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フリーディスカッション

林 ドラマチックなお話、どうもありがとうございました。
これから皆様方からのご質問に先生からお答えいただきたいと思いますが、その前に、英語ではブレーキングアイスというんでしょうか、花田さんと2言、3言、雑談しまして、皆さんのご質問に入りたいと思います。
本当にドラマを見せていただいたような気がいたしました。花田さんのお話を聞いていて、宮崎駿の「風立ちぬ」を思い出しました。もちろんドラマということもありますが、あの緊迫した時代にゼロファイターというあれだけの機能と技術と美しさをつくり出した。松村正恒の生きた戦後日本のグラウンドゼロのような、戦災で壊滅した状態、ゼロから出発しないといけない時代に、松村正恒のゼロからの論理性といいますか、そういうものとゼロファイターというのは似たような気がしました。そういう感想を持った次第です。
花田 この間、林さんといろいろお話しする中で、「風立ちぬ」の話が出て、「風立ちぬ」は戦前の話で、こちらは戦後の話とはいえ、日土小学校って零戦かもしれないと思いました。緻密につくられた工芸品のような工業製品というのか、物として非常に似ているし、それを設計した2人の設計者の精神性や知性が似ているなと感じました。
余りにも漠然とした感想なので、ロジカルにどういうことかというのはちょっと言えませんが、僕も、戦争を挟んだ時代の建物を少し追いかけていると、日土小学校や零戦に限らず、林さんが今おっしゃったようなことは、あの時代に通底するものだと思うことがあります。時代だと言えばそれまでですが、社会的な目標がはっきりあり、それに対して建築で応えた時代ですね。そこにある志の高さみたいなものは、その時代の建築を見ていると、団地であれ、美術館であれ、学校であれ、駅であれ、感じられるような気がします。
林 その志の高さがあるせいか、なぜか今、戦後モダニズム建築のいろんなものが我々の心を強く引きつける。今同じものをやっても全然意味がないんですが、あの時代ああいうものが生まれたということの磁力というものを本当に感じますね。戦後の若々しい精神というか、映画で言えば黒沢明かもわかりませんが、あの時代の光、松村正恒のこの作品にも非常に感じるわけです。
花田 鈴木成文先生が、神戸芸工大の学長でおられたころに、戦後間もなくのことをヒヤリングしました。新しい団地のプロトタイプをつくられたり、建築家が設計した病院に対して、建築研究者としてかなり批判をした。きつい調子の記事を『国際建築』に出しておられるんです。そういうことを鈴木先生に話して、「昔はすごいですよね。研究者と設計者の志が」と、言っていましたら、「何言っているの、花田さん。今のほうがずっと言いたいことが言える。花田さんはすぐ昔がよかった、昔はよかったと言うけど、だめだよ、そんなんじゃ」と怒られたことがあります。
林 私も、鈴木先生の弟子ですので、その辺の気持ちはよくわかります。
花田 ノスタルジーに走ってはだめなので、僕も松村さんのことを研究する中で、そこから、これからの時代のためのヒントが取り出せるかということをやっているつもりです。そうでないと、ただノスタルジーになってしまいます。
林 日建設計でも戦後の薬袋公明や林昌二とかの時代、それの少し前、彼らを生み出した長谷部竹腰の時代、その前の臨時建築部の時代、その後、ずっと来て今東京スカイツリーに来ている。このあたり、我々はどこから来たのか、どこに行くのかみたいなことを日建設計でもやらないといけない、そういう機運がございまして、今、実はその執筆をしているところで、来年1月から12月までホームページに連載で、「日建設計115年の生命誌」というタイトルで発表します。
皆様方からご質問がおありと思いますので、どうぞお気軽にお願いいたします。
