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対して、高山さんは、サッカーをやっているから足が速い。だから、警察の手入れでも、逃げきってしまったようです。
これは別の時の話ですが、当時高山先生は前川國男事務所にもよく出入りしていて、前川さんの記憶によると、焼き芋を買ってくるのも、大変早かったそうです。

(図8)
大学3年生になると、卒業論文と卒業計画を出さなければいけない。マルクシズムの影響でしょうか、高山さんは東北地方に行く。当時東北地方は大凶作で、娘の身売りが頻発していて、そんな状況を見にいった。あと三陸沿岸。この地域は昭和初めにも大津波に見舞われ、高山さんはその直後の惨状を見にいっています。
当時三陸沿岸では、今出ている話と同じように、漁村の住宅は高地に移転するべきだということがいわれていました。しかし、漁民たちは不便だから移りたくない。若い高山さんには判断がつきかねたと思います。対象地を東北の三陸ではなくて、自分のお父さんの生まれ故郷である千葉外房に移して、そこでの漁村計画を卒業計画にしています。
(図9) 
それが、この卒業計画です。その後、高山さんはほとんど自らの手で設計されることはありませんでしたので、数少ないご自分で描かれた設計図です。決して下手ではない。これを見て思い出すのは、ソ連の工業都市のスターリングラード、今のボルゴグラードの線形都市です。スターリングラードは五カ年計画達成のための工業都市だが、高山さんの計画では線形が漁村計画に応用されている。
漁業は共同化し、住むところも出来るだけ共同住宅にする。住宅は高台にあげず、津波が来たら集団で避難できるよう、いろいろな共同化を進めるという計画です。
一番海側に防波堤を設け、その次に生産加工場などがある職場ゾーンを配置する。一番遠いゾーンに住宅を配置するという計画は、そのころ岩手県田老町の漁民たちが行なおうとしていたものに近いといえるでしょう。
(図10)
スターリングラードの線形都市計画は、防災的配慮とは無縁で、生産ラインのような合理的配置をとることにより、工場の生産性をあげようという計画です。対して、高山さんはここに防災への配慮を加えた。そして住宅や漁業、そして避難などの共同化を推し進めることによって、貧困や災害を克服しようとしている。そうしたヒューマニズムな姿勢が線形都市をとった理由になっています。
高山さんの卒業計画は、この年の辰野金吾賞を受賞しました。辰野金吾賞は、卒業計画の中で最も優秀な人に与えられる賞です。この年は高山さんのほか、後に日建設計社長となる塚本猛次、山下設計事務所社長となる野崎謙三にあたえられました。
後年、高山さんが自ら設計に手を染めることはなかったことから、プランナーとしての能力を疑う向きもありますが、この卒業計画はそうした俗説を否定するものです。
(図11)
さて、東大を卒業した後、高山さんはすぐ大学の助手として就職しています。助手になって、『外国における住宅敷地割類例集』という本で、近隣住区など近代都市計画を紹介するわけです。大学を卒業すると大学院に進学するのが常ですが、高山さんの場合は家が余り裕福でなかった。収入を得る必要があったことから、もともとは同潤会に就職予定だったともいわれます。
しかし、高山さんを大学にとどめさせたのはサッカーでした。1936年に開催予定のベルリン・オリンピックで、高山さんは日本代表候補だったんです。ベルリンに行くには大学に残したほうがよいという内田先生の判断があったのでしょう。
ところが、肝心の出発直前に、盲腸になってしまい、高山さんはベルリン・オリンピックに行けませんでした。このときの日本代は優勝候補のスウェーデンを破った伝説的チームですから、惜しいことをしました。
もっとも、悪いことばかりではない。盲腸で任官も遅れてしまったので、ノモンハン事変への招集を免れてもいます。同期の士官たちは、ソ連軍とは格段に低い兵力のなかで、ほとんどが戦死しました。「自分は満州で死ぬはずだった人間だ」と、高山さんは生涯口癖のように言っておられたといいますが、勲章を辞退し、天皇制批判を口にしておられたりしたのは、国家に対するこうした忌まわしい記憶があったからでしょう。
(図12)
 その後、助教授になりました。内田祥三の下で、大同という中国の古い町の都市計画を立案します。これは当時の日本人の都市を計画する技術の高さを証明する例として、今もよく都市計画の教科書に出てきます。北魏時代からある古い都市ですが、古都の部分はそのまま残し、郊外に拡大していく計画です。時々、満州と間違って書いている本もありますが、実は中国北部、つまり華北にあります。
計画のリーダーシップをとったのは内田祥三ですが、実際に行なったのは、その長男である内田祥文と高山さんだったようです。高山さんがプランニング、内田祥文がデザインと役割分担しあいながらつくりました。
助手時代に、高山さんが編集した『敷地割類例集』に幾つも載っております近隣住区などが採用されていて、大同の計画は類例集の応用編といえるでしょう。
(図13)
ただ、当時は、東大というのは講座制をとっておりまして、都市計画の講座はありませんでした。講座がないということは、高山さんは助教授までで、教授にはなれないということです。しかし、太平洋戦争が始まりまして、工学部を増強しなければいけないということで、東大に第二工学部ができます。この第二工学部に、防空講座という名目で、都市計画の講座が開設されました。アメリカと戦うからには、敵の空襲も覚悟しなければならず、その対策を練る必要があったからです。
防空講座では、教授が浜田稔、助教授が高山英華、特別研究生が丹下健三、そして当時学生だった下河辺淳らが東京の防空計画に携わりました。今も東大の都市工学科の図書館には「東京帝国大学防空講座・丹下健三」と書いた防空の報告書が残っています。





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