連載コラム  
 
Topic 08 快適な自転車走行空間とそのネットワークの確保
  〜古くて新しい「自転車」の問題。はたしてそこに妙案はあるのだろうか。〜
 
西尾 京介
 
 
●「自転車まちづくり」の掛け声は大きいが・・
 
  「走行時のCO2排出はゼロでエネルギーも必要ない。おまけに健康にもいい。こんな交通手段を見直さない手はあるだろうか。」この数年、スローライフや環境意識の高まりといった社会背景の中で、急速に「自転車まちづくり」への注目度が高まっている。自転車の保有台数は世界で第3位(2003年現在)、一人当りの保有率は欧州の自転車先進国に肩を並べるほど(注)という事実をみても、自転車は我が国で大変身近な交通手段と言える。
 しかし、これに対して自転車の走行空間や利用環境の現状はあまりにも貧しい。まず走行空間の位置づけがあいまいで、はっきり言ってわかりにくい。そして実際にとても走りづらい。車道を走っては自動車にひかれる恐怖を感じ、歩道を走っては歩行者をひいてしまう危険におびえる−どちらからも邪魔者扱いされながら、不快な段差や走りにくさに多くの人が悩まされているのが実情だろう。
 
●快適な自転車走行の条件
 
 では、都市において快適な自転車走行の条件とは何だろうか。まず、第一は安全で心地よい走行空間の確保。言うまでもなく、自転車の走行速度は自動車とも歩行者とも違う。相互の接触が致命的であることを考えると、交通量の多い市街地では専用の空間確保が特に重要となる。心地よさも重要だ。排気ガスにまみれた場所や、無味乾燥な、時には路面の照り返しが暑くて仕方ないような場所ではなくて、木陰のありがたさや染み入るような緑を感じながら、ペダルをこぐ環境を確保したい。第二に、走行空間がネットワークとして広がっていること。ある調査によれば、市街地において、500m〜5kmの移動では自転車が最も早い交通手段だとされる。少なくともそれ以上の範囲で安全な走行空間がつながっていることが望ましい。そして第三には置き場に困らないことだ。市街地を走って目的地のビルなどに到着しても、来客用の自転車置き場を備えているところなどほとんどないし、駅周辺での放置自転車対策は、永遠の課題ともいえるほど悩ましい行政課題でもある。走行空間の確保と同時に考えるべき問題としてあげることができよう。
 しかし、実際に街づくりの中でこれらの条件をクリアすることは容易ではない。国や地方公共団体の取り組みによって自転車の走行空間は着実に増加してきているものの、安全な空間が確保された道路は、道路総延長に対してわずか0.6%(2006年)。これは自転車先進国オランダの1/10にも満たない水準である。自転車のスペースをつくるために道路を拡幅することもままならず、車道の一部を自転車道に振り替えることもそう簡単にはできない。必要とわかっていても、簡単ではないので「歩行者・自転車ネットワークの整備」と計画に書いて、思考をやめてしまう。そんなことも結構多いのではないだろうか。
 
ミュンスターの自転車空間は快適そのもの(ドイツ)
 
●自転車空間も量から質を問う時代へ
 
 そこで、少し角度を変えて考えてみるとしよう。それは自転車走行空間の「量と質」という問題についてである。通常、自動車交通の問題はほとんどが量の議論である。質の話もあるが物理的な走行空間の確保が圧倒的に重要である。これに対して歩行者空間は環境の豊かさや快適さ、空間の魅力や賑わいなど質が重要だ。大都市の駅周辺や短時間に歩行者が集中する場所では量の議論が大事になるが、まちづくりにおける歩行者空間は多くの場合、質を議論している。では自転車はどうか。自転車はどちらかというと歩行者に近い。ある場所の一時間当りの自転車走行台数の最大値から走行に必要な幅を割り出す、なんていう話はあまり聞かないし、自転車駐輪場や放置自転車の問題を除けば、量が不足して自転車が走れなくなっている、というわけでもない。要するに、より安全に、より快適に、より楽しく走れる環境をつくるにはどうすればよいかが問題になっている。それにも関わらず、多くの場合、自転車まちづくりは「目標は自転車道総延長○km」といった、量の話だけに終始しがちだ。本来はもっとユーザーの目線に立って走行空間の快適性を議論せねばならないのに、本質的な議論はおきざりにされたままになっている。このギャップが、自転車まちづくりの進化を妨げているように感じるのである。
 
●「わがまち」の自転車を見つめなおす
 
  自転車先進国といわれるヨーロッパの街を走っていて気づくことは、自転車の専用路や信号機といったしっかりとしたインフラ(基盤)が整っていると同時に、自転車を都市の交通手段として認めるコンセンサス(合意)とルールが市民の感覚に浸透している、ということだ。うっかり自転車道をふらふら歩いてようものなら、容赦なく怒鳴られる。それが、かの街の流儀だからだ。でもその流儀を守れば、自転車はとても快適で有効な交通手段になる。こうした社会背景や文化的背景とつながってこそ、走行空間は生きてくる。
 では、我が国で考えるべき社会背景とは何か。それは地域によっても随分内容に違いが出てくることがわかる。例えば三大都市圏などでは、多くの人が通勤通学に鉄道やバスを利用し、自宅からのアクセスに自転車を使っている。そこで放置自転車が問題になるのだが、もし、都心から数kmの主要な道路だけでも、大変自転車に優しい空間だったらどうだろうか。中には都心まで愛車で通勤する人も出てくるだろう。また、遠距離通勤者は、都心で自転車を使いたくても自転車がない。そんな人には今、パリで流行っているような共用自転車もいいかも知れない。
 一方で地方都市ではどうだろうか。地方都市ではどこへ行くにも自動車である。しかし、本来自転車の方が便利な距離の移動にも自動車が使われている。こうした環境では、「自転車も結構自動車の代わりになるね」と思えるような政策が必要だ。雨に弱いという弱点を克服するために、バスやタクシーに自転車を載せやすくするとか、雨合羽の処理に困らない置き場をつくるとか、そんな工夫も必要だろう。道路そのものも、もっと自転車に走りやすくする必要がある。歩行者量が少ない地方都市では、車道をそんなにいじめなくても、歩行者空間を少しだけ充実させれば歩行者との共存が図れる場合も多い。歩道と車道の高さをあわせることによって、路面の上下動を少なくする、そんな工夫も自転車には大切なことである。
 さらに、同じ街にもいろんな自転車ユーザーがいる。24段変速のクロスバイクを毎日ピカピカに磨いている愛好者もいれば、動きさえすれば何でもよい、という人もいる。これらをいっしょくたに議論していては、進む話も進まないだろう。
 要するに、わがまちでは誰のためのどんな空間づくりが必要なのかをまずしっかりと調べて一歩ずつ考えていく、必要なことは横並びにとらわれずに実践するということだ。妙案などありはしない。そして、大事なのは空間づくりとあわせて「わがまちの流儀」を育てていくことだ。そうした社会の仕組みも快適な自転車利用のための重要なインフラなのである。
 

自転車ごと乗れるローカル線は日本にも少なくない(撮影 大隈哲)

 
 1861年、世界ではじめて自転車を発明したのは、フランス人のミショーであるとされている。しかし、それよりずっと以前、はるか130年も前に日本で既に発明されていたという説もある。そろそろ「真の自転車発明国?」の威信をかけて、本格的な自転車まちづくりを考える時代が来ているのではないだろうか。
 
(注)日本都市計画家協会機関紙Planners49より
 
 
 
   
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