→日建グループへ





 PDF版はこちらです→ pdf

(図48)
1 さて、ここには非常に特徴的な三角形のとんがり帽子みたいなものがたくさん並んでいますが、これはれっきとした産業遺産です。イギリスの伝統的なビールである「エール」をつくるための施設です。「オーストハウス」という、ホップの乾燥窯です。イギリス南部のドーバー海峡に面したケント州や、もう少し西側のサセックス州に、オーストハウスがたくさんつくられ、ビールの製造が行われていた。ただ、近年は海外からのホップに押され、全てが廃止されてしまいました。ビールをつくっているオーストハウスは今はもう存在しません。ただ、何故かその殆どが「現存」している。新しい用途に転用されながら、しぶとく生き残っています。
例えばこれは住宅にコンバートされたものです。かなり裕福な家のようです。このように住宅やB&Bなどの施設に改造されている。
(図49)
私は、自国の築いた本質的なものを心から愛し楽しむ民族として、イギリス人を非常に尊敬しています。自国の産業遺産に対しても彼らは非常に大きな誇りを持っていますので、機能がなくなったからといってすぐ壊すのではなく、住宅やホテル、レストランなどに転用する。たいへん頷けます。ただ、その路線とは少し異なるものを見つけました。次にお見せする事例がそれです。
(図50)
これはダービシャーというところにある、Premier Innというホテルのチェーン店です。何と、Oast Houseという名前です。よく見ると、確かにオーストハウスの形をしている。これも転用かと一瞬思いましたが、よく考えてみるとダービシャーではオーストは生産されていません。この地域には1つもないはず。これは実は、偽物です。この地域とは全く脈絡のない、レプリカのオーストハウスなのです。
ただ、この価値観は注目に値します。オーストハウスは歴史の詰まった価値あるものである、という認識が定着しているということでしょう。純粋な産業遺産としてだけではなくて、ある意味もっと表層的な見方で価値観が転写されているわけです。これは先ほどのフォリーの考え方に似ていますね。
このホテルの中に入ってみたのですが、内部も丁寧に、本当のオーストハウスのように精巧につくられていました。イギリスの国内には偽物オーストハウスがこのほかに2軒あります。非常に興味がわいたので、いつか訪ねてみたいと思っています。別の機会に皆さんにもご紹介できればと思います。
(図51)
今日のタイトルには「『テクノスケープ』を通じて」と副題にはありますが、「見る人が創造した景観の価値」はテクノスケープに限った話ではない。様々な種類の景観に、見る人が創造した価値が含まれることがわかります。
もう1つ、散歩する人、つまり「見る人」というのはどういう人なのかということも重要な点です。どういう種類の人が景観の価値を創造するのかということです。これに関しては既にたくさんの論考があります。
2つほど例を持ってきました。これは私と西村さんの指導教官である中村良夫先生が1995年に書かれた論考です。この論考はその後いろいろなところで引用されています。いわゆる「脱農者」とか「脱工者」と言われる人たちが、それぞれ「農」と「工」の景観の価値、風景の価値に気がつくということをおっしゃっているわけです。
例えば、農業の景観は美しい。皆さんの中にもそのように感じられている方は多いかと思います。自分もそう感じます。しかし、農業に携わっている人たちにとっては、農業の美しさというものはなかなか見つけにくい。そこはあくまで働く現場、あるいは自分たちとの間に利害関係がある場所なわけです。そういう状況にあっては、その景観の価値というものに気づくことが難しい。ところが、農業の時代から工業化社会に入ったことによって、農業というものをもう少し引いて見ることができる人が増えたわけです。そのとき、農業景観の美しさに気がつく人たちが現れた。そういう時代変遷と、景観の価値の変遷があったということが言われています。
今ご紹介した工業景観(テクノスケープ)に関してですが、現在は工業の時代から情報化社会になった。今はさらにそれが進んでいる状態にあると思いますが、そこで工業を脱した脱工者と言われている人たちが、今度は工業景観の価値に気がつく、ということをおっしゃっています。私個人の経験を省みても、このお話は非常に納得できるところがあります。
それから、同じく景観論を研究されている奈良県立大学の西田正憲先生。瀬戸内海の風景論などの著作がある先生です。最近『自然の風景論』で日本造園学会の学会賞を取られています。中村先生がおっしゃっていることと共通するところがありますが、風景を発見するのは、基本的に外部のまなざしである。つまり、主体と客体の距離の問題が重要である。距離が開くことによって、対象を風景、つまり価値ある景観として捉えることができるとおっしゃっています。これも私たちの実体験を振り返ってみると非常に納得するところがあるのではないでしょうか。
西田先生はさらに踏み込んでいる。故郷の風景というものに美しさを感じるのは、故郷を離れたときである。これも主体と客体の距離が、時代だけではなく物理的にも大きくなり、対象に対する慈しみが生まれるとおっしゃっています。確かにふるさとの風景の美しさに目覚めるときというのは、ふるさとを離れたときなのではないでしょうか。私も自分自身のことを考えると、非常に納得します。このような風景を発見した人を挙げ始めたらきりがないですが、例えば国木田独歩は武蔵野の風景の美しさを発見しました。
そして、風景の創造に関しても論考があります。風景を発見するきっかけは一体何なのか。これは、私にとっても今回「散歩」ということを考えるにあたって、非常に気になることです。例えば散歩や逍遥によって、対象との偶然の出合いがある。この偶然の出会い、偶然の発見は一体何なのか。それをまたいろいろ考えている人たちがいるわけです。
「セレンディピティ」という言葉があります。「偶然からモノを見つけだす能力」のことです。自分はこの概念に注目しました。散歩はまさにセレンディピティの舞台です。
もう少し説明します。例えば、ノーベル賞など世界にはいろいろなすばらしい研究成果がありますが、その中には最初からその成果を上げようと意図的にやられたことがある一方で、「失敗」から偶然そこで起きた現象が新しいものとして発見されたケースもある。例えばアーノ・ペンジアスというアメリカの物理学者。彼は天体観測中、そこに変なノイズが入っているのに気づいた。消そうとしてもうまく消えない。そのノイズが何なのかということを突き詰めてみたら偶然にも大発見に繋がり、ノーベル物理学賞の受賞に至ったのです。こういう事例は他にもたくさんあります。
先ほど、散歩の中でいろいろなものが偶然に発見されると言いました。不完全なアナロジーですが、私たちは風景のセレンディピティを逍遥の中に少なからず期待しているのではないか。散歩にはこういう期待感が含まれているのではないかと思います。脳科学には「偶有性」という概念があります。簡単に言ってしまうと、意外性みたいなものに対して人間は非常に喜びを感じる、ということです。全く予期しなかったことではなく、何となく来るんだろうなと薄々期待があって、その通りそれがパッと現れたとき。これも偶然の出合い、セレンディピティということに通じている。
その際最も重要なのは、それに「気づく」ということです。それを何てことないつまらないものだと最初から無視して通り過ぎてしまうのではなく、それを見たときに、「あっ、これはもしかしたら大事なのではいか」と直感するということです。価値あるものなんだと受けとめる「受容」が非常に重要であると、いろいろな本にも書かれています。

      8  10 11
copyright 2014 NIKKEN SEKKEI LTD All Rights Reserved