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日建設計 
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第30回NSRI都市・環境フォーラム

『建築家とまちづくり』

講師:  芦原 太郎 氏   

建築家・社団法人日本建築家協会会長

PDFはこちら → 

日付:2010年6月18日(水)
場所:NSRIホール

1.建築家・建築とは

2. 各国の建築法

3.次世代社会システムとJIA

4.白石市での試み 

おまけ:UIA2011東京大会

フリーディスカッション

 

 

 大変長らくお待たせいたしました。ただいまから第30回都市・環境フォーラムを開催させていただきます。本日は、雨の中お越しくださいまして、まことにありがとうございます。
本日のご案内役は、私、日建設計広報室の谷礼子でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、本日のフォーラムは、ご案内のとおり、芦原太郎建築事務所所長でいらっしゃる芦原太郎先生にお越しいただきました。
本日は、「建築家とまちづくり」と題してご講演をいただきます。芦原先生は、建築設計はもちろんのこと、建築家の職能、資格の啓蒙活動などにも取り組まれていらっしゃいます。この5月に日本建築家協会の会長にご就任されたばかりでいらっしゃいます。また、来年開催予定のUIA・世界建築家連合東京大会へ向けての重要な役割も担われていらっしゃいます。
それでは、ご紹介はこれまでとさせていただき、早速、ご講演をお願いしたいと思います。どうぞ、皆様、大きな拍手で先生をお迎えください。(拍手)
先生、よろしくお願い申し上げます。


(図1)
芦原 ご紹介ありがとうございました。芦原太郎でございます。すぐそこに東京大神宮がありますが、そこの前に事務所を構えておりまして、事務所を始めて25年ぐらいになりました。若手建築家と思って一生懸命やっていた時代もありましたが、ふと気づくと、今年は還暦を迎え、結構いい年になってしまいました。
 日々、一生懸命いろんな設計をやっていましたが、最近は建築家協会という建築の設計をやっている者の集まりの団体のいろいろなお仕事に携わるうちに、自分も思うことがあったりしたものですから、ご紹介いただいたように、つい先月日本建築家協会の会長という役割も仰せつかりました。責任重大でございます。自分の仕事もある反面、そっちのこともやらなければいけない、今日はここで講演もしなければいけないということで、日々、ひたすら建築の中でドタバタと走り回っている今日このごろでございます。
 おかげさまでいろいろな場面に加わらせていただいています。建築の設計をするということも、いろいろな社会の場面にも参加させていただいて、一緒になって何かをやって結果が物として見えてくる。努力したり大変だったりしますが、非常にやりがいもあって、うれしい職業かなと思っています。
 つい先週、アメリカの建築家協会の大会に参加しました。1万5000人が集まってやっておりました。そういう中でも、日本から来た建築家であっても、同じ建築の領域で一生懸命頑張っている仲間たちは、世界に行っても同じで、気持ちが伝い合うという本当にうれしい経験をしてきました。そんな中で、今日は僕が一生懸命頑張ってやっている建築家ということについて、あるいは建築をつくったり、まちに少しでもお役に立てないかということでやっていることについてお話をさせていただければと思います。



1.建築家・建築とは

(図2)
 建築家協会は、全国に会員が5000人おりまして、それぞれと「建築家とは」という話をしていると、時間を忘れるぐらい話はつきないんですが、実は各自がバラバラ、それぞれがいろいろな考えを持っているんです。それだけ幅が広い。逆にいうと、なかなかはっきりつかめない。それに向けて僕たちは日々頑張ってはいます。

