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(図36)
景観の価値の中には、簡単に言うと見る人が勝手に解釈したものも多くあります。テクノスケープなどはその典型例です。きれいにしようと思って作られているわけではない。あくまで見た人が自発的に「これはいい」と感じ、景観の価値が生まれています。
これをもう少し突き詰めると、これも中村先生がおっしゃっていることの1つでありますが、見る人が非常にクリエイティブな見方をして創造した景観の価値ということになると思います。そこで、西村さんから今回いただいたお題「散歩」という言葉が絡んでくる。これらをどう結びつけるのか、そもそも結びつくのかという感じもしましたが、いろいろ考えてみると意外と繋がる。私は散歩についてこれほど真面目に深く考えたのは今回が生まれて初めてですが、散歩の新しい活き方、あるいは活かし方が、これからまだまだ発掘できるように思っています。
(図37)
まず、散歩が今、世の中でどういう位置づけにあるのかを考えてみます。巷では今空前の「散歩ブーム」と言われています。例えばテレビ番組にも散歩ブームが非常に反映されている。あるいは、テレビ番組が放映されることによって、今の散歩ブームに火がついたとも言えるでしょう。
皆さんご存じかと思いますが、これは「ちい散歩」です。地井武男さんは残念ながら最近亡くなってしまいましたが、2006年から始まったこの番組が放映されることによって、散歩が一気に世の中に広まったと言われているそうです。その後継番組として、今度は若大将、加山雄三さんが同様の番組をされている。さらにこの傾向は広がっていきます。去年1年間で放映は打ち切られたそうですが、女性の散歩をテーマにした「おでかけ日和」といった番組も放映されている。この3番組は主に関東でのものですね。
関西にもそういった番組があります。関西テレビの「よ~いどん! となりの人間国宝さん」です。円広志や月亭八光という関西芸人が、関西各地の駅の周辺を歩き回って、いろいろな宝物を見つけていくというものです。この番組がもとになって、「ぶらり地図」などという冊子も発刊されています。
これだけではない。雑誌を含めると、ここの画面には載せ切れないぐらいたくさんの散歩系の雑誌や本が出版されている。これが一時的なブームなのかどうかはわかりませんが、2006年からこれが続いていることを考えれば、これはブームというよりもむしろ1つの社会現象といっても良いと思います。
次はまた関西の事例ですが、大阪府の公園協会が「OSOTO」という雑誌を10年ほど前から発行しています。私も2回ほど寄稿オファーをいただきました。これもお散歩感覚で町をじっくり見てみようというものです。名前は可愛いですが、内容はかなり真面目なものです。これは今、冊子ではなくてウエブ版になっていますので、関東の方でも読んでいただくことができます。
(図38)
さて、それでは本日のもう1つの重要なテーマである「散歩」について、まずは定義を確認してみたいと思います。百科事典や辞書を調べてみました。「気晴らしや健康などのために、ぶらぶら歩くこと」、「あてもなく遊び歩くこと。そぞろ歩き。散策」。さらに語誌、つまりこの言葉がどのように成り立ってきたかを見てみると、おもしろいことが書かれていました。
実は「散歩」という言葉は、中世の漢詩文に既にある。一般的に用いられるようになったのは、日本では意外にも明治時代以降だそうです。当初、散歩は運動の一種だった。海水浴がそうだったということはよく知られていますが、散歩も運動だったんですね。西洋から教わった風俗の1つだということです。この言葉がどんどん使われることによって、次第に「逍遥」という意味を獲得しました。逍遥というのは、今の散歩の定義に非常に近い。気の向くままにあちこちと遊び歩く、そぞろ歩き、つまり、目的もなく歩く、ということです。
もう1つおもしろいのは、世間の俗から離れて楽しむ、という意味もあることです。よく考えてみると、散歩にはこのような側面がかなりあるのではないでしょうか。西村さんはいみじくも「土日のもの」ということをおっしゃいましたが、そこには日常の業務、あるいは極端に言えば世俗から一時的に離れて楽しむという意味も含まれているかと思います。
散歩や逍遥を愛した先人もいます。哲学者のカントが散歩を重視していたということは非常に有名な話です。1日の日課の中で、散歩だけではなく、朝食などすべて、全く同じ時間にきちっとやっていたそうです。同じルートを毎日同じ時間に歩き続ける。そこで何かしら新しい着想を得ていた。ちなみに近所の人たちは、カントが歩いてくるのを見て、逆に時計を合わせたという逸話まで残っています。それから、京都の哲学者、西田幾多郎さんも散歩をしていました。「哲学の道」の名前のもとになった方でもありますね。
