知のポリビア 〜有識者と考える都市のバリュー〜  
 
Poly-via 03 ポスト・マスタープラン型計画への流れを読む
   
 
持丸和久(元NSRI主任研究員)
 
 
 今回の「知のポリビア」は、外部有識者を招いての意見交換会というスタイルでも、研究会メンバーからの「都市のバリューとは?」という直接の問いかけでもないのですが、日建グループの仲間や先輩から、日常の業務に対して、その視座の置き方や立ち居振る舞いなど、まさに「今後、都市のバリューを高めるために、私たちは如何に行動すべきか」という視点からアドバイス等をご寄稿頂いたものをご本人の承諾を得て、掲載させていただきました。
 
●はじめに
 
 私は、平成14年頃から様々な地区において「ビジョン・戦略型で非マスタープラン型のまちづくり計画」を立案してきました。このような計画は、現在のまちづくり計画の主流になっているように思われます。
 平成14年頃には直感的にこのような計画が時代に合っていると感じていましたが、平成21年になって、「何故、非マスタープラン型まちづくりなのか?」と後輩(日建設計プロジェクト開発部門 宮本裕太さん)から尋ねられ、直感的に自分の頭の中で感じていたことを少しずつ整理しながら文章化したものです。
 以下の私論は、主に社会学的な潮流からみた「計画論」となっています。皆様が今後の都市計画やまちづくりを考える上で一助となれば幸いです。
 
●再帰的近代化と都市
 
 再帰的近代化とは、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが現代社会の特徴を把握するために用いた概念です。ベックによれば、『以前の近代化は自然と伝統という対象を近代化していく「単純な近代化」であった。それは身分的な特権や宗教的な世界像を「脱魔術化」していく近代化である。しかし、現在、この近代化はその目的・対象を吸収し尽くしてしまい、自己を近代化していく段階に入った。これが【再帰的近代化】である。』とされています。
 まちづくりの世界においても、ニュータウン計画など都市化するための計画から中心市街地の再生など既成市街地を再編する計画や市街地縮退への対応などがこの概念に対応しています。「都市化する計画」は、工業化やサービス化など産業構造の変化により都市へのインプットが増大することに対応した計画でした。既に都市化され尽くした現在でも、都市化時代の計画手法や価値観に執着していないでしょうか。
 
●再帰的近代化における都市計画(再帰的都市計画?)
 
 都市化は、産業構造の変化により農村から都市への人口流入や工業からサービス業へのシフトに伴う都市への人口流入によって引き起こされてきました。増大する需要に対応することが最も重要な課題となっていました。手続き的には将来フレームを設定し、サービス水準などから施設量などを算定し、これを基にフィジカルプランを策定するという手法でした。
 しかし、「再帰的都市計画」では、フレーム論は意味を持ちません。何故なら、全体として都市に対するインプットが増えるとは言い切れないからです。都市に対するインプットが増えるか否かは、判りません。このような状況に対して、安直に都市間競争とか地域間競争の時代であるという言い方がされます。この考えもアプリオリに成長を善とする成長神話、つまりは「都市化計画的」な価値観に支えられているため、必ずしも同意できませんが、「再帰的都市計画」の一面は、言いえています。「再帰的都市計画」は、都市の目指す方向を見定め、この方向に合致した土地・床需要が発生した場合に都市サイドが適切に対応していくことが重要となります。これを需要側からみると複数の都市や地域を比較して行動を決定することになるため、都市間競争ともいえます。
 
●これからの計画はどのように説明するのか?
 
 「都市化都市計画」ではフレームのブレイクダウンで色々な計画を説明してきました。再帰的な都市計画では、どのような理屈で計画を説明するのでしょうか?20年前の日本の都市計画では、フレーム論に基づき必要な施設は必要であり、整備することとなっていました。これに対して10年前ごろから費用対効果分析が多く用いられるようになりました。つまり、「都市化都市計画」時代に必要とされた施策の内、投資効率性の高いものが整備されることとなりました。これは再帰的都市計画への流れの一端を示しているように思えます。しかし、必要性は「都市化都市計画」時代のままです。今後、施策の必要性はどのように説明されるのでしょうか。
 
●普遍的な価値や真理が不在な社会の到来
 
 これは難しい問題なので社会学の世界で再帰的近代化社会をどう捉えるかを参考としてアプローチしたいと思います。
 1980年代にフランスの哲学者リオタールが提唱した「大きな物語の終焉」は、20世紀末のベルリンの壁やソビエトの崩壊などにより広く認識される処となっています。古くはニーチェが予言したような普遍的な価値や真理が不在であるニヒリズム社会が到来していると言われています。このような社会についてベックが提唱しルーマンやギデンズが継承した「リスク社会」という概念があります。「リスク社会」には大きく2つの特徴があると社会学者の大澤真幸氏は言っています。
 