そんなことで、少し復習も兼ねて、まず建築家というのはどんなものなのかということを、おわかりの方もいるかとは思いますが、お話をさせていただきたいと思います。
(図3)
  「建築家」という言葉は、西洋では「アーキテクト」、あるいは「職能」という言葉を明治時代に日本語に翻訳してできた言葉です。西洋のアーキテクトの語源は、ギリシャの時代の「アルキテクトン」。職人の親分、頭になるような人のことを表す言葉が語源です。つまり、アーキテクトというのは職人の長であった人がまずはスタートであったということです。
(図4)
こちらには大学で建築を学ばれた方も大勢いらっしゃると思いますが、大学に入りますと、西洋建築史というのを習うわけです。そうすると、ルネサンスの頃に、この建物は誰が設計したんですよとやっと個人の名前が出てくる。例えば、皆さんもご存じのフィレンツェのドーモをブルネレスキという人が設計したというように、初めて個人の名前が出てくる。今まで職人さんがずっとこういうものをつくり上げてきたんですが、どうやったら技術的にこれをつくれるのか、あるいは経済的にも合理性があるものができるのか、そして、美しいものになるのかということで、この頃コンペがあったわけです。そういう中で、ブルネレスキの案が採用されて、これが立派にできあがり、みんなが「ブルネレスキ、すごいぞ」といって名前が残った。そこが西洋的な建築家の登場です。ブルネレスキという人は構造を解析し、巻き揚げ機というものを考案し、非常に経済的にこれをうまくつくる方法を提案して、かつすばらしい造形をつくった。すべての知識、能力を持って、実際に指揮をして、現場監督をしてやり上げた。レオナルド・ダ・ヴィンチや、1人の天才がすべてをやれたというところで、その人の名前が建築家として残ったことが西洋における建築家の概念の1つの典型ということです。
(図5)
一方で、18世紀のイギリスに行くと、自分の荘園を持った貴族がいて、カントリーサイドにすごいお城があって、そこで農業や牧畜をやったり、いろいろなことをやっていた。イギリスでは荘園の主が、「サーベイヤー」を雇うんです。サーベイヤーは訳すと測量や調査になるわけですが、日本でいうと管財部長さんになるのでしょうか。自分の資産、財産、建物を維持管理し、荘園がうまく動くようにということをきちっと任せられる人、不動産の知識もあれば、建物をつくる知識もあれば、マネジメントする知識と能力もあって、お金もピシッと合わせられるというサーベイヤーという職能が、イギリス18世紀に確立しました。西洋では、先ほどのブルネレスキのような天才の流れと、きちんとマネジメントや計算ができるサーベイヤーという両方の流れが一体化して、アーキテクトという職能ができてきています。イギリスでは、例えばクライアントが、アーキテクトとクオンティティー・サーベイヤー、僕らでいうと積算になりますが、そのふたりを対等に雇って、この仕事をよろしくという。このクオンティティー・サーベイヤーという人が僕らにしてみるとうるさい人で、いつもその人のいうことを聞いて、「いいですか、いいですか」といいながら仕事を進めなければいけない。ブリテッシュ方式はそうなります。イギリスはサーベイヤーの伝統が今でも色濃く残っています。
(図6)
このように2つの源流のあった西洋の建築家を、明治の政府が近代化、西洋化をしようという中で雇うんです。お雇い建築家といっていました。ジョサイヤ・コンドルといって、イギリスの今いったような建築教育を受けた当時まだ30何歳くらいの若手の建築家を、東大の前身である工部大学校に先生として雇い、日本人の建築教育を始めた。その最初の卒業生が辰野金吾や、片山東熊。辰野さんは東京駅を、片山さんは赤坂離宮、今の迎賓館をやったりしました。大学を卒業するとすぐ本格的な西洋建築を次々とつくった。うちの事務所の所員を考えても、そんな若い学生が大学を出た途端に迎賓館の設計をやってしまうのは信じられないけど、この時代はよほど優秀だったんですかね。東大の図書館には、こういう人たちの古めかしい卒業論文が置いてあるんですね。全部英語で卒業論文が書いてある。この時代の人はよほど優秀だったのかなという感じがします。そんなことで初めて明治の時代に日本の建築家が誕生した。
(図7)
当時、実は「建築」とはいわず、「造家」といっていたんですね。造家学会というのが1886年に日本にできて、先程の辰野金吾さんが会長さんになったりして、日本の建築がスタートしました。
(図8)
そうこうしているうちに、伊藤忠太さんという歴史の研究家が出てきて、どうも西洋のアーキテクチャーというのをいろいろ研究していくと、技術的なことだけではなくて、もっと文化的、社会的あるいは芸術的な要素が入っているようだ、技術だけではないらしいぞというので、「造家」という家をつくるだけではなくて、もう少し大きな概念の「建築」という言葉にしたほうが西洋のアーキテクチャーにはふさわしいのではないかということを研究しました。文化性、芸術性も含めたものを入れて、「建築」という名前にしましょうということです。1897年に、造家学会が建築学会にかわるわけですけれども、この時に「建築」という言葉を日本がつくってしまったんですね。今中国でも漢字で書くと建築、韓国も漢字で書くと建築という言葉を使っているんですけれども、日本がつくった建築という言葉を中国、韓国でも使っている。日本がまずアジアの中で最初に西洋化した、建築を学んだ国であるということがわかると思います。
中国のアーキテクトは、建築「師」を使うし、韓国は建築「士」を使っています。日本では、日本建築家協会は「家」を使っている。アーキテクトの呼び名は3カ国バラバラになっていますが、アーキテクチャーの建築に関しては3カ国共通になっている、という状況です。
この建築学会ができて、それがずっと今日まで、日本建築学会としてきております。
一方、この建築学会が、研究という部分と、建築家の業務という部分に分かれてきました。そして全国建築士会ができて流れができてきます。西洋のいわゆるアーキスクトというライセンスを日本の国にもつくろうという運動をずっとしてきましたが、日本の場合はずっと大工さん、棟梁がやっていたわけです。
ところが、1950年、戦後に、新しく建築士法というのができた。僕が生まれたのも1950年。60年前に、建築士法ができたところで、今皆さんご存じの1級建築士や建築士会、建築士事務所協会というものが出てきました。今まで建築士の資格をちゃんと作ろうといっていた人たちが、ここでできた建築士の法律は、エンジニアも含まれていますので、西洋の直接の流れのアーキテクトとは違うため、西洋流のアーキテクトの資格もきちっとしなければいけないということで、建築家協会をつくり、いわゆる建築士とは違う建築家、建築設計を専らやる人たちの流れをつくりました。今の日本建築家協会は、そういう歴史的な流れ、つながりがあります。 先ほど申し上げたように、建築とは西洋のアーキテクチャーの訳語であって、伊藤忠太さんが明治の時代につくった。明治の時代、造家といわれていたけど、工学ではなく総合芸術との属性を示すため、建築と命名された。これが今申し上げた状況でございます。
(図9)
さて、建築家はそうだったのですが、建築とは何かという話をします。これも西洋建築史の最初に僕らは習う。「用」「強」「美」。ウィトルウィルスという人が紀元前の時代に建築についての本を書いて、建築の要素とは用と強と美であるということをいわれた。それが延々その呪縛の中で来ているわけですが、その時代時代の解釈があるわけです。現代的に解釈をすれば、「用」というのは機能ですね。使えなければいけない。これはある種の社会性があって、経済性があって、実現できるものでなければいけないよということで、これは現在でも確かなわけです。「強」というところは、技術に関係します。日本の場合は地震が来るわけですから、地震が来てもつぶれないように、そして安全に避難もできたり等々、要するに強くかつ安全であるということが今日も流れてきている。「美」というあたりになると、いつもムニュムニュとなって、建築は文化である、芸術であるといいながら、わかったようなわからない中で動いてきている。
  ただ、日本の歴史を見てきますと、明治の時代から建築学会があり、また、造家学会といわれているように、構造とか技術的な部分ではかなりきちっとしたものが進んできて今日まできております。
  一方、「用」のほうは、生活文化の中で、いろいろな使い方があると同時に、経済や社会の論理の中で「用」を満たさない限り、現代の世の中に建築は成立しません。経済の論理の中で物は動いているという意味では、ここにもかなりしっかり位置づけられていると思います。 「美」になってくると非常にあいまいで、日本の伝統的な生活文化、あるいは伝統様式の中の美、あるいは生活の儀式みたいなものは伝統の中にはあるんですけれども、現代の僕たち、あるいは現代の都市、現代の近代建築の美といい出すと、いいとか悪いとかひどいとか、なかなかはっきりしない。このあたりをこれからきちっとしていかないといけないのかなと僕ら建築家は強く思っているところです。
(図10)
そういう中で、「用」「強」「美」という話もありましたが、建築をもう少し考えると、哲学的にも多少考えたくなるわけです。学生時代に僕も読んでいますが、ミッシェル・フーコーという人の『監獄の誕生』の本があります。「何だ、監獄のことが書いてあるのか」と思って読んでみるわけですが、牢屋という空間は、人を閉鎖した部屋に閉じ込めて、拘囚を入れて、看守が全部見渡せるようにする。そういう制度ガチガチの空間に入れるということが、人間の意識や自由をどこまで束縛しているのかというのを如実に示しているではないか。非常に極端な例であるけれども、建築空間というものは、知らないうちにその人々の生活なり考え方を規定する制度になっているんですよ、空間は制度なんですよということを、教えてくれている。
  確かに、僕たちも自分の家があって、3LDKで子ども部屋に子どもを入れてそこで勉強させておこうと思うわけです。おまえはこの部屋の中に入って、1人で教科書を読んで勉強しろよというと、実はパソコンをやって遊んでいたり、いろいろなことがあるわけです。そのように、家庭の生活であっても、あるいは事務所の中での仕事であっても、あるいは国家を形成し、都市を形成するという中でも、建築空間というのは1つの制度ですから、それをその時代時代の王様なり権力者、経済の資本家なりはうまく使って、制度をコントロールしているという状況にもあります。
(図11)
そういう意味では、建築というのは文化とも非常にかかわっているものなんですよという時に、文化というものがまた非常にわかりにくい。1つは、今申し上げたような制度という形で制度化するもの。法律も文化の1つの制度でございますし、建築空間、あるいはその文化がつくり上げた都市、建築も1つの制度として外在化して機能しているものだと思います。 一方、人々の意識の中に、生活の中に息づいているもの、内在化する文化があります。それが外在化するものと内在化するものの双方動いているわけで、僕たちは制度である建築をつくっているんですが、この内在化する文化というものとの関係を考えながら、丁寧に建築をつくっていかないといけないと考える。建築が単なる技術、「用」「強」だけの世界ではなくて、「美」あるいは文化とかかわる建築であるということを肝に銘じて考えていかなければいけないのかなと思っています。
(図12)
先ほどから見たように、コンドルさんというお抱え建築家が明治の時代に来て、ニコライ堂とか三井倶楽部をつくりました。まさに西洋の建築を日本に紹介してくれたわけです。日本はそれを近代化、西洋化だといって、ありがたいものとして一気に受け入れました。
(図13)
それから、先ほどいった第1号の卒業生の優等生が日銀をつくったり、東京駅をつくったりする。すぐにコピーできちゃうわけです。本格的西洋建築をコピーして、それなりに日本に位置づけをした、日本人初の建築家辰野金吾さんという人が登場する。
(図14)
僕らがやっている近代建築の父みたいな意味では、丹下健三先生が日本の近代建築の名を世界に轟かせた日本人の最初の建築家。まさにこの前の北京オリンピックの時に中国が燃えていたように、日本が高度成長に燃えていた1964年、東京オリンピックの時に、その代表でもあるような代々木の体育館、プールを丹下先生が設計した。戦後の日本から日本人の建築家で、西洋人もなるほどと思うような立派な建築をやっとつくれるようになった。日本もやっと経済が復興して、オリンピックを立派に成功させるような近代化された国の仲間入りをしたんだと認められた時代です。僕もこの頃は中学生ですから、少し前の話です。
(図15)
実は私の父親も建築家で、丹下先生が代々木でプールをやっているときに、父のほうはちょっと横の駒沢で、こんな体育館や公園塔等をつくったりしていました。この工事の最中に、僕は小学校だったんですが、日曜日に現場に連れていかれました。父親は忙しいから現場監理と同時に家族サービスもやっちゃえというので行かされた。子どもにしてみると、ふだん入ってはいけない工事現場にヘルメットか何かかぶって行くんです。父親と一緒に行くんですけど、「先生、いらっしゃいませ」と、現場の人がニコニコしていて、うちのお父ちゃんはもしかしたら偉いんじゃないかなという感じを見ながら、中ではクレーンがグーッと動いたりして、すごい勢いでこんなものができている姿を見て、子どもながらに、もしかしたら、建築とか建築家はいいのではないのかなと思ったのが、今日ここで私が建築家をやっていることになったきっかけでございます。
(図16)
日本が経済成長で元気よく建ち上がる時代の後バブルが来て、今度は建築が商業の中でいろいろ使われていく時代になった。例えば表参道ヒルズを安藤先生という大先生が設計をされたり 、
(図17)
TOD‘Sという海外のブランドを伊東豊雄さんが設計されたり、
(図18)
今プリッカー賞をもらったSANAAの妹島さん、西沢さんがディオールを表参道にやってみたり、
(図19)
世界でも活躍している隈さんが、UVMHのお店を設計されたり、表参道に行くと、今そういう意味で建築博物館みたいになっています。
(図20)
さらには、日本人ばかりでなくて、根津美術館のほうまで行けば、途中にプラダのビルがあり、ヘルツオク&ドムーロンがこんなものを設計した。聞くところによると曲面ガラス1枚でBMW1台買えるという話もあります。というぐらいにお金をかけてでも新しい建築をつくって、イメージをつくることが、企業活動にとってもメリットがある。建築の持つ表現力、力も、経済が利用しようと思えば利用できる。ですから、王様あるいは権力者が民を治めるために制度として利用しようと思うと建築は結構うまく使える。あるいは牢屋みたいな空間に、悪いことをした人や反体制の人を入れるという建築もあれば、企業がビジネスを展開していこうという時にもまた利用もできる。 ですから、建築にはある意味で力がありますから、それをどう使うかということが非常に大事なわけです。今度生活者である自分たちがその建築をどう使い、あるいはどう考えていくのかというあたりが大事になってくるんだろうなと思います。
(図21)
ヨーロッパが一気に一つになってEUになったということは信じられなかったわけですけれども、世界はすごい勢いで動いています。EUでリスボン憲章というのができて、「もし我々が都市の社会的バランスを維持し、文化的多様性と──ここが大事なんですけれども──建築・環境の高いクオリティを確立できなければ、都市は社会の進歩と経済成長の原動力としての機能を果たすことはできない」と書かれています。建築・環境を高いクオリティーにしておかないと、社会が進歩したり、経済成長になりませんよということです。日本の都市は、すごい勢いで経済成長を遂げてきたわけです。先程のプラダのような店が次々建ったところまではよかったんですが、これから先の時代を考えた時に、本当に質の高い建築・環境を日本が、東京がつくっていけるんだろうか。それ次第で東京なり日本の進歩あるいは経済成長は左右されてしまうんですよということです。EUはこれをちゃんと憲章でいっていますけれども、日本は誰もなかなかこんなことをいってくれない。もう少しきちっと建築あるいは都市のクオリティーを、単に経済成長だけではなくて、都市の進歩あるいは人々の生活にとって大切なんだということを僕たちみんなが考えていかないといけない時代かなと思います。ドバイが今すごいですね。こういうのを見ていただくと確かに元気いいなという感じがするわけです。こんなことをこれから東京がまたやろうということではないにしても、次の時代のビジョンを考えていかないといけないのかなと思います。



