした社会のあり方はかなり連動しているわけです。そういう形で新しい時代をこれから迎えなくてはいけない。現在は21世紀の助走段階なのであって、新しい中世とはどういうものかをイメージして、21世紀というものを私たちはこれから構築していかなくてはいけないのではないか。
  そのためには、今までいろいろ申し上げましたけれども、今までの常識とは違った考え方、柔軟な考え方にしていく。ルネ・トムのいった破局の理論ではないですけれども、鉄板が折れ曲がらないでピンとなる。直ったらどうなるかというイメージで、今のあり方の延長で考えるのではなくて、新しいあり方としての21世紀を構築していかなくてはいけないのではないかということを、あまり説明がうまくなかったかもしれませんけれども、私の考えとして今日はご説明させていただきました。どうもありがとうございました。(拍手)
 

フリーディスカッション

與謝野 馬場様、ありがとうございました。
  馬場さん独特の深い歴史的識見を念頭に置かれた、人間圏の社会的成長についての過去、現在、未来の明るい展望と、その人間圏のありようの検討について、望むべき心すべき基本的な認識等々について、縷々、馬場さんご自身のおことばで非常にわかりやすくお話しいただきました。大変ありがとうございました。
  それでは、せっかくでございますので、この場にてのご質問を何人かの方からお受けしたいと思います。どうぞ遠慮なく挙手を願います。
赤松(まちづくり神田工房) 3点お尋ねします。まず建築職能に関してのお話がございました。職能団体として、例えば弁護士の場合、弁護士法に定められた弁護士会と弁護士報酬があるわけですけれども、そういったものと関係性やシステムが必要という理解でよろしいのかというのが1点目です。
  2点目です。建築の設計者、施工者の選定ということでお話がございました。国のシステムの構築というのがなかなか一朝一夕にいかない部分もあると思います。そうした中で、自治体が条例を制定していくという可能性があるのかということです。もちろん後段のお話で、法で規制すると若干制度的なそごがあるのかなという気もしますけれども、そういったものの可能性について、2点目としてお尋ねします。
  3点目。日本でタウンアーキテクト、シティアーキテクト的な役割を持たせようとした場合、行政職の中で、特別参与職のようなスタッフ職として任用するのが1つの可能性なのかどうかということを3点目としてお尋ねしたいと思います。よろしくお願いいたします。
馬場 一番初めの職能。弁護士法、医師法とあるわけです。それと合わせて建築士法というのをつくりたいと言っていて、それが3大職能であると建築家は言っているんですが、社会的には残念ながら弁護士と医師は認めているけど、建築士は認めてくれないんですね。それは何故かというと、建築家、特に施工会社も含めてなんですけれども、経済にかなり大きくかかわってきている。職能だけで本当に律し切れるかというとそうではない部分も確かにあるわけです。私も、入札で決めるようなものはいけないと思いますし、建築士法というのは必要だと思うんですけれども、それは弁護士法、医師法とは違った形での資格のあり方になるのではないかと思っています。
  2番目の、条例で設計者、施工者の選定の仕組みをつくることはできるかということについては、今の日本の法律の仕組みからいうとそれがあると思いますけれども、さきほど言ったように質とか美とか文化に関して、条例ではなかなか決められないわけです。今の法律を否定するつもりは全くないけれども、それと折り合いのとれた形での社会の仕組みのあり方、これが考えられなくてはいけないのではないか。条例あるいはその運用では決められないのではないかということがあると思います。
  3つ目のタウンアーキテクト、シティアーキテクトが今の行政職で特別の認可でできるかということです。これは不可能ではないと思いますが、そのためには少なくとも、例えば景観をつかさどるためには、いわば美的な形での試験なりをちゃんと通って、この人なら大丈夫だということを含めた資格があるかどうかということになっていくのではと思います。ただ大切なのは、資格としてあるというよりも、「私」と「官」の間に「公」があって、むしろ「公」の立場で、町からどう認められるかということではないかと思います。その立場として公務員であることは決して否定しないけれども、そのためには別の新たな立場が必要ですし、あるいは「官」と「民」に分けるのではなくて、その間の立場で、どういう人でもなれるけれども資質がなければなれないという仕組みを考えなくてはいけないのではないか。
