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フリーディスカッション

石原 どうもありがとうございました。
時間も残り少ないの、質問がございましたら、どなたからでも。
赤松(市民情報誌+α編集委員会) 3点ほどお伺いしたいと思います。ハイコンテクスト社会というお話が後半でありましたが、その一方の対極にあるものとしてマクドナルドという話も出ました。いわゆるマクドナライゼーションみたいなものに対して、ハイコンテクスト社会をジャパナイゼーションみたいな形で展開できる可能性があるのか。特にビジネスモデルとか企業のビジネススタイルのレベルまで落とし込んだ形で、パッケージとして展開する可能性があるのかということが1点。
2点目は、現場力というお話がありました。一方で、クリエイティブクラスの話も前半にありました。現場力型のクリエイティブクラスみたいなものがあり得るのかどうか、これが2点目です。
最後は、これも前半のほうですけれども、寛容に関してです。かつて国際寛容年というのがあったかと思います。日本では当時は寛容ということが重視されるような社会では決してなかったと思います。一方で、国際的に見ても、原理主義的な状況がひたひたと忍び寄っている状況があると思います。それと並行する形で考えてみたときに、「もえモデル」自体も、スポット的で、一種純化されたようなものだと思いますが、そういった中で、「もえモデル」あるいは純化される状況、原理主義的な状況と、しなやかな標準化みたいなものは、どんな相関関係で成立するという理解をしたらよろしいでしょうか、この3点をお尋ねしたいと思います。よろしくお願いします。
石原 最初の質問を、もう一度お願いします。
赤松(市民情報誌+α編集委員会) ハイコンテクスト社会がマクドナライゼーションとは違う形でジャパナイゼーションとして、ビジネスモデル的にパッケージとして成立しますでしょうかどうでしょうか。
小林先生 できると私は思っています。それをやっていかない限り、将来はない。冒頭で、世界の先進国が、イノベーション(技術開発)に向けて競争優位を保っていく以外に手はないと申し上げました。1つのアジア的なやり方、特に日本的なやり方というもので、ハイコンテクストに応じたジャパナイゼーションをやっていかざるを得ないと思います。
マクドナルド型社会は強いです。まず、標準化が簡単、わかりやすい、何よりもスケーラビリティー、スケール性がある。それに反してハイコンテクスト型の一番の欠点はスケール性に乏しい。マーケットが限られた中では価値はあるかもわからないけれども、スケール性をどう展開できるのかというところが課題です。そこも不可能ではないと思います。
1つの事例で、生け花。世界各国に生け花の組織がある。フランスの生け花とアメリカの生け花は全く違う。それぞれの国においてのローカライズの仕方がある。しかし、その知や生け花の型、そういうところでの標準化、それを現地のコンテクストに応じて展開するような師範システム、徒弟システムができ上がっている。そういう意味で、先ほどおっしゃられたパッケージ化は、サービス単独ではできないけれども、それの装置、それに合わせた形でのパッケージ化があると展開することができる。そこに日本人が入っていくだけではなくて、現地の人間がパッケージ化の中に加わっていく、そういうスキームをやっていくことが大事ではないかと思います。
2番目。現場力でクリエイティビティーがあるかというお話でした。この国が今まで遺憾なく発揮してきたクリエイティビティーというのはやはり現場力です。概念的なところのクリエイティビティーもあるけれども、現場からクリエイティビティーを出すということは当然あり得る話です。この国の1つの創造性の源がそこにあったと思います。
3つ目の寛容についての質問ですが、原理主義というものがなくなることは多分ないと思います。いつまでも続く危険性はあると思います。しかし、寛容というのは非常に強い。専門的な話で恐縮ですが、アクセルロッドという人がコンピューターゲームで、どういう戦略がロングランで一番強いかというコンテストをしました。いろんなプログラム同士で競い合わせた。最終的にパフォーマンスを上げる長期戦力は何かというと、寛容のプログラムが平均的には一番成果が上がったという有名な話があります。ある局面、局面で負けるということはもちろんありますが、ロングランで成功に導くのは寛容の心だと思います。
日本語で「諦める」という言葉があります。「諦める」というのは全てを明らかにするということです。いろいろなことが全部わかった。自分がこういうことになるということも理解できた。だから、受け入れるということです。許すのではありません。許すというのは極めて西洋的です。それを受け入れるというのが日本語の「あきらめる」です。お坊さんみたいですが。私は、実は今『正法眼蔵』という本を読んでいます。曹洞宗の道元の書いた本です。彼が言っている「縁起」というのはまさに寛容です。我々は実態があるわけではない、私自身がいるわけではない。先ほどおっしゃった原理主義者、私でない者が必ずいる。私に敵対する者がいる。その敵対する関係の中で、私がどうあるべきか。それで社会が営まれていっている。そういうありようでしかない。それを寛容の心で、その人とのとりなす関係を生きていきなさい。これが人と人の縁(えにし)で、縁起である。なかなか難しい本で、私も完璧には理解していませんが。私は長期的にはこの寛容というのが人のありようとしてロングランでは非常に優位であり、またこの国の人間はこれでやっていけると思うんです。だからこそ現場力ということでもやっていけるし、どこへ行ってもそこの人と一緒に努力していいものをつくっていくことができるのではないか、理想論かもわかりませんが、そういうふうに思っています。

 

 

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