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日建設計 
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第26回NSRI都市・環境フォーラム

『生活地へ-幸せのまちづくり-』

講師:  浜野 安宏 氏   

ライフスタイル・プロデューざー

PDFはこちら → 

日付:2010年2月18日(木)
場所:日中友好会館

                                                                            
1. 都市文明とライフスタイル

2. モビリティ社会と商業文化

3.生産と流通の有機化

4. ストリートからの街をつくる 

5.幸せな生活地へ、幸せな国へ

フリーディスカッション

 

 

 大変長らくお待たせいたしました。ただいまから第26回都市・環境フォーラム を開催させていただきます。本日は、お忙しいところ、また、お寒い中、お越しくださいまして、まことにありがとうございます。
  本日のご案内役は、私、日建設計広報室の谷礼子でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
  さて、本日のフォーラムは、ご案内のとおり、株式会社浜野総合研究所・代表取締役社長浜野安宏先生からお話をいただきます。
  本日は、「生活地へ─幸せのまちづくり─」と題してご講演をいただきます。浜野先生は、先進的なライフスタイル・プロデューサーとして、まちづくり、商業デザイン分野を初め、幅広い分野において活躍されていらっしゃいます。FROM−1st、東急ハンズ、AXISなど、総合プロデュース、商業コンサルタントとしてご活躍をされるとともに、神戸ファッションタウン、横浜みなとみらい21都市デザイン委員など、多くの公的活動もされていらっしゃいます。詳細については、お手元のレジュメのとおりでございます。
  それでは、早速講演をお願いしたいと存じます。皆様、先生に大きな拍手をお送りくださいませ。(拍手)

