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第29回NSRI都市・環境フォーラム

『エッフェル塔1889・東京タワー1958・スカイツリー2012』

講師:  安島 博幸 氏   

立教大学観光学部教授

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日付:2010年5月19日(水)
場所:NSRIホール

1.東京タワーの誕生経緯

2.東京タワーのデザイン評価

3.エッフェル塔の誕生経緯とこれまでの歴史

4.日本のタワーの事例と入場者数の変遷

5.東京タワーの評価の変遷について

6.スカイツリーの立地と将来

  フリーディスカッション

 

 大変長らくお待たせいたしました。ただいまから第29回都市・環境フォーラムを開催させていただきます。本日はお忙しいところ、また雨の中、お越しくださいまして、まことにありがとうございます。
本日のご案内役は、私、日建設計広報室の谷礼子でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、本日のフォーラムは、立教大学観光学部教授でいらっしゃる安島博幸先生にお話をいただきます。
本日は、「エッフェル塔1889・東京タワー1958・スカイツリー2012」と題してご講演をいただきます。安島先生は、お手元のレジュメのとおり、観光地計画、景観計画がご専門でいらっしゃいます。そして、本日お話をいただく東京スカイツリーにつきましては、新タワー候補地に関する有識者検討委員会の委員のお1人でもいらっしゃいました。
ご紹介はこれまでとさせていただき、早速、先生にご講演をいただきたいと存じます。それでは、皆様、大きな拍手で先生をお迎えください。(拍手)
先生、よろしくお願い申し上げます。

安島 ご紹介をいただきました立教大学の安島でございます。私は、ご紹介いただいたように、観光学部というところに勤めておりまして、普段は観光地の計画をつくる、そして持続可能な観光地とはどうあるべきかという研究をしております。
今日は、エッフェル塔、東京タワー、建設が進んでおりますスカイツリーのお話をさせていただきたいと思います。実はスカイツリーの立地選定に係る委員を務めさせていただきまして、私は特に観光の面からこのタワーの位置をどこにしたらいいのかという話をさせていただきました。私どもの観光学というのは未熟な学問でございますけれども、このタワーの立地選定に当たって、「観光学的に」どんなことを考えたのかということを具体的にお話しさせていただければと思っております。
どうぞお気軽にお聞きいただきたいと思います。
(図1)六本木ヒルズから見る東京タワーとスカイツリー(モンタージュ)
 それでは具体的に話をさせていただきます。スカイツリーのことが気になりますので、何度か現地に行ったり、いろいろなところに登って見たりするんです。これは先日、六本木ヒルズから見たものです。ここに東京タワーがあって、ここに見えてきております。5月の連休ですので、ちょっと前です。つたないモンタージュなんですけれども、作ってみました。完成すると、こんなふうに見えるのではないかなと思っております。
この東京タワーもスカイツリーも、これから話に出てまいりますいろいろなタワーも、ほとんど日建設計の設計に成るものだそうでございます。

 

1.東京タワーの誕生経緯

(図2)
まず、東京タワーの話から始めたいと思います。今度スカイツリーに電波を発信する機能が移ってしまうし、ライバルができるということで、東京タワーもいろいろ頑張っておりまして、入場者数もかなり増えていると聞いております。
(図3)ライトアップされた東京タワー               
特にこのようにライトアップをしてから大変人気が出てきたということでございます。この東京タワーがどんな形でできてきたのかということについて簡単にお話をしたいと思います。
(図4)
内藤多仲博士。耐震構造の父といわれている内藤先生の力によってテレビ塔や、いろいろな高層建築が日本には誕生していったわけです。東京タワーよりも前に、この内藤先生の設計されたタワーというのは随分ありました。名古屋のテレビ塔、通天閣、札幌のテレビ塔、そして東京タワーですね。こういうものを経て、東京タワーが誕生したということでございます。
(図5)
簡単にお見せしますと、これが名古屋のテレビ塔、札幌のテレビ塔です。
(図6)
名古屋のテレビ塔はライトアップなどもしておりまして、名古屋のこの通りのシンボル的な施設になっております。
(図7)
これは通天閣ですね。通天閣は、地元の人たちの力によってお金を集めてつくったということです。行くと非常に庶民的な町で、泥臭い感じなんですが、いまだに健在だということでございます。
(図8)
東京タワーはなぜ生まれたのか。1953年からテレビ放送が始まりました。その当時はそれぞれの放送局ごとにテレビ塔がバラバラに建っているという状況でございました。170メートルのタワーを各社が持っていて、さらにテレビ局が増えるたびに東京の中にタワーが増えてくる。しかも、170メートルぐらいの高さですと、サービスエリアが小さいということで、高いタワーを必要としたわけでございます。
こういう状況の中で共通の大きなものをつくろうというのが東京タワーの構想でございます。最初からエッフェル塔よりも高い高さにしようということが計画をされていました。当初、日テレは参加しなくて、1970年までは麹町の前の日テレの敷地の中に170メートルのタワーがありました。今でもその跡が残っていると思います。そのかわり当時から600メートルのタワーをつくろうという構想もあったようでございます。

 

2.東京タワーのデザイン評価

(図9)東京タワーは美しいか?
東京タワーのデザインをどう評価するか。東京タワーは美しいのか。世界的にはこの東京タワーはどのように見られているかということについてお話します。トラス構造で非常に効率よく少ない鉄骨でつくる。エッフェル塔の3分の1しか鉄を使っていないそうです。鉄自体の部材の質も違うんだと思いますが、ミニマムなデザインです。デザイン的な要素があまりないような気もいたします。これがどのように評価されるのかということでございます。
(図10)
『TOWERS』という本がございます。1989年に書かれたこの本には何と書かれているかというと、「タワーの形式は、鉄塔として標準的なものだが、美的に成功しているとは言えない」とあります。「その欠点の理由は、日本の構造設計エンジニアが欧州から離れて孤立しているためである」と、書かれております。
(図11)東京タワーとエッフェル塔
  これが東京タワーでございます。これをエッフェル塔と比較をしてみたいと思います。並べて見ると、やはり少しつらいかなという感じがいたします。
(図12)エッフェル塔
これはエッフェル塔ですが、細かいところまで装飾がされています。または、そういう意図でつくられているのがよくわかると思います。

 