赤松(市民情報誌+α編集委員会) 事例の中で、商業的なものとしては、JPタワーや三菱1号館の部分的な保存や活用例がありましたが、一方で今回の日土小のような場所は地元性が強い。背後に山を背負って、川との間の場所に建っている中山間的な地形の場所です。地元の人にとってみたら、当初は建て替えの願望もあったのかもしれませんが、しっかりとした原設計の資料をたどっていくことによって、今回のような作品性が獲得できたのだと思います。地元性があって、地味であるからこそうまく活用できるパターンと、商業的で、誰にでも認識されているものは、逆に商業的にしか保存・活用できない、そういったような違いがあると思います。そういった流れの中で、今後の保存・活用には、単に商業的なものだけではなく、きちんと生活を積み上げて、時代性を飛躍させずに連綿と続くものとして作品の中に取り入れていくことができる背景としては、どのような条件があればよいのかといったことをお伺いできればありがたいと思います。
花田 すごく難しい問題で、私も教えていただきたいぐらいです。都市部にあって、不動産価値が高くて商業的価値がついている建物は、やはり商業的にしか保存されないというご指摘でしたが、逆に地方はお金がないので、日土小学校も改修は建て替えの費用よりは安いことはプラス側に作用しました。経済的な背景から2種類あるというご指摘は全くそのとおりだと思います。都市部にあった、大阪中央郵便局は壊されてしまったわけです。国が買い上げるぐらいしか方法はないと思うぐらいです。ただあのときもいろいろな案が出ていましたから、仮に商業的な前提が求められたにしても、もう少しやり方はあったのではないかと思います。やはり保存再生は設計だと思うんですね。
地方の物件についてもおっしゃるとおりで、有名建築家がつくったものでもない、でも地元に愛され、しかし行政に財源もないみたいなときにどうやったら残せるのかというのは難しい問題です。今、僕は兵庫県で、それこそまさにそういう感じの小学校の保存再生にかかわっていますが、うまくいったところと揉めているところを比べると、結局は行政や市民の見識の有無に尽きると思います。ある自治体から呼ばれ、日土小学校などのお話しをしたところ、市長さんの頭にクエスチョンマークが浮かんだのが僕はわかりました。「あれ、うちの町は間違ったことをやってないか?」という反応でした。その場で、教育委員会の人に市長さんが、木造校舎への場当たり的な補強工事の発注を止めたんです。そして、きちんと全体を見直した保存再生計画へと方針が変わったのです。
建物を壊すということは、何百人、何千人、何万人の人の記憶を抹消する行為だと思うんですね。それを怖いことだと思うかどうか。そういう見識があるかどうかが問われています。
日土小学校の保存再生で構造設計をしてくれた腰原幹雄さんは、「現行法規を基準にして耐震性能が足りないということは、建物を壊す理由にはならない。条件さえ出してくれたらどんな耐震補強だってできる。建物を壊したいというのであれば、耐震性以外の理由が要る」と言います。そういうロジカルな議論を受け入れる土壌みたいなものをつくっていくしかないなと思っています。
林 これだけのことをなさった背景から出てくる強いお気持ちだなという気がいたします。
いかがでしょうか。発注者の見識という意味では、松村正恒の新築のときの話ですが、菊池市長という方が松村正恒を非常に尊敬されていて、学識、見識、かつ戦後教育に物すごい情熱を持っておられた方ですね。
花田 菊池清治という名市長で、松村さんをかわいがったんです。戦前に広島高校の校長などを歴任した。戦後、市長になりました。松村さんに、戦後間もない八幡浜市の主要なインフラである学校や病院を設計させたんです。松村さんの学校は、正面性が全然ないので、古い教育委員会の人やPTAや校長先生から総スカンを食らっていた。それを議会で攻撃されて、松村さんは反論するわけですが、「ほどほどにしておけよ」みたいな感じでおさめてくれた。自分の部下が東京に陳情に行こうとすると、「そんなものに行くな」と叱ったというエピソードすらある人物です。そういう市長のもとで、ああいう建築家が町をつくっていた。昭和30年代にはそういうことも可能だったということです。
林 昭和30年代の雰囲気を伝える言葉です。建築が歴史的な時間を蓄積するということが、本当に豊かな空間になる可能性になっている。これは鈴木博之先生の『保存原論』からの言葉ですが、都市景観においても安らぎと潤いを与える。しかも、先生のおっしゃっていた保存・再生というのは、知的な読み込みをして、クリエイティブな設計行為なんだというのが、非常に心に残っております。

 

 

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