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それを東防災担当副大臣に話をしたところ、だんだん真剣になって、「伊藤さん、それ、おもしろいから手伝うよ」となりました。それならば、こちらでプロの人材派遣をする。今の復興はどういうことをやらなければいけないかというのは見当もつけているし、役人との長いつき合いで、役人との話もできる。ですから、場所を探してくださいといいました。場所は防災担当副大臣が、ここがいいというので教えてくれれば、そこに派遣します。
ただし、条件をつけました。これは僕の嫌らしいところです。被災地の首長さんには怒られますが、「銀座通りはやめてください」といったんです。銀座通りというのはどこかというと、釜石から大船渡、陸前高田、気仙沼、女川、石巻です。あらゆるメディアがそこに集まり、あらゆる学校の先生がそこに集まり、あらゆる政治家がそこに集まる。そういうところはもうたくさんです。だから、「銀座通りでないところを頼みます。端っこがいいです」と言いました。その結果決まったのが久慈なんです。それから久慈の下の野田。役人に言わせると、野田は一部事務組合で、消防なんかは、完全に久慈の消防署の野田の出張所という感じで、おんぶにだっこのところです。3つ探してくれましたがもう1つは、福島県の相馬の上に新地という町があります。新地を越えると宮城県と福島県の境です。そこをどうだといってくれました。
ついでにいうと、現地へ行って伺ったら、新地のもう1つ北側に山元という町があります。実は、こういう銀座通りでないところでも、2カ月ぐらいの間に国交省は70億円をドンと入れまして、区画整理のための地図をつくるために、オオバさんのような測量会社さんを入れ、アンケート調査をやるために、地域計画連合などのコンサルタントを国費で入れているんです。そういうことをよく知っているんです。だけど、僕たちの考えているのは、お上の金で、「おまえはここの将来構想図を書け」とか、「おまえはここの世論調査をしろ」とか、そういうことではなくて、それも含めて話が町長さん、市長さんに来た時に、市長さんが「これ、どうしようか」と相談する人が欲しい。その人を久慈と野田と新地に入れる、そういうもくろみでこれを始めたんです。ですから、どうしてもスタートは上の久慈に行かざるを得ない。最後はどうしても相馬の上の新地に行かざるを得ない。結果として、約1000キロを走りました。
今の僕の話は、夏休みが終わるまでに片がつく予定で、9月1日からそういう人たちに現場に入ってもらおうと思っています。
ただ、そういう人を3つの市町村だけでなく、できたら10カ所ぐらいの市町村に入れたい。それだけ、有能な60過ぎの方は沢山いるんです。だけど、何せ金がない。大企業といえども、たかが一介の教師が懇願して出すのはそんなものです。そういう点では、こういう年寄りのやる限度はその程度のことしかできないかなと思いながらやっています。でも、世の中何が起きるかわかりませんから、うまくいけばこれの影響で、継続して新しい町へそういう人を派遣することも起きるかもしれません。
それで久慈へ行ったんです。久慈の市長さんは、私たち6~7人に対して、「よく久慈へ来てくれた。久慈は東北の復興で、表通りの日の当たるところにない。いつも日陰の身だ。何故ならば、市内で死んだ人が2人で、行方不明が2人しかいなかった。久慈の人口は6万人ぐらい。建物は1300戸が、全壊、半壊しています」と話しました。6万人ぐらいの人口で建物は1300戸やられていて、死んだ人は2人、行方不明は2人。役所というのは、亡くなられた方が多いところほど焦点を当てます。メディアもそうです。学校の先生もそうです。そうすると、建物がこれだけやられているのに、亡くなった方がそれだけなので、「おまえのところは待てよ。もっと大事なのは大槌とか陸前高田、南三陸だよ」、となるというんです。
何故、犠牲者が少なかったか。じっくりとその市長は僕に言いました。それは三陸津波の思い出と悲しい出来事が久慈の市民の頭の中にしみ込んでいて、ひいおじいちゃん、おじいちゃん、お父さん、子どもの4代にわたってずっと頭の中に刻み込まれていたからだそうです。三陸リアス式海岸の一番北側です。「大津波だ」といった時に、久慈の人たちはみんな逃げたというんです。誰も海岸縁に行かなかった。だから、犠牲者は少なかったんだ。それを聞いていまして、我々のグループ6~7人の1人が、「これは徹底した差別だ。犠牲者だけで国の金や情報のとり方が全然違うというのはあり得ない」と言い出しました。3・11の前に100年にわたってのそれぞれの地域の地震の教育がどれぐらい違っていたかという結果の集積が、久慈では犠牲者を2人にした。しかし、他のところでは、もしかすると教育の結果が違って、何百人という死者になったかもしれない。だから、それまで営々とやってきたことについての評価をもう1つ考えるべきでしょうということを言っていました。
(図6)
それがこのパワーポイントにある「久慈湊小学校:津波防災学習の成果」です。ここにちゃんと碑があります。昭和三陸、チリ津波の教育を受けて、ここに防災教育として我々はいつもそれに従って退避するということを克明に書いた碑があるんです。その横に、4.5メートル、3.8メートル、上がチリ、下が昭和三陸と書いた碑があります。これがおもしろいんです。その横に、久慈湊小学校津波避難場所と書いてある。これは明らかに地震の後に立てた。何で立てたかというと、その避難場所は、中塚佳男さんの住宅地で500メートル先にあります。ここに書いてあります。(総合学習)津波防災プロジェクトで、子どもたちは避難する時は、先生たちから避難路を通って山の奥のほうに行くんですよという教育を受けています。ところが、子どもたちは賢くて、その通路を行って、学校の先生がここに避難しなさいという場所を越えて、もっと高台に行ったほうがいいのではないかと考えた。そこで、避難場所に隣接している隣のおじさんの場所なら僕たちは安全だというので、小学生が隣のおじさんと話をして、そこを正式な避難場所にした。学校の先生ではなく、小学生の子どもたちが個別交渉をして、ここの方がいいよといった。