浜野 浜野です。よろしくお願いします。今紹介していただいたわけですが、自分で自分のことを紹介するのは非常に難しい人で、逆に損をしています。建築家だったらいくらか楽だなといつも思います。若い頃から、安藤忠雄さんとも随分仕事をしてきましたが、安藤さんだったら、「建築家の安藤忠雄さんです」と言えば、何をやっているかすぐわかる。けれども、「浜野さんは、プロデュースなど、何かすごくいろいろな大きなお仕事をやっておられる方で・・・・」となってしまって、結局何だかよくわからないんですね。その分だけ損をしているわけです。
  他にも肩書で損をすることが多く、政府の委員などでは、「建築家は誰にしますか」ということはありますが、「プロデューサー」という項目はない。だから、いつも忘れられて、最後に「全体のまとめ役みたいな人いませんかね」という形で、本当に困った時に私の名前が出てくるわけです。けれども、本当に、いろいろなところで、お役に立っているんですよと申し上げたいなと、実は本を55冊書いているんです。その割には知らなかった人もいるかな、と思っています。
  私は、磯崎新さんという日本で超オーソリティーの建築家に昔からお世話になっています。大学時代から磯崎さんにどういうわけかかわいがってもらいました。この間、クリストとジャンヌ・クロードの展覧会を東京ミッドタウンの中にある安藤忠雄が設計したデザインサイトでやっておりました。三宅一生さんが展覧会をプロデュースされたというのでそのオープニングに行きましたら、磯崎さんがいらして、「浜野君、昔、君が苦労して上海をやっていたころは、浜野君のいうことはなかなかわからなかったけれども、今は大分わかるようになったから、もう一回上海をやったらどうですか」と言われるようなことがありました。
  中国といえば、以前は非常に苦労して、おまけにだまされたりといろいろなことがあったので、中国の仕事をやめていたんですが、最近、中国の内陸方面から、私にしか出来ない依頼があるといって私のところにやってこられました。他にもタイのダウンタウンのまちづくりのお手伝いを始めておりますが、私が今一番情熱を傾けることになるかなと思っているのは、インドのタージマハールの近くのホテルです。オーナーが私の考え方にすごく賛同してくれたので、建築家の領域の半分くらいまで入り込んでかなり深入りしたので、最後まで建ってくれれば建築界に一石を投じられると思っています。あるいは、ロシアでも面白いまちづくりがありそうだとか、台湾でも新しい都市計画があるなど、大きな話がたくさんあります。ソウルにも沢山あります。これからは日建設計の海外組と組んで、そういうまちづくりも一緒にやっていけたらいいなと思っていたところに、こういう機会をいただきましたので、私がどういう役割を果たして、どういうことを考えて、日本のまちづくりについて何を言ってきたか、やってきたかということをご理解いただいて、今後の参考にしていただいたらいいなと思っております。
  今日お話しするのは、昨年出しました『生活地へ』をテキストにしています。この「生活地」という言葉は私がずっと前から言ってきた言葉です。「生活者」という言葉は今一般用語になっていますが、私が「生活者」という概念を『ファッション化社会』という本で出すまでは存在しなかったのです。私の造語みたいなものです。
  「生活地」という言葉もまだ耳なれないと思います。これは住宅地、商業地、ビジネス地、業務地区などを包括する概念で、それらを分けることに対する反対する意味で創った言葉です。「生活」を目的合理主義でセグリゲートすることをずっと私は反対してきました。超高層に対しても非常に懐疑的で、超高層は人間を幸せにするかなとずっと思っています。西新宿についても大変批判的です。私は、28歳の時、新宿新都心開発協議会の委員でした。政府から任命された委員です。その頃、私と一緒に座っておられた森稔さんや、三井不動産の当時の専務さんで会長までやられて亡くなられました坪井東さんと並んで、私は最年少の委員でした。その頃から、生活と切り離して都市をつくっていくということに対して非常に疑問を持っていたんです。
  京都に生まれたせいだろうと思います。私は京都で生まれて京都で育ちました。京都中京区の町家に生まれて、前の道でメンコをしたりして遊んで、商店街のほうまで歩いていくと、通りの延長に錦の商店街があった。私は、「東急ハンズ」という業態をつくりましたが、「東急ハンズ」というまったく新しい業態は錦が源流になっているんです。だから、身近なところから物を発想していっています。そういったことを全部まとめて今からお話しします。 
  シンボリックな話として、「東急ハンズ」の話をさせてもらいます。ハンズという名前は実はお釈迦様の手からとったんです。お釈迦様の手が花を花以外のものに生まれ変わらせたのです。「せそんねん(せそんねんま)げ(げそ)」──世尊というのはお釈迦様のことです。お釈迦様がそっと花に手を添えてにっこり笑われた。そのことを「ねんげみしょう(ねんげみしょうの)」といいます。五百羅漢というのはお釈迦様の500人のまな弟子ですが、その中の1人が、お釈迦様が手で花に触れて笑った時に、「私は、その意味がわかりました」という音波を発信したんです。それが迦葉という弟子ですが、お釈迦様は「君は、わかったみたいだな」と言って、迦葉に跡継ぎを任せた。花は花でしかなかったのに、お釈迦様が手で花に触れて、ある深い意味を込めてニコッとされたことで、弟子に、花というのは宇宙三千世界のすべてを象徴するものですよということが伝わった。つまり、今日のミニマリズムまでいっちゃうんですが、花を通じてミニマルに象徴される宇宙の真理をお釈迦様が語ったわけです。
  それはまさに、私が父から教わったことです。父からいつも「安宏、お前は、いつも俺も考えていたというけど、手で物をつくることが大事なんだ。物をつくるのは手なんだよ」ということを言われた。「頭で考えているだけではつくったことにならないよ。手で最終的に書いたり、創ったりしなければいけないんだよ」ということで、父は「世尊拈華、拈華微笑」という話を私にした。そのことを思い出して、東急ハンズという業態、手の復権ということを生活者に呼びかける店をつくろうと考えたんです。クリエイティブ・ライフストア・東急ハンズという概念をつくった。それはまさに新しい業態に成長しました。単なるホームセンターではありません。非常にたくさんのことが折衷された新しい業態になっています。手で集めて手で売ろうということで、東急不動産が、一切プロを入れず、東急百貨店からも人を入れず、全く素人がつくり出した業態なんです。
  そういう意味で、その新しさで、世界からも注目される業態になってきた。もっと伸びる方法があると思いますが、私は今は、かかわっていません。今日まで何とか強く生きてこれたのは、そういう「釈迦の手」という強いコンセプトのバックグラウンドがあると思うんです。
  開場時に上映していたDVDは、私の40周年の時に出して大変評判がよかったもので、私の事務所だけで売らせていただいているDVDです。ほとんど釣りばっかりではないかと言われるぐらい釣りが出ていますが、そこに私の考え方がよく出てきます。そして、この「生活地へ」という本の中にも、私の都市や生活、街、家、そういう考え方が全部出ています。
  私は嫌いなものは嫌いだし、悪いものは悪いというので、失礼になる方がいらっしゃるかもしれませんが、そのかわりいいものはいいとちゃんと褒めます。非常に主観的に生きている人間で、別に国からお金をもらっているわけでもなければ、大企業に食わしてもらっているわけでもないので、そこのところはご容赦願いたいと思います。
  今日は「生活地」というテーマで行います。
(図1)
  私は、先程から申し上げているように、「居住地、商業地、業務地、娯楽地とセグリケートされてしまった近代日本の都市の問題を、生活地というコンセプトで再統合する。人間都市の再構築を現場で実顕する」ということを目的にしています。この本(「生活地へ」)の表紙の写真には、非常にたくさんの人が歩いています。人が歩いているこの渋谷の駅前の街は、街の中だけど渋谷の駅前は生活地ではないんだろうか。私は渋谷・青山景観整備機構(SALF)というNPO法人の専務理事をやっていますが、渋谷・青山・原宿を本当の生活地としてより発展させていきたい。だから、私は青山に棲んで青山ではたらいていています。
  その象徴的な仕事がこの写真に写っている渋谷の駅前のQFRONTです。東急百貨店の子会社が持っていた渋谷駅前のこの土地に世界最大のメディアを入れて、ビルをこしらえた。この時に建築家に私が頼んだことは、建築家は消えてくれということ。「不在建築」というテーマを与えて、なるべく目立たない建築を造り、建築自身は何てことないけれども巨大なメディアがあることで存在感のあるビルにしたい。そういうことで、こういう格好のシンプルな駅前ビルになった。これができる前は、もう忘れられた方もいらっしゃると思いますが、ごちゃごちゃ看板だらけの汚いビルが建っていました。後で、詳しくまたそのお話をしたいと思います。
(図2)
  仕事の仕方やコミュニケーションの仕方で、これも私の造語なんですが、「共育」という言葉があります。「きょういく」とも読みますが、今までの古い教育とごっちゃになるので「ともいく」と呼んでいます。コエボリューションという英語、生態学用語を私なりに漢字にしたものです。お互いに学び合う、教え合う、そういう関係で組織、チームをつくっていこうということで、街も、1つのビルが勝手に1つ1つの自己存在を主張するのではなくて、お互いに育て合うような関係でビルをつくっていかなければいけないと考えています。
  建築家は、時とすると平気で街の真ん中に裏向けるような、全くコンテクストを無視したような建築を建てる。例えば、キャットストリート。私が一生懸命つくっていたら、有名建築家が裏向きの建物をつくった。そこはテナントが何代かわっても売れないため、今は下着屋になっています。キャットストリートがせっかく面白い道になっているのに、何で、建築家が裏向きの建物をつくるんだと怒っているのです。街のコンテクストを考えない建築家が世界的に増えてきたと思いませんか?
  「共育」というのは、一方通行の知識を押しつけるのではなく、共に育つことを基本としています。幸せなライフスタイルをともに考えることです。建築家はともすると、自己主張が激し過ぎて、それが街の迷惑になるということを忘れてしまうんですね。
(図3)
  私は、青山学院大学の教授をやっていました。もっと長くやるつもりだったんですが、定年で1年で終わってしまいました。街に学生を連れ出して、一緒に歩きながら、街はこうあるべきではないかということを教えてきました。彼らは、非常によく理解しました。西新宿の大きな問題も、私はこの方法で学生たちを集めていろいろ教えてきました。 
(図4)
  これは赤坂サカスです。私が非常に高く評価している開発です。
  ミッドタウンや赤坂サカスは私の理論、私の考えている理想に近いようなことをおやりになっている。たまたま両方とも三井不動産なんです。三井不動産の「&」というマークは、実は私が考えたマークなんです。あれをコンペでとって、我が社でやらせていただいたんです。だから褒めているわけではないんですけど、街の延長として街区づくりとなっていて、街の中にスッーときれいに溶け込ませていると思うんです。
  何で私が六本木ヒルズを言うかというと、街に背を向けて、インナーモール化しようとしています。プライベートな自己権力域を中に押し込めて塀を巡らせ、ここから先はおれの城だ、そういったつくり方をされていると思うんです。だから、あのやり方では商業的にはうまくいかないと思います。一方で、ミッドタウンは、今は少し苦労されているかもしれませんが、時間が経つと必ず大変いい環境に育っていく、まだまだ育つ可能性のある空間だと思っています。
(図5)
  都市文明とライフスタイルということを今日はお話しします。
