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日本橋のあゆみ
1. 日本橋の生いたち
2. 日本橋の名前の由来
3. 熈代勝覧にみる日本橋の繁栄
4. 石橋をつくった人たち 5. 大震災がも たらしたもの

よみがえる日本橋
1. 名橋「日本橋」保存会の活動
2. 日本橋再生プロジェクト
3. ECO・EDO日本橋運動
4. 毎日が祭だ!

よみがえれ日本橋
1. 日本橋(石橋)架橋100年の意義
2. 日本橋クリーニングプロジェクト
3. 未来の江戸をつくろう

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欄干に書かれております、ひらがなの『にほんはし』と、漢字で『日本橋』、こちらは当時の東京市長・尾崎咢堂、別名尾崎行雄が徳川慶喜に揮毫を依頼し江戸以来の日本橋という伝統の重みと、時代の先端をいく「橋」という革新性を具現化したものと思われます。
明治44年(1911年)4月3日、いよいよ開通式でございます。雨天にもかかわらず、10万人の見物人が集まり、式典、芸人の踊りなど、盛りだくさんのイベントが行われました。当時の三越の記録によりますと、店内は身動きができない状況で、ついに入り口を閉鎖、大変な人ごみであったということが想像できます。その後江戸から東京へと呼び名は変わっても、日本橋地区は依然として金融、経済の中心地として、近代化日本を支えてきたわけでございます。

大きな変化が起きます。大正12年の関東大震災でございます。この震災で「日本橋」のブロンズの照明灯、欄干などが破損。当時、東京市の罹災率は73.4%、日本橋地区は全世帯数の93.3%、焼失面積に至ってはほぼ100%という、全域が罹災しました。時の作家、田山花袋は「日本橋付近は変わってしまったものだ。もはやあたりに昔のさまは見出せない」と言っています。今も「日本橋」の橋の裏側を船から見ると、すすで一面真っ黒く、当時の火災のすごさを感じ取ることができます。
かつて東京市長であった後藤新平は、内務大臣に就任するや、すぐに東京の被災復興事業に取り組むことになります。その事業の1つが、昭和通りの新設でございます。東京を近代的市街地に着々と変え、その象徴的なものが日本橋地区繁栄の源泉であった日本橋魚河岸市場を築地へ移転し、東京中央卸売市場としたことです。昭和10年(1935年)から事業が開始されましたが、川幅の狭いこの川には船舶の大型化と陸上交通の発展が、利用度に限界が生じました。その結果日本橋市場の繁栄にかげりをもたらし、更に魚河岸の築地移転が、物流の拠点としての日本橋の優位性を低下させました。
2つ目の変化は、東京駅が開業し、昭和12年の丸ビル、郵船ビルの建設が丸の内オフィスセンター化を加速させました。
3つ目は、銀座地区がモダンな繁華街に変貌し、人の流れが銀座に銀座にと移っていったわけでございます。
 時が下って、太平洋戦争では焼夷弾の爆撃をたびたび受け、今も痕跡が生々しく残っております。先日、橋をきれいに洗いましたが、そこだけはしっかりと残させていただきました。
 こういう苦難の時代を経て、「よみがえる日本橋」というテーマを掲げ、名橋「日本橋」保存会が結成される訳ですが、その結成までのプロセスと活動についてご紹介させて戴きます。




よみがえる日本橋

 震災で多くの川が焦土の廃棄場として埋め立てられましたが、日本橋川は、住民の声が生かされ幸い埋め立てられずに現在も川の流れを維持しております。また、日本橋が風格を感じさせる今日の街並みを維持しているのは、日本橋に住み働く人々の、まちと橋にかける熱い思いと、そして粘り強い努力の結集だと思います。
昭和22年(1947年)に日本橋区と京橋区が合併し、中央区が誕生いたしました。その際、旧日本橋区内の町名にすべて日本橋の文字を冠するという条件を行政側から住民が勝ち取りました。日本橋に対する住民の強い思いの結果だと思います。いわゆる日本橋人形町、日本橋浜町、日本橋小舟町等々。まさに日本橋人の誇りと心意気を世に示した実例でございます。
また、地元の強い思いの結集した団体の1つに、私が会長を務めさせていただいております名橋「日本橋」保存会があります。
1960年代になりますと、高度経済成長、モータリゼーション時代に突入し世の中は目まぐるしく変わってまいりました。東京でのオリンピックの開催が決定しますと、道路事情が急速に進み、昭和37年(1962年)に日本橋川の上に首都高速道路が建設されました。オリンピック開催の昭和39年(1964年)に日本の国威を世界に知らしめたわけですから、川の上の高速道路は大きな役割を果たしましたが、時が経つにつれいろいろ問題が出てまいりました。日本橋川の上空に蓋をかぶせるように高速道路が走り交通の便はよくなりましたが、空が見える今までの水辺の存在感はなくなってしまいました。かつて、白木屋(現在のコレド日本橋)側と三越側とは「日本橋」を介して一体でした。橋を挟み同じような感覚でおつき合いができましが、高速道路が大きな壁となり一体感が失われつき合いも若干おろそかになってきている気が致します。

そこで、従前の日本橋の美しい姿を保持しようと、名橋「日本橋」保存会が昭和43年(1968年)に、地元町会、企業、住民の方々により結成されました。この会のユニークさは、保存会という名前ですから、相当保守的だろうと思いきや、守りよりも攻めの姿勢にあります。地域社会の発展を目指して、『日本橋』という地元の情報誌を育成し、昭和58年(1983年)には「よみがえれ日本橋」という決議を行い、「日本橋」上空の高速道路の撤去運動を開始いたします。また、毎年「日本橋」を洗い清める橋洗いや、全国こども橋サミットの主催実施、正月の箱根駅伝を誘致したりと、生き生きとした活動を繰り広げております。
昭和47年、都電の廃止が決まり、ときの佐藤栄作総理大臣によって東京市道路元標に新しく「日本国道路元標」という文字が揮毫され、橋の中央に移設されました。これは円盤型でございます。今までの道路元標は、電柱みたいに立っている形でございました。

 

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