3.エッフェル塔の誕生経緯とこれまでの歴史

(図13)
エッフェル塔も非常に人気がございますが、エッフェル塔はどのように人気が出てきたのか。それまでの歴史はどうだったのか。エッフェル塔から具体的に話をさせていただきたいと思います。
エッフェル塔は、フランス革命の100周年記念のパリで開かれた万博の記念でつくられました。高さ312メートルの、純粋なモニュメント、あるいは技術的な可能性を示すためにつくられたわけでございます。
このときに、モーパッサンやデュマなどの文学者から、美しいパリの町をどうしてくれるんだという反対を受けました。歴史的にはいろいろありまして、飛び降り自殺の名所になったり、飛行船がこの塔の周辺を飛んだり、後には、またくぐりをする飛行機があったり、いろいろな形で話題になりました。
そして、1909年には、20年後には解体されるという予定になっていました。ところが、このタワーというのは、当時実用化され始めた無線、つまり軍事的な通信用の無線の塔として、アンテナを張るのに非常に有効だということがわかり、延命をすることになったわけです。
(図14)
これはエッフェル塔が立ち上がってくるところの写真でございます。東京タワーもこういう写真が残されておりますが、今スカイツリーもこういう状況で、恐らく記録写真を撮っていらっしゃる方がたくさんいるのではないかなと思います。つくって上に伸びていくところがこういう写真として残されております。
(図15)
エッフェル塔は、文化人が非常に反対をしたということでございます。ロラン・バルトという人が書いた『エッフェル塔』という有名な本があります。これにエッフェル塔にまつわることがいろいろ書かれておりますが、その中で、モーパッサンは、エッフェル塔の上にあるレストランでよく食事をしていた。なぜなら、ここがパリの中でエッフェル塔が見えない唯一の場所だからだというエスプリをきかせた皮肉が有名です。デュマや文豪が本気でこれをこきおろし、結構厳しい意見もありました。
(図16)
エッフェル塔の反対請願書です。これを読んでいただくとわかりますが、口をきわめて強い調子で抗議をしております。下のほうは特にひどい。「パリの街は、一介の機械製造人の異様にして拝金主義的な思いつきに、これ以上長くつき合うことによって、取り返しのつかないほど身を汚し、醜くなろうというのであろうか。なんとなれば、エッフェル塔は商業主義的なアメリカでさえも欲しそうにないものであり、疑いもなくパリの恥だからである」とあります。ここまで言ってしますと、これはちょっといい過ぎではないかと思いますが、今見たらどうでしょうか。何て言うでしょうか。あれは間違いでした、至りませんでしたと言うんでしょうか。随分口汚くののしったものだなと思います。
(図17)
いろいろ歴史がございまして、1912年には、人間飛行実験が行われました。塔から翼をつけて飛びおりて亡くなりました。それから、第1次世界大戦のときは軍事施設になり、立ち入りが禁止になりました。そして、1925年には、シトロエンという自動車メーカーの電飾広告をつけたことで有名です。これも後でいろんなことに関係してきます。エッフェル塔またくぐり飛行、ミスエッフェル塔コンテスト、あるいはヒトラーがこれを爆破するといったこともあって、非常に危機的な状況を迎えたり、エッフェル塔にはパリの歴史、世界の歴史がしみついていると言えるのではないかと思います。
戦後は歴史的な建造物に指定されて、新しい照明方式でライトアップがされるようになりました。1991年にはこの地帯、セーヌ川の流域を含めて世界遺産に指定されています。1925年からシトロエンの電飾(イルミネーション)広告を塔全体につけてやっております。
(図18)
リンドバーグが単独で大西洋無着陸飛行の偉業をなし遂げました。大西洋を1人で30時間か随分の時間をかけて無着陸で飛行した。無茶なトライだったのではないかと思います。その本のタイトルは『翼よ、あれがパリの灯だ』という有名なもので、映画になりました。このときの「あれがパリの灯だ」というのは、エッフェル塔のシトロエンの電飾広告のことをいったのではないかと言われております。こういう歴史がしみついています。
(図19) 
エッフェル塔の入場者数がどういうふうに変遷したのかということですが、1889年の万国博覧会は大成功でした。200万人が入ったとされています。建設費の70%をこのときに回収したといわれております。ただし、翌年は40万人です。激減をしてしまいました。1897年には20万人、1899年、10年後には15万人とどんどん減っていきました。
昔は時間をおかずに万博をやっていたので、1900年にまたパリで万博をやりました。今度は夜間照明をした。エッフェル塔のイルミネーションというのが目玉でございまして、また100万人を回復いたしました。といっても200万人からは半減しているわけです。そして、その翌年、1901年には史上最低になったと言われていて、15万人台というレベルに落ちてしまったのではないかと思われます。
その後、戦後の細かいデータはありませんが、大体40万人から60万人ぐらいで推移をしているということで、この時代はかなり経営危機だったと聞いております。
戦後も細かい話がわかりませんが、2006年の時点の入場者数は670万人。東京タワーが同じ時点で270万人ぐらいでしたが、エッフェル塔は670万人です。エレベーターの容量がいっぱいでこれ以上登れないという感じになっておりまして、こういうものとしては、これで最大限かなと思います。エレベーターを増強すればもっと増えるのかもしれませんが、ここが難しいところで、列ができてなかなか登れないところが人気を長もちさせる秘訣だと思っています。
(図20)1985年に内照式による照明開始
これは1985年に始まった内照式といわれている、タワーの中につけた器具でタワーを照らす照明です。昔、私が最初にエッフェル塔を見たときは、下から無数の電気の照明で照らしておりまして、非常に効率が悪かったですし、あまり明るくなかった。電気代が3分の1になって、明るさが3倍になったとよく言われています。この方式で照らされるようになりました。
(図21)
これが人気の復活の要因ではないかと思います。これは1985年に行った変更です。フランス革命200年を記念してパリ市内で行われたグランプロジェといわれる事業があります。ルーブル博物館の中庭のピラミッド、グランアルシュ(新凱旋門)、オルセー美術館など、一連のパリの20世紀の改造計画の1つです。これは照明を変えただけでありますけれども、もう一度エッフェル塔をよみがえらせるプロジェクトであったように思います。かなり大がかりでしたが、世界で初めてのこういう方式で照明をして非常に成功したと思います。
(図22)
フランス革命の記念日にはここから花火をやる。あるいは照明を変えるなど、いろいろなことをやります。もともと万博というのは国威発揚の中で生まれたものですし、国家的な行事にこのエッフェル塔を使っているというところが1つ重要なポイントだろうと思っております。
(図23)
(図24)
これも最近のもので、こういうような照明をしたり、あるいは私が2008年の暮れ、クリスマスのころに行ったときには、こういう照明になったりして、いろいろと手をかえ品をかえ、いろいろな演出をしてエッフェル塔を見せています。なかなか手が込んでいまして、この写真だけだとおわかりにならないと思いますので、動画でお見せしようと思います。
(動画)
7時でしたか、毎日時間になると、このように塔自体がフラッシュするようなことをやっております。
(図25)
夜の8時過ぎ、エレベーターの下に行列ができていまして、久しぶりに登ってみようかなと思ったんですが、相当待ちそうなので、断念をしてしまいました。下まで行ったけど、列が長かったので登らなかったという人は結構いるようです。