2.各国の建築法

(図22)
それでは、各国の法律がどうなっているかというあたりを見てみようと思います。
(図23)
我が国はどうなっているかというと、先ほど申し上げた1950年に建築士法、建築基準法というのができました。建築基準法の中で建築物の定義がされています。「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの」。これは1級建築士の試験を受けられた方はよくご存じだと思います。そうではない方は何をいっているのかわからないということになると思います。建築というのは何かというと、日本国においては工作物の1つなんですよということをいっているわけです。屋根のある工作物です。屋根というのは柱か壁かで支えられているんですけど、屋根のある工作物のことを建築だということが日本の法律で唯一位置づけられている内容になっています。
(図24)
韓国は戦後、日本と全く同じ建築士法、建築基準法をそのままコピーして使っていました。ところが、つい昨年、全部変えました。法律を一新した。ノムヒョン政権が新しい時代の建築、都市政策というものをつくって、それに関係して法律まで全部変えました。建築基本法というのをお隣の韓国はつくったんです。日本は工作物で、屋根がある、柱があるといっているわけですが、韓国では、建築というのは安全、健康、福祉に直接かかわる生活空間なんですといっています。建築は経済活動の土台となる社会的資産です。建築は未来に継承される文化遺産なんですということで、工作物とはいわない。生活空間であり、社会的な資産であり、文化的な遺産であるという位置づけを法律でやったんです。ここがすごいところで最初に申し上げた建築はもう少し芸術、社会、文化の文脈で考えたいと僕ら建築家は思っていますが、日本の法律はまだそこまでいってない。韓国はあっという間にこんなところまで進んだのです。
  今、実は僕たち建築家は、日本にも、建築というのは単なる工作物だけではないんですよ、といっています。あるいは個人の財産だけではなく、社会的に資産だといっているわけです。これは自分の家だから、あるいは自分のビルなんだから、自分がよければいいじゃないかという考えで、どこかに赤いしまのビルが建っちゃった、大変だ、景観問題だとなった時に日本ではあれは個人の財産だから何が悪いんだといわれるとそれまでです。ところが、法律上、それは個人の財産だけではなくて、社会的な資産であり、文化遺産だよという位置づけがあれば、それはみんなの財産なんだから、「あれはよくないじゃないか」「それはそうだね」といって取り締まることもできるような法体系になるわけです。
  そういう意味でも、基本法に社会的な資産である、あるいは文化遺産であるということを位置づけることが日本の国にとって今大事なことだなと思っています。
  韓国が日本のまねをしてそのままやってきたわけですから、今度は日本が韓国のまねをしてでも、すぐこのくらいのものはやっていかないといけないのかなと思います。
(図25)
何故ならば、それは実は韓国だけの問題ではなくて、例えばイタリアの憲法第9条「文化の推進および記念物の保護」という中で、建築というもの、あるいは都市というものを守っていかなければいけないということをうたっている。日本の憲法は、第9条にいくと、戦争放棄と書いてある。つまり、日本が戦争放棄をするぐらい、イタリアにとって文化財や彼らの建築都市を守ることが死活問題であって、大事なものなんだと位置づけられている。 確かに、イタリアは、文化財や都市や建築があるがゆえに、今日生き続けている。戦争を本当に放棄して、日本の国を守るのと同じように、イタリアは文化財を守りながらイタリアの国を守ってきているというのもなるほどなと思います。
(図26)
そんなこんなで、世界の建築なり法律なりを見てきた。そういう中で、日本は何とかしないといけないということで、僕ら建築家は今日本建築家協会、JIAといいますが、その中に入って一生懸命いろいろな活動をやっているわけです。
(図27)
日本建築家協会の建築家憲章というのが、EUの建築家憲章ではないですけどあります。僕たち日本建築家協会の建築家という人は、「社会的・文化的な資産を継承発展させ、地球環境を守り、安全で安心できる快適な生活と文化の形成に貢献します」。先程見ていただいた韓国の建築基本法に、文化的・社会的資産、生活、文化形成と書いてありましたね。日本建築家協会の建築家憲章の中を見れば、韓国の建築基本法のような内容が書いてあるのですが、日本国の法律を見てみると、屋根があって柱と壁のある工作物としかまだ位置づけられていないというのが日本国の現状であるということです。
(図28)
建築家はある種物をつくり出す創造行為を公正中立な立場でやり、たゆみない研鑽を加えて、日本建築家協会の会員は倫理をきちっと守り、JIAは会員の質と行動を社会に保障します。業界団体として自分のところの会員はちゃんとこれだけのことをきちっとやりますよ、だから、世の中の方も安心してくださいというように、社会に対して保障をすることを目指して、一生懸命建築家協会は頑張っております。
(図29)
ところで、いろいろ建築家だ何だといっていますが、これは一体何なんだということになるわけです。『専門家の知恵』という本をハーバードの先生が書いています。その中で非常にわかりやすいのは、スペシャリストとプロフェッショナルという2つの英語の言葉、考え方があります。同じ専門家のように考えられますが、この2つ、結構違う。スペシャリストは何かというと、知識とか技術の専門性を持っている。ですから、いわゆる日本語でいうそれぞれの専門家ですね。ただし、西洋でいうプロフェッショナルは、単なる知識、技術を持っているだけではなくて、専門職として神のプロフェスを受けたものだそうです。キリスト教信者でないのですが、聞くところによると、西洋の最初のプロフェッシェナルは何かというと、牧師さんが西洋における最初のプロフェッショナルだそうです。神の言葉を受けて、神の委託を受けて、現世で神の思いを人々に伝え、神の思いのように世の中で働く人、神の分身みたいな人が牧師であった。そうこうしているうちに、神の真理であるいろいろな学問、芸術が発達してきて、その神の学問のスペシャリストがプロフェッサーという形で先生になって教えていく。それから、だんだん社会的に、お医者さんや弁護士、建築家といった専門職が出てきて、その人たちがプロフェッショナルとして、神の宣託を受けて働く。経済、ビジネスの論理で、おれたちの能力、専門知識を売って儲けようではなくて、世のため、人のために自分の持っている専門の能力を使ってお役に立つことを誓っている人たちを西洋ではプロフェッショナルという。 日本建築家協会は、いわゆるプロフェッショナルとしての建築家を目指そう、西洋のそういうプロフェッショナルを目指そうという団体です。日本の建築士というのは技術スペシャリストとしての技術をきちっと持っている人を日本の国が管理して、この人たちはスペシャリストとしての能力を持っているということを示してくれています。このあたりが、スペシャリストとプロフェッショナルの違い。日本は、1つはプロフェッショナルというものもきちっとやっていかないといけないなと思っております。
(図30)
だとしたら、どうするんだ、ということで、建築設計者の資格をもう少しきちっとしなければいけないのではないのかということを考えて、今建築家協会は努力をしているわけです。
(図31)
先ほど申し上げたように、日本の建築士は、1級建築士は30万7000人、2級は66万人、木造建築士1万3000人、足すと約100万人ぐらいの建築士という資格を持った人がいる。ただ、これは1950年以来、これだけの人に資格を出したということです。田中角栄も第1号の1級建築士になっている。ご本人は亡くなられていますから、100万人いるけど、このうち何人今生き延びているかは国も把握していない。そういう状況が日本における資格の現状です。
(図32)
ところが、このUIA、国際建築家連合という建築界の唯一の国連的な組織があります。世界123の国と地域の建築家協会が加盟しています。そこで統計がありまして、世界の建築家の数が出ています。ヨーロッパ、フランスは2万7000人、イギリスは3万478人、アメリカが11万人。アジアを見ていくと中国4万人、日本は3万5000人と書いてある。カメルーンは160人と書いてある。これを全部足すと、世界に140万人の建築家、いわゆるアーキテクトがいるとUIAの統計はいっています。 ところが、先程申し上げたように、日本には100万人の建築士がいるとなるとおかしいですよね。ここを見ると3万5000人としか書いてない。これはUIAという世界標準で考える、専ら建築設計を責任を持ってやっている人たちは、日本では恐らく100万人ではなくて、3万5000人ぐらいではないかと推計して、統計の数として入れているということなのではないかと思います。日本には3万5000人の資格はないんですね。30万人の1級建築士はいますけれども、その中には構造の専門家がいたり、設備の専門家がいたり、法律の専門家がいたり、工事施工の専門家がいたり、専ら責任を持って設計にかかわる人の数がつかめないんですが、このぐらいではないかと推測されている状況です。
(図33)
今建築士会のほうでは、いわゆる1級建築士の中にも、まちづくり、設計、構造、環境、生産、棟梁、法令といったように、いろんな種類があるので、専攻建築士ということで、同じ建築の専門家の中にも領域がいっぱいあるんですよということを表すようにしています。表示制度といっていますけれども、わかりやすくないと、市民が1級建築士なら設計を頼んでいいんだろうと思って頼んだら実はその人は法令の専門家であって、設計をしたことがないという状況がおこるわけです。ですから、それがわかるように表示制度にしようということに建築士会が取り組み始めています。
(図34)
そういう中で、日本建築家協会は、登録建築家という先ほどいった設計が専門で責任を持ってやられる人たち、UIAという国際建築家連合の基準にのっとって、世界から見てもちゃんと設計をしている人ですよといえる人たちを認定をしようとしています。伊東豊雄さんとか隈さんという人たちが登録しています。ただし、これも数が2000人、3000人と、まだ増えてはいない状況にあります。
(図35)
今申し上げたように、建築家や建築士などいろいろいる状況ですけれども、アーキテクト星座というのをわかりやすく書いてみようかと思いました。コロンビア大学という建築で非常に頑張っている大学がありますが、先週そこの先生がいらしていろいろお話を聞きました。 ベルナール・チュミという有名なスター建築家が、その大学のディーンとして、スター育成を目指して頑張るぞという大学だったわけです。ところが、彼は、これからの時代は、そういうスーパースターを教育するような時代ではなく、みんながスターだと言っていましたが、いろいろな領域、分野の人たちが協力をして、きちっとした社会的な建築をつくっていくことが大事で、1人のスーパースターを育てるのではなく、いろいろな意味でのスターを育てていくことに教育方針を変えたんだといっていました。 問題を解決したり、ビジョンを実現させ、その美学に責任を持つことで輝くプロフェッショナル、建築家というものを考えよう。その人が一体どういう場所で、どこまで光が届いているのか。世界のスーパースター、有名なヘルツオーク&ドムーロンは遠くからでも知られているわけですが、それは輝きが遠くまで届いているだけであって、地域の中できちっと建築の責任を持って仕事をしている人も同じスターであるし、ある分野の技術をきちっと責任を持ってやっている人もスターなんだという考え方に、コロンビアも変わってきた。すると、僕らもそういう意味で、それぞれの個人、プロフェッショナルが自分はみんな1つ1つの星なんだ、その輝きが世界の果てまで届くのか、近所の辺まで届いているのかは違いがあるにしても、自分たちはきちっとした問題解決、ビジョンを実現させ、美学に責任を持つことのできるプロなんだという気持ちで輝いていきたいなと思っています。
(図36)
そんなわけで、世界140万人のアーキテクトの星があるとすると、その中に、先ほど3万5000人といいましたが、日本には多分5〜6万人ぐらいの建築家たちがその仲間に入っていて、さらに1万人に1人ぐらいの世界のスーパースターのアーキテクトがいる状態である。みんなが星になって建築・環境のために頑張っているんだ、そんな感じなのかなと思います。
(図37)
先ほど申し上げた日本には100万人の建築士がいるけれども、そのうち30万人の1級建築士がいて、その中の5〜6万人がUIA基準の建築家になっていて、日本建築家協会には5000人ぐらいが会員になっているというのが現状です。
(図38)
これで建築家の話は最後にいたしますけれども、5000人の日本建築家協会の会員がいますが、コミュニティアーキテクトとクロスボーダーアーキテクト、スターアーキテクトといった3つの建築家のあり方を今後JIAは考えていきたい、と思っています。 1つのコミュニティアーキテクトというのは、地域で建築に責任を持って、行政あるいは市民と一緒に地域の建築を考え、建築を設計するだけではなくて、このまちを将来どういう方向に持っていたらいいのか、あるいは大切な建築をどう守っていったらいいのかを含めてやっていく。西洋ではCABEという地域まちづくり委員会のようなものがありますが、そういうものを日本でもつくり、活躍できるコミュニティアーキテクトという姿もつくっていかなければいけないと考えています。先ほど申し上げたアメリカ建築家協会に私が行ってきたのも、アメリカの建築家協会と日本の建築家協会の間で職能協定というのを結ぶためでした。今後はUIAの基準というものを使って、2国間で相互の資格を承認するということがこれから行われていきます。そういう制度を守り、資格を相互承認して、日本の建築家がアメリカでも働ける、あるいは韓国でも働ける。逆に韓国の建築家が日本でも働けるという国境を越えて働ける建築家というものをつくっていく必要があると思っています。 先ほどいったようにみんながスターなんですけれども、その中でもさらにスターを頑張ってつくっていくということで、賞を出したりということがございます。その中で1人1人が自分の輝きを増していこう、さらなる上を目指そうということも大事なのかなと思っています。そんな方向で今後建築家協会を頑張っていければと思っています。


