連載コラム  
 
Topic 10 緑のネットワーク
  〜緑のネットワークの「思想」を考える〜
 
西尾 京介
 
 
●何となく大切にされている緑のネットワーク
 
 インターネットのgoogleで「緑のネットワーク」を検索すると、約130万件ものページがヒットする。緑のネットワークは今や社会に広く浸透しており、その大切さや必要性には疑問をさしはさむ余地もないだろう。都市計画マスタープランなど、どこの市町村のものを見ても緑のネットワークに言及していない都市はないし、都市計画の専門家の間でも計画上の必須アイテムとして理解されている。
 しかし、それがゆえに緑のネットワークは、ともすれば形や体裁ばかりが整えられ、深く考えずに扱われることがしばしばある点も否めない。緑のネットワークという言葉だけでも、見るもの聞くものに心地よい印象を与えるために、深い検証を行わないまま、つい使ってしまうことはないだろうか。このコラムでは、都市の中での骨格として扱われる緑のネットワークを念頭に、その点を改めて少し考えてみたい。
 
●緑のネットワークの登場と発展
 
  そもそも緑のネットワークは、いつ、どのように誕生したのだろうか。都市計画の歴史の中で、緑のネットワークが初めて表舞台に登場したのは、19世紀中ごろ、アメリカで誕生した「パークシステム」と呼ばれる計画論においてであると考えられる。これは公園や河川、樹林地等、保全すべき緑地をあらかじめ担保し、それらを緑化された主要な街路によって結びつけていく手法で、19世紀中ごろから20世紀初頭にかけて、ボストン、シカゴ、ミネアポリス、カンザスシティ、ニューヨークなど、アメリカの数多くの主要都市の計画で取り入れられた手法である。パリのシャンゼリゼ通りのように、並木が備わった広幅員の街路が延々と続くという例はそれ以前にもあったが、それらはまだ単に緑化された街路空間の域を出ておらず、公園や緑地、その他の自然的な要素を意図的に結びつけ、機能させるという意味では、パークシステムを緑のネットワークの原点とみることができる。
 中でも著名なのはボストンのパークシステムである。市街地中心部の広場であるボストンコモンからフランクリン公園まで、大きな公園や河川、池、緑豊かな街路空間がつながれた緑のネットワークは、ボストンの街全体を貫く緑の都市構造として「エメラルド・ネックレス」と呼ばれ、今日もボストンの市民から親しまれている。
 
「エメラルド・ネックレス」と呼ばれるボストンのパークシステム(出典:「都市と緑地」石川幹子)
 
●パークシステムの思想
 
  このパークシステムで注目すべきことは、その計画思想や手法の中に、現代においても通用しそうな数多くの要素を含んでいることである。例えば、事業の手法。パークシステムが導入された当時、アメリカは近代工業化による急速な人口増加とそれに伴う都市拡大の必要性に直面していた。市街地の拡張・整備を急ぐ必要があるが、湿地の埋め立て等を含む市街地整備には膨大なコストがかかり、行政当局だけでは資金が不足する。そこで州と市、民間の出資によって今で言う第3セクターを作り、緑地を機軸とした基盤整備を行うことによって開発された市街地の資産価値を高め、これを売却することによって事業の原資を確保した。地域の資産価値を高めるために公園や緑地の整備を先行的、戦略的に行うという手法は、最近でこそ常識的なものとなりつつあるが、既にこのときから取り入れられていたのである。また、生態系への配慮も興味深い。このパークシステムの推進に大きく貢献したフレデリック・ロウ・オルムステッドは、ニューヨークのセントラルパークの設計者としても高名な人物であり、調整池に湿地植物の生息環境を計画したり、河川では緩傾斜による自然護岸を整備したりと、パークシステムにおいても、セントラルパーク同様、多様な生態系が息づくように配慮を行っている。
 
●わが国の「緑のネットワーク」
 
 パークシステムは程なく海を越え、我が国にも伝わってくる。1916年には片岡安が「現代都市之研究」においてアメリカのパークシステムを紹介している。しかし残念なことに、それは、パークシステムによって整備された街路空間の審美性が強調され、先の都市経営的な視点を欠いた形で輸入された。そしてそれは、関東大震災後に実施された「帝都復興事業」で具体的な形を見せることになる。
 日本において、歩車道の分離や街路の緑化など、近代街路の設計思想が確立したのは帝都復興事業によるとされている。実際に昭和通りや現在の靖国通り、清澄通り、永代通りなど今日、東京の骨格的な幹線街路となっている主要な街路はこの事業によってその多くが誕生している。そしてそれらの街路には、延焼を遮断し、被災時にも交通機能を確保できる防災都市基盤としての機能と首都の風格を示す景観が求められた。戦争を体験し、国としての威容を示すという思想は薄らいだとは言え、緑を街路の一つの機能として捉える思想は色濃く残り、その後の街路を中心とした日本の緑のネットワーク形成にも少なからず影響を与えたと考えられる。
 
完成したばかりの昭和通り(出典:「東京都市計画物語」越沢明)
 
●「緑」という生活空間の小さな自然
 
 こうしてできてきた我が国の緑のネットワークをパークシステムと比べてみると、そこには大きな違いが感じられる。それは緑を単に機能の一つとしてみるか、人間の暮らしにとって身近で大切な生活環境としての自然の一部としてみるか、という違いである。
 今日、我々が緑のネットワークについて議論するとき、その骨格となる河川沿いの緑地空間や、街路樹が備わった広幅員な街路空間を話題の中心にすることは少なくないだろう。河川を緑のネットワークの太い骨組みとし、広い街路には樹冠の大きな高木を列植し、大きな公園などをつなぎながら、緑被率の高い空間を構想していく。最近では、建築物の壁面を使い積極的に緑化をすることによって、3次元で緑化を図り、緑視率※を高めたりもする。河川や広い街路空間を活用して緑を増やしたり、つなげたりすること、壁面や屋上の空間を活用して緑化したりすることは、都市全体の緑の量を増やしたり、その効果を引き出したりする上で、大変効率的な方法であるし、決して否定されるべきものではない。しかし、それだけでは緑はまだ単に緑色をした装置に過ぎない。緑は本来、その地域の風土や気候条件と不可分な存在である。樹木には地域固有の種があり、それらは気候や地形、土壌の性質などと深く結びついている。我々は生活空間の中で小さな自然に安らぎを覚える文化もまた、こうしたものと深く結びついているはずである。
 だとすれば、我々のプランニングには、生物学や地学や気候学、歴史、民俗学といった知識を総動員し、地域の緑と地域の人々がどのように関わり、暮らしてきたか、謙虚に見つめる視線が必要である。そして、緑が本来つながっている固有の風土や自然を見出し、それこそをプランの骨格に組み入れていかねばならない。有史以前から存在する崖線などの地形、鎮守の森、蓋をされ存在を忘れ去られてしまった小さな川など、改変されてしまった都市の中にも、痕跡を見出すことができるものは決して少なくはない。例えそれが結果として、復活できないものであったとしても、そうやって構想された緑のネットワークは、もはや物理的なネットワークにとどまらない、文化としての緑のネットワークと言えるのではないか。
 パークシステムは100年の時を越え、そんなことを我々に語りかけているようである。
 
《参考文献》 「都市と緑地」石川幹子/岩波書店、「東京都市計画物語」越沢明/日本経済評論社、「都市計画の世界史」日端康雄/講談社現代新書
※ 緑視率 日常生活の実感として捉えられる緑の量を測る目安。特定の方法で撮影した写真に占める緑の割合で示す。
 
 
 
   
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