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日本橋のあゆみ
1. 日本橋の生いたち
2. 日本橋の名前の由来
3. 熈代勝覧にみる日本橋の繁栄
4. 石橋をつくった人たち
5. 大震災がも たらしたもの

よみがえる日本橋
1. 名橋「日本橋」保存会の活動
2. 日本橋再生プロジェクト
3. ECO・EDO日本橋運動
4. 毎日が祭だ!

よみがえれ日本橋
1. 日本橋(石橋)架橋100年の意義
2. 日本橋クリーニングプロジェクト
3. 未来の江戸をつくろう

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現在、日本橋を起点としている国道がいくつもあります。それまでの東海道は国道1号、それから第二京浜も入っておりますので15号、中仙道が17号、日光街道と奥州街道はつながっておりますから4号、甲州街道が20号、それ以外に後から水戸街道ができ6号、成田街道、千葉街道が14号、これだけの国道の起点となっております。
また、日本橋は水の都ともいわれまして、舟運、船での運送のネットワークの中心地でございました。
日本橋の由来にはいろいろな説があります。1つには、三浦浄心が書いた「慶長見聞集」に、日本国の人が集まり、江戸開府の整備工事に携わったことに起因して、日本橋と言うようになった。何だか分かったような、分からないような話でございますが、要するに日本じゅうの人が来て作業をしたから、「日本橋」ということになったとゆう事でございます。
また、銀座、日本橋地区の歴史に造詣の深い池田弥三郎先生は、「日本橋」が架けられる以前から、2本の木の橋であった事から二本橋とゆう名前になり、人や物流が盛んになると橋が大きくなり「日本橋」と呼ばれるようになった、ということであります。いずれにしても、「日本橋」の架橋により江戸は、みるみる大きく繁栄し最高時では130万人から150万人が暮らしていたといわれております。
私が勤めております三越の前身、越後屋呉服店は、1673年に創業し、1720年から1820年、享保から文政の時代が最も栄えました。その100年間で、1年にどのくらい売れたかと申しますと、当時の銀換算で年間1万2000貫、金で19万8000両、1両を8万円と致しますと158億円。大変大きな金額を既に売っておりました。これは世界一の小売業だと、三井文庫の由井先生がおっしゃっておりました。
また、当時は江戸の華といわれました火災も多々発生し、「日本橋」も焼け落ちること度々でございました。明治44年(1911年)に今の橋になるまでに、火災と老朽化のために19回架け替えられ修復工事が行われたといわれています。ちなみに、火災で橋が焼けたのは9回でございました。よって、今の橋は20代目ということになります。
当時の江戸、あるいは日本橋の繁栄について、もう少し敷衍してお話しさせていただきます。2003年の江戸幕府開府400年を記念いたしまして、江戸東京博物館で開催されました「大江戸八百八町展」の目玉展示物として出品された「熈代(きだい)勝覧(しょうらん)」絵巻が大変話題になりました。ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、今から200年前、江戸一番の賑わいがあった文化2年(1805年)頃の状況をかいた絵巻物でございます。江戸の活況の様子を描いた約12メートルの絵巻物で、最近、中国美術のコレクター、キュステル夫妻の親族の屋根裏部屋で発見されました。最初は中国の物だと思われていましたが、たまたま日本の美術に詳しい人が見て、これは日本の江戸文化を描いたものだということで発見に至った訳でございます。現在はドイツのベルリン東洋美術館に所蔵されております。
この絵巻物は「日本橋」から今川橋までの約700メートル、現在の中央通りを、東側から俯瞰描写した作品でございます。作者は不明ですが、難しい字で「熈代勝覧」、その横に「天」と書いてありますから、天地人、3巻くらいありましょうか定かではありません。
「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける太平の世の勝(すば)らしい景観」という意味だそうでございます。お手元のパンフレットの中にも写真が入っております。
題字は、幕末の書家の佐野東州によるものでございまして、その絵巻の中には、瀬戸物問屋さん、雛市(お雛様の市)、若い花売り、呉服問屋、薬種といいますか薬を売る問屋さん、書物の市や魚河岸。中心には三井越後屋呉服店、両替店が描かれております。大変克明でございまして、人が1671人、犬が20匹、馬が13頭とはっきり数えることが出来ます。この絵巻物は、日本橋架橋100年に先駆け、私ども名橋「日本橋」保存会と日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会が共同で、地元の小津和紙さんの和紙を使い複製いたしました。2009年11月30日から東京メトロ三越前駅の地下コンコース壁面に設置され、毎日たくさんの方にご覧いただいております。機会がありましたら是非ご覧下さいませ。当時の日本橋はまさに江戸の商業、経済、情報の中心であったということがお分かりいただけると思います。

さて、石造りの日本橋でございますが、100年という長い年月に耐え現在も立派に使われております。機械や技術が発達してない当時、曲尺とメジャーだけで造り上げた人々に焦点をあててみたいと思います。 皆様方は専門家でございますので、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、架橋の竣工技師は米元晋一主任技師、技師長は日下部弁二郎です。その弟さんに当たる人に文人の巌谷小波さんという人がいます。

当時の三越呉服店では、外部の人を顧問として様々なご意見を戴く流行研究会を開催し話題になりました。そこの主幹をやっていたのが巌谷さんです。
また、工事監督は樺島正義さん、橋の上の装飾は妻木頼黄(よりちか)さんが中心となって行いました。妻木先生は横浜の正金銀行、現在の神奈川県立歴史博物館や東京府庁の設計で名を上げた有名な建築家でございます。今も東の欄干外側に関係者名が書かれておりますので、機会がありましたらご覧下さいませ。
石は、ご存じのとおり花崗岩、別名御影石ともいいますが、それとコンクリートで造られております。この石を切り出してつくった中野組の5代目社長さんを最近訪ねてまいりました。笠間市の田舎の石でございまして、色調が美しく、鮮度、耐久性も申し分ない。また大量に取れ、消費地に近いことから、「日本橋」以外にも、日本銀行、東京証券取引所、国会議事堂にも使われました。来年の100年イベントには、今も石を切り続けているこの5代目社長さんに陣頭指揮をとって戴き、笠間の石で文鎮などの記念品を作ろうかと考えております。

では、この橋の建築費用はいか程であったかとお思いでしょうか。国土交通省の調べによりますと当時の貨幣価値で約51万円だそうでございます。当時の物価と現在では資材を7000倍と仮定し、人件費については大工の上昇率2万2000倍。その結果、工事費は約70億円になります。
話を戻しまして、橋の四隅と中央部分には花崗岩の装飾台を設け、我が国初めての西洋風の獅子と麒麟が飾られました。これは「麒麟あらわるれば聖人来る」の故事によるものでございます。麒麟は、頭が龍、胴が鹿、それに羽を持っている想像上の動物でございます。獅子は、鎌倉時代の運慶の狛犬を参考に、東京の紋章と、全国里程の起点ということで、一里塚の松やカエデを配して鋳造されました。いずれも青銅製でございます。戦後、黒く塗装された彫像の作者は有名な彫刻家・朝倉文夫の実兄にあたります渡辺長男(まさお)でございます。

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