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読んでもさっぱりわからないようなことが書いてありますが、どういうことなのか簡単にいえば、こうだとお考えください。
従来のPCはスタンドアロンといいますが、PCが独立している。その場合ソフトウエアは当然入れなくてはいけません。データも入れなければいけない。それで操作していくわけです。次にインターネットによってPCがつながりました。その場合でもデータとソフトウエアは自分たちで入れなければならなかったんですね。全部がつながっているならば、データとソフトウエアを個人が出し入れする必要はない。むしろデータやソフトウエアは全部インターネット上に格納して、PCを使ってこのインターネットに接近して、必要となるデータやソフトウエアを持ってくればいいとなったわけです。言い換えれば、PCの安全な端末化ですね。この端末をさらに軽いものにした。それがスマートフォンだと考えてよいと思います。
これはまた非常におもしろい。今まではデータは政府や大企業が集中的に蓄積しました。ソフトウエアもインハウスで開発したり、外部発注したり費用がかかった。しかし、いまやデータやプログラムインターネットの中に格納されている。ある程度のお金を払えば、またただで利用ができるということで、個々のユーザーはローコストで仕事ができるようになったという訳です。
要するに、1つはロングテール、大規模に生産をする必要はない。小規模の生産でもインターネットを通じて広告をすることができる。世界がマーケットだと考えた場合には、小規模生産でも十分いけるという世界が出てきた。そして、その知識はいわゆる、専門家の知識だけではなくて、実は周りにたくさん知識人がいて、ただでも使ってもいいよということになってきた。さらに、PC操作のためのデータやソフトウエアはインターネットの中に格納されていって、低コストで使えるようになってきた。これがWeb社会の特徴だと申し上げてよいと思います。
(図25)
さきほど「失われた10年」、あるいは「失われた20年」といういい方は間違いであり、1995年から2010年の間に日本はこの面でのインフラ整備をほぼ終えた。私はそれが2015年にほぼ終わると思います。特に来年のテレビのデジタル化で、一応の第一段階が終わると思っているわけです。ただ、テレビがデジタル化するということは何かといえば、テレビがインターネットの端末機としての機能を果たすということです。これがどのような意味をもつか、皆さんもうおわかりになると。
(図26)
いずれにせよ、来年には日本のWeb社会化は第一次の完成段階に達すると考えてよいと思います。現在の我々の問題は、実はこの事実に気づかないで、未来への対策を怠っていることだと申し上げてよいと思います。 
実際、Web社会化は、あらゆる分野に変化を引き起こす。例えば政府や行政部門で住民参加の要求が起こってくる。ここにD.Pと書いたのは、デリベレーティブポールのことで、アメリカのスタンフォード大学のフィシュキン教授が開発した方法で、アンケート調査をした後、10人ぐらいの小さなグループでフリートーキングすることで、人々の意見が変わってくる。いわばデルファイ法をアンケート調査に応用したものだと考えてよいと思います。アメリカでも日本と同じように、現行の代議員制度で本当にいいのか、新しい政治制度のあり方をどうしたらいいかという研究が進んでいます。D.Pもそのひとつです。
同様に、NPOも変わってきます。今まで日本の社会は政府と企業しかなかったんですね。小泉さんと竹中さんは、マーケットを重要視して、政府だけでなく、企業の活動を規制から自由にしようと試みた。しかし、21世紀の社会は、政府と企業ではない。むしろノン・プロフィット・オーガニゼーション、あるいはボランティア活動をする人たちの組織が非常に大きな役割を果たすと考えられます。私は大学も実はNPOだと考えています。もしかすると、報道機関もそうであるかもしれない。慶應義塾大学は授業料をとっています。授業料をとるから、いかにもマーケットメカニズムに乗っかっているように見えるんですね。あれは寄附金といえばいいんですね。人々は、福沢諭吉の建学の精神に賛同し、現在の慶應義塾大学の研究教育のあり方に賛同するから、労働力としてこれだけ提供します、お金もこれだけ、土地も提供します、知識を提供します、そういう形で寄附を出せばいい。
同じように、朝日新聞の購読者も朝日新聞の社是や記事のあり方に賛同するから、寄附金を出すというふうになれば、現在のコマーシャリズムに堕した報道機関は変わってくると思います。
個人はもちろん変わります。ツイッターをやる、ブログをやるという形に変わってきます。
私は学校の教師ですから、教育がどう変わるかということについて問題提起をしたいと思います。
(図27)
何故、教育(学習)の改革が必要なのか、これはweb社会において「知識」そのものに大きな変化が生ずると考えられるからです。基本的なことは、情報技術のブロードバンド化、ウエブ化、モバイル化という形で進行しつつあります。これはその基本はデジタル化だと見てもいい。それは知的環境の革命をもたらし、人々の探索・探求行動、創作行動やコミュニケーション活動が変わってくる。その結果、人々の知覚、認知、思考、行動様式が変化する。同時に、人間関係、集団、組織も変化せざるを得ないと思われます。
我々の世代はどうしても書籍を中心とする読書によって知識を吸収してきましたから、知識は1章、2章、3章というように体系立っていると思っています。ところが、現在のネットワークはむしろ非常に流動的で、不定形的で断片的でさえある。体系立った知識は、いってみれば昭和30年以前に生まれた世代に固有のものであって、本来「知」というものは体系化されていない。現在のネットワーク上の情報は必ずしも体系的であるものとは限らない。体系化されないものを体系化するのは個人だ。こういうふうになってくるわけであります。この世界でどうやって生きていったらいいかということが、これから大いに問われるであろう。教育や学習の問題が極めて重要だと私は考えています。
(図28)
いいかえれば、現在何よりも必要な教育はウエブ環境で生活する仕方、(Way of life)を伝授し、習得することだと考えていいと思います。この習得の第一はマインドの習得、例えばエコノミストマインドとかリーガルマインドのようななる物の見方や考え方を身につけることが考えられます。第二に道具、機器、言葉、概念、使う作法や流儀、そのスキルを身につけなければいけません。第三に、ナレッジ、知識です。記憶や記録、それをどうやって検索して自分のものにするか。その仕方が問題である。そして、最後に重要なのはセンスの習得。いろいろな感覚データの受け取り方と組み合わせ方、そういったものを全部一緒にしてしなければいけません。
(図29)
私は1990年に、湘南藤沢キャンパス(SFC)を開設に従事しました。その時にSFCの学生に5つの能力をつけるということを実行しました。1つは、機器の操作能力。現在の知識は、すべてコンピュータのいわば端末機器の後ろに入っています。ですから、機器を操作するということがない限り、絶対にその知識にアクセスすることはできません。CDをどうやってプレーヤーに載せるか。それを知らない限り音楽を聞くことはできなくなっています。それと同時に、PCは世界中のあらゆるところに散らばってサイトにつながっています。それを検索する能力を身につけることが不可欠です。このことを英語でリトリーバルといいます。昔は図書館のカードをめくったんですが、今はこれを全く違った形でやっている。今の子どもたちをいえば、宿題を出すと、キーワードはこれとこれとこれだ、そしたら、これで検索できる、そういう形でやっています。大学の先生は、それをおかしいといいますけれども、私はちっともおかしくないと思う。まさに新しい検索能力だといいたいのです。

 

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