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と同時に、編纂能力がある。編纂という少し難しい言葉を使いましたが、これは昔のエデティングという言葉とは違う意味ですね。コンパイレーションという意味です。コンパイレーションというのは、ある観点から見て、普遍性を持つものを集めるところに特徴があります。
さらに、コンポジション。昔はコンポジションというと、作文だけだった。作画能力や作曲能力も必要だ、これら多様な表現をうまくまとめていく能力も必要です。そして、コミュニケーション能力も必要になってくる。特に、このコミュニケーション能力の中でも重要なのは、レスポンス(反応)能力です。レスポンシビリティーということは、どんなに暫定的であるにせよレスポンスせよということです。レスポンシビリティーというのは責任ということですね。Web社会における責任というのは、どれだけ早く、不完全であっても対応できるか、こういうことだとお考えをいただければいいかと思います。
(図30)
ただ、私は、最近になりまして、Web社会のメンバーになるためには、技術や技能の伝授、習得だけではなくて、教育や学習の基本コンセプトが変わらなければならない。むしろ生活そのもののコンセプトが変わらない限り、新しい教育はあり得ないと思うようになりました。それは何かというと、現在の日本は、単にWeb社会化が進行しているのではない。明治以降目指してきた豊かな社会という目標を達成して豊かな社会の中で新たな目的を探しあぐねているのです。豊かな社会とは何かというと、1人あたりGNPの上昇が、幸福度の上昇と相関がなくなったという社会です。世界各国のGNPと幸福度の研究を見ますと、ある段階までは相関関係がありますが、1人あたりGNPが一定額を超えた段階からほとんど平行状態になる。ということは、GNPが高くなることと幸福度とは関係がないということです。
それと同時にグローバル化、エコロジー化が進行している、こういう社会に生きているわけであります。そのためには、従来型の教育のあり方を根本的に変えなければならないのではないか。現在の日本の教育は、すべて次のライフステージのために行われている。例えば、5歳までの児童は、塾に通って、いい小学校に入るためにお受験の勉強をさせられます。小学校に入りますと、今度は中学校の受験勉強をさせられる。中学に入ると高等学校。高校に入ると今度は大学、大学になると一流企業に入社するための勉強をしている。それぞれのライフステージは次のライフステージの準備についやされています。私は、明治以降の近代化の追いつき、追い越せの段階であればよかったと思います。しかし、その目標を達成したところでは、もうそういう形の教育は成り立たないのではないでしょうか。
私は、子どもたちを見ていまして、5歳ぐらいの子どもになると、やはりそれぞれにいろいろな形の個性が出てくる。そして、5歳ぐらいでなければできないようなことをやる。私の周りに子どもたちがたくさんいますが、小学校の3年生くらいのところが切れ目で、それまではどうも幼児の段階です。ところが、4年生から5年生、6年生になってくると、子どもとして完成してくる。一人前のことをいうし、スポーツもある程度できるようになる。小学校5~6年から中学校1~2年までは、子どもとしての完成期にあると見たほうがいい。いいかえれば、その時に彼らは十分なある作品をつくる能力を持っている。与えればその能力を発揮することができる、そういう世代です。
その後は思春期になりますから、身体能力と精神能力のギャップがありますので、問題が出てきますが、その後大学に来て、私は長い間大学で仕事をしていますが、大学の3年生から4年生の体育会のリーダーたちを見ますと、やはり青年期としての完成期にあると思われます。
(図31)
いいかえれば、各ライフステージをユニークな探求、コミュニケーション、創作活動期とみなし、そのステージ(年齢)に見合った(でなければできない)成果を上げる。これが新しい時代の教育のあり方だと思います。
各個人をユニークな探求、コミュニケーション、創作意欲や能力を持つとみなし、その個人固有の意欲を満たし、能力を発揮するような仕組みをつくる。それは、とりもなおさずレディメードの教育はもうやめよう、これからの教育はカスタムメードだということになりましょう。1年生、2年生、3年生という学年があるから、遅れたとか進んでいるとかいうことになる。それぞれの子ども固有の成熟路線を持っている。それを一律に1年生はこれだけをしなくてはいけないとしている。そのあり方が間違っているということです。Web社会の情報技術を駆使して、オーダーメイドの教育(学習)システムを構築すること、これが最大のミッションです。
(図32)
それでは、オーダーメイドの教育を通じて学生たちに何を習得させればよいか。これは「フロー感覚」を体験することに尽きると思っています。このフロー感覚という言葉については、初めての方もおられると思います。シカゴ大学の心理学者ミハイリ・チクセントミハイの先生の言葉です。彼は、マズローの次の世代の研究者で、いわゆる「至高体験」についての研究を深化させ、画期的な業績をあげました。1975年から現在に至るまでいろいろな本を書いています。例えば山登りをしている。一生懸命ロッククライミングをしていると、相手が岩だか自分だかわからない、夢中になる時がある。そういう夢中になる時、いわば環境と自分が一体化したような状況で味わう感覚をフロー感覚と呼ぶ、というんですね。例えば皆さんはジョギングをしたことがあると思います。初めのうちはそうでもないが、ある程度ジョギングをしてくると、駈けていることが本当に楽しくなってきて、いわゆるハイの感覚です。この感覚をフロー感覚といっている。これが体験できるかどうかが人間の幸福を左右するということをいっています。

(図33)


図33は彼の、フローダイアグラムを示したものです。非常にスキルが高い人間たちに程度の低い課題を与えると、無関心になってきます。余りに易し過ぎるということです。他方、自分のスキルが低いのに対して、難しい問題を与えると、これも、難し過ぎて無関心になる。このフローダイアグラムは、スキルに見合った課題を与えたときにフロー感覚が現れ易いことを示しています。そして、低い段階でとどまってはいけないわけですから、ここから次の段階、次の段階へとステップ・アップしていかねばなりません。この仕掛けをどうやってつくるかが教育の基本だといっています。この教育のあり方はどうなのか。我々はそれを実現した世界を既に知っています。それはゲームの世界です。

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