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この建物は昭和23年か24年にここのおじいさんのお父さんがつくった建物です。波をかぶっても、ひっくり返っていません。23~24年のころの東北でコンクリートの建物をつくるのは極めて珍しい。だから、請負のほうも基礎から全部必死になってつくったと思うんです。営業を始めたというので車がひっきりなしにこの前を通り始めました。
(図23)
大槌も山田と似ています。全滅です。鉄骨もありますけど、何の役にも立ちません。大槌の町のこちらに墓場がありますが、墓場の上から撮りました。多分5月ごろですと、この辺に瓦れきがゴロゴロあったはずです。こんなにきれいになってないはずです。7月ですから4カ月たって、瓦れきだけは一応どこかにまとめられましたけれども、建築禁止令が出ていますから、まだ何も建たない。コンクリートは残っている。これから頻繁にこういう光景が出てきます。
(図24)
これはお寺です。本堂の奥に波で軽自動車が突っ込んで横になっている。軽自動車の油か何かでお寺は焼けました。これは焼けた後です。津波だけではないんです。津波の後に、特に大船渡は、3・11の夜テレビでご覧になったと思いますが、火がバーッと広がっていました。僕は一初め、魚油タンクの油が表に出て、それに火がついたと思ったんです。そうではないんです。魚油タンクの油がずっと水とともに市街地の中に入っていって、それに火がついて建物が燃えたんです。大船渡は市街地火災。海水をかぶったところで、木造の2階なりが残ったとしても、2階部分が全部魚油タンクから漏れた油の火災でやられているんです。津波がなくて、火災だけで見ると大船渡は大火災が発生していました。大船渡だけではなくて、ほかの市町村でも火災が随所に見られます。全部魚油タンクです。魚油タンクがひっくり返るんです。
(図25)
次が鵜住居(うのすまい)。お見せする写真の中に4例ぐらい、小学生が避難したハッピーエンドと悲劇とが入っています。これは群馬大学の先生が図面上きれいに整理してくれました。鵜住居の小学校があります。釜石東中学校があって、鵜住居の幼稚園があります。これが鵜住居の駅。赤線は過去の実績、明治と昭和の時の津波はここまで入ってきた。青線は、3・11の津波浸水がここまで来た。その時に子どもたちはどういうふうに逃げたかというと、釜石東中学校の中学生が「津波だ、逃げよう」といって逃げました。その時に鵜住居小学校の小学生を中学生が全部面倒を見て、小学生と中学生が一緒に逃げました。その次に、幼稚園。幼稚園の子どもたちも来ました。まず最初に、釜石市役所が避難場所としてあらかじめ決めていた「ございしょの里」まで来ましたが、「これ、危ないぞ」と中学生が判断しました。もっと逃げなければいけない。逃げました。次に逃げたのは介護福祉施設。その時、既に津波が来出していた。その光景を見たら、目前に迫っていたので、これは何とかしなくてはいけないというので、幼稚園の子どもと小学校の子どもを中学校の子どもたちが面倒を見て、もう1つ上の石材店まで逃げた。これで助かった。もちろん学校の先生も誘導してますけど、これは本当によかったという非常にいい例なんです。
(図26)
これが釜石東中学校。3階まで完璧にやられている。
(図27)
これが鵜住居小学校。これも3階までやられている。3階の窓に軽自動車が突っ込んでいます。これが瓦れきなんです。この瓦れきをどうするのかというのは、今環境省が責任をとるといっていますが、正確な答えがありません。この瓦れきをとにかく何とかしないと、瓦れきに今、水が入って、魚が入っていて、暖かくなったので、ハエがすごい。臭いもすごいですが、ハエがすごい。これが小学校です。
(図28)
ここが「ごさいしょの里」です。津波で瓦れきが来ています。ここだったらだめした。
(図29)
最終的に駆け込んだ高台の石材店。ここがちょうど峠になっている。ここまで逃げて助かった。やはり、岩手県の津波教育は、宮城県とは違う。昭和の三陸のリアス式のすごい津波があった。昭和9年だったかと思います。その三陸昭和の津波をじいさん、おやじ、子どもと70年以上伝えている教育が残っているんです。どうもそういう感じがします。
(図30)
釜石もいろいろやられていますけど、相対的にはそんなひどくない。船が乗り上げて岸壁を壊しています。
(図31)
ここは釜石製鉄所です。市街地は余りやられていません。やられているのは港湾地域です。釜石の製鉄所の前の港湾地域はメチャメチャやられています。奥の市街地は余りやられていません。こちら側に山が迫っていて、谷があるんですが、その谷に向けて津波が上がってきました。先ほど久慈のビデオにあった川に沿ってドーンと上がっていったのと同じです。こちら側の谷合いにある市街地を全部つぶしているんですね。津波というのは、よくわからないですけれども、本来真っ直ぐ行くべきものが、急に横の谷に入っていくとか、非常に判断のつかない行動をします。
(図32)
釜石の市街地はこうなっている。実態としては2階ぐらいまで水が来まして、全部やられた後の片づけをやっています。全部やられて店を閉じています。それでも、商売をやっているところもあります。
(図33)
大船渡。これも岩手県です。越喜来(おきらい)小学校です。ここも新聞で有名です。何で有名かというと、学校の校舎の裏側にブリッジがあります。これで有名なんです。これまで越喜来小学校が避難する時は、ます校庭に出て、そこに集まってから坂を上がって逃げようということだったんです。生徒が3階にいたら3階から1階までおりて、校庭に集まって再編成してから、下から坂を上がって逃げる。ところが、こういう状況を見ていた大船渡市の市議会議員が、3・11の津波が来る1年前に亡くなったんですが、その人が2~3年前に、「津波で逃げるのに、一度校庭に出て集まってから逃げるなんて、それだけで5~6分遅れる。とにかく逃げるのにはここに橋をつくれ」と3階から橋をかけたんです。そうすれば3階からみんなワーッと逃げていけるから、ここで5分ぐらい助かる。そういう橋をつくれと延々といっていたんだそうです。そうしたら、去年、その市議さんが生きている時に橋ができました。できたのを見届けて、その議員さんは亡くなった。亡くなってから8カ月たって津波が来ました。みんなここで逃げました。それで、助かった。 

今日もかなり建築設計の先生がいらっしゃいますが、津波や緊急避難のための校舎の設計は余り考えないですよね。校庭は南に面していなければいけない。採光はよくしなければいけない。正門は大きい通路に面していなければいけないなどいろいろありますが、それは、平常時はいいですが、いざ津波が来ます。逃げるのは、校庭にでるよりこれが速いんです。非常に重要な教訓を小学校の避難で出してくれている。


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