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(図1)
皆さんにとってソウルはどんな都市でしょうか。皆さんにとってソウルのイメージは開発途上国の首都として、乱開発かつ過密な都市という認識があると思います。また、ソウルに一度でも来られたことのある方は、活力のある都市、発展している都市というイメージがあると思います。
(図2)
このスライドは60年前のソウルの様子です。1950年から53年までの間、韓国には戦争があって、ソウルの都心部はこのように破壊されました。
(図3)
60年過ぎた最近のソウルの様子です。美しい川と美しい山がある都市になっております。
(図4)
森記念財団から、世界の都市の総合力をランキングが出ていますが、2008年にソウルは世界で6番目の都市になりました。これは70項目の項目を評価して順位を決めるらしいのですが、去年の10月に評価したもので6位になっております。
(図5)
私は、戦争の傷を背負ったまま、今の都市に発展していったソウルのことについて説明したいと思います。
今日は、ソウルの発展過程を紹介して、その後、最近のソウルの変化のトレンドについて、また、都市基本計画について、そのためのソウルのいろいろなプロジェクトについて紹介したいと思います。
(図6)
ソウルの発展過程です。ソウルというのは韓国の中でも特別な都市だと思います。ソウルの面積は韓国全体の0.6%にすぎないんですが、その人口は韓国人口の20%を占めています。また、ソウルで働く首都圏の方たちも入れると、全体の50%になります。
(図7)
ソウルは朝鮮半島の中央部にあり、昔からの戦略的な要衝地でありました。先史時代から人間が暮らしていて、ソウルの東側に行くと、その住居地が発見されております。BC18年から475年まで百済の首都でありました。1394年から朝鮮の首都として位置づけられました。
(図8)
朝鮮時代の首都であるソウルは、漢陽という名前でした。交通の便がよく、また、船を通じて全国どこまでも行ける都市でした。朝鮮の建国の時には風水に基づいて土地を選定しました。今のソウルの旧都心は、内側に4つの山があり、外側に4つの山があるという構成になっています。前には水があり、後ろには山があります。
(図9)
その当時のソウルの様子は風水に基づいた構成でした。正宮殿の真ん中に景福宮という正殿がありました。東側には宗廟という歴代の王様たちをまつっているところがありました。西側には神に祈りができる場所がありました。このような首都の様子は東洋で普通に見られる構成です。内側にある山4つを結ぶ城郭がつくられました。東西側に4キロ、北と南では5~6キロぐらいの距離を持っております。その当時の人口は10万人で、朝鮮後期になりますと20万人まで増えてきました。その当時の建設の様子をシミュレーションでご紹介したいと思います。
(図10)
東西方向に大きな道路、今、鐘路(ジョンロ)と呼ぶ道路ができました。南大門まで行く道が形成されました。
(図11)
朝鮮時代が終わって、韓国は日本の植民地になりました。漢陽と呼ばれたソウルはその時代から京城と呼ばれることになりました。その頃都市の構造が変化しました。道路が建設され、鉄道と電車が導入され、伝統と歴史が毀損されました。最初の都市計画法令が制定されることになり、法律に基づいて、京城市街地計画がつくられました。目標は1965年まで計画人口110万人を集めるというものでした。人口は20万人から開放される直前には90万人まで増えてきました。
(図12)
その当時の京城の様子です。先ほどお見せした景福宮という正宮殿の前に朝鮮総督府がつくられました。4つの山のうち南側にある南山という山に神宮をつくりました。
(図13)
南山にあった朝鮮神宮の様子です。左側のほうが昔の朝鮮神宮の様子で、同じ場所で撮った最近の写真が右側になります。
(図14)
独立は1945年でした。独立してすぐ韓国戦争がありました。ほとんどの都市が破壊されました。戦争の前に140万人もいた人口は65万人に減ってしまいました。1953年に休戦になり、多くの人口はまたソウルに戻ってきました。その後、戦後復旧事業が続くようになりました。そのころから農村の人口が持続的に流入しまして、1960年には240万人になりました。

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