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1.これまでの国土計画


国土計画をどうするんだという話になります。昭和20年代にバックすると、先ほど言ったカネがないところでどうしても何かやらなければいけないという原点は特定地域です。特定地域で、山を切れ、炭鉱をつくれ、石炭を掘れ、水だ、農業地開発だとやったわけです。ところが、朝鮮事変の神風が吹いて、底辺の第2次産業がワーッと上がってくるし、世の中は燃料革命で、出光なんかも出てくる。日本人だって、バカではないので、石炭ではなくてもう油の時代だと思いますよ。油を中心にした生活を考えると、エネルギーが豊富な生活です。企業や社会だって、「オー、冷蔵庫だ」とかすぐ思います。企業だったら大規模大量生産にいこうと思う。その先駆けをやったのが所得倍増計画、太平洋ベルト地帯構想。それに対して、総合開発局の連中の原点は、ダムにしろ、石炭にしろ、農地開発にしろ、地方にしろというんです。特に水については、水は国家の資源であるとはっきり言ったのが総合開発局です。水を使おうということになった。太平洋ベルト地帯構想だって、水がなければ埋立地の工場だってつくれないわけです。
そこで、総合開発局は、「待てよ。あの太平洋ベルト地帯構想は、東京、名古屋、大阪、北九州の既存の大資本の産業基地を復活させるだけの話じゃないか。それに対して人の供給、エネルギーの供給はどうするんだ。後ろのほうからそれが生きるように、うまくその産業が成長するように支えていくことを何も考えていないじゃないか」と考えます。そこで、37年に全国総合開発計画をつくるんです。それは自民党政権の地方出身の政治家と物すごく結びついてつくられました。
国土計画は必要か、国土計画がどうなって出てきたのかを僕は今話したわけです。 国土計画には2つの流れがある。1つは、国家社会主義型のドイツの国土計画。もう1つは、ニューディールのTVAに代表される水を主体にしたアメリカ型の計画。ただし、アメリカには国土計画はありません。TVAというのはアメリカの連邦政府がつくった数少ない特殊会社です。水をうまく使おう。そして、ローカルな人たちの生活を底上げさせようという2つの流れがある。
それが、国土開発局ができたということで、どちらかというと、国土開発局のほうに今のTVA型の考えが入り、建設省の道路局のほうにドイツ型の考え方、完璧なアウトバーンの道路網などが入り、河川局は総合開発局側に行きました。そのために、建設省の技術屋集団の中で、道路局と河川局とがなかなかつながらないんです。僕が気楽に言えるのは、土木ではなくて建築を出ているからです。
今の話を整理しますと、国土計画というのは、経済企画庁にあった総合開発局の流れを受けた技術官僚が、日本が貧困の時代に必要な資源を最大限利用しようというのでつくった特定地域から出てきて、全国総合開発計画が昭和37年につくられた。昭和37年の全国総合開発計画は、通産官僚のつくった太平洋ベルト地帯構想のアンチテーゼだった。37年に全国総合開発計画が認められました。自民党というのはまさに田舎政党だったから、これは非常にいいということで認めました。
それから、新全総です。しかし、ここにまた紆余曲折があって、全国総合開発計画の中に新産業都市建設促進法というのがあります。それはどこをやったのか。一番お もしろいのは、長野県の松本です。あそこを新産業拠点地域にしました。日本海側は幾つかやっています。有名なのは富山です。新潟もやった。みんな田舎です。それに対して、工業整備特別地域整備促進法というのができた。工特法。これは太平洋ベルト地帯推進派が巻き返した。これは、最終的には工業立地は成功しています。どこかというと、鹿島臨海をやった。徳山もやっています。豊橋もやっています。新産・工特というんですが、日本経済を大きく支えていったのは、工特のほうです。鹿島臨海はすごい。住友の牙城になった。豊橋の三河、あれも工特です。トヨタです。徳山の工業整備地域は、日本の大化学総合メーカーが全部並んでいます。工特のほうが、皆さんの税金を使って工場誘致に成功している。新産はなかなかうまくいかなかった。
そこからわかるように、国民のために貢献して、税金が無駄に使われないで役に立つためには、今言った流れからいうと、通産系の人たちがエコノミストと一緒になった経済計画とそれに基づく地域開発戦略の方がずっと日本を引っ張っていくんです。