  私の全ての考え方の基本になっているのは、「ネイチャー」、「ビジョン」、「コンセプト」の3つのワードです。自然というのは、単に大自然というだけではなくて、その街の自然、人の心の自然ということも含めて、自然をよく観察する、その中に飛び込んで自然を感じ取る。そこから、まずビジョンをつくる。ビジョンなくしてまちづくりはないし、建築もないと思うんです。多くの場合、ビジョンの前に行政的な制約や予算、経済合理性、そういうことだけが先走って、一番肝心なことを忘れる。このビルを一体何にするんですか、この街はどういう街にしたいんですかということがないんですね。取ってつけたような言葉はたくさんあります。でも、歯の浮くような美しい言葉を並べても仕方がないんです。一言で言って、非常にわかりやすく簡潔にビジョンを表現できなければ大きなチームは組織できない。そのビジョンがあるからこそいいコンセプトが生まれるんです。
(図6)
  私は、実は、グランド・ティトンという山が大好きで、すぐふもとに家を建てて、夏、8月の1カ月、90年代は2カ月住んでいました。22年間夏を過ごしています。私の大先輩、大変影響を受けた方に、ヘンリー・デビッド・ソローという方がいまして、「グレートネイチャーから知識をもらった者は都市の人間に伝えなさい」、教えなければいけないよということを「ウォールデン−森の生活」で書かれてたので、私も都市に帰ってきてはいろいろ教えているわけです。
  私は今やっておりませんが、子どもたちに自然の中でいろんなことを教える「ハマノ・ネイチャースクール」を開催していました。その時にいつも言っていたことは、「山のように考える(シンキング・ライク・ア・マウンテン)」、「川のようにただある(ジャスト・イグジスト・ライク・ア・リバー)」、「雲のように行く(ジャスト・フローイング・ウイズ・ア・クラウド)」東洋哲学の源流のような哲学ですが、特に大好きなのは、山のように考えるということです。山を見て悟る、山を見て何かを感動するとか、山を見て何かを学ぶということではなくて、山になる。山の側に立てばきっとこう考えるだろうなということです。こういう考え方に立てば、今のエコの問題もみんな解決するんです。地球の側に立って考えたら、こんなダムは造ってほしくないだろうな、こんなに空気を汚してほしくないだろうなということになる。地球に優しくなんていう考え方は非常にインチキ臭いですね。地球になってみればいいということなんです。
  これは高度な哲学で、危険性を伴う。ともすれば、私なんかは、森になるとか川になると、かなり入り込み過ぎて死にそうになりました。そういう経験が何度もあります。雨が快適だなと思い始めて、雨の中で平気で寝てしまったりすると、気がついたら、寒くて凍えそうになる。釣りに行って、深いところで大きな魚とファイトしているうちに一緒に死んでしまいそうになる。でも。そういうことによっていろいろ見えてくるものがあるということです。
  「川とともにただ在る」ということが大好きなんです。川をなるべく曲げない、止めないということ。だから、私は三面護岸やダムは大嫌いです。フレンズ・オブ・リバーという任意自然保護団体を私はつくっていたほどです。
  私は横浜の細郷道一市長さんの時に非常にかわいがっていただいた。オフィスまで横浜に移して、横浜のウォーターフロントに理想の「みなとみらい」をつくるために頑張ろうとしていました。横浜みなとみらいに日建設計さんがやられたホテルのデザインの審査員をやったこともあります。横浜にすごく入れ込んでいたのです。その時期と私がフレンズ・オブ・リバーという川の保護団体をやっていた時期が重なりました。長良川の河口堰の反対運動の一番大変な時でした。タレント、有名人、マスコミは工事が始まってから反対運動に来る。でも、そんなのは何にもならない。工事が始まる前に僕らは抗議をしたり、語り合ったりしてきました。僕は派手な運動は一切やっていない。まじめに話し合ってきました。
  だけど、工事が始まってしまったので、私はやめたんです。工事が始まる頃になると有名作家やタレントが出てきて、カヌーで集まったりするわけです。
  私は、川を1本ぐらいは自然のままとっておいてほしかったんです。長良川というのは100キロ以上の流路のある川で、ダムのない最後の川だったのです。長良川にダムができてしまったことによって、日本には100キロ以上流れている自然の河川は1本もなくなったんです。そういうことを知っている人もいらっしゃると思うんですが、ほとんどの人が知らないんです。学生なんかは無知にちかい。
  日本はコンクリート化されていってもいいのかと僕は思っています。そういうことを最近民主党は口では言っていますが、そのボスみたいな人たちがダム工事で金を儲けている。異常な社会です。
(図7)
  私がやった仕事で最も誇りを持っている仕事はこの仕事です。全く、樹木に隠れて建物が見えませんね。「BALI MUST NOT BECOM ANOTHER HAWAI」というのは、1972年に世界銀行のコンペに私が応募したときの企画書の1行目です。マクナマラさんという人が世銀の代表になった頃のことです。バリは、超高層ビル群で固めて、ハワイのようにするところだったんです。このコンペは、私が命がけで頑張る前は、カナダとアメリカのチームが勝つ予定だった。ところが、幸いなことにマクナマラさんにかわって、私のこの文章から始まるコンセプトを気に入っていただいた。「これだよ。バリ島はこれでなきゃいけない」。
  今バリ島は木より高い建物が何故建っていないか。これは私が頑張ったからです。はっきり言います。何故、木より高い建物を建てさせなかったか。単なる美しさではないんですよ。バリ島という地域はハワイと比べると気候条件が非常に悪い。偏西風、いわゆる貿易風も吹かないし、どちらかというとサンゴ礁もたいしたことはない。そういう中にあってバリ島が世界に誇れるのは、ヒンズーバリズムと言う宗教文化、母系農耕社会に基づいた素晴らしい生活文化なんです。その文化をなくしたらバリは終わる。文化をなくさないために、僕らはいろいろ議論しながら、開発に制限を加えて、建物を低層に抑える方法にたどり着いた。すでに、バリビーチホテルという円借款で建てられた超高層ホテルがありましたが、ああなってしまったら大変だと。あれは私が行く前に1本だけ建った超高層ホテルなんです。私がこのプランをやってから、バリ島全島が、木より高く建てない、つまり、3階建て以上は建てないということが、法制化された。
  そのおかげで、ホテルの管理がやりにくくなったという人もいますが、こうすることによって、バリはハワイではない1つの生き方を見出した。文化と親しんでもらうことで、ジトジトジメジメする気候でも、世界中から人が来るようになった。しかし、変なディスコができて爆破されたりするのは僕は嫌なんです。もっと純朴に育ってほしかったと思っています。しかし、少なくとも高層ビルの乱立を止めることはできた。
(図8)
  私がその頃建築家に描いていただいた絵です。このように大体なっていると思うんです。これが今から38年ぐらい前に私が構想したバリです。その頃のバリ島の人たちは、本当に純朴でした。その頃私はタバコ吸っていました。「タバコをくれ」というのであげると、ちょっと吸ってまたタバコを返しに来るくらい正直で、いい人たちだった。私は一度大規模開発派に命を狙われたことがあって、その時かくまってくれた村の村長さんの孫娘と結婚しそうになったこともあるんです。そのくらい僕の若い時代は激しかった。
(図9)
  一度日本に帰りますと言って帰ってきたら、会社はつぶれかかっているし、家族は離散の状態でした。それで、私が考えたのは、街と自然と両方とも生きる人間になろうということです。あんまり行った切りにならないように、自分を戒めるためもあって、アンフェビアン(両棲類)という人間の生き方を考えたわけです。
  1985年、会社が巧くいくようになったので、3ヶ月休みをもらい、家族でアメリカ横断アウトドア旅行に行きました。社員のおかげで旅が出来、自分を見つけました。
  ワイオミングのジャクソンホールにログハウスを1988年に完成しました。6500坪ぐらいの土地に、完全なる手作りのスェーデッシュ・コープのログハウスを建てました。私は一番いい場所に土地を買えたものですから、2階建てにせずに、できるだけローキーなひっそりと自然の中にいるという佇まいにした。3台のガレージがあります。ここで絵を描いたり、いろいろなことができる。ゲストハウスとメインハウスもあります。こんな生活を夏過ごしております。英気を養って再生してまた東京に帰ってくる。東京では青山に住んでいるわけです。
  ここで自分だけ楽しんでいてはいけないので、浜野ネイチャースクールという、もともと太平洋諸島でやっていた学校をこちらに移してきました。クライミングスクールからカヌー、フライフィッシングその他を瞑想、自然食とともに教えるということをやっていたわけです。
  立命館大学の客員教授をやっている頃に、教室で浜野ネイチャースクールの話をしたところ、「先生、僕たちも是非行きたい」というので、学校主催で教室をやりました。しかし、学校からは、「カヌーに乗せないでください、ロッククライミングスクールはやらないでください」ときつく言われた。結局、皆、やっちゃったんですが・・・。今の日本の教育は、大学ですら、「あれは、やっちゃ駄目、これ、やっちゃ駄目」となっている。これでいい子が育つわけがない。オリンピックもメダルが5個ぐらいしか取れないではないかと僕は言っていました。今の教育制度ではなかなかたくましく育てられないですよ。その辺を問題にした『共育自然学園』という私の本があります。30年間のネイチャースクールの経験から、文部省にも頼らずこういう学校をやってきたわけです。私1人で、跡継ぎもいないので、やめますというところまでいってしまっています。
(図10)
  そんな時にイヴォン・シュイナードさんという人と知り合いになった。パタゴニアというアウトドアの服の会社の創始者です。大変有名です。もともと有名な登山家です。イヴォン・シュイナードに僕が傾倒して、彼のすぐ近所に家を建てました。これは彼の庭です。本当にすぐ近くですが、僕の家と彼の家の間には『フォーブス』という経済雑誌のマルコム・フォーブスのファミリーが大きな牧場を持っています。この辺に住んでいる有名な人で言えば、メリルリンチの創業者の奥さん、ハリソン・フォードには釣りを教えました。嫌なやつなんだけど元の副大統領デック・チュィニー。ブッシュ大統領のお父さんが大統領時代に、私の家にそばを食べに来かかったことがあるんです。急に来れなくなったというから、「どうしたんですか」と聞いたら、「理由を聞かないでください」と言う。第3スケジューラーという大統領の旅行でついでにやることをスケジュールする方から電話がありまして、「明日か明後日にテレビを見たらわかります」と言われて、テレビを見ていたら、湾岸戦争勃発です。これでは、来られるわけはない。流しそうめんなんかを用意して食べさせようとしていたんですが、そういうことになってしまいました。来ていたらもう少し平和な社会になっていたかもわからないですよ。
(図11)
  イヴォン・シュイナードと私と一緒に写真に写っているのが、月尾嘉男さんです。一昨年、月尾嘉男さんがカヌーをやりに来られて、ここでいろんな議論をしました。月尾嘉男さんはもともと建築をやっておられましたが、ITの方にいかれて、最近では自然保護活動をやっている東大の名誉教授です。朝の「地球の方程式」という番組で、女子アナに易しく自然観を説いておられます。
(図12)
  イヴォン・シュイナードと一緒に自然の中で一緒に釣りをやったりしている時に、彼が「日本で3年半もフラッグシップ・ストアをつくろうと思って探しているんだけど、いい場所がないんだ」といっているので、僕は、女房のつくったおにぎりを食べながら、「それなら、そのビルを、一緒につくろうか」と持ちかけました。そこで、僕が帰って探したのがキャットストリートです。このビルを北山恒さんに設計してもらって建てるまではキャットストリートというのはごみためとチーマーが買い食いをして、座り込んで悪いことをする場所でした。落書きだらけのところだったんです。そこに、イヴォンと2人で、こういうビルを建てた。10年定借で建てて、チーム浜野のオフィスも入りました。今は全部パタゴニアになっています。これをやりながら、自分で株を持って、インターオフィスの原田孝行さんを説得して、原田・浜野スタイル、hhstyle.comという業態を100メートルぐらい離れたところにつくりました。そうやって、キャットストリートのクオリティーを設定し、今やキャットストリートはファッションストリートとして完全に育ったと思います。
