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【4-3】日土小学校の保存再生計画の概要


(図59)
次に保存・再生のプロセスをお話しします。これは工事中の写真です。最初申しましたドコモモ・ジャパンがベスト20に選んだのが1999年です。最終的に改修工事が終わったのが2009年ですから、ちょうど10年かかりました。その間、いろいろなことがありました。
(図60)
 改修前の様子はこんな感じです。さっき見ていただいたきれいな図書室もこんな様子でした。書架は全部なくなり、図書室としては使われていませんでした。職員室はもので溢れています。ペンキも、剥げています。もちろん市も地域の方もメンテナンスはやっておられた。50年近くの間に5回ぐらい塗りかえはされていましたが、それでもこんなふうになります。テラスも危なっかしい。スチールの部分は錆びています。こういうものを普通の方が見たら「これは、あかんわ」ということに当然なるわけです。「こんな危ない学校に子どもを通わせたくない、新築してくれ」という話が当然、出てくるわけです。
(図61)
1999年のドコモモ20選に選ばれたというのが、大きな手がかりになりました。私も、その少し前から研究を始めていましたし、愛媛の皆さんとのネットワークもできてきたので、このころから地元で本格的に保存活動がスタートしたわけです。
(図62)
その後は色々なことをしました。2003年には、木の建築フォーラムという、内田祥哉先生たちがやられている木構造の専門家の団体のシンポジウムを日土小学校で開かれ、われわれも保存を訴えました。展示をして、地域の人にも見てもらいました。そのころ、地元にも保存グループが生まれました。翌年の2004年の夏には、こんな素晴らしい空間を大人も使わせてもらおうということで、建築系の学生や専門家の8月に、ここで1泊2日の勉強会をやりました。みんな、雑巾1枚を必ず持ってきて、掃除をしてお礼をしました。このころはすごくうまくいっていました。何とかなると思っていました。市も調査費用をつけると言っていました。2004年8月の夏休みです。
(図63)
ところが、この会が終わって、私は神戸に帰り、よかった、よかったと思っていたら、大きな台風が来て、東校舎の棟の廊下の屋根が吹き飛び、クラスター型の中庭に落ちました。それを機に、実は地域の中にはかなりの比率で建て替えを希望する方々がいるということがわかりました。日土小学校の去就は、一旦白紙に戻されました。市の中に新たに委員会がつくられ、そこで検討をして残すか壊すか決めることになりました。委員会には我々の保存グループからは愛媛大学の曲田先生しか入れてもらえず、一時は「だめかも」と思って辛い気持ちになりました。それでも、あの手この手でいろんなことを動かしていきました。
建築史の鈴木博之先生や木構造が専門の東大の腰原幹雄先生にもこのころから応援をお願いして、調整を重ねていきました。結果的には八幡浜市が腹をくくってくれて、残すということになりました。
(図64)
もちろん、そのまま神棚に飾るような残し方はだめですから、地域の方が満足してくれるように、一部増築もするし、改修もするという案を建築学会でまとめたわけです。
正式に市から建築学会に現況調査の依頼が発注されました。2006年、床下から天井裏まで全部入って実測をし、CAD化し、愛媛大の農学部で木の状態を調べてもらい、東京大学生産技術研究所の腰原さんが調査をし、立派な報告書をまとめました。構造的には全く問題ない、耐震補強は可能であるという結論を得て、それならということで改修案をまとめました。
(図65) 
この図は1階のビフォー、アフターです。ビフォーは先ほどご説明したとおりです。松村さんの設計ではない建物がありましたので、それは壊し、そこに1フロアに2教室、上下合わせて4学年分の4教室を入れた新しい建物をつくりました。中校舎では職員室の周りの見通しが悪かったので、先ほどビデオで見ていただいたように、この辺は少し改造いたしました。クラスター型をとり文化財的な価値のある東校舎については、原則完全に元へ戻すことにしました。そのかわり、地特別教室の理科室や図工室へと用途を替えました。
(図66) 
工事は2008年9月から2009年6月までかけて行われました。床、壁、天井、建具、屋根も全部外して、改修工事が行われました。きちんと記録を残すために、工事現場で監理をした建築家と工務店の間で細かい調整をして、「とにかく捨てるな。全部チェックしてからだぞ」ということで作業をしていただきました。
(図67)
この仕事を実現するための体制を紹介します。基本的には建築学会の四国支部の中に、鈴木博之先生を委員長とする委員会をつくり、地元のいろいろなまとめ役のできる愛媛大学の曲田曲維先生と、松村さんのことを調べている私と、学校建築に詳しい東京電機大学の吉村彰先生と、木構造の専門家である東京大学の腰原幹雄先生と、地元の松山の建築家4名がメンバーになりました。そこで調査を行い案をつくっていきました。
実施設計は、このメンバーの中の和田耕一さんと武智和臣さんのお2人の建築家がそれぞれ、既存部と新校舎を担当しました。構造は東大の腰原さんが全部見てくれました。もちろん、事業主体は市の教育委員会です。この3つのチームで、情報を交換してまとめていったということになります。フラットな関係のとても良いチームだったと思います。
(図68)
鈴木先生が参加されたころから、重要文化財になるかもしれないという話がありましたので、文化庁さんと改修計画の内容については打ち合わせをしながら進めています。何しろ文化財としての価値が高いわけですから、当初の状態に戻すということが大原則です。色から工法から、いろいろなものを全部調べ上げてやっていきました。色は5回ぐらい塗りかえられていますので、塗装部分を削っていき、塗装の専門家の人たちと情報交換をして、これが一番下であろう、下地ではないだろうと、色を突きとめ、ピンクの木製サッシの色など、全てを確定していきました。
(図69)
構造補強が当然問題になります。当時の基準にはもちろん合っているわけですが、現行の建築基準法には合っていません。そこを腰原さんにいろいろ考えていただきました。文化財的価値が非常に高いので、構造補強が目に見えないようにしようという目標を立てました。原則として、床、壁、天井内に隠れるだけで補強をしています。1カ所だけ目につく補強をしたのは東校舎の教室の鉄筋ブレースです。元は、教室の、川側のカーテンウォール側の5スパンのうち、中央の1スパンに1個入っていました。それではさすがにもたないということで、構造側からは2スパンにしろ、3スパンにしろという話があったのですが、意匠的が崩れると判断し前後2連にして構造と衣装を両立させこれは結構うまくいったなと思っております。

