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(図47)
次は悲劇なんです。大川小学校です。北上川のバイパスです。古い北上川は石巻へ入っています。氾濫をするので、江戸のころからか、北上川を横っ腹に曲げて、直接太平洋に出すようにしました。すぐここが海なんです。海の近くに集落がたくさんある。何で食っているかわからない集落があります。そこに大川小学校というのがありました。
(図48)
ここが大川小学校です。今でもこういうふうにお線香が上がっています。全児童の7割が犠牲になりました、学校の先生も10人ぐらい。児童が70人に学校の先生が10人、80人ぐらい全部死にました。
(図49)
裏山のこのあたりの高さまで津波が来た。この建物も3階まで全部津波にやられたんです。どうしてそういうことになったかというと、津波が来るぞ、避難しようと、ここの校庭に小学生を全部集めて、学校の先生も「さあ、これからどういうふうに避難させようか。避難路があるからそっちに行くか」など、いろいろ相談をしていて、時間がかかりました。時間がかかっている間に津波が来ました。校庭に、小学生も学校の先生も80人か100人集まっていたところを、2階の上ぐらいまで来て、海のすぐ近くですから、全部やられました。
(図50)
ただ、その時に、小学生で頭のいい子が何人かいまして、先生に引率されて避難路を行くより、これは危ないと本能的に察知したんでしょうね、その子どもたちは裏山をはい上がったんです。杉の木にすがって上に上がって助かった。避難路は絶対こっちについていない。避難路はもっともらしく、おばあちゃんでも歩けるように緩やかなスロープですから、避難路を逃げたとしたら水をかぶっていましたね。子どもたちは、危ないというので、ここを必死になってはい上がって助かった。
小学校の話の4例目ですが、3つはうまくいって、1つはこういう悲劇になった。というのは、災害のときにどう避難するかという形で小学校の校庭の配置計画も考えるべきだし、災害時には、当たり前のお役所の人がつくった県道や市道のスロープなど、コンクリートで立派なところを行くよりも、緊急避難時は別なルートがあって、木の桟橋みたいなものをつって、それをはい上がっていったほうが助かったかもしれない。そういう事例です。ここからいろいろなことを考えなければいけない。
(図51)
これが雄勝です。先程の小学校はこれの上のほうです。旧雄勝町は、この悲劇があった北上川沿いの小学校も含んで雄勝町です。僕たちはここを通って、大川小学校からトンネルを通って町へおりました。ここも完璧にやられました。何もありません。
(図52)
ここは公民館の屋上に観光バスが乗っかっている。あとは何もありません。
(図53)
瓦れきだけがまだ残っています。問題はこの瓦れきをどうするかということです。

(図54・動画)
次は女川です。これが湾口です。ここから津波が来ました。お化けが出そうに曇っていた時にいきました。これはコンクリートの建物でひっくり返っています。こういう例は6例ぐらいあります。コンクリートの建物がひっくり返っている事例は、僕たちが見た中では、女川だけでした。考え方によっては、津波の強さが全部違うんですね。皆さん、もうおわかりだと思います。もともとは日本海溝のプレートの断層の激しさによって津波の運動量が決まりますが、それがスピードを上げてくる海底地形が上がったり下がったりすることでも、運動量が下がったり、スピードが上がったりします。女川は、リアス式海岸の一番典型です。ここはべらぼうに水深が深いんだそうです。これだけしか湾口がない。ここがちょっと広がっている。べらぼうに水深が深くて障害物がなかったら、津波は円滑に狭いところを目がけて走っていきますから、この津波の高さは異常に高くなります。
おまけに、ここの湾口はそんなに大きくないですから、高くなった津波は広がりません。そのまま市街地に向かって入ってきますから、運動量はものすごく強い。津波が襲ってくる時の1平米当たりの運動量は、建物が受けたものを考えると、女川では、南三陸の3倍、石巻の2倍の量を受けるわけです。それはひとえに女川の湾口の入り口の形と深さで決まる。
(図55)
そのためにここにひっくり返っている。NHKの解説では、ここで地盤沈下、液状化があったので、液状化で全部くいが緩んで津波が来て、押して倒れたのではないかというんです。それも1つの理屈かもしれませんが、もう1つは、これが大体4階ぐらいで、3階と4階の間ぐらいまで水が来ますと、当然建物に浮力がかかります。そのために、液状化もあるけど、かなりの浮力で建物が上げられているところに、津波が横から行った。そういうことが一番激しく起きたのが女川ではないかと思うんです。これはくいがちぎれているのか、よくわからない。下の杭がぶら下がっています。基礎杭と基礎との間のコンクリート施工を別々にやって、これを上に載っけていたから、ちょんとやられちゃったのか。あるいは基礎杭と基礎を一体的に施工していたとしたら、こんなことにならなかったのか、いろいろ議論があります。しかし、こうなった建物を見たのは女川だけです。あとはコンクリートは、小さい建物は横になっていましたが、大規模なものは絶対に倒れていません。これも規模が小さいんです。
(図56)
これの建物は基礎のところがちぎられてしまいました。これは液状化でちぎられたのかもしれません。
(図57) 
一番重要な話は、ここは海抜16メートルで、この上に病院があります。女川では、海抜16メートルの上に病院をつくれば、絶対に安全だと考えていました。おまけに用意周到に、避難拠点で避難地になるから、避難階段をつくってあります。避難場所だということを示す看板があって、避難の時はここに逃げてくださいと書いてあります。女川の人たちはここまで逃げました。ところが、これを越えて津波が来ました。海抜20メートルぐらいの津波が来たんです。
(図58)
町立病院は、津波が来て、かぶりました。みんなは、町立病院の背後に熊野神社という神社があって、そこの階段を一生懸命登って助かりました。僕たちが行った町の中で、海抜20メートルを越えたところに猛烈に水が流れ込んで避難地から逃げたというのは女川が初めてです。あとはこれほど激しいことはない。ということは、海抜20メートルまで水を上げる条件は、ひとえにリアス式海岸の地形と入り口ですね。ボトルネックの幅と後背地の港の水面と深さ、それが決定的に津波の高さを決めているのではないか。ここは20メートルでも、安全ではない。ここは多分30メートル以上あります。

 

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