3.次世代社会システムとJIA

(図39)
先ほど、日本の法律や資格が、まだまだこれからだと申し上げたので、次世代の建築あるいは都市をつくっていく上で、法資格制度といったものの社会システムを考えていかなければいけない。その中で日本建築家協会の役割も位置づけなければいけないのかなと思っています。
(図40)
先ほど申し上げたように、日本には1950年にできた建築基準法、建築士法というのがあるわけです。韓国の建築基本法というのがございましたが、日本も建築基本法というものをきちっとつくって、建築はひとり個人の財産ではなくて、社会的な資産でもあるし、文化的な資産でもあるんだよという位置づけをここですると、法律等も全部変わってくると思います。
  まず、建築基本法というものをつくるべく頑張りたいと思いますし、今新しい政権の民主党になって、建築業法を制定しようかという動きも出てまいりました。その勢いでこれの制定を目指したいなと考えています。そうした建築基本法のもとで、わかりにくいかもしれませんが、集団規定と団体規定という2つの法律が中に入っています。集団規定というのは、この場所にこういうゾーニングがあって、どういうものを建てていいか、悪いか、あるいはこういう規制をしましょうという規定です。日本全国津々浦々、同じ基準でそれをやるのは難しいわけです。最近は地域の住民協定、地域の協定をつくったりしていますけれども、それをもう少し進めて、地域による許可制、この建築なり開発を地域でしていいか悪いかというのは地域が許可するんだという制度に変えていきたいと思っています。
  そうすると、許可をするに当たって、先程コミュニティアーキテクトと申し上げましたが、そういうコミュニティアーキテクトのような専門家と行政と市民が絶えずコミュニケーションをとって、自分たちの地域に対して将来どうしていったらいいかのビジョンをつくる。そのビジョンのもとに具体的な個別の案件をどう誘導していったらいいかを考えていく。そういう中でコミュニティアーキテクトが活躍できる場面をつくっていければと考えています。
  それから、単体規定というのは、それぞれの建物が地震で倒れてはいけない、いろいろ被害があってはいけない、安全を守らなければいけないということで、手すりの高さもこれだけの高さでなければいけないなどといろいろな細かい規定があります。そういうものも全部役所がチェックしてくれているわけですけれども、基準を決めておいて、それを守るのは専門家の責任でちゃんと守ってくださいという仕掛けしないと、日本の国なり行政がすべてをチェックすることは難しい状態になっています。世界各国を見ても、そういう形で行政が全部をチェックをしようと考えている国はほとんどなくなりつつある状態に、日本の行政は、姉歯問題もあって、基準法の強化をしようと頑張っていますけれども、世界の趨勢は逆のほうに向かっています。
  建築士法というのも、100万人の建築士がこれまで出たわけですが、それはエンジニアという位置づけです。専ら建築設計に携われるUIA基準の建築家をつくっていかないと、世界の人々が安心して設計を任せられるレベルにはなりません。日本の設計の資格のレベルも世界標準に合わせる必要があると思いますし、またこれを国家資格にしないと、2国間で資格の相互承認ができないという状況にありますので、日本の建築家あるいは日本の建設産業がこれから世界に出ていく上でこういう資格をちゃんとつくることが非常に大切な時代になってきています。
  日本の場合は、資格を持った個人が、建築設計事務所というものを登録して、そこで社会的な設計責任を果たすという、個人と事務所と二重で登録して責任を果たす仕掛けになっています。アメリカあるいは西洋では、1人の個人となってやるようになっていますが、日本はこの2つに分かれていますから、それぞれの法律を位置づけてやる必要があると思います。
  あと、会計法・自治法という中で、設計は入札なんですね。できるだけ安い値段でやればいいと公共の発注は入札制度になっていますけれども、先ほど申し上げたように、建築が社会的・文化的な資産となって、地域で委員会があって見守っているとすれば、自分たちの地域の大切な建築をつくってくれる設計者を選ぶときに一番安い人を頼むよりは一番いい人に頼みたいということをきちっと考えるようになります。そうすれば、会計・自治法の入札ではない方法で適切な設計者を選ぶことも可能になってくるのかなと思います。建築基本法ができると、建築が単なる建物ではなくて、社会・文化的な資産だということで、関連した法律等々も次々と変わってくる。何とかそういう方向に持っていきたいと今思っております。
(図41)
申し上げましたが、この辺は、建築基本法ができたら、建築基準法の集団規定を許可制にして、まちづくり委員会のようなものを地域につくって、その中でコミュニティアーキテクトが活躍していくという次の時代を考えたいなということです。
(図42)
そういう意味では、JIAの建築家たちは自由、独立の立場で、市民、行政とともにまちづくりを推進するコミュニティアーキテクトとしての役割を担っていきたいということになります。



