→日建グループへ





 PDF版はこちらです→ pdf

フリーディスカッション

 高山先生のお人柄、ご功績についても大変わかりやすく楽しく聞かせていただきました。ありがとうございました。 何か、皆様のほうでご質問のある方、どうぞお手をお挙げください。

小林(㈱日本環境衛生センター) 高山先生を軸にしてほぼ100年の中で大変興味深く伺いました。かつて丹下先生は大学の外にきっちりした事務所を持って、主力はその事務所でおやりになった、高山先生は事務所を持っていない、そういう話を耳にしたことがございますが、高山先生の仕事ぶり、仕事のスタイルという点について、多少お話しいただければありがたいと思います。

 高山さんの仕事は、研究室によって行なわれました。当時の高山研はまさに梁山泊という感じでしたが、高山さんは、お弟子さんの性格、得意なところを見抜くのがうまかったらしいんですね。それで、自分では必要以上に指示しないで、方針だけを決めたら、あとは弟子に自由にやらせていたとも聞いています。

佐々木 私はリタイアしまして、もともと機械屋で、建築や都市工には素人なんですが、途中で出てまいりました密度論という論文、あのあたりのさわりだけでもちょっとお聞かせいただけるとありがたいなと思いました。よろしくお願いいたします。

東先生 密度論というのは最も難解な論文の1つです。密度といいましても、人口の密度だけをいっているわけではなくて、建物の密度つまり、建ぺい率も含まれています。高山さんがとくに研究の対象としているのは、江東など東京の下町で、ああいうところは、人口だけでなくて、建物の密度も非常に高いので、防災的に非常に問題があるということを定量的に示し、基準をつくろうとしています。こうした研究の成果は、現在の建築基準法に活かされています。

三宅(シグマ開発) もともと建設会社に勤めていて、今はOBです。1970年に私は、大学を卒業しました。東工大の社会工学というところで、都市工におくれること7~8年ですか、都市工に似たような学科でした。学生の時にいろいろなニュータウン計画が進んでいて、多摩ニュータウンは入居が始まっていたと思います。港北ニュータウンの計画なんかもやっている時期だと思います。40年前の記憶なので、定かではありませんが、その時学生の私も、高山先生が書かれたのか、監修されたのか、『高蔵寺ニュータウン』という本を見たことがあり、ニュータウン議論を随分研究されたのかなと思っていました。ところが今日は一言もニュータウンの話が出てこなくて、違ったのかどうだったのか。その辺何かあるならばと思って聞かせていただければと思います。

東先生 申しわけありませんでした。高蔵寺ニュータウンは、名古屋郊外にある、高山研究室の代表作です。当時のイギリスやフランスのニュータウンの知識を参考にしながら計画した、我が国戦後の代表的なニュータウンです。高山研究室で、担当したのは土田旭さんで、『高蔵寺ニュータウン』という本も、土田さんが中心になって執筆しています。高山研の代表作というと、何といっても高蔵寺ニュータウンは入れなければいけませんでしたね。

高山(ポラス暮し科学研究所㈱) 一時、私も高山ジュニアなんていわれて、地方に行きますとかわいがっていただいたものですが、大学院の頃、大学は違うんですが、高山先生に都市計画を教えていただいた。そんな意味で今日はお話を楽しみに聞かせていただきました。どうもありがとうございました。
1点だけお聞きしたいのは、今日のお話の中で、浅田孝さんのお話が出てきました。私も学生時代に2年間ほど浅田さんの事務所でお相手していましたが、その時によく高山先生、丹下先生のお話が出てくるんです。その時にいつも呼び捨てなんです。「高山は」とか「丹下は」とか。高山さん、丹下さん、浅田さんの間では、日頃のつき合いや仕事上の接点が何かあったのか、その辺、知っている範囲内でできたらお願いしたいんですが。

東先生 浅田孝という人は、丹下研究室の特別研究生ですね。私も故田村明さんから聞いた程度の話しか知らないんですが、丹下健三は都市計画のデザイン面しか興味がなかった。だから、プランニングは参謀格として、浅田さんがやられていたようです。その意味では高山さんと分野が似ていて、当時、東大の建築学科では、高山さんは「大手配師」、浅田さんは「小手配師」というあだ名があったそうです。つまり、自分がまとめ役を引き受けながら、いろんな人を手配してプロジェクトをまとめていくといったやり方ですが、高山さんは研究室をもっているから人材も豊富である、浅田さんは丹下研究室の一角を占めているだけで比較すると小さい、そういう違いがあったのでしょう。 高山さんは東大の教授として都市工学科を創設しますが、浅田さんは高山、丹下を呼び捨てにするぐらい、自分の能力に頼むところがあり、環境開発センターを開いて、いわばフリーのプランナーの草分け的存在になります。性格的には癖のあった人のようですが、田村さんは飛鳥田義雄と並んで、浅田孝を「人生最大の恩人」と位置づけていました。

 ありがとうございました。ほかの方はよろしいですか。
今日のお話を大変楽しく拝聴いたしまして、先生のご本も一気に読めてしまうぐらいいろんなことが書かれた本でございます。きょうは鹿島出版会の方がお越しくださっておりますので、お時間のある方はどうぞお立ち寄りくださいませ。 先生、どうもありがとうございました。皆様どうぞ拍手をお願いいたします。(拍手)
それでは、以上をもちまして本日のフォーラムを終了させていただきます。
(了)

 

 

      8 
copyright 2011 NIKKEN SEKKEI LTD All Rights Reserved