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1. はじめに~帝都復興とは何だったのか
2 . 大正の「現代」~民権論の世相と第1次世界大戦後の世界
3. 景観を誇示する都市~「東京節」が謳歌した帝都
4. 帝都炎上の惨禍~大震災をたどる演歌 
5. 復興の速度感~「コノサイ」こそ民意
6. 燃え落ちた旧社会~純白のキャンバスの出現
7. モダニズムの帝都~復興小学校の奇跡 
8. モダン行進曲~モボ、モガの昭和東京
9. 結び~なにを学び、なにを残すのか 

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4.帝都炎上の惨禍~大震災をたどる演歌

関東大震災が大正12年9月1日に起こります。マグニチュード7.9。死者は、いろいろな説がありますが、最近は10万人をちょっと切った数字が出ています。それでも物すごい人数が死にました。家屋は東京、横浜では60%~70%焼けてしまった。震害、地震で倒れたよりも火災の被害のほうが深刻だった。本所被服廠跡、今の横網公園、江戸東京博物館の北側のところです。当時、添田知道が書いているのを見ると、誰かが、とにかく被服廠跡へ逃げろと言った。そこは空き地で、元の被服廠というのは軍隊の服をつくる工場でしたが、当時東京市が買収して公園にかえている途中だったんです。被服廠に行けば大丈夫だといってみんなが空き地に逃げ込んだところに火炎の竜巻が起きました。
関東大震災は火災がまる2日間続きました。築地の本願寺は当初、震害は無傷に近かったが、銀座のほうから貰い火して、結局焼失して現在の伊東忠太の建物に変わっていくわけです。それぐらい火災の被害がすごかった。語弊がありますが、横網公園で3万8000人が蒸し焼きになった。そういう悲劇があって、その悲劇からどう立ち直るかというのが帝都復興でした。
(図24)
当時の写真で、皇居お堀端です。これが警視庁です。「いかめし館は警視庁」や、帝劇など歌に歌われた、それらが全部焼けてしまう。今のサラリーマンよりきれいな格好のひとびとが茫然と焼失する帝都を眺めている。9月1日で暑かった。文明というものが崩壊していくのが悲しいかという風景だと思います。
(図25)
警視庁はちょうどお昼時だったので、昼飯で火を使っていたんだと思います。こういう具合に警視庁が焼けた。これは今の警視庁の場所ではなくて、丸の内警察署の位置です。
帝劇も三越も大被害です。
(図28)
(図29)
(図30)
浅草の十二階です。バルトンの設計です。当時の浅草にはひょうたん池というのがあってしましたが、この界隈に料亭やあいびき宿がありました。震災で、十二階は真ん中からポッキリ崩れ落ちてしまう。そして、池は埋めたてられ、当時を偲ぶよすがも失われてしまいました。
(図31)
(図32)
今の発展途上国の被災風景みたいですね。向こうに東京商工会議所と東京会館。そういうところでこんなトタン板を拾ってきて、これを屋根にして、シェルターをつくってみんなで暮らしていた。皇居のお掘りの内側です。こんなところからよく立ち直ったと思います。
いろいろ歌を手がけていますが、私の心根としては次の1曲のためにやっているようなところもあります。震災の風景をちゃんと叙事詩的に歌っていた歌が残っています。吉原版などいろいろあります。今日は吉原版を抜いています。それでもそこそこの長さがあります。



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