4.白石市での試み

(図43)
今度は、私が実際にやっている話をお話しさせていただければと思います。私自身は、いろいろな意味で住宅を一生懸命設計して、奥様にいろいろお話を聞いて、気に入っていただきながら、その家のすてきな生活を演出するべく住宅を設計してみたり、ディベロッパーの方と一緒にビジネスとしての建築を考えて、テナントオフィスビルであったり、マンションであったりというものをつくってみたりしています。そういう中で、宮城県の白石市という東北新幹線で行くと仙台の1個手前の駅の人口4万2000人ぐらいの小さな市で、まちの公共建築を、市民と対話をしながら一緒つくりながらまちの生活レベルを少しでもよくしていこうという活動をしています。あえていえばコミュニティアーキテクトに近い活動なのかなということで、その例をお話しさせていただきます。
(図44)
先程建築家とはとか建築とはという話では一晩語れてしまうのと同じで、まちづくりも語り出すと、延々議論が回ってしまうんですね。これを英語に訳そうとすると、「マチヅクーリ」というぐらいしかなくて、なかなかちゃんとした英語がない。つまり、非常にあいまいな概念だということです。
建築なんだか都市なんだかもはっきりしない状況の中で、日本建築学会で、教科書第1巻でまちづくりの方法というのを書いた。そこで、まちづくりとはというのが一応定義されていいますが、それが唯一日本国でまちづくりを定義にしようとしているものだと思います。
それによると、「地域社会に存在する資源を基礎として、多様な主体が連携・協力して、身近な居住環境を漸進的に改善し、まちの活力と魅力を高め、『生活の質と向上』を実現するための一連の持続的な活動である」とあります。パッと読んでわかりますか。僕も何をいっているのかわからないというぐらいに難しい言葉が書いてある。よくよく見てみると、「地域社会に存在する資源を基礎として」とあるわけです。ここが大事で、建築を学んだ方は、コルビジェという有名な建築家がいて、タブラ・ラサにビジョンを描くみたいなことをします。タブラ・ラサとは、白紙のキャンバスのことですが、そこに天才が絵を描いて都市ができてブラジリアになったり、シャンディガールになったというように、そういう白紙の世界に絵を描くのではなくて、今存在している具体的な地域社会を基礎として考えましょうということをまずいっているわけですね。なるほどねということになるわけです。
今度は、「多様な主体が連携・協力して」というと、先程のコルビジェみたいな天才建築家は、多様な主体ではなくて、自分がアトリエにこもって午前中いろんなことを考えて、「あっ、新しい都市ができた」となります。あるいは丹下健三先生も新しい都市をコアシステムでつくろうと自分で考えてしまった天才ですが、今は1人が考えるのではなくて、多様な主体、例えば行政、市民、民間、いろいろ企業も入っている形で、いろいろな主体が連携・協力するんだということです。あるいは王様が1人でやるのではありませんというのがまちづくりの定義になってくるわけです。市民、行政、専門家、いろんな主体が連携・協力することなんです。
「身近な居住環境を漸進的に改善し、」というのも、先ほど申し上げたように、何もない白紙のところに新しい都市をつくるというのではなくて、身近な自分たちの居住環境を少しずつ改善していきましょうという運動なんですよということをいっている。
「まちの活力と魅力を高め、」ということですから、突然すごい開発をバンバンやるのではなくて、地道なそういうことを積み上げることによって自分たちの身近な生活が少しずつよくなってきて、ちょっとずついい感じにするということをやりましょうと「生活の質の向上を実現する」ということをいっている。
それも、今日、いいまちができたという日はなくて、絶えず持続的に少しでもよくしよう、少しでもよくしようとやり続けることがまちづくりなんですと建築家が一生懸命定義をしてくれた。 わかったような気もするけど、具体的に何なのといわれると、またわかりにくくなる。つまり、東京オリンピックがあったり、ドバイのすごい都市ができたり、北京で今うちのが頑張っているぞというのは、新しい都市をつくり経済を一気に発展させて何かやっていこうという時のやり方です。国が頑張る、あるいはある大資本が頑張るということでしたが、国だ、大資本だではなくて、地域の中で生活している人々が自分たちの努力を積み重ねながら、少しずつ自分たちの生活のレベルを上げていきましょう、いわゆるトップダウンではなくて、むしろボトムアップ。ボトムの中でよくしていこう。それも誰かがやるのではなくて、みんなでというのを「まちづくり」という。今までの経済主導型、トップダウン型と反対のことを多分いっているのではないのかなと思います。
(図45)
まちづくりには公共の福祉の原則、地域性の原則、ボトムアップ、場所の文脈の原則、多主体による協働の原則、持続可能性、地域循環の原則、相互編集の原則、個の啓発と創発性の原則、環境共生の原則、グローカルの原則と、書いてある。興味ある方は、学会に行くと売っています。皆さんも、まちづくりって、ああだこうだとお思いでしょうけども、一回こういう本を見てみると、「おれはやっぱりこのボトムアップを大事に考えていたんだな」とか、「おれは環境共生のこの原則のあたりをすごく大事だと思っているんだな」とか、自分が何を考えているかも整理ができるのではないかなと思います。
(図46)
先ほど申し上げた白石市の例です。市長さんにいわれて、私が白石デザイン会議という市長の諮問機関として会議の一員となったのが15〜16年前の話です。1年間市を調査研究して、報告書をまとめました。最初に、おもしろかったのは、市長さんからの依頼は、各行政、自治体はどこかのシンクタンクにまちづくりビジョン、将来ビジョンづくりを依頼する。そうすると、もっともらしいすばらしいレポートが返ってくる。白石市を黒石市とか、赤石市、黄色石市のどれに変えてもオーケーみたいなことが実は書いてある。でも、市長さんが明日から実行しようと思っても、どうやったら実行できるかは書いてないというのが市長さんの最初のお話でした。建築家の専門家の皆さんは、具体的にどうやったらまちが本当によくなるのかを提案してくださいといわれた。
その中で、白石デザインフォーラムという市民参加型のまちづくりの仕掛けを僕らは提案しました。これは、先ほどいった市の担当者、市民の代表、デザイン会議という僕らの専門家、行政、市民、専門家がまちづくりに関して自由に意見を交わす場です。どういう計画をまちでやるのかというプランニング段階で、ボードで検討する。あるいは具体的な建築づくりになった場合にその建築をどうするかを検討する。あるいはすべてを市民参加でやろうということですから、建築をつくること以外にも市のいろんな活動の中で、どういう市民にどういう形で参加してもらったらいいかを絶えず考える市民のワークショップボード、この3つのボードをフォーラムの中で連動させながら、議決機関ではなくて、あくまで意見を闘わせ、コミュニケーションをする場をつくりましょうという提案をしました。
先程いったように、しましょうではなくて、本当にやってくださいとのことで、この市長はなかなかはっきりしています。
(図47)
その市長さんは小学校を考えていたわけです。「入札で次に発注しようと思っていたけど、君たちがそういう市民参加方式によるデザインワークショップで設計をするといっているから、それをやってみさない」ということで、私とアーキテクチャーワークショップの北山恒さんと一緒に設計をしました。もう15年前になります。 
今は、ほとんどの公共建築は市民参加方式でやりなさいということになりましたけれども、この時代はそれの始まりぐらいの状況でした。私自身それまでもそういう経験は一切なかったんですが、学生時代にローレンス・ハルプリンのテイク・パート・プロセス・ワークショップという勉強をしていたんです。それの教科書を持ってきて、それを見ながら、どうしたらいい、ああしたらいいと考えながらやりました。
(図48)
まず、先生、父兄、生徒1400人ぐらいの皆さんに集まっていただいて、「これから学校を建てかえるけど、どういう学校にしたらいいかをみんなで考えましょう」という参加型のワークショップをやりました。
(図49)
自分たちの学校を建てかえるんだけれども、クラスごとに、どんな学校にしたらいいか考えてくださいということで、考えながらみんな絵で描いて表現しました。校庭があって、こうしてこうしたい、こんなふうにあったらいいなというのを父兄と生徒と一緒になってワイワイいいながら考える。夢をみんながつくるわけです。夢をつくってくると、ついつい何かいいたくなってくるわけです。
(図50)
でき上がったら、校庭にはこんな大きな雲梯が欲しいんだということで、校庭に運動会みたいにズラッと並んでパレードするんです。緊張ぎみに行進しながら、こういう校庭が欲しいですみたいにみんなで回る。ここに教育長さんや市長さん、僕ら建築家がいて、それに向かってアピールをする。アメリカのワークショップ方式ですから、楽しいお祭り方式でやりました。
(図51)
それらを受けて、まだ当時若い僕と北山さんが、基本設計段階でみんなの意見を聞いたらこんな感じになったよということで模型をつくってもってきます。お母さんや市民にも直接説明をして、「あら、うちの子、こんなところで今度勉強できるわけ」といって、お母さんもにこっとする。そういう直接対話のコミュニケーションをやります。
(図52)
さらに子どもたちが、世界一のジャンボすべり台が欲しい、理科室の床をガラス張りにして、いつもそこでお魚が泳いでいたりして、自然のお魚の観察をしたいとかいろいろなことをいうわけです。みんなからいろいろなことを聞いたら、こうなって、平屋建てにして、すぐ校庭に飛び出せるようにしたり、ここの間はガラス張りのトップライトでみんなが雪の日も遊べるようになったり、その横には屋外のスペースがあるから、花を育てたり、動物もいたりもできるよとか、「みんなからいろんなことを聞いたけど、こんなのどう?」と持っていくんですね。そうすると、「何、ここのところで遊べるわけ」といって、また大喜びするというフィードバックを何度も繰り返すんですね。
(図53)
そうすると、こんなものができました。これは、コミュニティのまだしっかりした地域ですから、全く塀のない学校になって、先生は縁側まで自分の車を乗りつけてすぐそこから入れるようにしてくれということで、開かれた学校になった。
(図54)
この体育館がエントランスホールになっていて、学校に来る子はみんな体育館の手前にげた箱があり、朝来るとワーッと体育館に集まって、そこからそれぞれの教室に出ていく。あるいは授業が終わると、みんなギャーギャー暴れたり、階段のところで遊んだりしながら帰っていく。体育館というのは校庭の隅にあって、体育のときと卒業式しか使わないんだけど、これは毎日のエントランスホールにも使っていて、授業中は体育館にもなるし、ああしたい、こうしたい、雪のときも遊びたい、帰りはみんなで友達とどうしたいというので、「こういうのだったら大丈夫?」というと、「これだったらいいね」という話で、だんだんに案がまとまっていくわけです。
(図55)
先程のジャンボ階段を段々と上っていくと、2階にデッキがあってプールにつく。プールの床にちょっと穴があいていて、トップライトみたいになっていますが、水を張って、下の職員室の廊下から見ると、上に水があって、子どもが潜って潜水で出てくる。職員室のトップライトがここにとれている。子どもはここを泳ぐんですね。死に物狂いで潜ってきて、体育に出られない休憩している子どもが下の廊下に回り込んでいって、上と下でジャンケンポンをするというゲームがはやって、おかげで2年生はほとんど全員潜水ができるようになった。設計者はこんなことを考えたわけでもない。これは設計者がやったわけですけれども、それを使ってそういう遊びを考えたりいろいろするのは子どもで、子どもというのは非常にクリエイティブです。
(図56)