 

4.日本のタワーの事例と入場者数の変遷

(図26)
さて、日本の塔のことを考えていきたいと思います。日本のいろいろなタワーの入場者数をご覧いただきたいと思います。東京タワーは一番最初の年は550万人登ったそうですが、だんだん減っていって、2006年、270万人ぐらい、約半分に減った。またちょっと人気が盛り返してきているという状況でございます。
ほかのところはどうかというと、池袋のサンシャイン60の展望台は、できた当初は270万人ぐらいだったのが60万人、70万人と、4分の1ぐらいになっています。ランドマークタワーは260万人ぐらいだったのが70万人。都庁の展望台も、昔は列をつくって並んでなかなか入れなかったので、私もその当時は登らなかったんですが、しばらくたって行ってみたらガラガラ、いつでも登れるという状況になりました。
一般的にタワーの人気のようなものは一時的なもので飽きられやすい。あっという間に、たくさんの登っていた人が激減して経営難になってしまうという。これをどう解消したらいいか。
最初の勢いが落ちてくるのは仕方ないんですが、これをいかに長もちさせるか、そして安定経営に移るかというところを一番考えていかなければいけないポイントだと思っております。
そういう意味では、東京タワーというのは、今でも人気がある、人気が上向いている。何とか東京タワーになりたい。東京タワーのようになって、長く生き残るというのが1つの戦略ではないかと思っております。
(図27)横浜マリンタワー 

(図28)
いろいろなタワーがあります。これは、横浜のマリンタワーです。これもライトアップをしたりしておりますが経営的には厳しい状況でございます。
(図29)福岡タワー
これは福岡タワーです。日建設計の設計だと思います。初めて見たとき、何とすばらしいデザインだろうと思いました。なかなか画期的なタワーのデザインだったと思います。もともとここは入場者をねらっていないようです。上にレストランのような施設があるわけではないですし、ほとんどそういうものを期待していない。恐らくここも相当減ってしまっているのではないかという気がします。
(図30)
世界で一番高い自立型のタワーは何だかご存じでしょうか。ドバイのタワーはビルだということです。ずっと1位だったカナダのトロントにある553メートルのCNタワーは
中国の広州のタワー610メートルに抜かれて2位になってしまいました。でも、あまり今は1位になっても話題にならないですね。意外と東京タワーの人気は、デザインがいい、悪いは関係ないのではないか。あるいは高さでも知られてないものもある。高さが1番というのは非常に大事なことですが、そういうことがタワーの人気を生んでいるのではないのではないかという気がいたします。
(図31)
これは余談ですが、タワーではなく、ビルがどういう状況になっているかということです。ドバイのブルジュ・ハリファという828メートルのビル。これが圧倒的に高いんです。それから、台北の101(509メートル)。上海のワールドファイナンシャルセンター(492メートル)。香港の国際コマースセンター(484メートル)。クアラルンプールのペトロナスタワー(452メートル)。そのように続いていくわけです。
高さも非常に重要な要素で、東京スカイツリーも610メートルだとばっかり思っていたら、いつの間にか、かさ上げされて634メートルになりました。なるほどそういう戦略もあったのかと思いました。高さが明らかになってしまうと、次のターゲットにされやすいということで最後まで最終的な高さを明らかにしませんでした。
(図32)台北101
これが台北の101、509メートルです。2番目です。
(図33)ペトロナスタワー
これはツインタワーですけど、クアラルンプールのペトロナスタワー、452メートル。こう見ていきますと、世界の高いタワーがアジアに集中してきている。アジア地域の力を感じるところでございます。

 

