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ここが久慈の港の荷揚げ場です。ここへ入ってきます。
この白いのが川なんです。川がずっと流れている。今、逆流していきます。すごい勢いで逆流していく。標高30メートルとか35~36メートルまで津波が来たところは、すべて川が逆流して、川筋に沿って上がっていって、結果として突き当たりで30メートルとか34メートルになる、そういうことです。
先ほどの離岸堤とか堤防は全く役に立たないかというと、そういうことはなくて、津波のスピードを緩めます。スピードが緩むということは、運動量がmv2ですから、運動量をすごい勢いで減らします。だから、それなりに堤防というのは、それなりに役に立っていたんだなということはわかりました。
湾内の津波がここですね。これは埋立地で残っちゃうんです。久慈は、ご覧のとおり、ここへ入ってきても、これが上のほうに陸までずっと来てひどい目に遭ったかというと、そういうところではない。これが気仙沼に行くと上までずっと来て、かなり奥まで全部かぶってしまいます。そういう点では、久慈は幸いだったのかもしれません。
この辺に離岸堤が1つあって、ここが埋め立てのある突堤です。一番激しい津波がここへ入り込んできて、ここへ来て、もう1つ川をさかのぼったのはここからずっとこっちに来たんです。長くなりました。
(図9)
(図10)
野田は別にして、次に行きます。
(図11)
普代です。普代は有名です。ここの水門は完璧に今回の津波を阻止しました。水門の高さは15.5メートルというんですが、海からここまで標高が5メートルぐらいある。海面から20.5メートル。ここに水門をつくった。通常の小さい津波が来た時に、農村の田んぼに潮が来ないように水門で調節するためのもので、よく農業用水でやっていますが、そういうものをつくったんです。これで完璧に食いとめました。この後ろにある集落には浸水被害が全くない。
(図12)
普代村の太田名部の防潮堤です。これも有名です。報道によれば、津波は14メートルの高さまで来た。防潮堤の高さが15.5メートル。だから、海面は防潮堤を1メートルぐらい残したところまで来たけど、この防潮堤で守った。防潮堤の後ろの家は全く水が来なかった。普代村の先程の水門と太田名部の防潮堤の2つが今回の三陸大津波の中で、極めて例外ですが、村を守った。これは岩手県なんです。
(図13)
これは田野畑です。田野畑という村は、三陸のリアス式海岸で、太平洋から崖のようにそそり立って、高台に非常にいい農耕地とか酪農地があるんです。田野畑は、上のほうに非常に多くの人が住んでいます。これは海岸縁にあった観光用の羅賀荘というホテルです。ここは田野畑で数少ない、3階まで波をかぶった建物です。海面から3階まででどう見ても14~15メートルありますから、海面から20メートルぐらいまで波が来たということです。先程の水門とか太田名部の防波堤は、羅賀荘のちょっと高いところまでつくってあった。

(図15・動画)

田老です。これは有名なX型の防潮堤があったところです。内側の防潮堤は守れましたが、外側の防潮堤はこっぱみじんにやられました。内側の防潮堤は高さ10メートルです。X型に外側の防潮堤がずっと入っていたんですが、外側の防潮堤は完璧にやられた。そして、防潮堤の間にあった市街地が全滅です。おまけに内側も高さ10メートルですから、15メートルぐらいの波が来ますと、完璧にこれを越えて、さらに中の市街地も流してしまった。田老というのは、世界的に、津波防波堤、防潮堤で有名で、どこの国でも取り上げていた。ところが、無残にも今回の3・11ではぶっ壊された。
(図16)
僕たちは、運がよく、宮古の浄土ヶ浜という本来は観光地ですが、そこにホテルがあってそこへ泊まることができました。7人で行ったんですが、2部屋で、男が4人と女性と男2人、4、3で分かれて泊まりました。他は全部機動隊です。僕たちはこの機動隊の中にごく少数の人間としてここで食事しました。この機動隊は全国から集まっている機動隊です。ホテルの前には兵庫県警や北海道警、警視庁の車がずらっと集まっています。多分この人たちはまだ遺体捜査をやっていると思います。
(図17)
後ろにある宮古の市街地は幸いなことにそんなに被害はなかったんです。これは海辺に面したところですが、これも水面が7~8メートルぐらいまで来ていますかね。それから後ろはずっと、それほど被害はない。宮古では、海水が来たのは1階までです。1階まで水が来ると使い物になりませんから全部取り壊しです。このすぐ後には安全な、全く被害のない住宅が残っている。
(図18)
この宮古の金浜海岸の防潮堤は完璧にやられました。
(図19)
高さが次に書いてあります。チリ地震津波対策事業で、金浜6号地区海岸堤防をつくった。堤の長さが330.5メートル、堤の高さが6メートル、着手が昭和35年、完成が、オリンピックの翌年の昭和40年、岩手県です。この6メートルの高さの堤防は完璧に波が越えました。この後ろはやられてしまいました。
(図20)
ここに6メートルの堤防があって、そこから撮ったんですが、この辺が海面から多分20メートルぐらいでしょうね。20メートルまでは堤防があって、堤防は残ったけれども、波が越えてここまでやられちゃった、そういうことです。
(図21)
山田大沢。この辺からだんだん津波がひどくて何もなくなってしまったところが出てきます。4カ月後ですから、山田村の漁港地域には船がまとめられています。動いていませんが、ここに係船されています。山田は割合瓦れきが少なくなって、これだけきれいに整地されているところが出てきました。
(図22)
山田でおもしろいことがありました。10メートルぐらいの津波が来て、このコンクリートの建物もやられました。後ろが神社です。「避難場所の神社の森」とあります。津波はここまで来た。これで6メートルぐらいあります。この下は海面から5~6メートルありますから、12~13メートルの波が来たんです。僕たちが行ったときは何もなくなっていました。

コンクリートの建物も余りなくて、ここに写っている建物意外に4~5カ所しかない。ここのおじいさんとおばあさんが雑貨屋の店を始めた翌日に僕たちはここを通った。「ああ、ここで仕事が始まっている」というので、飲料水を買ったりしておしゃべりしました。



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