こういう伸び伸びとした平屋で、廊下でつながって真ん中にお庭がある。
(図57)
脇にこういう外部の空間があって、マウンドをつくったりして、ここで授業をやったり、遊んだり、いろんなことを子どもたちがやっています。
(図58)
教室はこんな教室で、教室と教室がずっとつながって見えたりすると、先生たちはちょっと落ちつかないのではないかといっていましたが、みんなが一緒に学んでいる感じがして、子どもたちは伸び伸びやっている。と同時に、こういう大きな1つの屋根の下でやっていますから、1つのまとまりもできて別に問題はなかった。あるいは教室の隣には教室と同じ幅のトップライトのスペースがあって、隣のクラスの子どもたちと遊んだりもできる。先ほどのミッシェル・フーコーの制度の話にもなるんですが、今までの南面教室、北側廊下の従来型の教室配置で学ぶ子たちでしたが、この不思議な僕たちのオープンシステムの教室、教室と廊下の間が全部引き戸であいたり、隣の教室と教室がまた引き戸であいたりとつながる教室で暮らしたら、運動会のクラス対抗で頑張っている学校だったそうですが、クラス対抗が燃えなくなってしまったんだそうです。どういうことかなと思ったら、ここのスペースを6クラスで共有しているもので、しょっちゅうあっちだこっちだと行きながら遊んだり、暴れたりしていろいろな仲間ができる。そうすると、クラスという単位もあるけれども、絶対の意識が芽生えて、クラス対抗が燃えなくなる。あるいは、いじめということで、あるクラスからつまはじきになった子は、ここでだめならあっちがあるさと、休み時間こっちの子と遊んでいたり、そういう意味でもいい。教室の配置のあり方によって、生徒たちの生活のあり方も随分変わってきているというのは先生たちもおっしゃっていました。 自分たちで自由に間仕切りをあけたり閉めたり、あるいは隣の先生と相談をして、一緒にチームティーチングをやったりと、扉をあけて使える教室なわけです。先程申し上げたように、文部省があって、教育委員会があって、教育はオープンシステムにするのか、クローズシステムにするのかどうするのか委員会で議論して、白石市の教育はオープンでいくぞみたいなことでやるのではない。そんな大変なことをやっても全然話は決まらないんです。だけど、隣の先生とこっちの先生が、今日は天気もいいいし、一緒にやろう、あるいはこのトップライトの下で黒板を持ち出して、一緒にチームティーチングやりませんかと隣の先生と相談して、それなら、そうしましょうといえばできるような空間を僕ら建築家は用意をした。そういう意味では、文部省なり教育委員会が制度として決めた空間ではなくて、先生なり生徒たちが自由に選択できる空間を用意したつもりです。何故ならば、先程のようなワークショップで、ああしたい、こうしたい、そうしたい、勝手なことをいっぱい望みをいうわけです。そういうものを実現するには、こういうフレキシブルな空間形式がいいのではないですかというのが、建築家である僕らの答えだったということです。
(図59)
そんな学校ができた。これが当時としては、市民参加によってつくり上げた学校のほとんど最初の例でした。NHKは10分間も取り上げてましたし、建築雑誌にもみんな出る。まちにしてみると、大変なことになったらしい。世界からもいろんな人が見に来る。まちは大変盛り上がったわけです。
(図60)
その勢いで、自分たちのまちも元気のいいまちになるのではないかという気分を受けて、公立刈田病院という1市2町の300床の病院を、同じようにワークショップ方式で建築家が一緒にやってくださいといわれて、特命でやりました。これが後で裁判になって、何で入札でないのかと、いろいろあるわけです。何故ならば、これは市民と一緒に対話をしながら、まちを継続的に考えて、1つの施設を市民と一緒につくるにはこの建築家が最適であるという特例条件という中でこの仕事を進めたという状況です。
(図61)
これは、病院に見えないんですけれども、300床が3階の1フロアに全部あって、病床があると真ん中に中庭があって、全部平屋で中庭つきの病室。大体病院というのは、病室があるとマンションとかホテル形式ですね。廊下があって、部屋があると、外があって、それが何層にも積まれている。それぞれの看護単位ごとに何層かに積み上げていくのを、平面的に分かれている看護単位の不思議な病院になった。何故かというと、市民、患者さん、看護婦さん、お医者さんとワークショップをやって、どんな病院がいいか考えました。患者さんにとって快適なのは、どうもホテルの部屋ではなくて、自分ちの縁側があって、お庭があって、自分ちで寝ているみたいなものが安心できるし、安全。また、近所のおじさんが横にいて、隣のおじさんが遊びに来る的な、自分たちの生活環境に近い環境が安心できるし快適だ。自然の光、採光、通風があれば、機械類で空調されたりしているよりは気持ちがいい。そうなってくるとこれを積み上げてマンションを上につくるより、平屋建ての中庭、コートハウス型の病床がいいのではないですかとなります。看護婦さんにしてみると、私はこんなところで働いたことないし、こんなところでやったら、疲れ果てて死んじゃいますよ、一体何を考えているんですかと怒られるんですが、「大丈夫ですよ。ここがあなたの看護単位で、この中であなたはここからここまでは行く必要ないんですよ。普通はこれが上に積み重なっているだけだから、あなたが1日歩く距離はそんなにかわらないですよ」「だけど、こんなんじゃひどいんじゃないの」とか、お医者さんは、「こんなのだと、院内感染して、そこらじゅうで患者が発生して大変なことになりますよ」と言います。「空調は自然換気で分けてあって、別に上に重ねるのも横につなげるのも変わらないですよ」とか、「それなら、患者さんにとってみたら、どっちがいいと思いますか」と聞いたら、「確かに庭があったりそういうほうが患者にとっていいかもね」「だったらそうしましょう」という話で説得するんですね。 やはりお医者さん、看護婦さんも、患者さんにとっていいものをやってあげたいなという本当に素直な気持ちはお持ちになっているわけです。だけど、普段は、管理からするのでこうならなければいけないと思っているんだけど、今みたいな話をしていくと、やはり患者さんにとっていい環境を何とか自分たちもやってあげたいとなります。そのために自分たちも働いているんだからみたいなことをいう立派なお医者さんや看護婦さんがいた時に、「そうでしょう。だったらそうしましょう」と。ということで実は延々いろいろなことをやったあげくに、こんな不思議な病院を説得してやりました。 蔵王のふもとの環境のいいところです。東北自動車道に乗って仙台のほうから行くと、「これはコルビジェ?」というものが真っ正面に見えてきます。これは実は病院です。自然の採光と通風で、中庭つきの病室。この下の部分に外来と診察部分が入っているということになります。こちらからズーンと入っていって、これがピロッティーの部分です。免震層になっていまして、大きなピロッティーに車でズンと入ってきて、ここでおりて病院に入っていく。あとで気がついたら、「何だ、飛行場みたいなになっちゃったな」という感じでした。車でアクセスしやすくて、中に入ったら非常にわかりやすく診察ができて、診察してもらって会計してすぐスッと帰れるということを考えていったら飛行場と同じ。というのは、人の動き、車の動き、物の動き、診察の動きがあるルールで動いて、スススッとわかりやすく終わってしまうというと飛行場になる。病院なんだけれども、飛行場のようということです。
(図62)
中に入るとブースがあって、外科、内科などの診察ブースに入っていくんです。JAL、ANAなどの航空会社のカウンターに行くように、診察のカウンター、それぞれの診察に入っていく。入っていくと奥のほうに行って、処置をして帰ってきて、薬もらってピューッと帰る。非常に大きな全体の吹き抜けのスペースの中で、全体を見渡しながら自分がどこにいるかもよくわかるという形で、動線もわかりやすい。
(図63)
不幸にも入院をした人は3階に行くと、先ほど申し上げたように、開放的な廊下にそれぞれ病室があって、中庭があって、外の景色も見れるような環境で入院生活をする。自分の家より気持ちよくて、退院するのももったいないなという患者も結構出てきているという状況です。
(図64)
1階の診察室では、「吉田のじいさん、最近顔見ないけど、どこか体でも悪いんじゃないか」といっている。毎日おじいちゃんたちは、病院に診察に来るのが楽しみだったりする。体の悪い状態だと病院の診察に来られない状態だということらしいです。
(図65)
病室から庭越しに隣の病室が見えたりというのがプライバシー上よくないんだという意見もあったんですが、毎日じっと入院していると、「あそこのばあさん、今度退院したみたいだ」とか、いろいろな雰囲気、気配を感じ取りながら、あるいは自然の光とか空気、風、動きを感じながら暮らしています。自分が1人であるのではなくて、自然とともに、あるいは人々とともにあることを意識できることが人間の気持ちを非常にリラックスさせて、それで治癒効果も高くなるという構図になる。ナイチンゲールという人がナイチンゲール病棟というのをその昔考えた。野戦病院みたいなものです。それは気積を大きくしてできるだけ院内感染をしないようにしたり、自然の光を入れて細菌を殺したり、換気をよくして、空気を入れかえるというものです。自然とともにいられる姿が人間の健康にとってはいい。回復にとってもいいことだと思いました。
(図66)
病院の外には、リハビリガーデンというんですけど、グランドスケープをつくって、遊べるようなお庭もあります。ただ遊ぶのではなくて、デコボコしていて、いろいろな仕掛けがあって、リハビリの部屋があって、そこから出て車いすでずっと回って途中のスポットでグリグリと回して出てきてやると1行程。リハビリを仕込んだリハビリガーデンを考えてみたりすると、いろいろな人とワイワイああでもないこうでもない、ああしたらいいんじゃない、こうしたらいいんじゃないといろいろな意見が出てくる。そういうものを取り入れながらやっていくとこんなものもできました。 病院、学校づくりの話をしましたけれども、先程申し上げたように、これは公共建築をつくる時、市民と対話をしながら一緒につくっていくと、自分たちが参加して病院ができた、あるいは小学校ができたとなる。できたということは、使う側の小学校でいうと父兄なども自分たちの学校なんだという意識になり、こうやったらこう使っていこう、どうしていこうという参加意識が生まれる。デザインの段階で参加意識があると、その後もキープできて、地域のコミュニティセンターという意味でも役割ができてくる。自分たちのまちにバラバラに行われている公共事業を、今度は病院ができた、火の見やぐらが建った、これらは1つのまちづくりの動きの中でやっているんですよという形で、市民にも広報して知らせる。そうすると、自分たちのまちは少しずつ動いてよくなっていくのではないかという夢と希望みたいなものがわいてきて、意識も盛り上がってくるということで、漢方治療のまちづくりといいました。大開発なり再開発を一気にやるということは田舎のまちではとてもできませんから、何ができる、何ができた、ということを1つ1つのまちづくりの中に位置づけると、鍼灸のように、ツボにいろいろ針を刺していくと、少しずつ血のめぐりがよくなってきて、体が元気になっていく。アーバン・アーキテクチュアと、英語でいわれている都市計画の手法でもあります。大手術をする都市計画ではなくて、鍼灸治療によるまちづくり、都市づくりを何とか白石で実験してみました。 ところが、ほかにもいろいろやったんですが、市長さんが3期で終わって、次の市長さんになったら、その動きが突然終わってしまって残念だなと思っています。本当は市長さんだけでやるものではなくて、市民、行政、専門家みんなでやるものだから、市長がかわったって、そのまま続かなければいけないのに、市長がかわると終わってしまうということはなかなか困ったものだなとは思いました。そういう例を1つお話をさせていただきました。