(図7)
それが中塚佳男さんのお宅なんです。手前が学校の先生がいう避難してくださいという道です。3・11の前に、とりあえずこの辺まで上がっていったけど、子どもたちが、これではどうも危ない、もう1つ上に行こうと、中塚さんの家のところまで逃げた。久慈は、結局、津波がここまでは来なかったんです。来なかったんですが、久慈ではそういう教育がずっとしみ込まれている。いろんな市町村でそれぞれ津波教育に差があるんですね。
(図8)
久慈の市長さんは「結果としては津波が来なかったけど、子どもたちが一番安全なところまで自らの知恵でネゴシエーションしてここに避難場所を決めたというのは立派ですよ」と言っていました。本当にそう思います。こういうことが子どもの頭にもありますから、大人でもやはり逃げ足が速い。逃げ足が速いというのはあまりいい言葉ではありませんが、被害が少なくなった。そういうこともあり、津波避難場所は中塚佳男さんのところなんだよ、500メートル先なんだよ、ということを津波の後で改めて書いたということなんですね。
久慈市が、大津波の映像をきちっと編集して僕たちにくれました。久慈の津波は、波高が8.5~10mぐらいです。陸前高田とか南三陸は15mぐらいですから、それほど激しくはない。しかし、今になって学習するには極めていい教科書だと思いますので、これをお見せします。それから、これには自衛隊が撮ったのもあります。

(動画上映)

 この船に注目してください。生き返ります。これは沈みません。助かって戻ってきます。この船も助かります。映像ではかなりドラマティック。この波高は8.8メートルぐらいじゃないかな。
この津波は久慈の港へ真っ直ぐ入ってくる津波です。水が青いのがわかりますか。黒くない。久慈を襲った津波は、青かった。ほかの津波はみんな黒かった。理由はわからないけど、確かに青かった。
ここは、中心市街地から少し離れた農村集落のところです。
ここの防波堤はもろに壊れて、波が越えてしまうんです。だけど、次の村へ行くと全然違う、こんなにも頑張ってくれたかという事例が出てきます。
自衛隊が入ってきます。これは引き潮です。
ちょっとかすんでいますけど、この辺に津波が来ています。これが津波ですね。
今、一線にずっとそろって来ているんですけど、もうじきここに突堤が出てきます。この波が突堤にぶつかってそこは遅れます。突堤がないところは、先にずっと行って、久慈の港の湾内に入っていきます。
ここにも1つ離岸堤があります。

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