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山田正男という土木技術者は、1950~60年代の東京の都市計画では、初代首都整備局長として、もっとも権力を振るい、「天皇」とまで渾名された人です。オリンピックに間に合わないというので、東京都心の運河の上に高速道路を縦横に通した、いわゆる「空中作戦」はあまりにも有名です。ローマオリンピックの工事現場を見て、オリンピックという名目があれば、懸案になっている都市計画とくに道路工事が実現できることに気が付き、246号線の拡幅や環状7号線の整備などを実現しました。環状7号線のうち、オリンピックに関連する左半分がわずか数年で開通したのに比べ、残り半分の開通には40年以上かかったことなどをみても、山田のカンは正しかったといえるでしょう。
しかし、日本橋の上を高速道路が通る風景などを見ると、突貫工事で失われたものも大きかったと思います。
(図22)
 丹下健三設計の代々木屋内競技場については、もはや語るまでもありません。丹下健三にとっても最高傑作であり、渋谷近辺の、いや1960年代日本高度成長期のシンボルでもあります。思えば、70年代になって、渋谷や代々木が東京のもっともファッショナブルな地区となっていくのも、この建築があずかっているのではないでしょうか。
同じころ、丹下は「東京計画1960」という東京湾全体の都市計画案も発表しています。まさに都市も建築のように「設計」され得ると考えられていた時代の産物です。こうした目に見える計画案が、高度成長時代の日本人を、更なる成長へ向け鼓舞しつづけていったに違いありません。
(図23)
 山田正男は道路という分野から、そして丹下健三は建築という分野から、東京の都市計画にアプローチしていったわけですが、高山さんのやり方は少し違いました。
環状7号線による中央線高架化で派生した駅前再開発、あるいは代々木屋内競技場と選手村の敷地として米軍のもつワシントンハイツ返還を決めるなど、高山さんはいろいろ裏方のようなことをやっています。しかし、それらは基本施設委員会副委員長としての調整役であって、主人公としてではない。そんななかで、「自分が中心だった」と語っているのは、いまの駒沢オリンピック公園です。
駒沢は、国立競技場、代々木屋内競技場と並んで、東京オリンピックの主要3会場のひとつでした。サッカー、バレーボール、レスリングなどが行われ、日本人選手活躍の場となったことは、ご存じのとおりです。
(図24)
 「駒沢で自分の役割はグランドデザインを描くことだった」と、高山さんは語っています。建築設計はレスリング場が芦原義信、サッカー場が村田政真、そしてバレーボール場その他は東京都でした。造園は横山光男という東大農学部の先生、交通計画は仲のよかった東大土木の八十島義之助先生、アーバンデザインは秀島乾という早稲田出身の満州帰りのフリーのプランナーが担当しています。
 駒沢会場は40ヘクタールもの広さで、公園が大部分であり、そのなかに複数の主要な建築をそれぞれ配置しなければならない。しかも、敷地形状が奇妙で、周囲の道路体系と整合性を取りづらく、正面にあたるものがどこかも分からない。こんななかで、各分野の専門家が集まりながら、それらを調整し、全体をデザインしたのが高山さんの仕事でした。
 この全体調整の仕事を、高山さんは「グランドデザイン」と名づけ、都市計画ともいっています。
 高山さんは何故このように駒沢に熱心だったのでしょうか。
それは駒沢にサッカー場があったからだと思います。自分は不運にもベルリン・オリンピックに出場できなかった。しかし、サッカーへの愛情は誰にも負けない。東京で行なわれるサッカー場も、是非自分の手で実現したい。そうした思い入れが駒沢オリンピック公園のグランドデザインには刻印されているように、わたしには思えてなりません。
(図25)
 高山さんのそうした熱意は成功したかに見えます。東京オリンピックで、日本チームは優勝候補のアルゼンチンを破ってベスト8にまで勝ち進み、今日に至る隆盛の第一歩を歩みはじめました。
 しかも、オリンピックだけでなく、駒沢の跡地は、みんなが運動をしたくなるようなスポーツ公園にしたいという、高山さんの望みも、施設の充実とともに実現して、今日に至っています。
サッカー場はいまも女子なでしこリーグの開催地です。
まさに今の駒沢公園というのは小説の舞台になり、映画や写真撮影にもとりあげられ、犬の散歩道としても有名で、高山さんが望んでいたように、人々に愛されています。
(図26)
まとめますと、1960年代の東京は、高度成長時代の中で、都市問題が顕著化した時代でした。公害や交通渋滞、住宅問題、公園・レクリエーションの場の絶対的不足など。その解決策としては東京オリンピックを頂点に都市計画が指向されたのです。
山田正男は道路整備で交通混雑を緩和しました。山田正男がいなければ都心の交通渋滞はもっとひどくなっていたでしょう。ただ、一方で、環状7号線沿いの小学校では光化学スモッグが起きたり、都心では由緒ある運河や日本橋の上を高速道路が通ったりという点などは、都市計画が今後解決しなければならない問題として残っています。
丹下健三は、すぐれたシンボル的建築を設計し、都市計画としても壮大な未来図を描きました。「東京計画1960」は、図面だけでも、モンドリアンの絵のように美しい。
しかし、人間の住む環境として、果たしてこれが素晴らしい環境といえるのか。そこには、住む人々の意思が反映される余地がありません。1970年代以降、日本では「まちづくり」という考えが起き、住民主体が叫ばれるようになりますが、そうした展開と「東京計画1960」とはまるで正反対の方向を向いています。
高山さんの都市計画は、これらと比べると、現在になお生きる面を多くもっています。住民主体の余地を残し、また都市という様々な側面をもつ事象に対し、建築、土木、造園、社会科学、人文科学などを含んだ学際的な都市計画を指向しました。
その思想が、現在の東大都市工学科に、今もつながっています。
(図27)
高度成長時代の国家的イベントというと、東京オリンピックのほかに大阪万博がありますが、ここでの高山さんの行動はきわめて地味なものです。当初、大阪万博は、京都大学の西山卯三先生が自主的に絵をかき始めていました。ところが途中で、丹下健三が万博協会から指名されてしまいます。それなら、西山先生の面子を立てるために引き継ぎ式をやらなければいけない。東京と京都の中間がいいだろうというので、軽井沢をその会談の地として調整した――それが大阪万博での、高山さんの一番の役割だったと思います。
(図28)
同じ1960年代に、東大の都市工学科も設立されています。当時は工学部全盛の時代なので、工学部をどんどんつくっちゃえという時代ですね。高山さんはむしろ都市計画学科として、文科系と理科系が合同したものをつくりたかったようですが、土木工学科が考えている衛生工学科構想と一緒にしろ、と文部省からいわれ、都市計画の「都市」と衛生工学の「工学」があわせて、都市工学科ができます。

 


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