  私は今は68歳ですが、50歳の時、イヴォン・シュイナードにグランド・ティトンという先程の山の頂上に登らせていただきました。3年間体を鍛えて、3日間ロッククライミングの特訓を受けて、55歳の誕生日の時に彼のロープで何とか登りました。その時私のアメリカ現地法人社員の1人が、デイパックにシャンペンをかついでついてきた。4300メートルの山の上で「誕生日おめでとう」とやってくれて、その時に私は会社をやめようと思いました。それで、本当に、浜野商品研究所という会社はやめて、浜野総合研究所というほんの数人の会社に分かれたんです。安藤忠雄さんの双子の弟、北山孝雄さんに、会社を全部預けて、私は自分の会社を自分で退職したんです。北山さんは今、北山創造研究所という会社をやっておられます。前から会社を辞めて数人の会社をやりたいと思っていたんですが、なかなかできなかった。だから、このロッククライミングに成功したらやめようと思ったんですね。この時は、頭が黒い。この頃は本当はロマンスグレーだったんですが、黒く染めて真っ赤な服を着て、絶対登るんだという覚悟で登りました。
(図13)
  先程のhhstyle.comという会社は、今のパタゴニアの店からおよそ100メートルぐらい離れたところにあります。ここに妹島和世をプロデュースしてビルをつくった。最初、妹島和世も変なビルを考えたんです。私は、それは駄目だから変えてくれと言った。妹島が一番やりたかったビルを諦めさせたのはたいしたものだとよく言われます。彼女のやりたかったのはバイアス構造のビルだったんです。家屋というのは、どちらかというと、縦横や割ときれいになっているものが多いわけですが、最初の案はバイアス構造の建物で三角のところから入るというものでした。それはおかしい。そう思いませんか、と話をしました。そこで私は、まず社長の原田さんをジャクソンホールに呼びました。社長は妹島大ファンだったので、何とか私を説得しようと、デイパックを持ってジャクソンホールまで来たんです。僕は一緒に釣りをしながら、「山を見なさいよ、川を見なさいよ」と言い、「川は自然に流れているじゃないですか。この建物はどう考えても自然じゃないし、この街に沿った流れのある、表の道に向けた商業ビルにして欲しい」と言い、結局、妹島さんにも言いまして、直していただきました。しかし、彼女は僕のいうことを聞いてよかったと思います。これを見たディオールが、彼女にすぐそばのディオールのビルを発注したわけですから。
(図14)
  今度は、青山通りをもっと頑張らないといけないと思い、裏青山に棲んでやろうということで、ビルを建てました。設計はパタゴニアと同じく北山恒さんです。自分が住んで、渋谷、青山、原宿あたりを完全に仕上げようと決意して、先程のジャクソンホールの家とは別に、街にいる時は、街のど真ん中に住もうと決めた。歳をとったら、都市に棲もう。そこで、何でもありという名前のオムニクォーターというビルを建てました。オムニというのはトータル、クォーターは一角ということです。3階が私たち家族のベッドルームと私の書斎で、4階がダイニング、リビングルーム、ホームシアター。キッチンなんかも上にあります。2階は今ではチームハマノの事務所になっていますが、最初はある有名ファッションデザイナーのオフィスで、1階も彼女の店でした。それが2年前に代わり、ついこの間までビバリーヒルズのブティックだったんですが、これも最近出ていきました。裏青山辺りも今不景気風が吹いています。私のところも実はあいていますから、どなたか入りたい方がいたらどうぞ。地下もあいています。もともとうちのオフィスは先程のパタゴニアのところから、ここの地下に引っ越しました。2階は広々していますが、ほんの5人しかいないのに大きなオフィスを使わせていただいているわけです。
(図15)
  先ほど出たこの建物と位置関係です。先程のオムニクォーターがこれです。hhstyleがここにあります。パタゴニアと、うちのもとの事務所がここにあります。紀ノ国屋のあったところもAo(アオ)という私がプロデュースしたビルに変わりました。日本設計が設計していますが、外装、中のテナントなど私が変えさせていただきました。不景気なので一部まだあいています。
  キャットストリート、裏青山は何とか仕上がってきたと思いますので、これからは青山通りです。渋谷・青山景観整備機構(SALF)を中心に歩道を全部やり変えて、街路樹もケヤキに変えて、宮益坂の上から青山1丁目までは物すごく美しくなる。これからは青山通りが主力になってきます。
  同潤会アパートを再開発した表参道ヒルズ。これが問題なのは、280メートルという長いファサードを1人の建築家がやったことです。それまでここには非常に個性的なビルがたくさん並んでいた。その状態を引き継いで、この街が形成されていたらすばらしい道に成長したと思うんです。それを森さんや安藤さんにより、280メートルを1人のキャラクターにしたことでこの街の終わりを告げたわけです。
  私は、主観で言っているのではなくて、客観的に見ても絶対失敗だと思っています。数字もよく見てください。折角こういうコンテクストができ上がっていく時に、同じ顔ではなく、5人ぐらいの建築家にやらせるべきだと私は今でも思います。
(図16)
  QFRONTというのは、たくさんの意味があります。絶不況の時にこの計画が行われた。これは東急百貨店の子会社が持っていて、東急百貨店としては売りたかったんです。当時の値段で52〜53億円です。古い汚いビルでした。そこに僕はもう50億円かけさせてくれといってこれをつくった。センター街側をアートの壁にして、ジョナサン・ボロスキーというアーティストが、ハートビート・マンという巨大作品をつくった。これをオープニングにかけたわけです。これは450平米の大スクリーンです。何故こんなスクリーンができたか。普通、100平米以上の屋外広告物は禁止なんですが、これは450平米あるんです。何故これができたか。これは屋外広告物じゃない。ウインドウの内側に映像装置があるので、室内照明ですね。日本のような規制大国で面白いことをやろうと思ったら、こういう知恵をはたらかさなければ何もできない。建築家に物を頼むと、あれもできない、これもできない。「浜野先生、無理ですよ」というのが多いんですが、これだとできる。外壁の内側にLEDを仕込んでおいて、例えば100平米しかいけないと言われたら100平米のスクリーンにしておけばいい。例えば広告だったらいけないというわけですが、ここにクジラが泳いでいるのはいいわけです。あるいは大仏が映っているのはいいわけですよ。あるいはスクランブル交差点の人々を映しておくのはいいわけです。だから、どんなに巨大なスクリーンをつくってもいいわけです。それでできたのがQFRONTです。
  私がこのアイデアを提案するまでは、誰も、ここは儲からないと言っていました。東急がこれを買った理由は何かというと、もとの峰岸ビルの人は非常に頭がいい。今もありますが、西武デパートがこの裏まで来ていました。西武がこれをもし買ったら、渋谷の東急の牙城の一番いいところに西武が出てくることになります。東急としてはどんなに高くても買わざるを得なかったわけです。非常に上手に不動産屋は立ち回ったと思います。高いものを買わされたから、長いこと何をやっても儲からないということで8年間ほうってあった。会長マターになっていたんです。私は増田宗昭さんにTSUTAYAのフラグシップストアを創ろうと提案し、それと同時に、巨大スクリーンの12社のオフィシャルスポンサーをオープンのときにつけまして、運営しました。そうすることによって、難攻不落のこのビルを成立させた。
  もう1つ大事なことがある。1階にスターバックスコーヒーが入っています。1階の交差点側はガラス張りにして、左側から客を入れたんです。ここは1日40万人の人が歩くスクランブル交差点です。これを頼んだ建築事務所も、オーナー会社の幹部も、交差点側はオープンにしようよと言っていたんです。でも、そうしたら待ち合わせ場所になってしまって、売り場にならないですよ。世界一高い家賃がとれるところをオープンにして待ち合わせ場所になっては駄目ですよ。
  私は、この辺のガングロとかコギャルの二十数人と月に1度水曜日に飯を食べていた。あの当時のコギャル、ガングロ、スカートを上のほうまで上げた高校生が、うちの会社に毎月1回来るんです。私と一緒に飯を食べに行っていた。
  なぜ彼女たちを使ったか。昔、「御用牙」という漫画で、町民や下層住民を全部使って、自分の意見を通すというのを読んでいたからです。僕は彼女たちをある日会議室に連れていった。そこで「君たち、もしここがあいていたらどういうふうに使いますか」と聞きました。「私はしゃがみ込んで携帯電話ばっかりする」、「ゲームしている」「人を待つ」と、ギャーギャー言っている。それを聞いて、みんなは恐ろしがって、「先生、やはりここはガラス張りのウインドウにしましょう」となったわけですよ。そういう歴史があります。
  もっと大事なことがあります。ここは50数億円のビルをつぶして、50億円かけてつくって170億円で売れたんです。だから、私はすごい利益をもたらしたわけです。だけど、そこからインセンティブは一銭ももらえていない。本当はその何%かは私たちがもらってもいいと思うんです。アメリカだったらくれるそうですが、日本ではそういう習慣がない。いろいろありますが、こういう大成功物語です。全部よかったわけではないんですが、TSUTAYAもこれによって一部上場を果たしました。
(図17)
  これはFROM−1stというビルで、私がまちづくりの最初に手がたけたビルです。山下和正という建築家がまだロンドンから帰ったばかりの頃の作品です。日本であまり仕事をしていないいい建築家はいないかというので、会ったこともないのに、事務所に電話して、ビルを1個やっていただけますかと言いました。竹中工務店が施工して、山下和正が建築学会賞を獲得したビルです。それまで、ここは1軒の店もなかったんです。イッセイミヤケはもちろん最初にここに店を出してくれた。コムデギャルソンもここから始まる。
  今、コムデギャルソンは同じ通り沿いにあります。この間、ミュウミュウ、ヨウジヤマモト、日本を代表するデザイナーはここに大体並んでいます。イッセイミヤケもドルチェ&ガッバーナもあります。大分出ていったり、入れかわりはあります。だけど、FROM−1stといった、まさにここから始めるぞというビルをつくり、今や表参道までずっとつながっていくことになる。表参道もまだまだひっそりしていた。それでも、私は青山通りを挟んだ反対側から始めたのです。
(図18)
  FROM 1st は37年前に私が初めて街や建築にかかわったメモリアルな仕事です。計画したのは1973年のオイルショックの時だったので、高さが2〜3階分減りました。そのため、私どもは上を借りることができなくなって、自分はここでやりたかったのですが、イッセイさんに全部借りていただいたという流れがあります。私が街にかかわった初めての非常に意気込んだ仕事のわりにはシックで、今でも何とか見ることができるビルになりました。街路樹は私が東京都議会議員に頼んで植えてもらったアカシアの木です。だから、あの木は私が植えた木だと、非常に誇りを持っています。今や並木で一番きれいになりましたが、当時は並木すらなかった寂しい道です。 
(図19)
  FROM−1stのころは、「ワーク・リブ・ウィズ・ジョイ」というテーマを持っていたんです。「生活地へ」の基本概念です。はたらくことと住むことと遊ぶことは、分かちがたく結びついた1つの生活だ。
  最近になりますと、それがどんどん進化していって、割と普通に生活者、生活地というのがわかるようになってきたので、「ビューティー・フィット・ウィズ・ジョイ」といういい方で、青山の「AO」というビルをつくりました。これはもともと日本設計が設計した。その時の絵があった方が今日はよかったんですが、裏側は本当にのっぺりした壁だったんです。そうすると、裏通りをつくってしまう。裏を上品な街にしたいということで変えてもらいました。