1: 確率論や平均/期待値が役に立たない
  →多数決による意思決定を根幹とする民主主義の機能不全
2: 科学的な知見の集積が通説(真理)に収斂しない
  →科学技術万能主義の終焉
 
 まちづくりの世界では、従来のマスタープラン型計画は、専門家が科学的な知見に基づき予測した将来需要に対して合理的なサービス水準を満たす「望ましいハードウェア」としての社会が存在するという価値観に立脚しています。しかし、将来需要やサービス水準などの科学的な知見は、既に社会的な価値を喪失しているのでないでしょうか。
 
●予測不可能な時代
 
 同じことを経済現象として捉えると、金融グローバル化などの進展によりリーマンショックに象徴されるような不安定な社会経済状況が発生しています。結果として民間企業を中心として長期的な計画を立案できない/立案しても意味が無いという予測不可能性の時代に突入しています。
 トヨタ自動車は2008年夏まで2兆円を越える未曾有の利益を予測していましたが、リーマンブラザーズの倒産に端を発した世界金融危機により赤字に転落し、GMが倒産するという時代が到来しています。トヨタ自動車が何時、倒れるか判らない時代が到来しています。
 前述の大澤氏は「理想の時代」から「虚構の時代」へと移り変わり、今は「不可能性の時代」が到来していると言っています。まちづくりの世界でも、予測不可能性を前提とした計画策定が求められているのではないでしょうか。
 
●“計画”の存立基盤
 
 このような時代の流れの中で、家庭や学校、地域コミュニティが崩壊しています。更に、従来、疑われることが稀であった官僚や医者などの専門家に対する信頼が失墜した結果として官僚不信が進み、裁判員制度やインフォームドコンセントなど責任を分散化する制度が大量に生み出されてきました。金融工学がリスクを分散化した結果としてリスクの総量が増えて破綻したことと同じように、分散化した責任は結果として無責任な施策を増やしているように思えてなりません。普遍的な価値や真理が不在である予測不可能な社会を対象とした計画は何に存立基盤を求めていけば良いのでしょうか。
 倫理学者の大庭健氏によると現代は、良い/悪い、合っている/間違っているという希薄な評価語が減衰し、誠実/冷酷など直接感情に訴えるような濃密な評価語が氾濫しているとの事です。これらの評価語は、一定の価値規準によっていると思われますが、社会的な価値基準に対応したものが希薄な評価語であり、個人的な「心」の価値基準に対応したものが濃密な評価語と理解することができます。つまり、社会的な価値が喪失し価値の基準が個人に凝縮しているという訳です。それでは、まちづくりに関する計画という社会的なものをどのような価値基準の上に築けば良いのでしょうか。
 アメリカの憲法学者であるローレンス・レッシグは、人間の行動に影響を与えるものは「法規制=罰則」、「規範」、「市場性」、「アーキテクチャー」の4種類であるといっています。一般に法制度により直接的にコントロールできるのは「法規制=罰則」、「市場性」、「アーキテクチャー」の3種類であり、「規範」をコントロールすることが最も難しいといわれています。レッシグはネット社会の秩序が「規範」により保たれているのは、○×学会など社会のサブシステムであると言っています。従来は、個人と社会の間に様々なレベルのコミュニティが介在し、このコミュニティの中で規範が成立していましたが、現在は、悉く解体されています。
 ドイツの哲学者であるノルベルト・ボルツは、「普遍的な価値や真理の不在」を「意味喪失」といっています。ボルツは、「意味喪失」への対応として「文化」に注目しています。ボルツは「文化とは、世界の事象の無限の無意味さから有限の断片を切り取り、そこに意味を与えることだ。」といっています。「われわれにとっての意味」を確定していくことが文化となります。この議論で大事なのは「意味とは常に“われわれにとって”のものであるほかない。」という事です。外部から普遍的な意味を作り出すのが神であるとすれば、人間には、「われわれ」と「われわれにとっての意味」をつくりだし、「われわれ」を広げていくことが必要だと言えないでしょうか。
 我が国のまちづくり制度においてもローカルルールで運用することになっている都市再生特別地区、駐車場に関する銀座ルールなどは、このような社会の流れの一環と捉えることができます。
 つまり、計画の妥当性を普遍的な価値により説明するのではなく、関係者(サブシステム)が共有し合意することに価値・意味が見出されつつあるということが言えないでしょうか。
 このような手続きにより計画を策定することが「再帰的都市計画」の存立基盤であるとしてみます。それでは、「再帰的都市計画」の内容はどのようなものになるのでしょうか。
 