先ほど言いましたが、普通教室を特別教室に変えるととんでもないことになるのではないかと思われるかもしれません。しかし、そんなことはありませんでした。意匠的には、床、壁、天井、建具、全部オリジナルの普通教室に戻して、そこに什器備品を置いているだけなんです。もとの状態を傷めているとしたら、配管の穴を何カ所か抜いているだけです。什器備品をのけてしまえばオリジナルの状態に戻りますので、文化財的価値は全然損ねてないということです。
(図70)
職員室回りは池田小学校の事件の影響もあり、見通しをよくしてほしいという地元の方のご希望に従って、割と手を入れました。2階では足りない教室をつくるために廊下の一部を区切りました。水回りや音の問題は、可能な限り手を入れました。トイレはつくり直しています。そういった機能的な部分は使い続ける文化財ということであれば、手を入れないといけないと実感しました。
(図71)
新校舎を、横に名作があるわけですから、なかなかの難問でした。武智和臣さんの事務所で、一緒に案をつくりました。既存部と同じものをつくったのでは意味がない。松村デザインの特徴を抽象化して水平性などの言葉に翻訳をし、それを別のモチーフで実現することによって、対比と継承を実現しました。構造も、もともとの校舎が柱梁のフレームですので、新しい方は、建物の真ん中に羽子板状に木の壁を立てて、水平力に持ちこたえるようにして、構造的な図式も対比があるようにしました。
(図72)
完成した姿です。去年ニューヨークで講演したときは、「It Shines like goddess of architecture」と言いました。日本語ではとても恥ずかしくて言えないんですが、英語だと言える。この建物は男性には見えない。女性に喩えたくなる建物だと思います。
(図73) 
非常に透明感があります。改造するところは改造しています。元へ戻すところは元へ戻しました。
(図74)
未来と松村正恒の対話。これもちょっと恥ずかしいことを書いています。
(図74)
こんなふうに子どもたちが戻ってきて、楽しく使ってくれています。

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