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企画院が、当時ドイツやアメリカの地域開発のことを勉強した。企画院の中の逓信省を出た、どちらかというと土木屋ではなく、電気や機械をしていた人たちが「おかしい」と言っていました。戦後になって企画院はつぶされましたが、経済安定本部というのができて、それが経済企画庁になって、そこに分類されたんです。経済企画庁というのは、経済計画をつくる総合計画局が肩で風を切っている。調整局や物価局もあった。そこに、変なことに総合開発局というのができて、戦争前の企画院の連中が流れ込んだんです。
戦争前から戦後の地域開発の役人の縄張りを整理すると、1つは、ドイツの国土計画から流れてきた国家社会主義。当時はカッコよかった。道路をつくれ、新しい植民地をつくれというもの。その流れは内務省の国土局が引き継いだんです。
片方ではニューディールのTVAに影響をうけた役人がいました。アメリカがニューディールでTVAをつくった。そのほかにサンフランシスコのベイブリッジもつくった。農業開発もやった。昭和6~8年頃、ルーズベルトがケインズの経済政策に乗って、赤字国債を出してやったんです。その影響力をたっぷりしみ込ませてきた企画院の逓信省にいて外国の勉強をしてきた技術官僚たちが戦後、日本電信電話公社で通信をやらずに、「そうか。地域開発というのはこういうことをやるんだな」というので、影響をうけたわけです。

その人たちが、経済企画庁ができた時に、総合開発局に来たんです。経済企画庁の総合計画局には、エコノミスト集団とエンジニア集団がいたわけですが、不思議なことに、喧嘩もせずやっていました。何故かというと、日本の外貨の蓄積が、ようやく20億ドルになった。もはや戦後ではないというのが昭和28年です。つまり20億ドルしかなかったんです。つまり、国家にカネがない。カネをつくるために国家はインフラ投資をしなければいけない。当時何が必要だったかというと、まずは開墾です。海外から来た500万人ぐらいの日本人を開墾地に全員張りつけた。悲惨なものでしたけれども、成功した例もあった。成功した例は郡山でつくった安積の疏水。冷たい水の水路を長く引っ張って、流しているうちに温度が上がる。その水を郡山の奥地の茂っていた木を全部切ってつくった開墾地の水田に流しました、失敗したものもあります。それは北海道の根釧原野。あそこは霧で作物が何も育たない。おまけに火山灰。いろいろな悲惨な例があるけれども、ここに入植した人はほとんどいなくなりました。根釧原野は今では酪農で元気なところになっていますが、これは昭和50年代からです。農林省がとことんカネを投入して、土壌改良をやって、水を引いて、酪農指導もした。今の根釧原野で大金持ちになっているのは、昭和20年の入植者ではなくて、昭和50年に入った人です。
その次に何をやったかというと、燃料がないから山を切った。当時戦争のために500~600万ヘクタールの松を全部、日本陸軍と海軍が松根油をつくるために切ったんです。昭和20年頃の六甲山や名古屋の瀬戸の演習林の後ろのほうの粘土質の非常に育ちの悪い松林の写真を見ると、そこは裸になっています。雨が降るたびに泥水が名古屋に出てきた。六甲山も昭和の初めからはげ山だったので、すごい土石流が出てきた。そういうところで、燃料がないからもっと切れというので、切ったんです。昭和30年に、あと500~600万町歩切ったので全部で1000万町歩、日本の山は裸になってしまいました。それでも、燃料がないから切る。そして丸焼けになって、家もない。外材を輸入させてくれないから、国内材で家を建てなければいけない。それから、切った木は何に使ったかというと、九州の炭鉱の鉱山で、突っかい棒として地盤が落ちないようにする坑木にしたんです。そして、石炭を九州で掘って、それを新日鉄に持っていって、鉄をつくった。昭和20年代は大体そんなことでした。
もし、ある事件が起きなかったから多分日本はこんな状態にならなかったんです。その事件は有名な朝鮮事変です。当時日本の経済学者は「二重構造、二重構造」と言っていた。だから、共産党なんか物すごく元気だった。共産党は、それまで、三井、三菱、住友という大資本の下で隷属して働かされている孫請、家内工業をやっている人体の給与体系はひどい、これを底上げしない限りは日本の国民は豊かにならないと言っていました。日本社会党の左派の連中です。昭和24~25年ぐらいまではその答えがなかったんです。ところが、朝鮮事変が起きて、アメリカ軍が日本に来て軍需物資を調達するようになりますが、調達するのはカッコいい大砲や戦車ではないんです。兵隊の衣類や長靴、ゴム長や帽子、肌着。徹底的に戦争でやられてしまった日本の中小零細下請にとっては干天の慈雨です。何でもつくれば売れる。機屋もうまくいった、鍛冶屋もうまくいった、長靴屋もうまくいった。これで日本の産業の底辺がよみがえったんです。日本の産業の底辺がよみがえったから、それを調達している日本の大資本は調子がよくなった。これは昭和30年です。

そういう形で日本政府はカネがない。カネがないので、選択的にあるプロジェクトを起こさなければいけない。そこで、まず出てきたのが、有名な特定地域です。1つは木を切って植えるというものです。これは大変だった。それから石炭を掘る。水力発電。その中で一番カッコよかったのは水力発電です。水力発電の場所は、エコノミストでは決められないです。決められるのは土木屋と電気屋。そこででてきたのが、総合開発局の技術屋集団です。経済企画庁でエコノミストと技術屋集団は、仲がよかった。「ここがよさそうだ、ここはいいぞ」と、場所を決めたのが、佐久間ダムです。あれは象徴です。日本のインフラに、限られたカネで選択的に限られたところに投入するためには、エコノミストだけでは判断できないというので、総合開発局の存在価値があった。
話を飛ばしますが、今言った経済企画庁はつぶされました。内閣府に吸収合併されたわけです。国家経済計画は要らないということです。有名な話ですが、吉田茂はエコノミストの経済計画は全く要らないとずっと言いながら死にました。自由主義国家では、イギリスもアメリカもやっていない。やっているはソ連だ。ソ連をまねして、日本の経済企画庁は国家経済企画をつくっているのかと吉田茂はカンカンになって、認めなかったんです。だけど、経済企画庁は一応つくりましたが、それも世の中の大きい流れでつぶされました。つぶされるとなって、総合開発局はどうするんだといったときに、たまたま昭和50年に国土庁ができるんです。国土庁に総合開発局が吸収合併された。吸収合併というより、今80才過ぎのOBは国土庁の中心は総合開発局の技術官僚であったという自負があるんです。それが国土庁の中枢の計画調整局というところに入ってくるんです。


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