全国計画の連中はそれに全部負けていたかというと必ずしもそうではない。ここがおもしろい。昭和44年にできた新全総というのがあります。僕はアメリカから帰ってきてすぐ経済企画庁のプロジェクトに入れられて、新全国総合開発計画をつくりました。その時におもしろかったのは、総合開発局の連中は土地にべったりくっついているんです。通産の連中はカネにくっついているんです。昭和44年にできた新全総は、例えば大規模な港湾をつくって、そこに製鉄所を立地させて、オーストラリアから鉄を持ってきて、アラビアから石油を持ってきて、そこでまぜて何かつくる。君津なんかはそうです。そういうことがやれるんです。昭和37年当時は、君津は鉄ですよ。水島も大分鶴崎も全部、全国総合開発計画で拠点地域にしてつくった製鉄所です。
昭和44年の時には、そういうふうにして立地した日本を代表する基幹産業の工場は、世界で戦うのに十分かという議論をやっていました。それでは必ずしも十分ではない。当時アメリカの力はべらぼうに強かった。大分鶴崎あたりに製鉄所を1つつくったって、ピッツバーグのカーネギーが来て、あっという間に買収してアメリカのものになるかもしれない。それくらい日本は資本力が弱い。
昭和42~43年、今から40年前、この際、日本を底力のある強い国にしなければいけないという議論を一生懸命やりました。その時の議論はかなり世界を見ていたんです。今でも思い出すのは、大規模工業開発地域という議論。昭和40年の時の大規模工業開発基地は、例えば大分鶴崎の工業団地や鹿島の住金の工特の10倍ぐらい必要だ。それを手当てしろという話が出てきた。
その時に、片方では大きい話をしていたけれども、農業はまだ米が100%自給ではなくて輸入米に頼っていた。農林省の悲願は、水をうまく使いながら耕地整理をして、圃場整備を技術革新して、米100%自給をやろうということ。国土庁ができる少し前の、昭和47~48年頃は、米は100%自給ではなかった。農林省は2つのことを言いました。1つは、米100%自給のために何をやるか。圃場整備の技術を徹底的に改善する。これは農学科の技術屋です。種子の改良、水田の田んぼの粘土を反転させる技術。今でも記憶していますが、稲というのは全部水をやっていると、人間と同じでヒョロヒョロになってだめで、成長する時に水を引くと、稲の根が物すごく腰が強くなって張るというんです。養分を吸収して、台風のときも倒れない稲ができる。昭和43年頃、青森県の農業試験場でそれに成功した。これは水管理です。苗代の時に水を入れて、稲の先を分ける。分けて米をつくる。分ける本数を多くしたほうがいい。その時に水を引けというんです。水を引いて、分けてしばらくたってまた水を入れる。これは考えてみると、今のコンピューターコントロールです。コンピューターコントロールと水管理、要するに徹底した水管理のパイプを入れて、コンピューターでやる。それをやれば日本の米は2倍に増える。こんな議論をしました。
それから、油。いつもアラビアやアメリカの価格に踊らされるんだから、徹底して油をストックしよう。価格変動に支配されないように油基地をつくらなければいけない。こんな話をやりました。
もっとすごかったのは、畜産です。当時はハムだって、今のように日本でつくれません。ハムは高かった。バターも北海道のバターはあるけれども、つまらないアメリカのバターでも、当時はすごいバターだと思った。畜産をどうするんだ。こういう議論をやりました。北上高地は戦争中の炭焼きでめちゃめちゃに切られた。雑木林も裸の雑木林みたいなものだった。それに少しずつ木が生えている。そこに牛やヤギを放牧しろというんです。岩手県の北上全域に。ヤギは自分のつめで土をかくので、ヤギを放牧する限りは土は固定化しない。そういうことをやりながら牛も入れて、岩手県の北上山地は全部畜産基地にしろというんです。
もっとすごかったのは、苫小牧東部です。燃料基地を苫東に徹底的につくれ。通産省が、いずれ日本の自動車産業は必ずアメリカへ上陸する。その時に膨大な土地に大きな工場をつくる。工場の中の作業は流れ作業で単純化できる。複雑ではできない。そうすることで、単純作業を繰り返しやるのだから、1人当たりの生産性が上がる。あそこに膨大な自動車産業の基地をつくれ、ということを、大規模開発論といったんです。


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