1.都市文化とライフスタイル

(図20)
  先程、都市の分断が問題だということを言いましたが、私の源流になるのは何かと言いますと、『ファッション化社会』という本を1970年に書いたんです。
  すべての商品はファッション商品になる。すべての産業はファッション産業となり、すべてのビジネスはファッションビジネスでなければならない。
  27歳の時に書いた本です。この本がベストセラーを続けるほど大変よく売れました。TSUTAYAの増田君はこの本のおかげで自分があると言ってくれるぐらい多くの人に影響を与えた本でした。私がアパレルの仕事、ファッションの仕事をやめて、街へ向かうきっかけになった本です。ファッション業界に対して、ファッションはこのままでいったら繊維業界に引っ張られて危ない、ファッションが街につながっていくんだということで神戸のファッションタウンをつくった頃に書きました。
  『ファッション化社会』はよく売れたので何回も再版されました。しかし、そのすぐ後1971年に、私は、ニューライフスタイルという概念で、『質素革命』という本を出したんです。『ファッション化社会』の浜野がどうして『質素革命』をやるんだと言われました。先程「川のようにただ在る」と言いましたが、ファッションというのは時代時代で人間の欲望が変わっていけば表現も変わる。私はそういうことで『質素革命』という本を出した。これはサントリーのコマーシャルにまで使われたぐらい一世を風靡した。これもベストセラーになった本です。この当時、私のオフィスに、青少年がいっぱい家出してきた。浜野さんに会いたいというのに断り係が要るくらい私も有名だったんです。私のところはヒッピーコミューンがあるのではないかと思われていたらしいのです。
  まさに人間の欲望と創造力がファッションをつくり、そのファッションのエネルギーが変わることが都市を変容させていくんだということをずっと言ってきました。
  特に、都市計画に向かない建築家が都市を考えるのはやめた方がいいと言ってきました。センスもなくて、商業ビルに向かない建築家は商環境の仕事をするべきではないということを是非解っていただき、商業コンサルタントとの共同作業をお願いしたい。商業のことは私どもに相談してほしい。この間も隈研吾さんが私のオフィスに来たので、北京の三里屯という街に商業絡みの施設をつくられた後だったこともあり、「あれはやはり浜野に頼んだ方がよかったのではないですか」と言ったんです。そうしたら、この本の帯に、隈さんが、「建築家が最も苦手なこと、生々しい生活の創造のノウハウがここにある」という立派な推薦文を書いてくれたわけです。
(図21)
  新宿新都心が象徴する問題は、私が27歳の頃から言ってきた問題です。上海の浦東の問題、これもみんな同じ問題です。汐留も同じ問題を抱えています。都市が人間の生活を阻害してはいけないということです。六本木ヒルズも同じ問題を持っていると思います。新宿新都心は問題だと私はずっと言ってきました。特に、立体交差にしたことが新宿新都心を駄目にしたと思うんです。何故なら、商業があれでは全く立地できないわけです。
(図22)
  ただ、その当時三井不動産の専務取締役だった坪井さんが、同じ新宿新都心の開発協議会の委員だったので、「浜野さん、そんなに言われるんでしたら、三井新宿ビルで何とかならないか」と、仕事のきっかけを与えていただきました。三井55プラザというのだけ私がつくった。ここだけ唯一ほのぼのとした人間のたまりがある。他は大体裏を向いているか、三角形をしているか、すごい風の乱気流を起こしたりしています。都庁をつくった人も知っていますが、都庁なんか下を楽しい商業にしてもいいと思うんです。あんな権威的なビルを建ててどうかなと思うんです。
(図23)
  ニューヨークです。これは1930年代にできた街ですけれども、いまだに生き生きとしています。下には商業が並び、上に超高層を建てても、あまり巨大なものを感じない。非常に気持ちよく歩ける街ですね。これでいいではないですか。何でこれ以上車が速く走る必要があるんですか。赤信号の時には待ったらいい。それを土木の専門家はすぐに立体交差にしたがるんです。何でそんな必要があるんですか。ニューヨークのようにした方が楽しい。赤信号で待っている間に、向こうで待っている美人が見えたり、横の店が見えたりして楽しいじゃないですか。そういう角度から街を見ないといけない。超高層ビルは本当に必要ですかと。
(図24)
  これはフィレンツェの街です。全部屋根の色が同じで美しいですね。駐車場の問題など確かに不便なところはありますよ。でも、何回行ってもきれいで楽しい街だなと思う。
(図25)
  スカイスクレーパー合戦の終えん。これはドバイです。ドバイはラスベガスみたいなことをやっています。ドバイみたいな街がきれいですか。こんなところ、住みたいですか。いろいろな建築家が競争し、金持ちが競争して、高さくらべをして、建てていますけれども、こんなものは将来ガラクタになります。六本木ヒルズは、こんな巨大なものを建てて恥ずかしくないのか。後ろの元麻布の金持ちはみんな怒っています。あれができたことで何処か見えない場所に引っ越したいと言っています。それは、まさに森さんのチャンスかもしれませんけど。それなら、引っ越してくれ、もっと高く建てるからと言うかもしれない。(笑)なにしろ巨大過ぎますよ。
(図26)
  銀座は30代の女性が一生懸命走り回って、資生堂の名誉会長なんかを口説いて、地元のボスたちを口説いて、ビルの高さを66mに制限するという制約をつくりました。偉いですね。細かいことを説明する時間がないんですけれども、銀座では勝手なことをやれないようになったんです。超高層というのは安易過ぎるソリューションなのではないかと僕は思います。
(図27)
  地方自治体と仕事をすると、いつも交付金とか補助金とか、そっちのほうばっかり向いておられるので、なかなか我々の意見を聞いてもらえないんです。また、チェーンストアや、大企業を持ってきてくれとか、工場を持ってきてくれとか言いますが、そういう時代が終わったというのははっきりしているわけです。超高層も終わりです。それより電線を地下に入れる仕事をした方がいいのではないか。ダムをつぶして、もとの川に戻した方がいいのではないか。護岸を自然護岸に変えた方がいいのではないか。大きくトレンドは変わったと思うんです。私は超高層のない街に住みたいと思っています。高さ合戦をしていった結果、ニューヨークのワールドトレードセンターのようなシンボルはつぶされるわけですよ。やはりテロがこういうところを狙ってきますよ。
(図28)
  「狂気のブランド画一主義」と私が警鐘をならしてきたもう1つ大問題が表面化し始めました。良い街がブランドに全部占拠されていて、どこへ行っても、楽しかった街がブランド街になって、同じものが並んでいるんです。いろいろなデザイナーに派手なビルをつくらせているが、相対的にはつまらない街になった。そして、結局伝統ある店もラグジュァリーも出て行って、ガタガタになる。
  今、中国のファンドが青山あたりのビルを物すごい値段で買おうとしています。今度は青山なんです。銀座ではないんです。テナントが出ていく一方で、高い値段で買いたい人がたくさん来ているんです。それに踊らされないようにしなければいけないなと思っています。
  ブランドというのは、地道に育っていった時にはよかったんですが、今やファンドの餌食になったんです。ファンドがブランドを買う。ルイヴィトン・モエ・ヘネシーグループなんかをまさにパッと買って、うまくいっているうちは一生懸命やるけれども、売れなくなったらポイと捨てる。マネーゲームに陥っています。乗らない方がいいと思うんです。ブランドの金が回っている時に、おもしろい建築家に楽しい建物を建てさせるのはいいけど、あんまり悪乗りしないほうがいい。駄目になると、一挙につぶそうという話になってくる。
(図29)
  フラッグシップも、本当に地道にいい店をつくっているうちはいいんですが、建築家が自己主張とブランドの主張をがんばりすぎるとみんなが割と地味な道をつくっているところを崩壊させます。これはプラダですが、このビルなんかめちゃくちゃですね。今までの古い街並み、私たちが一生懸命育ててきた街並みに突然これをつくって、建築はすこいだろうとなる。こんなふうに1人1人勝手なものをこの街につくったらドバイと同じではいか。コンテクストをみんなで考えて、共育、つまりお互いに育ち合いながらやっていかないとならないところに、おれはうまい、おれの方がすごい。まるでマスターべーション合戦をしているみたいなのでやめてくれと叫びたくなるのです。
  僕はこのプラダの建築家は好きですし、この建築自体はいいと思うんですよ。この街に合うかといいたいわけです。それを学生を連れて歩きながら説明したら、学生はよくわかったようです。ブランドショップはもうあきられてきた。セレクト、ディテールの時代になってきた。しかも、最近私にすごい影響を受けた中の1人ですけれども、ZOZOタウンという仮想商店街をやっている青年がいて、何百億売り上げています。ネット上でファッションを売っているんです。そういうのもどんどん出てきて、百貨店なんか要らないのではないかと前から僕は言っていたんですが、案の定、売り上げが10%ぐらい毎月毎月落ちて、どんどん店が閉店していく時代になっています。ここまで街が、巨大高層ビルと安物の郊外モールに支配されていいのでしょうか。
(図30)
  これは新宿の目抜き通りです。僕は前から、新宿伊勢丹には、もう出ていった方がいいのではないか、本店を畳んでこの街から出ていかないか、そのうちに売り上げがガクッと落ちるよと言っていたんです。新宿伊勢丹は高級な店ではなかったんですかということです。ところが、その周りの町並みはみんな真っ赤っか。家電量販店の赤い看板だらけになっている。銀行まで真っ赤ですよ。三越も赤です。丸井も赤です。こういう感じに、物すごく安物化が進行するんです。儲かればいいのか。近いうちに恐らく家電もネットで買うようになるから、家電量販店も、ガタッと売り上げが落ちて、街が駄目になる時代になると思うんです。
  地球規模でファンドが飛び交って、金の移動がある。特に中国は、これから外国の物を買わなければならなくなりますので、必死で日本に出てきますよ。一時、ニューヨークのロックフェラーセンターまで日本が買った、というのと似たようなことを中国はやり始めると思います。調子に乗らないでくださいね。それで儲けようとか、それでいい仕事をとろうとか、思わないで下さい。どこかでもう少し自制のきいた、例えば私のバリ島の仕事のようなことが、何か要ると思うんです。日本の文化を何とかしなければいけないではないですか。
(図31)
  例えば、市街地のシャッターだらけの商店街も、中には再生可能なところがあると思う。宝の山がたくさんあると思うんです。イオンなどに崖っぷちへ追いやられた地方商店街をもう一度よく見直してみる必要があると思います。だから、歴史と伝統のストリートまでマネーゲームにするなと言っているわけです。
  利回りファンドのまちづくりごっこ。この辺のことは私の本「生活地へ」に書いてあることのダイジェストなので、飛ばさせていただきます。
(図32)
  赤坂サカスのどこがいいかと言うと、古い街の延長で、スッと知らない間に街に入っていけるんです。TBSが向こうにあって、ライブハウスや何かがあって、その上に博報堂なんかが入っている巨大ビルが建っていてもあまり意識に入ってこない。ニューヨーク的なうまさがあると思います。大変褒めている仕事です。
  再開発というのは、かつてそこにあった生活よりさらにいい生活をつくり出すことです。三菱地所のやった丸の内の新丸ビル、丸ビルは非常によくできていると思います。仲通りなんかも素晴らしい。三菱の一連の仕事を大変高く評価しています。特に、丸の内ハウスは夜までにぎわっている。丸ビルの1号目の再開発よりも勉強をよくされて、いい仕事になっていると思います。

2.モビリティと商業文化

(図33)
  昔、私はトヨタの仕事を随分やっておりました。1970年に、ニューライフスタイルということをトヨタに提案しているんです。車産業はライフスタイルを提案する産業でなければならないということで、「ニューファミリー」という言葉をその時に提起した。それがブームになって、「ニューファミリー」という言葉がひとり歩きするんです。そのころ、ワンボックスカーや四駆のリクレーショナルビークルに関わることを随分やっていました。
  モビリティ社会が都市をどんどん変えていくんですが、やはり人間の生活は、車というより基本は歩行者のレベルで考えていくべきだ。それが余りにも一方的に進化していったのです。一番問題なのはアーケードです。古い商店街ではアーケードがかかる。そしてはやらなくなって、最後はシャッター街になる。これを何とか食いとめなければいけないということをいってきました。
(図34)
  これを見てください。行政の人とか政治家は、目立つことばっかりやっていますが、こんなに汚くて目立つものを消すということをしない。消しても手柄にならない。箱物をつくっていた方が手柄になる。安藤先生に頼んで駅をつくりましたとか、隈先生に頼んで市庁舎をつくりましたとか、子どもの楽園をつくりましたとか、そういう方が手柄になる。一時はテーマパークがはやって、今は何がはやっているのか知りませんが、どんどんそういうものをつくっている。つくっている間にこういう汚いものはそのままほったらかし。これは、最近の写真です。「取り去る」ということが大事なのではないか。後ろにこんな素晴らしい自然がありながら、この街は何だ。郊外に行ったらこんなのばっかりです。
(図35)
  ショッピングモールです。この中にやった人がいたら申しわけないですが、やった時から失敗ですよと私は言っているわけです。今頃こんな郊外型の巨大タウンをつくって、どうなるんですか。みんなが都心に住んで都心の高層住宅に移っているときに、イオン様様でやって、歩き切れないぐらい長い商業街をつくって、周辺には大住宅開発をしようとしておられるけれども、あんなところ売れるんですかねと僕は思います。
(図36)
  世界のGNSなどのスーパーは日本で非常に苦戦しています。例えばウォルマートは一生懸命研究していますけど、未だ1軒の店もできていない。それから、カルフールは一度出ましたがギブアップして出ていきました。ゼネラルマネジャーと僕は喧嘩したことがあります。「あんな安物の服が日本で売れると思うか」と言ったら、「いや、日本人はフランスのものが大好きだ」と言う。「フランスのものといってもあんなものはチャイニーズ製じゃないか。しかも、あんな安っぽいデザインのものをだれが買うんだ」と怒って論争したら、「いや、もしおれたちが失敗したら丸坊主で逆立ちして歩いてやる」と言いました。丸坊主になる前にとっくに帰ってしまって今はいません。しっぽを巻いて逃げていったわけです。日本人のセンスはもっといいですよ。フランス人が考えているほど悪くない。
  ウォルマートだって、アメリカの田舎で売っている安物の服が売れるわけがありません。同じ安物でも日本はユニクロのようにいいものがたくさんあるんです。最近いいものがどんどん出てきています。ウォルマートの服なんか日本で売れっこない。
  ライフスタイルセンターというのが最近アメリカでとやかく言われるようになりました。2核1モール型の今までのモールは駄目であるということがわかってきたんですね。
(図37)
  私は、数年前から「界隈」という言葉をキーワードにしてきました。そういうことから見ると、アメリカの東部の大学街や、古い駄目になった商店街を金持ちが買って、もう一度いいレストランを持ってきたり、映画館を持ってきたりしています。
(図38)
  大学はいつでも革命のセンターになっている。時代の変化の接点にいつもなってきている。これはバークレーですが、ヒッピー革命の時代は、アメリカにはこういう自浄作用があったんです。古い街をヒッピーたちが占拠して、サンフランシスコの街のヘイト通りとアシュベリーの角あたりにヒッピーが集まって1つの文化を形成した。
  その頃生まれたホールフーズというヒッピーが始めた自然食品店が、今やアメリカ最大のオーガニックフーズストアになった。私の大好きだったミセス・グーチという自然食品店も買収して、そのノウハウを吸収した。私はこういう店こそこれからの高級だと言われるのではと思っています。JRは紀ノ国屋を買ったんですが、JRが提供すべきはホールフーズではないかなと思っていたんです。本命でないものを買ったのではないかと思っていますが、頑張っていただきたいと思います。
  オルタナティブモールやライフスタイルセンターとアメリカで言われているのは、私がこれまで言ってきたことと余り変わらないですね。
(図39)
  これは私の友達が小樽でやった屋台村みたいなものです。都心にまだあいている場所を探して、今まで都心でやれなかったことをやろうと始めました。特に、駅や駅勢圏が日本の場合、ライフスタイルセンター化していくのではないか。もう、し始めています。駅を生活の場にすべきです。駅の上を街にしたらどうかと、提案してきました。
(図40)
  駅ナカ、駅ウエ、ラチ内が非常によくなるぞと、ずっと前から僕は言っていた。JRも大きな商業資本になっていくのではないかとも言っていた。最初のきっかけは私がやったんです。毎年キリンビールが東京駅の駅前でビアホールをやっています。今は電通さんがおやりになっていますが、初めから数回は私が一生懸命やりました。新しい法規をつくってもらったり、駅長に頼んだり、東京ステーションホテルに頼んだりして、こういうのをつくったわけです。駅ナカ商業全盛のもとを創ったと自負しています。
(図41)
 巨大なモールは、大きな駐車場はありますが、周辺にここに行くまでの道が整備されていないため、道が土日になると車の渋滞で封鎖されるんです。非常に大変なことになっていく。やるならもっと導入路も考えて、やらなければいけなかった。
  アーケードもやめてほしいなと前から言っていました。アーケードを脱ぎなさいとイオンの批判を言っていたら、イオンが「反省します」と新聞に大広告を出した。「生活地へ」の本が出る前に、反省しますと出したんです。
(図42)
  街に開発ビルを建てる時は、裏を造ったらいけないということもずっと言ってきました。これを私が提案して、トタンとかいっぱいかぶさっていたのをぬぐい捨て,はぎ取って、「川越蔵の街」ができた。