5.東京タワーの評価の変遷について

(図34)
 それでは、先程東京タワーに学びたいと申し上げましたので、東京タワーがどういうイメージを持って存在してきたのかということを新聞記事から拾ってみて、いろいろ、東京タワーの持っている記号的な意味を読み解いてみるということをしてみました。
大きく分けて、できたときに世界一の高さ。日本もようやく復興してきた。豊かさのシンボルだという時代があります。
それから、1964年からはとバスの中に組み込まれまして、団体様専用の観光地になりました。東京の人はあまり行かない。東京の人は東京タワーに行くのは何かカッコ悪いような気がします。実は、エッフェル塔もそうらしいです。花の都のエッフェル塔に登るのはお上りさんということです。東京タワーはお上りさん専用の観光地ということになってきました。
ところが大きな転機がありました。1989年のライトアップです。そして、2000年ごろから昭和レトロという形で東京タワーがいろいろと出てまいります。そんなところを見ていきたいと思います。
(図35)
あまり古い新聞はないんですが、最近は新聞記事がコンピュータで検索できますので、東京タワー関連の記事がどんなふうに出てきたのかということを見ていきますと、最初は高さというものが話題になっている記事が多くて、その後はとバスに関係したものが出てきたり、ライトアップに関係するものが出てきている。これは少し古いので、今はもっと多いのではないかなと思うんですが、昭和レトロに関係した記事が増えてまいりました。
64年ごろはまだ記事も多いんですが、どん底は82年ですね。ちょうどはとバスの専用の観光地になって、非常に低迷した時期だったと思います。
ただ、ここで大事なのは、はとバスのようなツアーがあったから、ほかのタワーのほとんどが4分の1、5分の1に入場者を減らしているところを、東京タワーは半分までしか減らなかったということです。つまり、基礎的なところで、はとバスが入場者を支えたのではないかと思っております。もしはとバスがなかったら、非常に厳しいことになったのではないでしょうか。
(図36)
1958年、高さ世界一、エッフェル塔より高いものをつくる、そういう目標でつくっておりました。おカネを出した大阪の新聞王、前田さんという人が、建設するからには世界一でなければ意味がないんだと言ったということでした。最初のころの新聞記事は、世界一の高さのタワーと、高さに関するものが非常に多かったわけでございます。
(図37)
当時は、都内の建物の高さが31メートルに規制されていました。今東京タワーが立ち上がっていくところです。日本一の高さを目指して立ち上がっていくということがこの後でもいろいろ懐かしく思い出されてまいります。
(図38)
これは昔の東京タワーの周辺です。後でもう少し最近のものが出てくると思いますが、周りは本当に低いので、東京タワーが周りの建物に比べて目立ったということがこの写真からもよくわかるのではないかなと思います。
(図38)
東京タワーが立ち上がってくるところがいろいろなところに出ています。「ALWAYS三丁目の夕日」という映画の中でも、東京タワーがだんだん立ち上がってくる場面がいろいろなところで出てまいります。
(図39)
こういう時代、日本もようやく復興したという中で東京タワーができた。はとバスにはすぐに組み込まれたんですね。1964年ぐらいから新聞記事にはとバスが出てきたわけです。話題性がなくなってきたということで、団体旅行あるいはお上りさんの専用の観光地になってきたというのがこの時代です。60年代の半ばからです。
(図40) 
今でも東京タワーに行くと、はとバスがたくさんとまっております。こういう団体客に今も支えられているのではないかなと思います。
(図41)
東京タワー大食堂が1階にありますが、そこは、食堂自体もレトロな感じがします。1990年代の終わりごろから、団体の客にまじって、レトロな雰囲気を味わいに来る客が増えてきた。そういう雰囲気を楽しむ人が増えてきたということを実は東京タワー側も認識をしていて、今はそういう路線で商売をしているというところがあります。
(図42)
これは、昔あった東京タワー名物のカツカレー、鍋つきだとあまりおしゃれではないんですけれども、こういうものが復活してきています。食べるものも、下手に小ぎれいにするよりも、昔のままのほうが雰囲気が出るのではないかという感じになっております。
(図43)
売っているお土産も、ここにある絵はがきや温度計、お守り、ペナント──ペナント、ご存じでしょうか、三角形の布でできたものですね。昔は旅行に行くと買ったりしたことがあったと思いますが、今はなかなか売っているところはありません。それから、名前や日時を彫ったりする記念メダルが、まだ売られています。そのうち東京タワーでしか買えなくなるのではないかと思います。あとは、ゆるキャラ・ノッポンとか、いろいろあの手この手でレトロムードの演出をしているという感じになってきております。
(図44)
1989年、ライトアップを始めました。先程申し上げましたように、1985年からエッフェル塔がグランプロジェの一環として照明方式を内照式に変えましたが、東京タワーもライトアップを変えるようになりました。外側から投光機によって照らすのではなくて、このタワーの中に取りつけた電球によって照明をする。そうすると、近くの部材を照らすわけですから、非常に効率がよくなって、小さな電力で明るく見えるということでございます。これが、東京タワーが人気が出てくる1つのターニングポイントになったのではないかと思います。
(図45)
(図46)
これは夜景です。
(図47)
これは六本木ヒルズの森タワーから見たものです。他に建物自体を照明しているところはございませんから、非常に目立ちます。出張に行って新幹線で帰ってきますと、田町や浜松町の辺を通ったとき、ライトアップされた東京タワーが見えまして、「帰ってきたな」という感じがしますし、よそからお見えになった方は、「東京に着いたな」という感じになると思います。
六本木や新橋あたりの盛り場から、この風景が見えるということは、みんなのイメージの中に定着をしていったのではないかなと思っております。
(図48)
ライトアップが行われ、その後にこういう小説が書かれます。江國香織さんの『東京タワー』は映画にもなりました。ドラマにもなった。私もどういうものか読んでみましたら、東京タワーとはほとんど関係がないんですね。年上の女性と大学生の不倫物語で、東京タワーのことが何か書いてあるのかと思って読むと何も書いてない。でも、私は、ここに非常に大事なことを読み取りました。それは何か、何で東京タワーが出てきたのかというと、この登場人物の2人が暮らす場所から東京タワーが見える。最初のページに、彼らが住んでいるマンションからは雨にぬれた東京タワーがよく見えるということが書いてあります。つまり、東京タワーが見えるということは、白金や高輪など、東京の高級な住宅地だということです。なかなかこういうところに住める人はいません。そういうところに暮らしている富裕な人たちの間の話なんだということのシンボルに東京タワーが出てきた。つまり、東京タワーが見えるところは高級な場所、そういうことに今度は東京タワーが使われたといっていいと思います。
実際に東京タワーが見えるマンションは高い。あるいはレストラン、ホテルの部屋は、東京タワービューが売り物になっています。よくリゾートホテルに行くと、海が見えるほうはオーシャンビュー、山のほうはマウンテンビューといって、オーシャンビューのほうが高いわけです。それと同じように東京タワーというのは見る価値も出てきておりますし、東京タワーがある場所がこのイメージをつくり上げていることに現在なっているのかなと思います。
(図49)
もう1冊。リリー・フランキーが書いた『東京タワー』。この東京タワーは一体何だろうか。この東京タワーは九州から東京に上京してきた著者が、東京のシンボルとして東京タワーを見ているということだと思います。こういう中にも東京のシンボルとして東京タワーがイメージされるということになったわけです。
つまり、記号的な意味、東京のシンボル、非常に高級な場所に建っているもの、そういうふうに東京タワーの持っている意味がいろいろとついてきます。最初は高さ世界一、日本の技術力の象徴、復興の象徴というものであったのが、幅広く変わってきたといえるのではないかなと思っております。
(図50)
さらに、照明をすることによって、いろいろなところ、例えばお台場のほうから東京タワーが見えます。レインボーブリッジを渡っていても東京タワーが見えます。照明をすることによって、東京のシンボルになっていったのではないかなと思います。
本のところで言い忘れましたが、こういうものが長続きすることの非常に大事な要素は、小説や絵画、映画、いわゆる芸術作品に書かれるということです。単なる見たものはすぐに忘れてしまいます。同じような時代に生きた人、後に見る人たちに、本や映画、写真、絵画、そういうものによって残されていく、芸術として書き込まれて残されていくということが、後々人気が衰えない非常に重要な要素だと思っています。このことを観光対象の古典化といっております。古典化というのは、まさにクラシック音楽ですね。クラシック音楽は300年たっても、400年たっても飽きずに聞くことができるという意味の古典化でございます。
つまり、どういうことかというと、ほうっておくと、他のタワーがそうであったように、日々忘れられて、あっという間に入場者数が5分の1になってしまう。経営的に成り立たなくなって、取り壊されてしまうようなものもあるかもしれません。存在自体が難しい状態になるわけです。社会的にどんどん失われていく。そこに行きたいと思っている人がどんどん少なくなってくる。一般的にはそういう状況なわけです。それに対して、本に描かれたり、映画の中に登場したりすると、それを見た人がまた行きたくなるという意味が再生産される。価値が再生産される。つまり、失われていく価値と再生産される価値の均衡が破られたとき、再生産されるほうが大きくなったときが古典化の完成です。
そういう意味で、東京タワーは現在そういう古典化がほぼ完成してきていると思っております。原子力発電所でも臨界点というのがあります。核分裂が起きて、外から与えているエネルギーよりも核分裂によって出てくるエネルギーのほうが大きくなる。失われていくものよりも再生産されるほうが多くなるという状況に今来ているのではないかなと思います。
(図51)
エッフェル塔もいろいろなことをやっていますが、東京タワーは特別な日にはピンク色にしたりと、春にやっていたような気がします。青くなっているときもありました。照明の効果を自覚されたのではないかなと思っています。
(図52)
昭和レトロ2000年というのは、時代を特定するのは非常に難しいんですが、90年ごろから、戦後すぐの昭和の貧しかった時代が懐かしく思い出されてきました。私などはそういう時代の生まれなので、昔を思ってもそんなに、貧しくても将来の希望に満ちてみんなが生き生きしていたかというと、そんなこともなかったような気がします。でも、50年ぐらいたつと、つらかったことや苦しかったことはだんだん忘れて、懐かしい、楽しい思い出だけが残る。何事も50年ぐらいたつと懐かしいものに見えてくるという原理があるのではないかなと思っております。
(図53)
この映画のポスターを見ても、上野駅、路面電車、ダイハツのミゼット、蒸気機関車、看板建築、白黒テレビ、プロレス、懐かしい役者がそろっていて、当時を思い出すわけでございます。
東京タワーも2008年に50年、建造物も50年たつと文化財になる資格があると聞いております。そういうこともあり50年というものが1つの区切りなのかもしれません。50年ぐらいたつと多くのものは消えていってしまうし、人間も入れかわっていってしまうということなのかもしれません。
そういう意味で時代とともに懐かしいというものが出てきて、まさに古典化というものが完成しつつあるのかなと思います。このポスターの後ろのほうにも東京タワーが立ち上がっていく様子が映し出されております。
(図54)
これも映画のポスターですが、こういう時代というものを東京タワーが象徴していると思います。
(図55)
この中に入っているのも、蝋人形館や、ちょっと他ではなくなってしまったようなものがあります。そういう路線で現在の東京タワーは頑張っているようであります。

