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【4】八幡浜市立日土小学校の保存再生

(図46)  
ここから、私が長くかかわった日土小学校のお話をして、建物を残すプロセスが、どういうことかということをもう少し具体的に、皆さんにわかっていただければと思います。

【4-1】日土小学校の概要
(図47)
日土小学校というのは、木造2階建ての細長い瀟洒なデザインの小さな小学校です。
(図48)
場所は愛媛県の八幡浜です。松山から車で小1時間走ったところにある港町です。市の中心部から車で10分ほど奥に入ったところに日土小学校は建っています。周りは段々畑のみかん山です。耕して天に至るという表現がありますが、山のてっぺんまで耕されてみかんが栽培されている、のどかな地方都市です。その谷筋に建っております。
(図49)
できたのは1956年から58年(昭和31年から33年)にかけてです。運動場から見て右側が1956年にできました。職員室とか特別教室があります。そしてもう一つの建物はその2年後1958年にできた普通教室が6つ入っている建物です。川がこの裏を流れておりまして、その川にほとんど接するように建っている建物です。川沿いの風景が素晴らしく、ファンも多いという建物です。竣工直後には、建築界でいろいろ話題になりました。
(図50)
 改修前の1階と2階の平面図です。下側が川です。1階には、職員室と、家庭科室、特別教室があります。渡り廊下を挟んで反対側の建物は、普通教室が上下合わせて6つ。1学年1クラスという構成になっています。
 設計したのは松村正恒という建築家で、戦前、近くの大洲という町で生まれ、東京の武蔵高等工科学校(現・東京都市大学)で勉強しました。その後、土浦亀城の事務所に勤め、戦後、愛媛に戻って八幡浜市役所の職員として色々なものを設計した建築家です。
何しろこの建物をご覧になったことのない方ばかりだと思いますので、改修後の様子をビデオでお見せします。2011年に竹中工務店のギャラリーエークワッドで松村正恒展が開かれた時、竹中さんのほうでつくっていただいたビデオです。それにニューヨークのワールド・モニュメント財団から賞をもらったときにそこが英語の字幕を入れて、短く再編集しました。