  これは大分前なんですが、イタリアのオリベッティという会社があります。今はどうか知りませんが、前にそこの重役と話したことがあるんです。もう20〜30年前の話です。会社の利益の3%は仕事に全く関係ない文化に出さなくてはいけないというのが社是で決まっているということです。そして、その役員になるためには、音楽でもいいし、演劇でもいいし、建築でもいいし、絵でもいいし、何か芸術文化の面である程度すぐれた見識がないとなれない。私がその時に会った人は建築担当の副社長でした。その人は世界中の建築家の裏話まで全部知っているんです。日本では丹下さんにお願いして施設をつくるとか、そういうこともできる。それだけではなくて、音楽担当の人は音楽とか、会社の利益の3%をそれにつぎ込む。
  それを聞いた時は凄いなと思いました。確かにそうなんですが、それが社是であるというよりも、社会的な役割であるというのが当たり前だという考え方が基本にあったと思います。
  そういう資格を取るためには、誰が審査するかは知らないですけれども、1つの歴史の流れがあって、その中で役員になっている人が、あいつは建築のことをこれだけよく知っているからいいだろうとか、仕事と同時に、そういう文化面での優れた面がないと役員にしない。これはなかなか優れたものだと思います。これは建築と都市の分野でも、特にそういう文化にかかわるものでは是非必要ではないか。今の「官」の役割だけではないのではないかと考えていただきたいと思っています。
河合(樺|中工務店) 今日連歌の話が出たのが、まちづくりに関してすごい視点だなと思いました。先程質問された方の最後の質問にもかかわるんですが、シティアーキテクトとかタウンアーキテクトのように、これからの町の方向を形づくっていったり、合意形成をまとめていくような役割の人についてです。我々建築に携わっている者から見ればイメージしやすいんですが、実際それを実現しようとすると、地域の方の合意を得る必要があると思います。その地域の方々から見て、どのようなイメージでとらえたら、そういうものの合意を得やすいんでしょうか。普通の一般市民から見た時に、どんな人だととらえたらいいかというのを教えていただきたいと思います。
馬場 黒川紀章さんのように市長が任命する助役的なシティアーキテクトというのがあるかもしれないんですが、日本の場合はそうでなくて、昔から町衆、1つの町筋をつくっている、銀座でも歌舞伎町でもいいですが、そういう町の主な人たちの中で文化に対してかなり資質の高いものを持っている人がいます。この話を前に福岡でしたことがあります。建築家ではない一般の方たちにです。みんな大変感銘してくれて、そういう人たちをおだてるというと言葉が悪いですけれども、皆さん、そういう資質がちゃんとあるんですよと言いました。タウンアーキテクトもそうですし、いわゆる座を形成する連衆も、そういう訓練を経て初めてそういうことができるようになる。
  自分がビルなり何なりオーナーとして持っている人たちを連衆にするとすると、お互いにただ町の経営をするということだけではなくて、町の景観を考えようということになるのではないか。そういう流れが今出てきている。ですから、うまく話を持っていけば、今は理解しにくいかもしれないと思いますけれども、ちゃんと話をすれば、かなりわかってくれるのではないか。
  いいかどうかわからないですが、前に銀座と日本橋のロータリークラブでその話をしたことがあります。割合皆さんわかってくれました。それができるかどうかは別ですけれども、問題はシティアーキテクトとかタウンアーキテクトになるような資質を持っている人は大勢いると思うんです。そういう職能というか立場はなかなか今認められないわけですが、それをどうやるかというのが、これからのやり方であって、連歌を芭蕉が詠むにしても、これはやはりただではないと思うんです。やっぱり芭蕉が行くよという連絡が前もって行くと、歌を詠む人がみんな集まって、面倒見て、滞在して、いろんな世間話をしたりしながら歌を詠んでいくというシステムが、室町時代からだんだんできていったと同じような形になるのではないか。そして、これは法律で決めてつくるようなものではなくて、自発的にできるようなものでないと、多分うまくいかない。それが、逆にうまくいくと、爆発的に伸びていく可能性はあるのではないかと私は思っています。また建築家や都市計画に従事する人たちの第二の人生としての可能性があるかもしれません。