 

6.スカイツリーの立地と将来

(図56)
 タワーの歴史や逸話などお話をしてまいりましたけれども、新東京タワーが長く人気のある場所になっていくために何が必要なのかということを考えます。
高さが634メートル、できたときに世界一になる、これも大事なことです。いろいろな分野から委員が出ておりまして、耐震、地震のことや、電波のこと、景観的なこと、都市まちづくり、いろんな観点がございましたが、私の担当した観光的な面から申し上げますと、1つは、観光地形成上の理由ということです。
これは、はとバスとも関係があるんですが、最初は恐らく500万人、またはそれ以上の人が来るかもしれません。ただ、その人気は長く続かないと思います。必ず落ちます。そうしたときに、いかにこれを支えていくのかということが非常に大きなテーマです。つまり、現在の押上の地は、隅田川を挟んで浅草があるということです。ともすれば、浅草はライバルのように思われがちなんですが、浅草と一緒にやらなければここはなかなか難しいのではないかと思っております。
立地の選定委員会のほうからも、浅草と一緒に、台東区と墨田区は一緒にやらなければだめです、一緒にやってくださいというお願いをしています。
最初は候補地が15カ所ぐらいあった。最後に残ったのが池袋のサンシャインの隣と、さいたま新都心、大宮の近くの場所がございました。埼玉県は大変熱心でした。しかし、浅草まではとバスがたくさん来ていまして、浅草に来ている人は、この新東京タワー、スカイツリーと同じコースで、確実にベースで計算することができます。これが池袋だと非常に苦しいです。まして、さいたま新都心になると、そういう需要、つまりはとバスのような周遊型の観光、古いタイプの観光ですけれども、そういうものがほとんど期待できなくなってしまいます。これは大変厳しい状況だと思います。
もう1点、夜景ということですね。エッフェル塔でいいますと1985年、東京タワーでいいますと1989年から新しい方式のライトアップをして、タワー自体が光り輝くようになりました。これまでと全く違う見え方をして、タワー自体、夜のウエートが非常に高まってまいりました。夜楽しむもの、夜の景色として地域に効果を及ぼすもの。いろいろなパンフレットも夜のものが多いですね。スカイツリーのパンフレットも、先程も拝見しましたが、新しいLEDの照明を使って照明しているものになっております。
つまり夜、周りから見るところがあるのかということです。あるいは上から見て楽しめる夜景があるのかということです。大宮やさいたま新都心はそういう意味で相当厳しい状況です。いわゆる観光地的なものがございませんし、上から見たときに駅の周りはにぎやかかもしれませんが、ちょっと遠くを見ると、見沼田んぼみたいなところになってしまいます。みんな真っ暗。夜、上に登るという利用がなくなってしまう。これも大変苦しいですね。見上げる場所があるかというとそれもないということで、夜の場所がない。
池袋もそうです。東池袋というちょっと外れたところにあります。池袋の町はございますけれども、すぐ裏のほうは雑司ヶ谷の墓地もあり、池袋も光が足りないですね。
押上は十分かというと、押上も厳しいところなんですが、隅田川があって、浅草の町があって、向こうに浅草寺のライトアップしている五重の塔が見える。そういう相乗効果が夜景については期待できる。夜の飲食関係も浅草には古い日本の伝統的なものが期待できるということです。
実は、タワーの周辺でどういう夜景が見えるか、ヘリコプターを飛ばして夜景の調査を行っております。夜景というのは非常に大事な要素だということです。
それから、先ほどはとバスについて申し上げましたように、こういう団体旅行で訪れるような周辺の観光地と連携をして、周遊ルートが形成できると言えると思います。そういう可能性が一番高いのではないかなと思います。
それから、物語形成の可能性です。要は、古典化するということは、いろいろな物語に書かれる、あるいはいろいろな事件が起きるということです。事件は、町の中にないと起きないんですね。一番いろいろな事件が起きそうな場所。エッフェル塔も、エッフェル塔ができてから、パリ、フランス、世界の歴史を見てきた。あるいはいろいろな世界的な出来事の証人になってきた。それがエッフェル塔の意味です。いろいろなところにこのエッフェル塔が登場するわけです。
1つは、先程書いてありましたように、大反対運動が起きました。文豪などが反対をした、大反対運動ですらも、今となってはエッフェル塔の物語の非常に重要な部分ではなかったかと思われるわけです。何もなくすんなり建ってしまうよりも、いろいろ反対意見をいう人がいて、議論が巻き起こるほうが物語が誕生するのではないかと思うわけです。
そういう意味で、実はこの押上に決まったときに、ここは蔵前や国技館があったり、あまり高い建物がなくて、江戸時代から風流な場所であった向島などもある。あるいは浅草からも反対運動が起きるのではないかと身構えつつ、ちょっと期待もしておりましたが、あまりそういうのは起きませんでした。例え反対が起きても、そういう物語を誕生させるという意味、つまり、そこに人が住んでいて、突然こういう巨大なものが生まれるわけですから、いろんな摩擦があると思いますが、そういうことすらも、古典化の中の非常に重要な要素なのかなと思っております。
(図57) 
これは完成予想図です。今着々と進んでおりますが、できたら、向こう側がもう少しにぎやかで、夜景の要素があるといいなとも思っております。向こうにビール会社のモニュメントや区役所がありますが、もう少しあってもいいと思います。向こう側に光がたくさんあると、もっとタワーも引き立つのではないかと思っています。
(図58)
(図59)
(図60)
しばらく前に私が行ったときは318メートルでした。しばらく前に東京タワーを超えたということでしたので、今は350メートルよりもっと大きくなっているかもしれません。連休のときのテレビを見ておりましたら、たくさんのカメラを持った人が周りで写真を撮って、もう既に観光地になりつつある状況でした。これはしばらく前に行ったんですが、そのときでも、平日ですが、たくさんの人が来て写真を撮っていました。この調子で人気が出てくれたらいいなと思っております。
(図61)上海夜景
これは上海です。上海の歴史的な町並みのバンドといわれている租界のあったほうから、東方明珠(パールタワー)、浦東のほうを見たところです。高い建物が建ったり、照明をした船が通ったりして、なかなかにぎやかですね。
(図62)
今台東区のほうの観光地計画のお手伝いをしていますが、川べりのライトアップということも計画が進んでおります。これが完成するころにはもう少しにぎやかなものになるのではないかなと思っております。
台東区側から見ますと隅田川を挟んで、今はこんな感じで、まだ寂しい感じです。
(図70)
今お話ししたことをまとめてみますと、東京タワーのイメージにはいろいろなものがつけ加わったり、変わってきた、あるいはいろいろな視点が生まれてきたということが1つあると思っています。そして、恐らく新しいスカイツリーにも同様なことが起きると思います。
東京タワーは美しいかと学生に聞くと、東京タワーはきれいだ、美しいと言います。照明しているところなんか非常にきれいだと私も思いますし、東京の中の非常にシンボル的な要素であり、美しいといってもいいのではないかと思います。しかし塔のデザインとして、東京タワーだけを取り出して、デザイン的にはどうなんだというと、世界のデザインから見ますと、あまり評価は高くないんですね。
ここで申し上げたいのは、もちろんデザインがいいにこしたことはないんですが、そういうことよりも、それをどういうふうに使ってきたか、意義づけてきたか、そういうことのほうが大きいということです。たまたまいろいろな事件が起きてしまって、それにいろいろな意味がついて、物語が生まれていくということもあると思いますが、より意図的にこれを使っていくということが大事だと思います。
それはエッフェル塔を見てもわかります。フランス革命の200周年というところでいろいろお祭り行事をやったり、照明を変えたりしましたし、あるいは革命の記念日にはエッフェル塔のところで花火大会をやっているなど、いろんな国家的な行事の中でこれを使っています。そういうことが非常に大事なのではないかと言えると思います。
それから、東京タワーはなぜ人気があるのか。これは繰り返しになりますが、ある時期の一時的な人気はなくなってきましたが、今は50年を迎えて古典化のプロセスをほぼ完成しつつあるということです。いろいろな芸術作品に描かれたり、映画に描かれたりということで長もちをする。50年たってみんなが懐かしい気持ちを抱くようになってきている段階ではないかと思います。
つまり、言いたいことは、50年になるまで何とか持ちこたえるということ。苦しい時代は必ず来ると思うんですけれども、その時代をいかに耐えるかということが非常に大事だと思っております。
単に高さが高い、デザインがいいということだけではなくて、そこにいつまでもみんなが行きたいなどの意味を見出すためには何が必要なのか。そのことをしっかりと認識した上で着実にそれをやっていくことが場所の持続的な発展につながるのではないかということをまとめにいたしまして、新しい東京タワー、スカイツリーに向けてのメッセージにしたいと思います。
ご清聴いただきまして、ありがとうございました。(拍手)


