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(図35)
また、1988年のソウルオリンピックはソウルを変える大きなきっかけとなりました。
(図36)
そのころのソウルのメイン事業は地下鉄建設だと思います。公共交通問題を解決するために8つの路線を整備しました。今は約700万人以上が利用する市民の足になっています。
(図37)
都心地再開発が行われるようになりました。
(図38)
 深刻な住宅難を解消するために宅地開発と住宅地再開発を行いました。左側の写真のように、低密度の宅地が、右側のように高密度の宅地に変わりました。とんでもない建築のラッシュになっていったと思います。右側の写真のように景観を全く考えないアパート─団地をつくることになりました。この時期は住宅難を解消するために容積率を400%まで認めました。

 

(図39)
 この写真は、時代によってソウルはどういうふうに拡張されたのかを見せる写真です。赤くなっているのは1960年までの市内の様子です。それが時代によって外側に広くなって、ソウルは拡張され続けたということです。

 

 

 

(図40)
開発時代の最後はすごく悲劇的なことが起こりました。ハードウエアの面では、聖水大橋と三豊デパートの崩壊事故がありました。1979年に建設された聖水大橋は1994年、15年後に壊れまして、ここで30人以上の人が死にました。三豊デパートは1980年代後半につくられたものの1995年に崩壊しました。500人以上が死んでしまいました。本当に悲劇的なことでした。ソフトウエアの面でも大きな問題がありました。1997年に国が破産しました。35年にわたるこの開発時代はこのような大きな教訓を残して次の世代へと移っていくことになりました。
(図41)
1995年以降はソウルの人口は安定してきました。所得の面では中進国まで成長した時期ではなかったかと思います。そのころにちょうど民間の大統領が生まれるようになりました。
(図42) 
このころ所得は2万5000ドルになり、車は300万台まで増えることになりました。また、爆発的な都市化の副作用を治癒する時期になっています。昔の開発時代のソウルは過密で交通混雑、環境汚染などのイメージがありました。物量、効率、成長至上主義が市民たちのイメージの中にありました。
(図43)
開発時代が終わった1995年からの時代を整頓の時代と呼びたいと思います。この時代は、経済的な富裕による新しい価値を追求する時期でもありました。このころからは自然、歴史、地形の回復、また生活の質を求めて、人間中心の持続可能な都市になることを目指しました。
1995年からはソウル市民の1人1人がソウル市長を選ぶことができるようになりました。その時代は市政の安定性が求められ、市民の世論を積極的に収れんする時期でもありました。
1995年からは開発時代の副作用を治癒するいろいろな政策が出されました。歴史と自然を復元し、緑地空間を拡張する政策が生まれました。公共交通手段を拡充して、ニュータウン事業を本格的に開発する時期であり、都市管理がハードウエアからソフトウエアに移動される時期でもありました。都市のデザイン、魅力、都市競争力などが大きなテーマになりました。
(図44)
この写真は南山にあった外国人のためのマンションの様子です。1994年になりますが、ソウルに都をつくってから600年を記念してこのアパートを壊すことになりました。昔の地形を回復して、その南山を市民たちに返すということです。
(図45)
また、景福宮という宮殿の前にあった朝鮮総督府を壊すことになります。
(図46)
また、大規模な公園が造成される時期でもありました。今まで4人の民選の市長を迎えました。この写真は、1人目の民選市長がつくった大きな公園です。右側の写真は、2人目の民選市長がつくった公園です。これは98メートルぐらいの大きな山です。この山は開発時代にごみを捨てたごみ処理場の上につくられた山です。これを公園にしました。
(図47)
3人目の民選市長だった今の韓国の李明博大統領は、このような公園をつくりました。右側の写真はこの前やめられた呉世勲市長がつくった公園です。開発時代だと、この場所にこのような公園ではなく、限りなくマンション開発をしていたと思います。

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