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1. はじめに~帝都復興とは何だったのか
2 . 大正の「現代」~民権論の世相と第1次世界大戦後の世界
3. 景観を誇示する都市~「東京節」が謳歌した帝都
4. 帝都炎上の惨禍~大震災をたどる演歌 
5. 復興の速度感~「コノサイ」こそ民意
6. 燃え落ちた旧社会~純白のキャンバスの出現
7. モダニズムの帝都~復興小学校の奇跡 
8. モダン行進曲~モボ、モガの昭和東京
9. 結び~なにを学び、なにを残すのか 

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1.はじめに~帝都復興とは何だったのか

(図1)
帝都復興祭が昭和5年にありました。仲見世のところです。コンクリートで日本流バザールを復興した東京市の仕事です。そこにこういう「帝都復興」という仮設の塔が立ちました。こんな形で東京は盛り上がっていくわけです。
震災復興、帝都復興というのは何だったのか。公共主体のものと、公共が先にやって、その後民間が応じて立ち上がっていくという2つに分けていいのかなと思います。
東京においては国と東京市が主体で、それに横浜市も入りました。いろんな話がありますが、後藤新平がつくった案は、東京全体の焼け跡を全部国が一度買収して、それから払い下げるという案です。その予算規模が40億円でした。国家財政が15億円規模の時です。最終的に7億2450万円という額になりました。後藤新平が東京市長時代につくった大風呂敷と言われた案が8億円です。大風呂敷が縮んだとか、できぬから大風呂敷だと言われるわけですが、歩どまり9割ぐらいにとまっている。この中には同潤会は、そういうものは入っていませんから、相当な歩どまりだったのではないかと私は思っています。後藤新平について今日みんなで万歳し過ぎているという批判もあります。帝都復興がいかに汚職にまみれていたかとか、そんな話もしていますが、それは余りやってもしようがないかなと思いますので、今日はポジティブな面のお話をしたいと思います。
帝都復興院は大正12年9月末にはできるんですが、年末に虎ノ門事件が起きて、内閣そのものが総辞職に追い込まれて解散させられます。12月27日の虎ノ門事件は、難波大助という山口県の大地主、素封家の息子が、入試に失敗するなどして、むしゃくしゃして、帝国議会に摂政の宮が出席する途上を虎ノ門で狙撃した事件です。そんなことがあれば内閣は即日総辞職です。そういうことで12年9月の初めから続いた帝都復興院が主導した復興事業は、そこでひとまず終わりになってしまいます。
その後、復興局という当時の内務省の内局の形で事業は継続します。一番大きかったのは、東京市長だった後藤新平が東京市に多くの有為の人材を集めていました。その人たちの力で実際に復興の現場は進んでいきます。
これで、先ほど司会の谷さんのほうからお話があった「モダン東京」というものが成立をし、それからモボ、モガ、エログロナンセンスの東京というのができ上がっていきます。
一応公共のものは昭和5年3月までにおおむね終わり、それに応じる形で前後して民間の一種のビル需要、公共建築もまたつくられていきます。明治の見よう見まねで西洋建築を修得してきた成果が、このころになると同時代の表現、つまりヨーロッパと同じ時代の建築をやってみようというところまできて、意欲が高まっています。
全部焼け野が原になったので、何を建ててもいい。実は後藤新平も、焼けたことを大喜び、若い建築家も大喜びという、今日とは随分違う話です。後藤新平は、不謹慎というか、江戸を引きずって世界に恥ずべき帝都だったのが、これが焼け落ちたので、どんな新しい都市でもできるというぐらいに小踊りして案を描くわけです。その神経がまともだったのかどうかは難しいところですが、それはそれとして、そうやって自分でやってみよう、ここまで温めてきた構想がこれでできるんだということを思った政治家がいた。しかも、大正の自由主義の世相も知っていた。そういうひとと時代だったので、帝都復興はできたのではないかということです。
復興祭の東京ですが、こんなに人が集まっている。この間のオリンピックのメダリストのパレードも目じゃない。東京中に人が集まって大騒ぎになったわけです。
(図2)
その前段として大正時代は非常に重要な意味があったのではないかと私は思っています。つまり、帝都は壊滅するわけですが、それを復興できたのは大正時代の大衆の民度の高さがあったからだと思っています。
(図3)
大正時代の重要な事項を並べてみました。護憲運動や、軍拡のための増税反対運動が大正の初めから始まります。シベリア出兵は、ロシアが革命で弱って、ソビエトは国がまだ立ち上がってないから、一丁攻めていってやれと、後藤新平がしでかした大失敗です。そのシベリア出兵が1917年にあった。後藤新平が帝都復興案を出したときに、シベリア出兵よりましだから金を使えと言った議員もたくさんいたりした。それから、第1次世界大戦が翌年に終わった。この間ソビエトの革命があります。シベリア出兵のようなことがまたあるだろうというのを当て込んで、軍の兵站、兵隊さんが食べる食料のために米を相場師が全部抑えてしまう。それによって米の価格が高騰する。それで米騒動が起こります。米騒動というのは国内の話のようですが、日本が対外的に強い軍事国家として、国際舞台でキャスティングボートを持っていたということの反映でもありました。
大正天皇が病弱だったこともあって、大正10年になって、まだ若かった裕仁(昭和天皇)が摂政の宮、事実上の国の代表になります。大正12年に関東大地震が起こって、虎ノ門事件もあります。
大正14年、それまでは税金を払っている人しか選挙権がなかったんですが、普通選挙法、男子25歳以上、税金の多寡にかかわらず選挙権が得られます。ただ、女性にはまだ選挙権はなかった。それを通すときに、日本は大野伴睦流の「足して2で割る」のが好きで、選挙法をつくるからというので、治安維持法を一緒に出してしまう。セットでこれが来てしまった。その意味では、大正時代は、ある安定があったけれども、普通選挙法ができると、今のポピュリズムの社会みたいなものになって安定が崩れてしまう。一方、治安維持法で言論風圧が起こってくる。ここで1つの時代が終わっていくのかなという感じはあります。




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