フリーディスカッション

 先生、どうもありがとうございました。
毎日のように新聞、テレビ等で東京スカイツリーが話題になっておりますので、今日のお話は大変楽しく拝聴いたしました。
会場の皆様、先生に何かご質問のある方はどうぞ手をお挙げください。


河合(樺|中工務店) 今日は観光の視点から古典化という話に感銘を受けました。
1つお伺いしたいのは、今ある古い東京タワーが日本の復興と豊かさのシンボルということは、当時の日本の情勢が関係するのかもしれませんが、広く国民に共有されたイメージだと思います。今の新しいスカイツリーは何を象徴するものというふうに先生は考えられていらっしゃいますでしょうか。

安島 今は、景気が悪いので50年たったときに、このスカイツリーができたときはどういうふうに思い出されるんですかね。みんな景気が悪くて落ち込んでいた時代というのも寂しいと思いますし、これは全く私も想像つかないんですが、多分そういう負のイメージは50年たつとみんな忘れるんだろうと思うんです。やはりデジタル放送が始まった、テレビに次の革命が起きた時代、あるいはインターネットのような情報革命が起きた時代というイメージなのではないでしょうか。
今どんなふうに新聞には書かれていますでしょうか。50年後の人がこういうことを調べるときは今の新聞記事を集めてきて分析するでしょうから。暗い世相に一筋の明るい希望を与えた東京スカイツリーということかもしれませんね。

横山(新都市センター開発) 今日は貴重な話を、わかりやすくありがとうございました。2つ質問したいんです。
今の質問にも関連しますが、今日の非常に興味深かったのは古典化という概念です。先程、先生から、観光理論のほうで古典化という概念があるというお話がありました。古典化理論というのは非常に説得力があって、わかりやすい説明でした。これは先生のオリジナルの理論体系かどうか。もしくは観光のほうで古典化理論というのは既に定着した理論なのか、そこがまず1点。
2点目は、スカイツリーの立地選定のときに、水面空間、隅田川があるということ、私、そこがほかのところと決定的に違うところかなと思っておりましたが、シンボリックなものを見せるときの水辺の大切さというのはよくいわれています。その点については何か選考理由の中で議論があったか。この場所を選んだのは水があるから、川があるからというのはいかがでしょうか。
2つ質問させていただきます。
安島 観光の分野で古典化というのはほかの人は使ってないと思います。景観の中村良夫先生は名所というものが定着するときの理論でお使いになっていたことがあるような気がします。ちょっと思い出せないんですが、名所が成立するときの背景として、みんな同じところから見たり、絵画に描かれたりということをおっしゃっておられましたので、それが大きなヒントになっていて、いろいろ観光面でも、調べていくとこれはかなりそういう要素が大きいのではないかと最近は確信に変わってきております。
それから、隅田川の存在は非常に大きいです。それは水辺が夜景と親和性がいいということです。くっきりと川の線が出ますし、ある程度引きが生まれますから、実はスカイツリーを見る場所としては台東区側の隅田公園、浅草のほうが一等地ではないかと思います。そういう意味で、風景として1つは川の要素は大事ですね。
もう1つは、川の交通という面もあります。お台場やそういうところまで水上バスでつながっている。浅草との結びつきにしても、船のようなものを使うという楽しさがあるということで、水の存在は景観の面でも観光の面でも非常に大きく評価をしました。
川辺 ありがとうございました。私、墨田区役所が新庁舎に移るときに、区役所の行政経営改革というCIに携わったり、今またスカイツリーができるということで、墨田区役所にとっての経営戦略でスカイツリーをどう活用できるか、という観点からちょっと広報に携わっております。
ミクロな話で、台東区と墨田区は川を挟んで非常に対抗意識が強くて、昔隅田川に水死体なんかが流れてくると、どっちの川岸に着くかで大変な負担がどちらの区に帰属するかなどということが問題になったりと、川を挟んで対立した2つの行政でした。こういうスカイツリーという地域の大きな観光資源ができるときに、両区をまたいで大きな構想で共同して地域を広域で考えていくことが必要だと思うんです。区役所の内部にいますとなかなか難しそうで、その辺について、どうすれば墨田区と台東区が両方にプラスする形でこのプロジェクトを推進していけるのかということについて、アドバイスがあれば聞かせていただきたいと思います。