UIA2011東京大会

(図67)
最後に、宣伝です。UIA2011東京大会、第24回世界建築会議が来年2011年の9月末に東京で開かれる。これは、先程申し上げたように、世界に140万人の建築家がいるわけですが、123カ国プラス地域の建築家協会が全部加盟した建築界唯一の国連みたいな組織です。その会議が東京で開かれて、1万人の建築家が東京に集まるという日本の建築界が始まって以来の大イベントといってよいでしょう。
(図68)
申し上げたように、日本を初め世界123カ国と、ある地域の建築家協会が加盟している。日本建築家協会がUIAの支部になっています。そこで、私たち日本建築家協会がUIAとの間で大会の準備に入り、日本組織委員会、国交省を始め日本のあらゆる限りの建築関連団体と一緒になって、オールジャパンでこの大会をやっていこうと、一生懸命やっているところです。
(図69)
2011年の東京ということですが、2008年にはトリノで、2005年にはイスタンブール、2002年ベルリン、1999年北京でした。3年後の14年には南アフリカのダーバンです。今まさにワールドカップが開催されているあの地で開かれることになります。3年に一度の建築界のオリンピックみたいなものです。  
(図70)
大会のテーマは、「デザイン2050」。2050年の世界をみんなで今からデザインしていこう。その2050年の環境、情報、生命を一体どう考えたらいいのか。建築家たちが将来の夢、ビジョンをしっかり持たなければいけないと思います。それを語り合いましょうという意味をこめています。
(図71)
2050年というと、いろんな話があります。CO2がガンガンそこらじゅうから出ていて、地球が温暖化して、マンハッタンが沈んでいるらしいとか、そういう話がございます。65歳以上のおじいさんが35%以上になり、ほとんどがおじいさん、おばあさんばっかり状態になる。このままでいくと、沈んでしまったり、おじいさん、おばあさんの世界になっちゃうぞという悲観的なシナリオばかりが聞かれる今日この頃です。
(図72)
建築家というのは将来の夢とビジョンを考えなければいけないですから、そんな悲観的な2050年の絵を描くよりは、ポジティブに2050年を描く。例えば東京はどうしようか。東京大学の大野先生は、人口が減ってくることはいいことではないか。例えば、今まで混み合っていた東京にすき間をつくっていって、緑のネットワークをつくって、いい環境にしたら、人口が減るからって、悲観的な話ではない。むしろ環境的にはいい東京がつくれるビッグチャンスだといっています。そんなそれぞれの地域のコミュニティをよりいいものとして育てていけばいいではないかという話もありますし、いろいろな積極的なビジョンを考えて、2050年にはこうなるではなくて、2050年に向けて僕らでこうしていこうというビジョンをつくって行動に移す。2011年は行動に移すときにしたいということを考えています。それも、世界の建築家たちが知恵を絞り合おうということです。
(図73)
これは建築家だけの大会ではない。本日いらしている建築関係者の皆様も、是非2011年の9月25日から10月1日の1週間、東京フォーラムを中心に大会が開かれますので、参加いただければと思います。
(図74)
ミラノサローネをご存じですか。家具の展覧会をミラノでやっていると、展示場で大きな展覧会をやっているわけですけれども、町のいろんな場所で同時にイベントが行われている。世界じゅうのデザイナーたち、バイヤーたちが集まってきて、街じゅうのイベントになってきている。
(図75)
東京に1万人の建築家が集まってやるので、銀座、丸の内、青山、六本木といったところでも、それぞれ関連イベントを予定しています。この1週間は、東京は都市と建築のお祭りでいっぱいにしよう。例えば森ビルでは美術館で日本の近代の建築家展をやろうかとか、青山の通りから代々木の体育館を借り切って、そこでみんなでオープニングのイベントをやろうかとか、いろいろなことを今考えております。
(図76)
基調講演でビル・ゲイツさん、アル・ゴアさんなど、いろいろな方を呼んで、建築界以外の方からもお話を聞きながら2050年を考えていこうかと思ったりしています。
(図77)
環境・情報・生命というテーマでそれぞれ議論を深めます。
(図78)
いろいろな展覧会も同時に併設されますから、例えば「TOKYOチェア・シティ」展など、東京の街角に建築家たちがデザインしたいすを置いて、実際に使っていただいたり、あるコーナーをつくっていったりしてもおもしろいねというアイデアが出ております。
(図79)
東京を観光という意味で、これから東京も開発しなければいけない。ある意味で知的な方たちが「ちい散歩」で、物好きのおじいちゃまが歩くというツアーは日本もあるんですが、もう少し広い意味で、若い人も幅広い世代が参加して、都市、建築を回るツアーということもこの機会にやっていきたいなと考えています。
(図80)
ホーム&ビルディングショーなど、フェアのような展覧会等々も同時に開催されます。
(図81)
ということで、ウェブも「UIA2011TOKYO」と押していただくと出てきます。アップ・ツー・デートの情報がウェブに出ますので、何かの時には見ていただいて、来年の秋、皆さんにも参加いただけると絶対楽しい企画になります。次の世代に向けて、僕たちが今ここで行動に移らなければいけないという大事な時代なのかと感じていただけると思います。 そして、今日最後ですけれども、僕たち建築家は、そういう日々の生活を少しでもよくすること、将来に向けてのビジョンを持ってそれを具体的に実現するために、建築家がつくるわけではなく、市民の方、行政、企業の方、いろんな方と協力して、具体的に実現していくパワーを持ち使命感を持っている建築家をうまく使って、明るい2050年をつくっていければなと考えております。 長い間、早口でお話させて頂きましたが、30分ぐらい時間があるようなので、皆様からご意見なりご質問があればと思っています。ありがとうございました。(拍手)




フリーディスカッション

 会長にご就任早々、また海外からお帰りでお疲れのところありがとうございました。それにもかかわらず、アーキテクトの話からまちづくりの定義、まちづくりの実際をお話をしていただきまして、今までもやもやしていたようなことが、今日はすべて頭にすっかり入ったような気がいたします。ありがとうございました。
 皆様のほうから何かご質問のある方はお手をお挙げください。


高山(ポラフ暮し科学研究所梶j 分譲住宅のほうを一筋でやっております。今日のお話は建築家というよりも、これからのすべて新たにつくるものに共通していると思うんです。それから、新たな一面、建築士会とか学会、建築家協会など、正直、私それらの組織については詳しくは知りませんでした。1ついえるのは、先生が今度会長になられて建築家としての大変な時代性を受けて、新しい将来につながるようなそういう考えで取り組むんだ、という大変なものをいただきました。なおかつ国際的にもそれを展開して、世界的な規模でやっていこうという大変すばらしいお話だったと思います。
そこで、幾つかお聞きします。どこからどう築いていって、日本をよくしよう、日本のそれぞれの都市をよくしようとお考えですか。たまたま白石の話が出ました。学校の話は、父兄から生徒さん、いろいろ集めておやりになった。私どもみたいな住宅屋ですと、つくるまではほとんどが役所。あと近隣もありますけれども、役所の壁というのはすごいです。これからの日本をどうしていくかといった時に、お話にあった社会・文化的な資産としての建築、今まで建築というのは箱物だけで技術の塊みたいでしたが、そうではないんだということでしたが、そういう面でもやはり役所が大きな壁です。先生がここでおっしゃっているような形で、これからの役所もそういう取り組みでやっていくんだというキャンペーンといいますか、そういう形でやっていかないとというところを感じますが、いかがでしょうか。

芦原 まさにおっしゃるとおりです。もちろん役所だけではありません。私自身も最初建築家として、ある公共の仕事をやったことがあります。そうすると、業者という形になりまして、「さあ、持ってこい。できたら課長に見せていい案を選んでもらうから」みたいな話になる。私は、市民のために一生懸命いいものをやろうと思って設計しているにもかかわらず、市民にとっていいも悪いも関係なく、役所の、の課長が、パッと3案を見て、例えばこれがいいんじゃないかと決めたものになってしまうということを体験したんです。僕が、市民のことを考えたら絶対こっちのほうがいいと幾らいっても、役所はいうことを全く聞いてもくれないんです。前例がないから駄目だとか、ああしなければ駄目だとなってします。
 一番思ったのは、役所は何のためにやっているのかということです。実は市民のために役所はやっているはずなのに、前例とか、その人の権益、自分の責任範囲なり何なりという枠組の中でいいとか悪いとかしかいえない状態に役所は置かれているんです。なので、幾らその担当の人を攻めても動かないんですね。実は白石の小学校の時がそれがうまくいったと初めて思った瞬間でした。役所の担当の人に、幾らあんな変な小学校をつくりましょうといっても、「ばかやろう」とかいわれてしまうんです。「何で普通の学校を設計しないんだ」といわれていましたが、市長といろいろ話をして、市民等の合意をこれで形成できたんです。市長なり市教育委員会も、こういう方向でやりたいという意向がまとまりましたということで、その役所の担当に行くと、「それだったら、うちが何も文句いう必要もないね」という形でオーケーがとれたんです。僕が役所の担当に向かって、これからの学校はああならなければいけない、こうならなければいけないといったって、いうことを絶対聞いてくれないんですけれども、市民の合意がとれたかどうかはまた別としても、市民の論理がまとまっていますということで、役所の制度を乗り越えることができたなと思うんです。ですから、その辺をうまくやる仕掛けは、先程申し上げた、3者のコミュニケーションを図った上で合意をつくるということになるんだと思うんです。
 もう1つ、僕はディベロッパーともいろいろなお仕事をさせていただいていて、こういうふうにしたらよりいいのではないですかといっても、マーケティング上それはやめてください、コストもかかるし、とても売れないかもしれないという話で、新しい提案をしても駄目なんですね。そういう時に、コーポラティブハウスのようなやり方をして、お買いになる方と一緒に話をして、これならいいですよ、買う人がいいといっていますよということが見えれば、ディベロッパーの方も、それだったらそういうものをつくろうじゃないかということで、次の違うものをつくっていくことができる。マーケティングの枠組や役所の制度の縦割りの枠組を切り崩すには、最終的なユーザーなり生活者の論理をいかに設計段階に持ってこられるかに尽きるのかなと思っています。
 その昔、コルビジェという大先生が、社会を啓蒙して、これからの時代の建築はこうなんだというと、社会もそうなのかなと思ってやってくれた時代もありますが、今やそんな偉い先生もいなくなったし、そんなこと僕らもいえないので、合意形成をした上で、今までの制度を乗り越えていくことが必要なのかなと思います。お答えになったかどうか。
 そういういろいろな努力を方々でしていくことが必要です。ただ、役所の方々も、昔は、僕らより上の年の人が担当でしたけど、最近行くと僕らより下の人が担当になっていまして、時代は結構変わっています。そんなに悲観したものではないのかなと思っています。