3.生産と流通の有機化

(図43)
  私は実は、パリのポンピドーセンターが出来る前にあったレアールの市場の再開発に反対運動をしていた人間です。ここはバルタールという人のつくった素晴らしいパビリオンがある市場だったんです。それが建築家によってこれほどむごたらしい街になったという例です。もうすぐ潰すらしいです。リチャード・ロジャースとは個人的にも大喧嘩していますけれども。

4.ストリートから街をつくる

(図44)
  東急ハンズも京都の錦小路で育てられたストリート感覚が源流となった商業施設です。
  吉祥寺からも伊勢丹が敗退して出ていきますが、以前から大型店もストリートの延長として自然に連系進化して行かなければうまくいかなくなる。だから道を考え直して道の延長として大型商業もつくりましょうと言ってきました。
  パリのカフェというコモンスペースをものすごく学習しました。サントロペの港通りや、60年代のキングスロードもストリートスケールが大好きでした。
  ラスベガスのよさはストリートです、フレモント通りも古い街を修正したことで再生できました。
(図45)
  中国主導で行なわれたマカオのカジノは大失敗に気づく時が来ます。いずれ閑古鳥が鳴くと思います。そぞろ歩きして楽しい道がないんです。一方、ラスベガスはラスベガスブルバードというメインストリートがあるんです。そこを歩くだけで楽しい。そういう道がないカジノ街というのは大問題です。日本でもカジノをつくってもいいとは思いますが、まずはスケールが大きくなければいけない。2000室前後のホテルが20軒は最低必要です。そのぐらいのカジノをつくるつもりでなかったらやめた方がいいと、ずっと言ってきております。沖縄に何カ所かいい場所を見つけたので、基地が出ていった後、カジノで経済を成立させたらどうかと思います。
  マカオの問題はホテルとホテルの間が間延びして必要以上に空いていることです。その間を車で移動しなければならない。建築家はいろいろ面白いことをやっておられますけれども、ラスベガスと全く違って失敗作だと思います。
(図46)
  サンアントニオというのはもともとアラモの砦しかなかった。ドブ川みたいなところをきれいにして、水位を安定させて、川のそばにカフェなどを設けて、ホテル、コンベンションセンターなどをつくった結果、何百倍という人が行くようになった。まちづくりとはこういうことで、人間にとって居心地がいい場所を創るということです。ソーホーも、昔汚い倉庫街だったところが今や高級ファッションストリートになっている。あるいはウエストサイドのどうしようもないところで、大企業が出ていった後を芸術家の村にしたりしています。
(図47)
  私が今何故東京の青山に棲んでいるかというと、渋谷、原宿、表参道を結ぶとちょうど三角になるんです。ここが世界のゴールデントライアングルになるだろうとずっと前から言ってきています。これまで竹下通りなどいろいろ提案してきました。昔、セントラルアパートのあったところ、今はこれをつぶし始めましたけれども、ここが表参道の最後のとりでです。表参道ヒルズの失敗をこれで何とかカバーできるのではないかと思っていますので、是非仕事をさせてくれと私は申し上げております。もともとセントラルアパートといデザイナーやアーティストがあつまるアパートがあって、日本の今を代表する文化人はほとんどその辺が発祥になっているのではないでしょうか。その頃から、「歳をとったら都市に棲もう」というかけ言葉みたいなことを言っております。
  世界の代表的な都市は、大体生活地になっていて、そこに住んでそこにはたらいて遊ぶ人がいる。ところが、最近青山からどんどん病院がなくなっていくんですね。それを何とか違う方法で取り戻せないかということもいろいろ試行錯誤しております。
  そこで、渋谷・青山景観整備機構(SALF)で、宮下公園を何とかし、それから、渋谷川を埋め立てるそうなので、そこを何とかしたいと思っています。それらをつなげて歩行者動線をつくる。インキュベーションみたいなことを是非やりたいと思っています。都心に若い人が新しい店を出す場所がなくなっています。働ける場所もなくなった。だから、ある程度金が貯まるまでいていいよというインキュベーションオフィスをつくってもらいたいと言っています。
(図48)
  先程のFROM1stの時は「ワーク・リブ・ウィズ・ジョイ」でしたが、Aoでは「ビューティ−・フィット・ウィズ・ジョイ」となった、そういう時代の変遷があります。
  Aoをつくるときも、いろいろなことのあった実は大変な土地でした。ですから、一度ここに白い砂利を敷きまして、あんな高い土地を1週間白いままにさせていただきました。最後の日には菱沼良樹さんというデザイナーに頼んで、オランダからダンサーを呼んで、白の服で、ファッションとアートによる地鎮祭を行いました。それで今あのビルが建っています。
  青学寮というのがありまして、今そこがNHKのサテライトスタジオになったり、クリエティブ系のオフィスにしていますが、これも私たちが提案してきました。青山通りに対して青学の壁が著しくひどいものになっているので、これを何とかストリートに表を向ける事業にやりかえてほしいと言っています。ここもビルが建て直されて商業とカフェが出てくる可能性があります。
  青学の壁が一部引っ込んで、カフェになったらどうですかという勝手提案をやってきました。お金にならないまちづくりをいつもやっている。作法を持って建築家は仕事をしてくださいと言っています。それぞれご自慢の建物をいっぱい建てることはいいんですが、これで本当にいいんですか。そのようなことを言い続けています。
 