また、これは散歩から若干ずれるかもしれませんが、今和次郎はどうでしょうか。民俗学の研究者で、考現学を提唱した人です。明治から昭和までの当時の風俗、町の様子に加えて、人の服装なども正確に記述して、「現在」を記録し、新しい学問として成り立たせた偉大な方です。彼も恐らく町を徘回しながらそういうものを見つけていったのでしょう。散歩とかなり共通するところがあるわけです。それから、これは現代ですが、1980年代に赤瀬川原平さんや藤森照信先生らが「路上観察学」というものを立ち上げましたが、そこにも散歩の香りがしますね。これも今和次郎の考現学を受け継ぐものだと言われています。
(図39)
このように見てくると、散歩は既に学問になっているような気もします。ただ、私は敢えてここで、前述の先人たちの活動と「逍遥・そぞろ歩き」ということとは別のものではないか考えました。これもかなり強引な分類ですがが、恐らく今ご紹介した4名の先人には、散歩することに対する明確な意図があります。例えば、新しい着想を得たい、あるいは町の現在の様子を正確に記述したいというアカデミックな意図を持って実施されているわけです。
ところが、上にある逍遥、気の向くままに歩くとか、先ほど西村さんに見せていただいたような散歩のスタイルというのは、果たして明確な意図があるのかどうか。意図は非常に希薄な感じがします。いい意味での希薄です。あるいは、副次的な狙いがあってそこを歩く。歩いた結果、何か新しいことが起きている。気楽であり、クリエイティブ。逍遥や散歩にはそういう可能性が少なからず含まれている。
もう少し話を進めていきたいと思います。例えばこんなものがあります。
(図40)
1これは北海道の上士幌町にあるタウシュベツ橋梁というものです。1939年につくられました。非常に不思議な表情をもっています。私も現地に行ってきましたが、強烈な印象、そして感動がありました。
そもそも、何でこんな姿になってしまったのか。もともとこれはコンクリートの鉄道橋でした。後に、近くにダムが建造された。ダム湖に沈むこととなった鉄道は廃線になるわけです。ダムができると、乾いた季節と雨の季節によって水かさが変化して、水に浸かったり水上に現れたりする。しかも、ここは北海道の帯広から少し北に位置しますので、寒さが半端ではないんです。一旦水に浸かったものがまた水上に現れると、コンクリートの中に含まれていた水分が凍結膨張を起こす。そうすると表面がぼろぼろになります。それを毎年毎年繰り返す。しまいには、とてもコンクリートとは思えないような、古代の遺跡のような姿になりました。ある意味みすぼらしくも不思議な魅力を醸し出しています。
私を含め多くの人々がここを訪れるわけですが、そもそもこれを最初に見つけた人は誰なのかと思いました。当然これも見る人が決めた価値です。これは自然の摂理によってできた景観ですので、誰かが意図してつくったわけではありません。従って、この第一発見者は必ずいるはずです。しかも、ここには時々熊が出ます。非常に恐ろしく、危険な場所です。私はそういう認識を持たずに訪れてしまいました。当日は観光客が何人かいましたが、皆さんは熊除けの鈴をつけていました。そんなところになぜ、第一発見者は行ったのか。現代の廃墟マニアたちなら事前に調べて行くことができますが、当初はインターネットもない。そして、第一発見者から景観の価値はどんどん広がっていき、いつしか北海道の名所の1つになりました。1999年には「ひがし大雪アーチ橋友の会」というNPOが結成されています。関係者の方と直接お話ししたことがありますが、大変熱心に盛り上げようと努力されています。2001年には、北海道庁の制度「北海道遺産」にも認定されました。
それから、写真家の西山芳一さんの『タウシュベツ』(2002年)という写真集があります。実は今、ご本人が会場にいらっしゃいます。ご本人の前でちょっと言いにくいですが、大変感動的な写真集です。現場にずっと張りついて撮影されたということを西山さんからお聞きしています。ちなみに、この第一発見者は誰なのかということを先ほど雑談で西山さんとお話ししたんですが、ある人物の名前が浮かんできました。北海道教育大学の先生ではないかという仮説をいただきました。次に皆さんにお会いするまでにきちんと確認して、改めてご紹介したいと思います。

 

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