連載コラム  
 
Topic 15 教育施設の誘致―教育施設が都市の価値をもたらすのか?
  〜「大学街」の魅力とは〜
 
石川 貴之
 
 
●「大学街」というフレーズからイメージされるもの
 
 街づくりコンセプトや都市のブランディング構築の有力な武器として、「教育施設の誘致」を謳うことは多々ある。今回のトピックスでは、教育施設の誘致がもたらす価値を考える一例として、「教育施設=大学」とし、記すことをご容赦頂きたい。
 世界的な「大学街」の代表格としては、イギリスのオックスフォードやケンブリッジをイメージされる方が多いだろう。
 これらは「大学街」とも「大学都市」とも呼ばれ、「大学」と「都市」が空間はもとより、経営的にも一体的かつ相互補完してきた歴史を有している。
 
オックスフォードの街並み
 
 「大学街」。今風に言えば「キャンパスタウン」。心地よい響きとイメージを持つ言葉であり、この言葉からは「若者が集まり、活気に満ちている」とか、「創造的な交流活動が行われている」とか、「良好で健全な文化的な生活環境がある」などなど、まちを活性化させるに充分な希望的かつ肯定的なイメージが浮かぶのは、筆者だけではないだろう。
 ここに教育施設としての「大学」が、都市のバリューを高める素材として、一級品の価値があり、その誘致をまちの活性化や特徴づくりに、我々プランナーが重用する大きな理由がある。
 
●わが国における「大学街」づくり
 
 わが国における「大学街」の形成には、先に掲げた歴史的な「大学都市」とは異なり、都市経営的な一体性をその特徴として持つものはなく、むしろ「イメージアップ」や「バリューアップ」として、教育施設の誘致が計られているものがほとんどと言ってよい。
 日本における本格的な「大学街」と称される都市開発・まちづくりとしては、五島慶太(東急)と堤康次郎(西武)が、共に関東大震災を契機として東京の郊外に大学誘致を核としたプロジェクトを興したことが挙げられるのではないだろうか。
 五島慶太は、関東大震災で被災した東京工業大学を蔵前から大岡山に移転させ、その後も日本医科大学、慶應義塾大学にそれぞれ土地を提供し、東京府青山師範学校(現在の東京学芸大学)には資金援助を行った。
 その結果、東横線沿線は学園都市のイメージを定着させ、沿線は良好な住宅地としての付加価値が高まると同時に、通学需要という鉄道事業者にとっての安定した経営基盤を創出することに成功した。
 一方、堤康次郎も大震災後に大泉学園都市(大泉村50万坪)、国分寺学園都市(小平村60万坪)、国立学園都市(谷保村80万坪)の3つの大規模学園都市開発に着手した。その中でも、国立では駅を造って鉄道省(当時)に譲渡し、東京商科大学(現一橋大学)を中心に据えた高級宅地分譲を同時に行い、わが国における本格的かつ理想の学園都市の形成を目指したとされている。高級住宅地開発という点では、当時既に田園調布も分譲されていたが、ドイツの典型的大学都市ゲッティンゲンをモデルにしたといわれる国立の学園都市づくりは、高級住宅地開発の中でも異彩をはなっていたのではないだろうか。
 確かに大学誘致は、宅地分譲のための付加価値創造戦略であったかもしれない。しかし、高尚な住宅地に囲まれてこそ「学園都市」が実現できるという強いコンセプトを堅持し、その街並みに「価値」を与え、守り抜いてきたディベロッパーの気概と姿勢を今や市民はその歴史を認め、必死で守ろうとしているものに成長していることが素晴らしい。昭和初期のまちづくりが、今の時代に映してもその価値が衰えるばかりか、むしろ輝きを放ち続けていることが驚くべきことである。
 
国立駅周辺の街並み(航空写真:国土画像情報)
 
●都心の成長が大学を街から追い出す
 
 その後も学園都市づくりと称した「戦略」に他の大手民鉄も追従した。明治大学(生田)、立教大学(新座)、東洋大学(川越)など、自社沿線郊外地域への大学誘致により、地域のイメージアップと通勤ラッシュと逆方向の大量通学需要の確保という経営上のメリットを享受した。
 こうした日本型のキャンパスタウン形成に大きな影響を与えた政策と法律がある。それが都心の人口抑制政策と工業等制限法である。
 1960年代当時は都心部に産業も人口も極度に集中する傾向にあり、郊外への人口流出を誘導するという政策課題に応えるためのニュータウン開発はまさにその絶頂期を迎えた。しかしながら、都心の昼間人口は依然爆発的な勢いで増加し続け、工場や大学等、比較的低利用かつ大規模な施設を積極的に郊外移転させ、都心の適正な都市環境を維持しようという方針のもと、工場等制限法が制定されるに至った。
 その結果、都心部の大学は事実上拡張不可能になったが、大学側も都心部での蛸足大学状態の解消や増加する大学進学者数の受け入れへの対応に、郊外での規模拡張は都心から離れること以上に経営上も魅力があったのであろう。この動きは第二次ベビーブーム世代の急増期まで続き、この結果、大阪市では1990年代の一時期には、市内の4年制大学数が一桁になるという状況まで発生した。
 しかし近年本格的な少子化時代となり、大学間競争の激化により、郊外キャンパスを敬遠しはじめ、都市政策の面からも、都心部での若者減少や都市活力の低下という課題が指摘され、工場等制限法は法律の存在意義も薄れ、2002年に廃止され、大学の都心回帰も本格化している。
 
●「教育施設の誘致」がもたらすまちの価値とは
 
 かつて、政策的誘導の中、創られた多数の郊外型キャンパスタウン。これらが年月を重ね、国立のようになれるかは、当たり前ではあるが、「大学」と「まち」がこれまでどのように関わり、そしてこれからどのように付き合っていくかにかよるのだが、今、大学とまちとの関係は、その昔とは明らかに異なる様相を呈している。
 まちづくりの主体である自治体やディベロッパーが「大学」をまちづくりへと積極的に担ぎ出し、大学もまちづくりに積極的関わりを持ち始めている。
 市内に37の大学・短大があり、市民約147万人の約1割にあたる約14万人の学生が在籍しており、町家授業など地域をキャンパスとした大学側の活動も活発化している京都市。その京都市が2008年に20歳以上の市民3000人を対象に実施したアンケートで、54%が「大学との交流がほとんどない」との結果に、各メディアは概ね、大学とまちの連携の薄さを実感させる結果という報道をした。しかしながら、その一方で22%が「学生と市民との交流が盛んで活気がある」との結果も出ており、約2割の市民がこのように認識しているまちが他にあるだろうかと思うと、大学とまちとの双方向での交流活動の活性化は、大学と市民との距離感を着実に縮め、まちの活性化に寄与しているのではないだろうか。
 「大学」は都市機能として、極めて魅力的なイメージをもつが故に、都市のブランディング戦略としてその誘致を目的化してしまいがちである。それはそれで期待通りの成果を産むであろう。ただ、「教育施設の誘致」による都市の付加価値は、大学があるという物理的環境形成は、その入口であり、むしろ誘致を契機として、大学の優れたソフト・人材を「まちの要素」として取り込み、地元意識とまちづくり活動に顕在化させるところまで引き上げることにこそ、その真価があるように思う。
 
 
 
   
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