松井(大日本コンサルタイト株式会社) タウンアーキテクトというものが町や行政に必要だというのは、私もかねてそう思って、大賛成です。質問の趣旨は、そこに建築士である必要はないのではないでしょうか。
馬場 私もそう思っています。建築士でもいい。だけど、デザインや美的教養を問われていない今の建築士が全部とは言わない。それにふさわしい人はかなりいると思います。むしろ都市デザインしている人は当然資格があると思いますし、あるいはそうでない一般の人、今パッと思い出した例ですと、食文化や陶器で有名な北大路魯山人、あの人はまさに素人だけれども物凄い見識を持っていたわけです。もちろん芭蕉もそうでしょう。そういう人でもいいと思うんです。
  結局、町衆がみんな、その人のいうことなら聞いてやろうではないかと思うような人でなかったら駄目ではないかと思います。
松井(大日本コンサルタント株式会社)先程の弁護士法と医師法とは違いますが、 まさにそこが職能として、適正な人という人物像の議論がこれから必要で、それが21世紀につながる、という話はそう理解させていただきました。
  これは意見なんですが、大桟橋のお話をされていた時に、建築の構造物としてあの構造物が選ばれたのは、コンペとして1つの成功だと思います。その一方で、横浜市のまちづくりを40年されていた方がおられて、赤レンガ倉庫から横浜ベイブリッジがきれいに見えるように、大桟橋の先端は平らのままにして欲しいというのがその方の40年間思い続けていたことだそうです。それが大桟橋の先端に桟橋機能としては不必要なホールをつくったがために、ベイブリッジの半分が見えなくなってしまって、視点の価値が下がったという指摘は、我々の世界では大事なことだなと肝に銘じています。そういうことのためにも、先程の話にあったタウンアーキテクトの必要性につながる。
馬場 大桟橋は私が審査員ではなくて、コンペを運用する仕事をやりました。その時には市の方からそういう話は出ていなかったですね。ただ、そういう考えの人がおられたら、そういう意見が公にされるシステムがあればよかったですね。結果としては、最後に3案残ったものをインタビューして決めたんですが、その中ではあれが一番低いものだったことは確かです。結局、船とどういうふうにブリッジでつなげるかということがかなり大きなことになったと思います。
與謝野 私からも一つご質問をさせていただいてよろしいでしょうか?連歌師の心というのは、「連(むらじ)」つまり文化を「つなぐ心」だと思います。その「つなぐ」というこころを育て育むという側面において心がけるべき事柄についてのお考えを、学生対象もありましょうし、社会的にベテラン層対象もありましょうが、現状と展望を交えてもう少しご紹介いただければありがたい限りです。
馬場 和歌にしても連歌にしても、結局「遊び心」なんですね。遊び心が文化の基本にあって、それがどんどん発展していく。ある意味では源氏物語なんかにしても、そういうものが1つの小説を生んだと思います。そういうものは確かに現在ちょっと弱くなってきている。
  今日も日経新聞の文化欄に書いてありましたが、紙くずを集めるのが好きな人がいて、それは遊び心でやっている。前は忙しかったけれども、そういう遊ぶ余裕があった。今はそういう余裕がなくなってしまっていると書いてありました。まさにそういうことがあると思います。
  まじめに仕事したりするのはいいけれども、それと同時に、アナザーライフというか、人間2つか3つの生活面を持つことが必要です。20世紀はそうではなかったんです。どんどんそうでない方にいってしまった。それを、そうでなくて、それぞれのゆとりを持って生活を楽しむようにする、まさにそういうことではないかと思います。
  ボイジーなんかでは割合それがちゃんと行われているらしいですね。それは不可能ではない。むしろ日本だけが20世紀を進み過ぎてしまっているという感じがありますね。
與謝野 そのキイワードは「遊びこころ」である、ということですね。本日のお話を端的に象徴されるおことばをご紹介いただきましてありがとうございました。
  皆様におかれましては熱心にお聞きいただき、またご質問をいただきましてありがとうございました。さらに、馬場様におかれましては、大変に示唆深いお話を頂き、またご質問にもご丁寧にお答えいただきましてありがとうございました。
それでは、最後に本日貴重なお話をいただきました馬場様に、皆様からいま一度大きな拍手をお贈りいただきますようお願いいたします。(拍手)。
これにて本日のフォーラムを締めさせていただきたいと思います。
ありがとうございました。

 



back