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(図3)
これも古い絵画です。ブルージュ、ベルギーの有名な町です。商人がディスカッションしています。人と人が集まる場、ミーティングの場として都市が生まれてきた。
(図4)
 この簡単な式の話を20年ほど前に土木学会の論文賞をいただいたときに記念講演で話しました。未だにこれは私の考えを表現する1つの基本的な公式であり、都市をつくり上げる1つの理由を示しています。シトフスキーという有名な経済学者がいます。本当ならノーベル賞を取れたのでしょうが、残念ながらその前に亡くなられた。1950年代に『ジョイレスエコノミー』という素晴らしい本を書いています。21世紀を予測して、彼はこういうことを言っています。「21世紀には知識社会が訪れるだろう。」これは正しいと思います。「人々は忙しくなり、時間価値が上がってくる。時間価値が上がってくると、人と人、誰かと会うということがなかなか面倒になってくる。」この辺になると、ちょっとずれてくるんです。
彼は、こんなことは本の中に書いてないんですが、彼の言っていることを簡単な式であらわすと、このように表現できるということです。みんなが暇だったとき、自分が友達と会いたい確率が0.1だったとしましょう。10日に1回ぐらい同じ友達と会ってもいいと思う。相手も同じような感覚を持っているとします。ミーティングを行うためには両方の予定が、その日空いていて「イエス」と言わない限りミーティングは実現しない。予定の空いている確率が0.1、それほど忙しくない時代だと考えましょう。ミーティングの成立する確率は0.1×0.1で0.01、1年に3回ぐらい会っている。ところが、人が忙しくなって、0.01になってくると、0.0001になってしまいます。さらに0.001まで忙しくなると、ある特定の友達と会いたいとはめったに思わない、あるいはごくたまに思う状態です。こういうことであるとミーティングが実現する確率は0ばかりが並びます。
シトフスキーは、「皆さん、古い友達、小学校時代の友達を思い起こしましょう。残りの人生であなたはまずその人に会わないでしょう。会う確率はゼロです」と言いました。「こういうことが21世紀にやってくる。知識社会というのは、人と人が会うのが極めて重要な時代にもかかわらず人と会うのが難しくなってくる。この矛盾をどう克服することができるか、これが21世紀の都市の課題だ。」こういう言葉を残して彼は亡くなりました。
でも、彼の話はどこか間違っている。私たちは毎日誰かと会っている。毎日のように飲みに行っている。人とのつき合いが減っているわけではない。忙しければ忙しいほど飲みに行っている。
このシトフスキーが言った21世紀のジレンマのどこが誤りかというと、確率が減少するということです。人間は忙しくなると、人に会うことがおっくうになってくる。ここは事実かもわかりませんが、それを克服していっている。昔の小学校時代の友達と会うことはないかもしれませんが、相手を変えているのです。もっと興奮する相手、ワクワクする相手、それを探しているのです。それだったら確率が下がることはない。時間価値が上がる、にもかかわらず、この確率を下げない方法、それは活動範囲を広げる以外に手はないということです。
20世紀に入った当初、例えば永井荷風が日記を残しています。永井荷風が1日、東京の町をどう歩いたか、私は地図上に落としてみたことがあります。そうすると、彼の行動半径がいかに小さかったかということに驚きます。ゾラの小説『居酒屋』の主人公の1日の行動半径は500メートル以内で終わっています。その範囲の中でしか動いていない。ところが、今、我々の1日の行動半径はどれだけあるかというと、はるかに大きい。発達した交通技術のおかげだと思います。
行動半径が広くなると、次の問題が出てくる。相手を見つけるのが非常に難しくなってくる。バラエティーがたくさんある。今はIT技術やいろいろなコーディネーション技術がある。電話で相手とアポイントメントをとるのは大変ですが、メールあるいはフェイスブックなどのソーシャルネットワークを使えばもっと簡単にできるということで行動半径を克服してきた。これによってシトフスキーのジレンマを克服してきたといってもいいと思います。さらに、これが今後どう続いていくのか。そこはまだわかりませんが、少なくとも近い将来、10年、20年ぐらいの中期的にはこの傾向はまだまだ続くのではないかと思っております。