安島 お話をしたとおりに、台東区と墨田区が一緒にやることがこのタワーの成功にとって不可欠だと、私も委員会のメンバーもそう考えていて、わざわざそういう勧告書をつくり、「一緒にやってください、そういう条件つきでここを選定します」というふうにお願いをしました。
その結果、これまでは台東区と墨田区はあまり観光的なことで連携をすることはなかったと思うんですが、最近はたびたび連絡協議会などをやって、その辺は随分うまくいっているように思います。
さらに、一緒にやることの意味、つまり、先程のはとバスの例でもございますし、遠くから来た人にとっては、この地域は別な地域じゃなくて、一帯としてとらえられますから、共有することが大事だと思います。
浅草は昔からの観光地ですから、ちょっと進んでいると思いますが、特に歩いていくルートの形成、あるいは両方を回るようなバス、さらに船、北十間川という川はちょっと細いので使い方が難しいんですが、割に近くまで行けますので、そういうところを使うなど、その辺はすべてお互いの協力がないとできませんので、そういうところから進められたらいいと強く思っております。

谷 先生、先ほどもおっしゃっていましたが、もう既に観光地化されて、多くの方がタワーの現場まで行っていらっしゃるんですけれども、こういうことは今までの中にはなかったような現象ですね。観光地化というところからいうとどうなんでしょうか。

安島 そうですね。まだつくっているときから観光地になっているような話はあまりないかもしれません。東京タワーのころはまだ私はわかりませんけれども。少なくともこんなに話題になって、毎日テレビでやっているような状況はなかったのではないかなと思います。

谷 また、完成してからの楽しみもあるんですけれども、今でないと見られない瞬間的なものというのがありますので、またそこが話題性があるのかなと思いますが。

安島 そういうことも後々また記録に残って、いろいろなスカイツリーの見方や物語の一部になっていくと思っております。


松下(潟Iリエンタルコンサルタンツ) 今のお話に関連してですが、建設中から話題になるというのは、先生はどういうふうに、なぜ話題になっているとお考えですか。


安島 それは今、世界一の高さということ、東京タワーに人気があって、それにかわるものだからということだろうと思いますね。そういうことは一時的な人気だろうと思うんですが、これが大きく人気が出たり話題になっているということが積み重なって、社会の中にいろいろな形で浸透していくということが将来の古典化というものの中で生きてくると思うんです。いろいろな形の話題がもう織物のように重なって、将来の多様な意味が発生する基盤ができるのではないかと思っています。今のただ見に来る人だけではなくて、いろいろな形の動きが出て記録されていくということが非常に大事だと思うんです。まだ映画や何かの舞台にはならないと思うんですが、完成したら映画の舞台になったり、小説の舞台になったり、そうなることが古典化の早道だと思っております。

西(日本測地設計梶j 私は、見に行ったことはないんですけれども、電車で通るときにチラッと見ております。非常にせせこましいところに今度のタワーはできているように感じます。ここは電車で行くときにはいいと思うんですが、バスで来たり、車で来たりという観光交通の面をどういうふうに比較されたか。さいたま新都心のほうは非常に広々して、幾ら車が来ても大丈夫だと思いますが、交通面で比較したときにここはかなり厳しかったのではないかと思います。その辺はどういうふうに評価されたんでしょうか。

安島 申しわけございません。バスの収容、駐車場や何かのことについては、比較検討に私はかかわってなかったので、ちょっとわからないんですが、地下鉄や東武線もありますし、歩いてきてもいいですし、周遊バスもありますので、そんなに大きな問題にはなっていなかったと思います。
そういう意味では、浅草自体が現在バスがとまるところはないような状態で、物すごくたくさんの人を集めております。浅草では別のところに駐車場をつくったりということを考えてやっています。浅草の近くではバスをとめておけるところはほとんどないような状況ですね。ですから、はとバスには期待するわけですけれども、何百台というバスが来るわけではないので、あの敷地の中で何とかなるのではないかなとは思っております。申しわけございませんが、そこのところは詳しくありません。

菅((有)あいランドスケープ研究所) ありがとうございます。景観の話と観光の話で1点ずつ伺いたんですが、観光の話でいきますと、東京タワーの入場者数はこれからどうなっていくのか、戦略はどう組んだらいいのか、その見通しにつきまして、ご見解をいただきたいと思います。
もう1つは、景観の話で、エッフェル塔のほうにはデジタル放送はどうなのかということを私は存じ上げませんが、東京でこの600メートルの高さが必要だというのは、林立する100メートル級、200メートル級のビルが都市の中にたくさん建つという状況を是認する方向の中で、高い塔を建てるということだと思うんです。そういう都市景観としてこの先どういうような景観の魅力をつくり得るのか。600メートル建てましたので、200級、300級も建てられますよという状況を基盤としてつくっていくことになると思うんですが、そういった景観的な将来像についてどんなお考えなのかをお聞かせいただけますか。
安島 予測するのは非常に難しいですね。東京タワーはこれからどうなるんでしょうか。ある程度東京のシンボル的なイメージが今はありますし、やはり東京の一等地にありますので、しばらく人気は続くと思っています。これを長続きさせるには、次の何かをつくっていく必要があると思います。先程完成したといいましたけれども、次の物語をつくっていく必要があるのかもしれませんね。それには1つは、新しいスカイツリーとの間で何か新しい物語、あるいは関係ができるということがあると思います。
それと、2番目の東京の景観がどうなるかということです。どうなるでしょうかね。ヨーロッパの町はあまり高い建物がないんですけれども、中国の都市を見ていると、そういうものはたくさん既にありますし、都心部はかなり高いものができてきているので、そういう地域が広がるのかなと思うんですけれども、東京自体がどこまで成長するかということは、またちょっと別で、そんなにビルがたくさんできて、急速に変わっていくとはちょっと思えない。東京湾岸のような町になる部分はなっていくのかなと思いますし、これ自体をどう評価するかですけれども、それは決して悪い風景ではないのではないかなと思います。