高山(ポラフ暮し科学研究所梶j もう1点。お話にありましたスペシャリストとプロフェッショナル。役所は、個々に、ああでもない、こうでもないと、技術チェックする人ばっかりです。そのチェックも保身的なチェックが非常に多い。都合よく指導要綱というものがコンプリートされて、道路も公園も含めて、本当にいいまちをつくろうとしたときに、ことごとくそういう行政チェックという形でバリアがかかる。
そこで、プロフェッショナルが必要なのではないか。その道10年も20年もやっている人です。役所は技術系ですと、せいぜい2年ぐらいでかわってしまう。前任者が行った後を受けていく。それでCO2を含めて、長期住宅とか長持ちする家づくりをやっていますけれども、商業建築も含めて、何年寿命がもつんですかといいたいです。いろいろな意味で、特に行政に、プロフェッショナルというのを組織的にいれたらいいのではないか。先生は今度建築家協会の会長さんにもなられたので、全国的にも声を大にして、役所のプロフェッショナルを育てるという位置づけを是非やっていただけたらと思うんです。

芦原 役所は、つらいですね。立場と制度の中でやらざるを得ない。ある種スペシャリストであり、自分の業務の範囲の中でやらなければいけない。制度の中に置かれているのが役所ですね。都市づくりやまちづくりとなると、例えば「サンフランシスコ都市計画局長の闘い」という本がありまして、役所のキャリアというよりは、都市なり建築のプロの人が役職に立って、自分の判断で、このまちの計画をこうしたほうがいい、ああしたほうがいい、もちろん法律はありますけど、運用をしながら、よりよいまちをつくるべく誘導していくという闘いの本があるぐらいです。そういう人がやっている国もあります。スペシャリストではなくて、その方はプロだと思うんです。そういうプロが役所のある立場に立って責任を持ってやるという行政のあり方をやっている国もある。日本は残念ながらそうなっていない。
今申し上げたのは、地域の許可制というやつですね。法律があって、集団規定があって、役所は全部決まりの中で、誰が役所の立場に立っても同じような答えが出せる状況で動かざるを得ないという状況にありますけれども、地域が個別にこういう計画はここで立てていいとか、これはもう少しこうしてもいいんだと許可をする法制度にこれから変われば、許可しなければいけなくなるわけです。全員がプロにならないと許可できないんですね。その時に、サンフランシスコの都市計画局長さんみたいな1人のすごい人を呼んでくるということではなくて、日本の場合は、行政、市民、専門家が一緒になって議論をしていって、その中で許可するようなまちづくり委員会みたいな組織がそれをやっていくようにするのが今いいのかなと僕は考えています。
ヨーロッパではCABEという形で、ヨーロッパの都市において、自分たちのまちをそれぞれやる委員会があって、そこが責任を持って許可をするようなやり方をしています。ですから、1人の個人ではなくて、そういう組織を地域ごとにつくっていって、あのまちの委員会はすごいね、あそこの市民と行政の人と専門家は頑張っているねということになっていくといいのかなと思います。
横浜市が、昔から都市デザイン室というのを持っていて、そういう意味でのプロを持ってまちづくりを誘導しようという努力をしています。そういうところにむしろ市民も入っていけば、かなり質の高いものを誘導していけるようになるのではないかなと期待したいんですけど、これはビジョン、夢の話ですから、すぐ明日になるわけではないんですけど、先程も申し上げたように、2050年の夢をちゃんと掲げて、それに向けて1つ1つやっていかないと、いけません。駄目だねといっても、永久に駄目ですから、こういう夢に向かって、来年、再来年、少しずついこうとしています。どうもそういうところに向かいつつあるような気がしております。逆にいうと、そうしなければいけないなと思っています。


松原(松原建築D・I研究所) 今の話が実は現実的に動いておりまして、そちらにいらっしゃる與謝野さんと、私がJIAにいたときに景観法ができました。景観法というのはJIAもこれを応援しようというので、多くの専門家の建設コンサルタントと、都市計画とか道路づくりとかそういうのをやっていた団体の設計者、それから箱物といいますか、自分の敷地だけしか設計しなかった建築家が、非常に反省の念を持って、いろいろ話し合いをしましょうというのが一時なされていました。
その時に、景観法ができた。景観法では建物だけではなくて、まちをどうつくるかということについて、かなり強制的な力を持っていて、憲法のいう自分の権利みたいなものを独占するような力がある、そのぐらいの法律だったわけです。それがいよいよ地域におりてきて、実は東京都も景観行政団体になって、ご存じのように、色の規制とかいろいろ始めていますね。そのことが問題になっていると思います。
そういうのが区のレベルにおりてきた。区のレベルで、私はたまたま目黒区なんですけれども、目黒の建築家協会の地域会に対しても、そういう景観条例をつくるので、いろいろなことに協力しろといいました。それで出てきたものについていろいろ文句をいっていました。実は、景観審議会というのができて、その次に景観アドバイザーという会議が2つできたんです。そこで何をやっているか。今まさに行政の人が建物をどう評価するか、50年に向かって評価できる人をだんだん育てたいというお話をいわれましたけれども、目黒区の場合は、そういうことができる人を外部に求めたんです。たまたま我々のほうに話があって、私はたまたま代表をしていたものですから、目黒区の景観アドバイザーという会議に出席するようになった。3人しかいない。何をやるかというと、ある程度の規模の建物に対して、まちづくり、景観条例にとってふさわしい建物かどうか。もしよくなければそれを直してほしい、直すというか、それに対してアドバイスしてくれ、そういうことです。
目黒区の場合は、簡単にいいますと、住宅が70%、戸建ての住宅とマンション。マンションがある規模になるとその審議会にかけられる。あるいはアドバイザーの意見を聞かなければいけない。私自身その会議に出て、すごく頭に来たといいますか、がっかりしたことがありました。目黒区の目黒川という目黒区にとって重要な、桜のきれいな川があり、中目黒の辺から、非常によくなっていまして、まち自体、人が歩いて楽しいまちができている。それに面して、建物をつくるときには、そういうことを意識したデザインをしてほしいということがあるわけです。
それに面した建物が出てきまして、それをアドバイスすることがあればしてほしいという内容でした。その会議に出たときに、中目黒の駅のそばで工事をしているんです。ちょうど高速道路が山手通りを通るものですから、そこから排気塔が出るような工事をやっていまして、川のそばに排気塔を建てることになっていて、しかもその工事が現在すでに行われています。それに川に面している建物だったのですが、建築主の方がどういうわけか、余り建物の計画を教えないんですね。
そのときのいろいろな話の中で、川に向いている面については今のデザインは建物の裏のような格好になって非常にひどいから、何とかそれをうまく直してほしいということを求めました。しかし、設計者はすごく抵抗するわけです。抵抗してそれに対して建築主のほうは理解を示すんです。今の話の中で、問題なのは、建築家自身じゃないか。その辺をちょっと意識を変えないといけないのではないか。今日の芦原さんのお話の中でも、一番問題なのは建築家自身であるというところがあるんではないかということをちょっと思うんです。

芦原 もちろん建築家にも問題もあるし、一般市民にも問題がある。先程のお話のように行政にも問題があるし、みんなに問題が当然あるんだと思うんです。何故かというと、どういう方向に自分たちのまちなり建築なりをやっていったらいいかがみんなよくわからない中で動いているからです。自分たちのまちは、こうしたいね、あるいはこうなるもんだよねというある種の共通認識が、もしあれば、多分建築家もそれなりに頑張るでしょうし、市民だって頑張るだろうし、行政も頑張る。悪い人たちはどこにもいないんだと思うんですね。行政の先ほどおっしゃった方だって、その人自身が悪いわけではなくて、なかなかいい答えをくれないわけですね。

松原 そういう感じではなくて、そういうふうなまちづくりができてきて、市民にも随分開放されて、我々がそれに参加していったわけですね。だから、行政も、ここのところはこういうふうにしたいということを条例にいろんな細かいことがいっぱい出ている。

芦原 あるにもかかわらず、それを無視する不届きな建築家がいたと。それはちょっと駄目ですね。(笑)

松原(松原建築D・I研究所) 一番ぐあい悪いのは設計者なんですね。あくまでも仕事を早く終わらせて、施主の意向に沿ってやって、工事に入りたいと。


芦原 多分少ない設計料で、決められた時間でやらなければいけないというつらい立場で、先ほどの役所の人ではないけれども、つらい状況に置かれた設計者のつらい選択だったのかもしれませんね。


松原 その設計者というのは、JIAのかなり有力な会員で、関西の人なんです。東京の事務所の中なので、まさにどうしようもないということでしょうね。


芦原 先ほど申し上げたように、JIAの会員はそういう公益の保護をしますということをJIAがきちっというには、そういう人がいてはいけないですね。周知徹底をしていかないといけないということだと思います。特に、1人のクライアントのための建築をつくるだけでなくて、置かれている地域あるいは社会にとっても意味のある建築にしなければいけないというのは、最初の僕らのポイントですから、それを踏み外してはいけないですね。わかりました。不届きな者には何とか周知徹底するべく頑張るようにいたします。

 ありがとうございました。先生には今日たっぷりお話をいただきました。あと15分ぐらいありますので、ご質問のある方は、一たんここで締めさせていただきますので、後で先生のほうにご質問いただければと思います。 
本日は、先生、本当にお忙しいところをありがとうございました。すばらしいご講演に対しまして、皆様、どうぞもう一度先生に盛大な拍手をお送りください。
以上をもちまして、本日のフォーラムを終了させていただきます。本日はまことにありがとうございました。

 



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