(図5)
そう考えてくると、都市というものが違う目で見えてくる。ここでは「時間配分の場」ということです。我々の1日の時間というのは限られているわけです。その限られた時間を過ごす空間、それが都市だということです。その根幹的な原理は、都市が人と人が会うために生まれた、ということにあります。
私は土木工学科を卒業して、ドクター論文は交通で取りました。交通計画をずっとやってきました。交通モデリングというのはこの辺を全く無視しています。1人でどこでもいつでも行けるという世界を描いている。何のアポイントメントもなしにどこでも行っている。こういうことは実はあり得ない話です。昼御飯を今なぜ12時に食べるか。これはみんながそうするからです。昔はそうではなかったのです。
それから、都市の半径。これも時間歴史学という分野があって、その分野の先生の話によりますと、世界で一番大きな都市、世界都市の半径は、そのときの交通モードで通勤時間2時間で動ける範囲に決まっていたといいます。それ以上は無理だということです。2時間というのは、通勤で生理的に人間が耐え得る限度なのです。それによって都市のサイズは規定されている。そういう場として都市を見ていきたいと思います。
(図6)
時間と都市を重ねてみるという研究は余りされていませんが、私の基本的な研究テーマの1つでした。このテーマに取り組まれた人の中に、ゲーリー・ベッカーというシカゴ大学の先生がおられます。ノーベル賞を取りました。ノーベル賞の記念講演の時に、彼は、時間という概念についていろいろ語られました。「時間というのは我々が取引している普通の品物とはやっぱり違う」と言うんですね。どこが違うか。ベッカーは、大学で学生に質問をしてみた。大概の人は、「時間は取引できない。時間は貯蓄できない。時間は、人生の長さの差はあるけれども、長さの違いは今わからない。それぞれの人にとって1日は1日だ、平等だ。」このように言います。
しかし、ゲーリー・ベッカーは「これは全部間違いだ。時間というものは取引できます、時間は貯蓄できます、時間ほど不平等なものはない。」と言ったのです。ほとんどの市場の取引は実は時間の取引だと彼は言います。例えば私も今秘書が何人かおりますが、彼女たちの時間を実は買っている。買わなかったら自分でやらないといけない。とても時間がない。サービス業の大半は、実は何のことはない、時間が形を変えたものの取引をしているというのが現代の経済であると言えます。
時間は貯蓄できるか。貯蓄できます。銀行に預けることは、もちろんできません。しかし、時間を別のものに形を変えて貯蓄することはできます。それは何かというと、能力、技術、知識、愛情、こういうものです。スキーをやりたい。その能力は市場で買うことはできません。自分が時間を使って、能力に変換していかない限りはできないのです。自分の時間を使ってやらないとできないもの、市場では買えないもの、それが能力であり、知識であり、技術であり、人的資本である。そして、それを自分の体の中に貯蓄できるのだと言いました。時間資源は平等かというと、それは違う。1時間の価値が全く違う。体の中にどれだけの能力や人的資源が身についているかということに依存してくる。同じ1時間からどれだけの生産ができるか、どれだけの効用を引き出すことができるか。それはその人が体の中に蓄えた人的資源に依存しているのだと言うことです。
学生が時給1000円のアルバイトに行くということは、自分の時間の価値が1時間1000円以下であると言っているのと同じです。ちなみにゲーリー・ベッカーは自分の時間の価値について、自身で一言も言っておりませんが、ゲーリー・ベッカーにビジネスの目的で会いに行くと、まず会ってもらえません。シカゴ大学が公式レートを発表しており、コンサルタント・フィーは1時間300万円程度だと聞いたことがあります。それ以下では会ってくれません。彼の時間価値はそれぐらいあるのです。こういう視点から見ると、時間の金銭的価値ほど人々の間で不平等に散らばっているものは、実はないのではないかというのが、ゲーリー・ベッカーの話です。

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