 
5.幸せな生活地へ、幸せな国へ

(図49)
  鳩山総理ではないですが、ところどころ感情的になりました。あんまり頭にくるものですから、建築家の厚顔無恥さ加減に憤死しそうになる時もあります。まちづくりや商業プロデュースをやっている人間にとっては、大変迷惑な建築家もいる。その反面、大変いいビルもいい開発もある。いいものはちゃんと評価しているし、褒めているはずですので、その辺はわかっていただきたいなと思います。
  私は決して建築家の敵ではなく、一緒に仕事をしてきている人間なので、是非いい建築及び施工屋さんと一緒に今後もいいまちづくりをしていきたい。しかし、高齢化してきて、この間も白内障を治したら、未だに治り切りません。涙が出たりしていますが、これは決して感激して泣いているのではありません。
  しかし、昨日、三浦雄一郎さんという私のアウトドアの大先輩と札幌で飲んでいました。もう一回エベレストに登られるそうです。もうすぐ80歳ですよ。さよならを言って去っていかれるのを見たら、ちょっと足を引きずっていられるみたいだったけれども、それでもまだ生きていくぞと、すごいオーラです。僕は非常に反省させられました。自分はもう年なんじゃないかなと思っていたんだけど、もう一回やらなければいけないなと、あの後ろ姿に感激したわけです。
  FROM−1stを建てた時に、イッセイ・ミヤケに入ってもらって、彼にショーをやってもらいました。彼がパリから帰ってきてしばらくしてからでした。そろそろ私はファッションをやめようかなと思っていました。私は量産のトレンド・ファッションの、今でいう、どちらかというとユニクロのような服のつくり手だったんですね。ユニクロのようなというとユニクロに怒られるかもしれませんが、要するに、もう少し量の売れる服、流行を巻き起こす、トレンドをつくる、そういう仕事をやっていた。そこにイッセイさんがアートを目指すキャラクターのあるDCプレタポルテ・ブランドの草分けとしてパリから帰ってきた。FROM−1stに出店してもらって、オフィスにも入ってもらった。
  暗い道をショーの終わった後で2人で歩いていて、「あなたのおかげで私はファッションを諦めることができそうだ」と言いました。自分を見つけさせてくれた恩人ですよ。それから私は商業、住宅、リゾート、まちづくりへと転身していくわけです。
  もともと建築に興味を持たせてくれたのは磯崎新さんでした。昔、学生時代にフーテンをやっていて、いつもモダンジャズ喫茶に夜中までいて、あの方が早稲田のそばに住んでおられたので、寒い夜など、先生の家まで歩いていきました。まだ起きているかなと庭から覗くと。夜中に電気がついているので、ガラス窓をたたいて「先生、いますか」と言ったら、「おー、いるよ。何だ、おまえどうしたんだ」と言うから、「始発まで少しあったまらせてくれますか」と言ったら、丸い石油ストーブに乗って、湯気を上げていたやかんでホットウィスキーをつくってくれた。そういう感激を思い出しまして、この間、磯崎さんに会った時に、「あなたのおかげで私は建築にかかわってやっていますよ」と伝えました。
  クリストさんにも久しぶりにお目にかかった。水戸であの人がアンブレラのイベントをやられた時に手伝った。それを覚えていてくれて、一緒にアンブレラの写真のところで記念写真を撮りました。そうしたら、イッセイさんもやってきて、磯崎さんも来て、結局、イッセイさん、僕、クリストさん、磯崎さんが並んで撮った。他に面白い人がやってきたので、一緒に撮ろうといったら、誰も近寄らないんですよ。「一緒に撮ったらよかったのに」と言ったら「いや、怖いですよ。これだけ並んでいたら」とか言われました。そういうふうにいろいろな先輩たちにはぐくまれてここまで来たと思います。
  日本の街というのは本当に不満だらけです。世界から見て、本当に汚いと思いませんか。電線を地に埋めたり、もう少し街並みを意識しながらいい建物を建てたり、どうしようもなくなった街を何とか再生させる。金持ちを連れてきて、中国に金があるならば、それを集めてきてでもやったらどうかと思います。
  一等地は外資ばかりで、日本がなくなりつつある。日本はたくさん売り物があると思うんです。すばらしいロボット、世界一のグラファイトの技術。例えば自転車でも、本当にいい自転車のボディはほとんどが日本製なんです。東レがつくっているグラファイトは世界一です。私が何で知っているかというと、フライフィッシングの竿をつくっているからです。ナンバーワンですよ。そういった世界一が多くありながら、街にブランドとなって出てこない。日本の誇りとなって出てこない。建物もそうだし、素材もそうだし、いろいろなものにもっと出てきてほしいと思うわけです。
  以上で終わりますが、何しろ「生活地」という言葉、住むところとはたらくところと遊ぶところと全部一緒にした生活する場所ということを忘れたらいけない。はたらく場所だけだったらつまらない。
  先程言い足りなかったと思うんですが、中国の浦東のような街は最悪です。あそこのハイアットのホテルに泊まったら、ズラッと並べられたバイキングの朝飯を食べるしかない。上海の街中、上海人が一番住んでいるところには、半泊まりというのがあります。要するに、京都だったら町家に泊まって、錦小路で何か食べるというようなことが、上海でできるのに、ハイアットに泊まったら街角のおかゆも食べられないし、名物ギョウザも小龍包も食べられない。隣のビルに行くのに車で行かなければいけない。あんな街をつくってどうするんですかねと僕は思う。現実に、あの高層ビル群の足周りを何とか楽しくしてほしいと私に依頼が何度も来るんです。ジェントリフィケーションの依頼が何度も来ます。あの辺の総裁にも何度も会っています。「無理ですね」といつもお断りするわけです。「そこを何とか」と言われますが、ああいう街になってしまったら直しようがない。だから、やはりまちづくりというのは土木的に都合がいいだけではなく、目立つ建築だけでなく人間の喜びや楽しみを忘れたらいけないと思うのです。
  都市そのものが人間を解放する手段として、人間の欲望を解放してきたわけです。欲望が欠乏と違うところは変化することです。だから、ファッションが生まれるわけです。その変化を受けて答えられないような建築では仕方がないのではないか、建築だけの街では仕方がないのではないか。都市があることによって人間の欲望を解放し、変化に伴って面白い生活ができるようにした。面白い生活ができるようにしたけれども、面白くない街しか与えられなかったらつまらないでしょうということをいつも申し上げているわけです。
  私たちは今どこに立たされているか。やっと人間の欲望を解放した。今までは十人十色という時代から、1人十色の生活です。1人で10種類の生活がやれる、そういう豊かな時代になってきた。それを受け入れられるだけの街をつくっていますかということをずっといっているわけです。
 
 
  そのために規則やルール、制度資金や交付金ばかりを考えてないで、人間の豊かな生活、幸せな生活というのは何なのかということをいつも考えて仕事をしていかなければいけないと思うわけです。
  最後は政治家の演説みたいになりましたけど、質問時間をとらなきゃいけないのでここで終わりにします。時間の許す限り私はここにおります。徹底的に議論しようという人がいたら、私は7時まではあいていますので、どうぞ何でも聞いていただきたいと思います。ありがとうございました。(拍手)

 
 
フリーディスカッション

 
 