 香港のような林立するような状況でも電波の状況では大丈夫ですよという状況をつくっていっていくということが、また次のボタンを押していくことになるのかもしれないなという思いをしたものですから。ただ、これをすべて、どこかがコントロールするということではない中で、景観の議論がそこからまた起こっていくことを期待したいなと思いながら、伺いました。

出来(潟Vビックデザイン研究所) 600メートルを超す展望台、そういうところから都市を見る観光ということは、ある意味においては都市デザインを誘導する非常に重要な役割を持つかと思うんです。いわゆる都市計画、都市デザイン、緑地の配置計画などです。かなり計画的に、見て楽しい都市づくりといった提言をこれからやっていく必要があろうかと思いますが、観光の面からそういうもののアプローチを積極的に連携してやっていくにはどういうことが重要であるか、この辺をお尋ねします。

安島 これまではそんなに高いところから都市を見おろした経験がないわけで、全く新しい視点が生まれるということになるのではないかなと思います。高いところから見た風景が、あまりにも小さくなって、ちょっと高過ぎるのではないかとおっしゃる方もおられます。
ただ、これまでに経験してない視点から何が見えるのかということを私も考えたことはなかったんですが、おもしろい視点だと思います。それはこれから考えるべきことだと思う。何を見せるのかということを考えることではないかなと思います。同じく立地選定委員で、都市のほうから発言された後藤春彦先生とかは、もっと大きな都市の方角等の中でここのタワーが建つ位置を評価しておられたように思います。町の見方の新しい視点をこちらから提示するというのが1つあるのではないかなと思っております。

出来 東京タワーができたときに、展望台から見おろす俯角の関係で一番目につきやすいものが研究成果として主に出されています。かつては水際線のあたりが東京湾の一番目につきやすい位置だったと思いますが、そういった景観工学的な意味合いを持って、一番目につきやすい、そういったところの都市デザインのありようが、スカイツリーから何か発信できるのではないかと思って期待しているところです。
安島 私も期待したいと思います。思いもよらぬ見方も出てくるかもしれませんね。東京タワーも、新しい東京を見る視点をつくりましたし、その後続々と生まれた超高層ビルも、これまで全くなかった東京を見る視点を生み出していると思います。あるいは首都高から見る東京の町なんていうのも、昔にはなかった全く新しい東京の風景の見方を生み出したものだと思っておりますので、それをどういうふうに評価するか、それをどういうふうに観光的に使うかというのは、これからじっくり考える必要があるかなと思います。

木村(活イ設計) 大変興味深いお話をありがとうございました。私は、質問というより感想ですが、今の質問の中で視点という話がありまして、高いところから見た視点ということでしたが、実は視点を変えると随分違うなと思ったのは、一昨日飛行機に乗ったんです。空域を緩和させたりなんかして、そのもとには横田のいろいろな制約がなくなったというのもあって、通常の旅客機が東京の真上を通るようになったわけですが、たまたま一昨日も下を見たらスカイツリーが見えました。東京タワーもかなりのボリュームで見えました。見方が変わってくると、飛行機に乗ったお客さんが見て感動を与えたからといって、タワーのほうの収益にならないかもしれないけれども、やはり東京のポテンシャルと、イメージが高まってくるのではないかという期待をしております。また夜に地方から東京の上空を通って成田におりるということをぜひ体験してみたいなと思いました。
大越(墨田区議会議員) 本日は貴重なお話大変ありがとうございました。先程の先生のお話の中で、台東区側から見ると、墨田区側のほうが光が少ない、川べりが寂しいということでしたが、まさに浅草と比べると墨田区は観光に関しては発展途上区という認識を区も持っているわけです。
墨田区のタワーの周辺に今来ている観光客の皆さんから見ると、墨田区が浅草のような大きな観光地になっていく形成過程で、大変楽しみにしているというお話もいただいております。一切観光に縁がなかった、生活するのに精いっぱいだったところが1つ大きな夢を持って、平成のALWAYSではないですが、それを目指して、少しずつ墨田区の区民も元気になっているなということを感じるんですね。
今後、タワー開業に向けてあと2年間、そしてタワー開業後のまず初期の5年間を目指して、台東区は考えていかなければなりません。浅草という大型観光地域があるので、何ら新たな投資等をしなくても、それなりに観光客あるいは地域住民の満足度はできてくるのではないかと思いますが、墨田区は観光に関してはこれから1つ1つ一から始めないといけないという部分もあって、また、観光を新たな区の基幹産業にしていくことが地域全体が大きくタワーによって元気になってくることにもつながっていくかなと思っています。
その上で、まずはタワー開業までのこの2年間、何を地域としてやったほうがいいのか、そのことを観光の専門家である先生のほうからご教示いただければというのが1点目です。
また、タワー開業後さらにこういったことが大事になってきますよとか、その辺についてもご教示いただければと思います。よろしくお願いします。

安島 何よりも大事なのは、浅草との連携だと思っております。もちろん、墨田区側で観光的な整備をされる部分がたくさんあると思いますけれども、観光というのは、何かを投資してそれに見合うだけの観光客を呼ぼうというのは難しい。効率が非常に悪い。一番効率がいいのは、浅草に来ている人に足を延ばしてもらうことだと思います。
浅草のほうから見て、スカイツリーは目の前に見えるわけですから、絶対行ってみようということになると思います。そのときにどうやって行ったらいいんだというのがわかるようにルートの整備や周遊バスをつくる。あるいは船に乗っていったらおもしろいですよね。船に乗って北十間川のほうまで行って、あそこは回転できないから違う船を使わなければいけないかもしれないけど、船で行ったり、あるいは歩いていってもいいと思います。お互いに行き来ができるようにするのが一番だと思います。一番目立つんですから。台東区側もここの通りからこういうふうに見えますとかいろいろやっていますし、今隅田公園の整備も、ライトアップの研究もやっています。そこから目の前に見えるわけですから、絶対に行きたくなりますよ。その人たちをスムーズに誘導するのが一番です。
浅草にとっても、スカイツリーに登れば、浅草の町がすぐ近くに見えるわけです。浅草寺がライトアップする予定ですので、あそこは何だ、帰りに寄ってみようということになる。お互いにお客の取り合いではなくて、相互に協力することによって、ウィンウィンの関係になれるということをぜひ自覚していただいて、観光行政を進めていただけたらと私は思います。

谷 そろそろお時間になりましたので、質問は以上とさせていただきます。安島先生、大変ありがとうございました。(拍手)
以上をもちまして本日のフォーラムを終了させていただきます。本日はまことにありがとうございました。(拍手)



 



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