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図22)
清渓川がふたをされることになりました。
(図23)
また、31高架道路がつくられました。
(図24)
それが清渓川の上にある清渓高架道路とつながるようになりました。
(図25)
一言で言うと、ソウル市内はすべてが工事中と言えると思います。
(図26)
 そのころ、ソウルの交通の渋滞は激しくなりました。1970年には7万台しか車がなかったけれども、その中心部の交差点はこのような様子になっていました。

 

 

 

 

(図27)
この写真はバスの終点でバスを待っている市民の様子です。これは今韓国の繁華街になっている江南地域の写真です。
(図28)
このような渋滞を改善するために1971年から地下鉄の建設に着手しました。
(図29)
ソウル市内には現代的な様子の新しい建物のセウン商店街がつくられました。
(図30) 
江南のほうでは、大団地のマンションがつくられるようになりました。
(図31)
その当時のソウル市内の様子です。東京とすごく似ていると思います。
(図32)
その後の1980年代からのソウルの成長をお見せしたいと思います。1980年から1995年までのことです。このころは韓国では軍事政権が政権をとっていた時期です。その後になって民間の大統領が生まれました。また、この時代には経済の成長が目に見える時期でもありました。

 


(図33)
私は、この時期を後期開発時代と呼んでいます。ソウルはこの時代に持続的に拡張しました。人口が1000万人を超え、車の台数がかなりのスピードで増えました。所得水準が1万ドルを超えてから、21万台あった車が204万台まで増えました。ソウルの中におさまりきらない人口はソウルの周辺に新都市を建設して、そこに分散されるようになりました。そのころ首都圏に集中される人口を恐れる声が出始めました。
(図34)
その時代に重点的に推進した事項について説明したいと思います。このころソウルではアジア大会とオリンピックが開催されました。この2つのイベントを成功させるためにいろいろなインフラの建設がありました。地下鉄が続けて建設されるようになり、漢江の開発、下水処理場などの建設がありました。新都心がつくらました。新規宅地に関しては公営開発をメインにしています。この開発利益を私有化するのではなくて、国が公有化するということを図った時期でもあります。このころ江南の開発が終わり、川の北側は沈滞することになりました。
そのころの主な制度整備を説明しますと、都市設計制度の導入があります。都市基本計画は2回に分けて樹立されました。1984年には1000万人、1990年には1200万人を目標人口としています。

 

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