 浜野先生、大変貴重なお話をありがとうございました。私たちの生活を考え直す機会を今日はいただいたような気がいたします。
  先生が質問をお受けくださるそうです。会場の皆様、先生にご質問のある方はお手をお挙げください。
金澤(大阪産業大学) 商店街の活性化の可能性がよく言われていまして、商店街の活性化がわかったらノーベル賞ものだと言われるぐらいですが、もう少し具体的にお話をいただければと思います。
浜野 まず、どうしようもないものもあると思うんです。それはどういうことかというと、限界集落と最近言われますが、それと同じく限界都市というのがあると思うんです。まず最初に申し上げたいのは、日本の首都圏集中というのは休みなくとめどもなく起こっていって、どんどん続いていくと思うんです。それに歯どめをかけるのは相当たくましいプランナーが要る。そのためには単なるイベントや観光ではなくて、駄目になった地方をよくしていくのに、昔だったら工場の誘致とかそういうことだったんですが、これからは天才の誘致だと思うんです。天才の誘致の典型的な成功例はシアトルです。ビル・ゲイツを誘致して、イチローを誘致した。それでシアトルは一挙に変わった。わかりやすく今は言ったわけです。今大事なのは単なる有名人ではなくて、その人が移ることによって何千人、何万人もの人が一緒についていくような人、つまりイチローと任天堂ですね。任天堂とマリナーズがシアトルに行ったことでシアトルは大きく変わった。それとマイクロソフトのビル・ゲイツが行ったことで物すごく変わったと思います。
  私は今、勝手に沖縄へと向かっているわけです。沖縄に別荘をつくったり、基地に反対したりしています。私がそこに棲むことによって、あの辺の樹木を守ろう、並木道を守ろうと企てて、空き地ができたらそれを同じ美学を持っている人にお勧めして売る。どんどん過疎化していますから、そこを変えていこうとしているわけです。素晴らしいラグーンはあるし、ビューがある。ところがそこの入り口のところに汚い店が何軒か並んでいる、それを誰かに買ってもらって、入り口にちょっとした商店街をつくろうかなと考えています。そんなところに作っても誰が来るんですかと聞かれます。すぐ近所に美ら海水族館があるので、水族館からすぐ帰ってもらうのではなくて、その人たちも回遊する。単なる観光ではなくて、地元の人と融和できる。あるいは全く駄目になる島を丸ごとエコアイランドにして、電気自動車と自家発電、食べ物も自給できる島にできると確信を持ったので、沖縄のあるところでそういう指導をしていこうと思うんです。
  そのためには、既に入ってきつつある幾つかの大手のメジャー資本に諦めてもらわなければならない。あるいは基地を諦めてもらわなければならないとか、いろいろあるんです。しかし、今は変えられる大きなチャンスです。時代が激変して、今までのように行政の役人が何でも牛耳っている時代から変わってきたと思う。水面下でいろいろな動きが起こっています。私も、今までだったらこの辺から根回ししてこういかなければ駄目だなと思っていたところが、正面突破できるようになってきた。
  そうすると、どういうことが起こるか。アメリカみたいなスタイルになってくる。例えば全然駄目になった商店街を、本当のお金持ちが今買う。このプランナーとこのプランナーを使って、こういう住宅をつくって、こういう商店をつくっていけば、最初何年かは苦労するけれども、これでイタリアレストランがはやり、映画館がはやりとなるというような、将来こうなっていくという地道な作戦を立ててやっていけば、僕は奪い返せると思うんです。
  何故なら、イオン型の商業施設にはあきあきしているわけです。そこに行くのも大変。周辺はどんどん店じまいするのでだから、商店街は駄目になる。今まで行っていたイオンモールが駄目になる。そうすると、どこへ買い物に行けばいいのか。車の乗れない人は生活できなくなりつつあります。そうすると、ますます人が出ていってしまう。そういうことが起こってきていますので、本当に真面目にいい街をつくることができるようになってきた。
  私は、『はたらき方の革命』という本を書いたんです。その本の中で16人の人にインタビューしています。その中の1人で、掛川のNPO法人、スローライフ掛川をやっている人を取材しました。彼らは地元、静岡と浜松の間に挟まれた宙ぶらりんな街にいながら、そこで面白いことをいろいろ提案してきているわけです。 
  地道に何年も同じことをして、去年は50人、今年は70人、100人と会員が増えていっている。彼が呼びかけることによって、外国から帰ってきて掛川に住む、文章を書く人が住むということが起こっている。今までお茶だけでやってきた街がだんだん変わりつつある。そういう地元の人間で誰かエンジンになる人が絶対必要で、僕は彼のことをNPOのエンジンと言ったわけです。そういったことがない限り、イベントではなかなか無理だと思うんです。
  アメリカで一番成功したまちづくりは、大金持ちに「この街、買ってよ」と、ほとんど駄目になった商店街を買わせて、それを再生させたものです。例が幾つもある。格差社会だからどこかに非常にお金が集まっているわけです。しかも、その人はそれをうまく運用しないといけないわけです。世界のお金が回っているわけですから、それをうまく使ってやっていかれたらどうかなと思います。
  一般論しかこういう機会だから言えないですが、お役に立てばどこでも出かけていきます。もちろん「これは無理だな」と言うかもしれません。例えば岡山に行くと、この商店街は駄目だからと言って、そこにいた人たちで小さな界隈をつくって、移動させたりしているんですが、そういうことをやらない方がいいと思うんです。それ自体センスが悪いものだから、結局どこにも客は行かなくなっているということが起こっています。
  失敗例もたくさん見てきました。駄目になるところは徹底的に駄目になるしかないというところもいっぱいあるということは覚悟をされた方がいいと思うんです。県によっては県がなくなることだってあると思う。
  僕は、この本の中で、今から50年後には人口が半減するのではないか。それから、首都圏への集中率が70%を超えるのではないかと言っているわけです。そういう時代が間違いなく来ると思います。それから、百貨店はほとんどなくなると思います。百貨店を前提としてまちづくりをするのはもうやめた方がいい。
  私は青学で六十数名の学生に講義をしていました。その人たちに「この1年間で百貨店に行ったことがある人」と聞いたら、1回でも行ったという人は六十数名の中で3人です。そういう時代なんです。それをイベントや何かで再生させるといっても無理なんです。イベントでうまくいくわけがないんです。
河合(樺|中工務店) 余り大きな都市ではない、東京以外の、例えば神戸とかそういうところで高層マンション、タワーマンションが結構ボコボコ建っていると思うんですが、景気的にはいいかと思いますが、今までそこに見えていた山の稜線であるとか海のラインがブツブツに分断されているということが、ここ数年あるかと思うんです。市民レベルではそういうことはみんな気づいてはいるんですけれども、そういうのをとめていくための合意形成の視点みたいなのはあり得るんでしょうか。
浜野 先ほどちょっと例に出しましたが、銀座の高さ制限は、地元の住民運動で制限されたわけです。それで森ビルさんも諦めました。そういう例が幾つか出てきているので、少し勉強されるとあるのではないかなと思います。私は、特に神戸は長いこと仕事をしていました。安藤さんが若い頃、私も若い頃、北野町の異人館通りをつくりました。最近はひどくなっているようですけれども、当時は地元の若者に、これからマンションになりそうな土地を全部買わせて、安藤さんが設計したり、僕らがプロデュースしたりして、小型の商業施設を幾つかつくらせたんです。その場合はあまりにも有名になり過ぎて土産物屋化していったんです。周辺にコバンザメみたいに土産物屋ができて、それで相対的陳腐化が起こるという末路をたどるわけです。
  それをどこかで支えるクォリティーコントロールみたいなことが行われなければいけないので、私はそこで北野町をよくする会というのを、安藤さんも入れてやっていたんです。キャットストリートもキャットストリートをよくする会というのをつくって何年かやっていました。それをNPO法人化して継続していったらよかったと思うのですが、そういったことが当時はなかなかやりづらかった。今だったらNPO法人は簡単につくれるし、景観整備機構もつくれるので、当時よりいろいろやれると思います。どこかで開発をやめないと、自動作用のように日本中の川は全部三面護岸、ダムがあるというふうになっていく。街も全部高層化しよう、高層化しようとなっていく。人口が減っていっているから、これ以上要らないわけです。もっといろいろな住み方を提案していった方がいいのではないか。
  だから、こういう人たちはこういうところで住もうよとか、そういう運動もいいと思います。僕が沖縄でやっているように、誰か1人に話していくと、説得された人が「それなら、僕にも買っておいてくれ」ということになる。買ってほしいという人から既に7人ぐらい預かっています。ところが、売りが出ないんです。そこはいいところだから、もしかしたら自分も老後に住むかもしれないと思っておられるのかもしれません。あまりばらすとみんなが買いに来るから、場所も言えませんが、そういうふうにして好きな人がリーダーになって街をつくっていく、住宅地をつくっていくということもできると思う。そういうふうに小さなスケールで事が始まっていいと思うんです。みんなでドーンとやらなければいけないと考えない。このエリアだけは高層ビルをやめようよとか、特にこういうビューがいいので、このビューを町民で守ろうとする。ここに何か来ても、必ずこのNPO法人の許可がないとできないようにしてしまうなど、そういうことをできるようにする。今、青山はそれが進んでいますので、私たちがいる限りは簡単には開発はさせません。そういう動きをつくっていける時代にはなったと思うんです。コンセンサスはすごくとりやすくはなっていると思います。
三橋((有)シーエルシー) 都市と商業ということに関してですが、都市の人口規模と階層と、商業の業態とか商圏が必要とするという相関性がかなり崩れてしまった。例えば、家電量販店が百貨店の跡を受けて都市の中心になるんだと豪語したり、イオンが農地を商業地域に変えさせて、ここは商業地だとします。私は先週奈良に行ったんですが、農地が都市計画上の商業地域なんですね。近隣商業というのは今までありますけれども。そういうふうに都市の立地レベルと商業の業態あるいは業種がめちゃくちゃになっていると感じるわけです。先生は、どういうバランスが必要だと考えますでしょうか。
浜野 大きな質問なんですが、私はどちらかというと、真ん中の中間地帯はよくわからない。大都市か物すごい田舎かみたいなことしかわからないんですよ。最近研究のために長野などいろいろなところに行くんですが、やはり幹線のインフラの道路がないのに巨大商業ができるなど先程少し問題にしましたが、それはそこに住んでない人にとっては大変な迷惑だということです。そういうことが起こっているとだんだん嫌けが差して、人が行かなくなる。三浦展さんの本に、最近の少年犯罪は大型SCのそばで起こるというケースに出しているのが、幹線道路と駐車場というインフラがないのに、すごい商業の量をつくるから、結局駐車場にとまり切れない車が意味もなく延々待たされる。それを待っている少年は何をしているかというと、家ではテレビを見ているとか、車の中ではゲームをしている。
つまらない人生を送っているわけです。お母さんが買い物をしている間、ゲーセンにいる。それが寄り集まるとろくなことをしないということになってくる。子ども時代から面白い生活ができるように街をつくらないと、商業商業ということだけで考えていくと、本当に悲惨な結果になると思うんです。だから、子どもたちや青少年をどのように面白くさせるかということです。草食男子と最近言われていますけど・・・。
  北海道で巨大なごみ捨て場を公園にするコンペをとった人と一緒にやっています。そこを全部手づくりの公園にしようということで、いろんな人を動員していろいろなものをつくらせようとしている。そういうことをすると、参加したことでリピーターになる。自分たちがつくった街だ、自分たちがつくった公園だという形をとる。自分たちがつくった商業街だ。例えば、ファーマーズマーケットのようなものです。今はどちらかというと、マルシェ・ジャポンなんていうものを農水省の補助金が出てやったりするわけですが、そうではなくて、本当にやりたい人が持ってきて売るような場をうまく育てていくということをやったら、たくさん面白いことができるはずだと思います。
  都心ですら、例えば海外のブランドに皆飽きられてしまったら、表参道をどうするんだという問題があるわけです。私はこういうことを言っているわけです。あそこは明治神宮でその参道がありながら、何で外国に皆、売り渡しているんだ。右翼みたいなことを言いますが、あそここそ日本を代表する商品が並んでいるべきではないのかという物の見方を例えばします。唖然とされるかもしれないけれども、このアイデアは結構いけると思うんですよ。
  そうしたら、例えば総務省なんかの言っていることと似てくる。地方活力を促進するためにもっと事業を起こしたい、などいろいろなことを言っているわけです。そのためには、地方でも何かやらないといけないんですが、それに気づかせる都心の何かもやらなければいけない。そのワンセットだと思うんです。銀座なんかで歯抜けになっていくビルも全部そういうことで、逆に地方が都心に出てくるのもあるということです。単なるショールームや地方の補助金で出てくるのではなくて、本当に売れるものをひっ提げて出てくる。勝負する。いいものをつくるということで都心に出てくる。そこから地方に客を引っ張っていくという作業が繰り返されなけれなばいけない。今までだったら、何でもパック商品で大規模流通と同じような形で並べて、ショッピングカートに入れて買うスタイルでしたが、そういうスタイルはもう生活者は嫌なんですよ。
  それから、「アンパックド」と僕は言っていますが、パックしない魚、パックしない野菜、そういう方に切りかえたいわけです。ところが、きっかけがないからなかなかやれない。それを地元の人をそそのかして東京のショップでやる。それを流通する方法を考える、ということが行われていかないのかなと思うんです。そうしたら余計百貨店は要らなくなると思うんです。
  私は、百貨店を守るとか百貨店を何とかするということよりも、百貨店がなくてもいい社会をつくるというぐらいの感じで価値観を変えられたらいいし、海外ブランドに頼らないでも街をおこせると思っています。場所によっては無理ですよ。でも場所によっては十分できる。特に今、銀座や表参道は必死でそれをやらないと、大変なことになる。何も地方だけではないんです。都心でも、銀座でも、シャッター街化する可能性は十分にある。私はそういう危機感を持って、商業の仕事をしている。私自身小さなビルを持っていて、地下も1階もあいているわけですから、それは大変な実感です。青山のど真ん中であいているわけです。私のところだけではない。次々と、裏もあいた、紀ノ国屋がJRに買収されたとか・・・。本社がうちの前にあって、いつもごみを出したりするので、つき合いで、「おはようございます」と言います。「JRに買われて、お金が入ってよかったですね。だけど、出ていかないでくださいね」と、そういう話をしている今日この頃です。
  そういった日本の激変の中で、地方は東京へ、東京は地方へという両方からのモビリティが大量に巻き起こされていいはずだし、商業も今までのような大きな商業センターではなく、小さなマーケットに変えていくということがあっていい。家1軒で物を売ることだってできる。先程の『はたらき方の革命』の本の中に、杉坂研治さんという釣りの有名人が出ております。彼は、今まで大手の釣り具メーカーへ、自分のつくった竿などのデザインを売っていた。それを売らないで、自分でつくって、杉坂研治さんの竿として、ネットで出した。このラインだったら素人の女の子でも50メートルは飛ぶよというのを実習で見せると、ネットで出した何時間後に売れ切れる。ショップは要らない。それでも彼は物すごい売り上げを上げるようになってきた。だから、自分の岡崎にある家で物を考え、つくり、佐川急便のドライバーの休息所を借りて、そこを倉庫と配送センターにしてやり出してすごく稼ぐようになってきた。そんな時代なんです。
  そういうふうに自立して考えられる人を見習うと、そういう形で幾らでも変わっていけると思います。そういう人たちが集まってマーケットをつくる、市場街をつくる。新しい商店街形成は今までの尺度とは全く違う。今までになかったようなマンション街や団地の中にそういうのができてもいいんですよ。今までの百貨店や今までのアーケード街は無視する。たまたまそこにあった方がいい場合もあると思いますが、そうすることによっていろいろなものが生まれてくると僕は思います。その芽は出てきていると思います。
谷 先生は7時までとおっしゃってくださっているんですけれども、質問は以上とさせていただきます。先生ありがとうございました。(拍手)
  以上をもちまして、このフォーラムを終了させていただきます。本日はまことにありがとうございました。                             (了)

 

 



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