●どのような計画の内容になるのか
 
 今までの都市計画は、所謂マスタープランに基づいて進められてきました。最近は、このマスタープランが実務的に役に立たない若しくは邪魔になるような事態が数多く発生しているように思えます。「再帰的都市計画」の内容は、従来のマスタープラン型のものからどのように変化していくべきなのでしょうか。
 冷戦時代には、大陸間弾道ミサイルの配備合戦がありました。現在はスターウォーズ計画など迎撃ミサイルの開発が注目されています。この流れが一つの参考となります。計画の手続き手法としては、既に20世紀末においてオレゴンシャインズに代表されるパフォーマンスメジャーメントがこのような脈絡の中にあります。従来の計画は、合理的な目標設定(価値設定)と体系的・決定論的な手段選択により成立していました。しかし、「再帰的都市計画」においては、豊かな社会を実現する決定論的な基盤施設計画や土地利用ゾーニングがあるのではなく、市民が合意できるようなレベルで豊かな社会を分節化し、これを目標として、不断に目標への達成度をモニタリングし、手段を確認・修正していくことが重要となっているのではないでしょうか。
 
手段としてのフィジカルプランではなく、目標とする状態などを設定する
この目標は真理としての価値を持つのではなく、関係者で共有することにより価値を持つ
目標を達成するために必要な方向性を戦略として設定
戦略を実現するための中・短期的なフィジカルプランを策定
目標達成度を常にモニタリングし、戦略とフィジカルプランを修正していく
 
●後記
 
 この文章を書きつつ、意味論や戦略論に漠然とした違和感を感じていました。このため、「意味という名の病」(柄谷行人)や「ビジネスに戦略なんていらない」(平川克美)を読んでみました。
 意味論は永遠の課題のような気がしますが、戦略論については、ここでは、「流行で受けが良いかなと思って使っているだけ」で、良く考えると論理の飛躍がありそうです。次は「非戦略的都市計画のすすめ」でも書いてみようかと思っています。何時になるかわかりませんが。
 更に、この文章も「存立基盤」から「どのような計画の内容になるのか」に至る論理的な飛躍があります。もう少しバージョンアップする必要がありそうです。
 
---<執筆者Profile>---------------------------------------------------------------
持丸和久(もちまる・かずひさ)
1979年 東京工業大学大学院修士課程修了、日建設計入社。
2007年〜 日建設計総合研究所。
主な業務経歴:首都圏駅前地区のまちづくり業務、首都圏における鉄道プロジェクト業務、
地方都市の都市圏交通計画業務、など。
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●この原稿を頂いて
 
 持丸さんがNSRIを退職される際に、仕事の仲間に向け、社内メールで発信された極めて個人的な思いの込められた原稿を読み、もう少しきちんとした媒体?でその内容を伝えることができればと、ご相談し、「知のポリビア」に掲載するという、少々強引な申し出にも快く了解して頂きました。そういう意味では、この内容に対するご意見等は小職が受けることが筋であるとも考えています。
 個人的にも従来のマスタープランが実務的に役に立たなくなってきたのではと、漠然とした感覚を持ちながら、持丸さんの極めて知識と語彙豊富な文章は、そのもやもやとした気持ちを明快に説明してくれたような気がしています。
 改めて考えると、過去、人口が増加し、都市への需要が集中する中、その膨大する需要を如何に計画的に「捌くか」という意味でマスタープランはその目的と役割を十分に果たし、時代の要請に応えたと思います。そこには多少戦略がなくとも、八方美人的な内容であったとしても、旺盛な需要に支えられている間は、本当の意味で目だった反感を買うこともなかったのではないでしょうか。自分自身に対しても、皮肉と反省を込めて、今思えば、そこで掲げられた目標は「捌き方」という意味での目標であり、「地域がいかに生きていくべきか」という(戦略的な)目標ではなかったのかもしれません。
 ただ、時代が変わり、人口は減少局面に転じ、都市や土地利用に対する需要も、マクロ的な視点から見れば、自ずと奪い合いになってきています。差別化した特徴を対外的なメッセージとして発し、実現に向けてプロセスが具体的に描くことが出来なければ、極端な話、ただ消え行くのみとなります。だからこそ、「大胆かつ明確な仮説(最初は思い込みレベルかもしれません)を目標として掲げ、そこに至るプロセスを戦略としてロードマップ化し、都度モニタリングを通じて、社会や時代の変化に柔軟に対応する」ということが、時代的要請として求められているのかもしれません。
 都市計画はステイクホルダーが多く、またその関係が複雑である故に、世に言うバックキャスティング的な手法は不向きとも難しいとも、ある都市計画の重鎮から聞いたことがありますが、今流行の「スマート(賢く)」に都市を計画することがサスティナブルシティへの再構築のひとつの道であるとすれば、極めて市民にはわかりやすいと言われているバックキャスティング的な手法に近似している「ポスト・マスタープラン」の視点をもって望むことにチャレンジする時代なのかもしれません。
 
石川 貴之
 
 
 
   
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