(ビデオ上映)
田舎の小学校は朝早くて、7時に子供達が登校してきます。
本当は向かって左の建物(東校舎)の1階に昇降口があったのですが、今回の改修の中で、職員室の近くの方がいいということで右側の建物のほうに移してあります。
児童数は60人を切っておりまして、本当に小さな学校です。今度近隣の学校が統合されるので、もう少し増える予定です。
中校舎に職員室があります。ガラスが多いですが、このあたりは今回の計画の中で手を加えた部分です。
廊下から左のロビーのあたりは、もとは小部屋で間仕切りがありましたが、今回オープンにしました。
放送室で給食の時間の校内放送をしています。懐かしいですね。
そのすぐ前のガラス張りの部屋は職員室です。見通しをよくするために改造しました。階段のあたりはもとのデザインから一切変えてはいません。そのかわり材料は取りかえています。壁は全部張り替えていますし、塗りかえていますが、デザインそのものは変えていません。手洗いはオリジナルです。
建具も9割方、補修して元のものを使っております。ガラスは入れ替えていますが、骨組みも90数%、元のままです。床板は張り替えていますし、天井板も張り替えていますが、構造体とか建具は元のままだと思ってください。
壁面も基本的には張り替えています。ただ、剥がすと裏側に元のものが残っています。元のものの上からいろいろなものが取りつけてあります。
これが教室です。1学年ひとクラス。
教室が広過ぎるので、ランドセル置き場の家具をつくって、逆に小さく見えるようにしました。
木造の建築なのですが部分的に鉄骨が入っています。手づくりのトラスでスパンを飛ばしたりと、いろいろな工夫があります。
鉄筋ブレースを入れることで壁を減らし、非常に明るい空間をつくっています。
柱と外壁が離れています。木造ですがカーテンウォールになっています。
すりガラス、透明ガラス、日よけスクリーンなど、いろいろな工夫があり、それも元の通りにしています。今風に言えば、環境工学的な工夫があちこちに見られます。
色調は全体にパステルカラーです。戦前、逓信省なんかも使っていたような薄いブルーやウグイス色、ピンクを使っています。木造ですが、床以外は基本的にはペンキが塗られています。
廊下と教室が切り離されていて、廊下と教室の間に中庭があり、風通しに工夫があります。
給食の時間です。
一番奥に見えているのは新校舎です。今回普通教室を4つを持つ校舎を増築しました。
図書室のべランダは、川のほうにせり出した気持ちのいい場所です。
日土のことをご存じの方には有名なエピソードですが、建物が川にはみ出していますね。敷地境界線を越えていて、ベランダ以外の階段も幾つか越えています。当時、県と町側が打ち合わせする中で、親水性が大事だということを切々と訴えて、県のほうも、「これっきりですよ、松村さん」ということで許可が出たそうです。
改修するに当たってその問題が再燃しまして、1年半ぐらいかけて県と交渉して、現状を認めていただくことになりました。
図書室の左側の書架も全部なくなっていましたが、改めて原設計のとおりつくりました。
家具も松村さんが図面を書いておりまして、それを再現してあります。色ガラスもあって、図書室は非常におもしろい意匠で、近代あり和風ありで遊びのある場所になっています。
テラスに行きますと、本当にどの季節でも気持ちが良くて、まさに桃源郷にいるような気分になる場所です。
階段も川に迫り出しています。
鉄骨階段も今回はつくり変えたりは一切していません。一回外して工場に持っていって、まるで工芸品のような補修を行っています。今だったらグレーチングを載せて終わりですが、全部手づくりの、鉄筋やアングルでつくった階段です。
廊下と教室の間に中庭が入っています。
東校舎の廊下は非常にゆったりした勾配で気持ちのいい場所です。
ここの階段は踏み板だけオリジナルのものを使っています。非常に厚い立派な板でしたので、白線が残っているわけです。消せませんでしたし、残しておこうということになりました。
これがもとの昇降口です。
このガラスの向こうが中庭の部分です。奥に見えているのが教室の外壁で中庭のおかげで、教室の両サイドから光と風が入ってくる、そういうつくりになっているわけです。
下駄箱の中仕切りを少し低くしてあるので、向こうに見通しがききまして、文字どおり透明感のあるデザインになっています。
去年の今ごろ、ワールド・モニュメント財団の賞の表彰式がニューヨークであり、このビデオを映しました。アメリカの人たちは、子どもたち自身が学校を掃除していることに感激していました。
夜見ると、本当にきれいで、全点灯してみると、壁が全くないということがよくわかります。絵に描いたような近代建築で、カーテンウォールにして壁をなくすということを考えたんだなということが非常によくわかります。
僕は何度もこの学校に行っているわけですが、夜景を見る機会はありませんでした。これを見て大変感激しました。
(図51)
日土小学校と私の出会いをお話しします。1994年ですからもう20年前ですが、私が日建設計をやめた後、研究に戻る中で、友人と四国の公共建築をいろいろ見て回って、雑誌にルポルタージュのようなものを書きました。その時に初めてこの建物を見ました。私は1956年生まれで、大学で建築教育を受けていますが、松村正恒という建築家の名前も、日土小学校という建物の名前も、知りませんでした。四国を回る前に、何を見に行こうかと相談する中で、当時、松村さんがお亡くなりになった直後でしたが、「無級建築士自筆年譜」という本が出ていました。本が出るような人がいたんだ、そんな建物がどうもあるらしいということで候補にしました。
すぐ近くに内子という町がありました。原広司先生が設計された、大江健三郎の卒業した大瀬中学校の建物がある町です。それをみんなで見た後、日土小学校に夕方行きました。下校が始まっていました。あちこち傷んではいましたがすごくきれいなので大変驚きました。「何なの、これ!」という感じになりました。間もなく閉まるということで、走り回って写真を撮りました。当時八幡浜市には松村さんの設計した建江戸岡小学校や神山小学校という大型の建物がまだありましたので、そこにも慌てて車を飛ばして行って、写真を撮りまくりました。感動してしまいまして、一緒に回っていた編集者から後で、「花田さん、泣きながらシャッターを切っていた」と笑われたぐらいびっくりしたんです。
 神戸に戻ってからもすごく気になって、桃源郷のような自分の知らない暮らしをしている村に入って、そのまま帰ってきたかのような、あるいは夢を見ていたのだろうかというような思いにとらわれてしまいまた。これはもう一回ちゃんと調べに行かなくてはと思いました。色々つてをたどって、窓口になる方を探し、設計者の松村正恒の研究をしたり、愛媛の人たちとネットワークをつくり、保存活動をやってきました。それからあっという間に20年が経ったということです。非常に不思議な出会いだったなと思っております。

 

 


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