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フリーディスカッション

大松  最初に、私のほうから少し話題を提供したいと思います。今回、プロセスとしてご説明いただきましたように、いわゆるまちづくりのガイドラインという全体のフレームワークを行って、その後、それぞれの建築のデザインというものになっていったわけです。これは、多かれ少なかれ、都市デザインのプロセスとしては一般的に行われています。大きく1つ違っているのは、ガイドラインをつくるプロセスに建築家としての内藤先生が当初からかかわってこられたということだと思っています。通常、建築家の方がガイドラインの段階からかかわるのは余りない。最初の3年、4年は、俯瞰した議論、概念図ばかりの議論で、内藤先生はかなり退屈だったのではないのかと思うのですが、そのあたりのご感想をお願いします。だからこそアーバンコアみたいなものが提案できてきたんじゃないかとも思っています。
また、内藤先生のご意見、ご感想と、あわせてそのときにずっとご一緒でやられてきた岸井先生のほうからも、そのことについてのご意見をいただければと思いますので、よろしくお願いいたします。
内藤 退屈ではなかったですよ。めちゃくちゃおもしろかったです。僕が大学に呼ばれて大学の教官の立場になったのは土木です。渋谷のプロジェクトが始まるのは大学の先生になって5年目ぐらいでした。だから、およそのことはわかっていたので、河川の話が出ても、道路の話が出ても、一応予備知識があったということです。
それから、今は三陸の委員会にも出ていますが、このぐらいの人数がいると、委員会席も含めてほとんど土木出身なんです。建築はまったくといっていいほど、いない。私は、建築が果たせる役割はかなりあると思っています。社会システム上、土木、都市計画という形でマクロから攻めていく視点と、生活者の視点というか、最後に、そこに歩いて生きている人間の視線から見返すという意味においては、建築家が非常に大切な役割を果たせるわけです。鳥瞰的に都市を捉えてコントロールしていく視点と、その中に住んでいるアリの視点からまちを見返す視点、その両方ないと、私は計画としては不十分という気がしています。そういう意味で、渋谷の場合、僕の役割としては、むしろ利用者側がどう考えるかという建築家の視点から、都市、土木をできるだけ見るようにしてやってきていますので、余り違和感はありませんでした。
岸井 土木と建築の話題で言うと、内藤先生は、徹夜して一晩で模型をつくってくるんですね。これは我々とは違う。つくったほうが空間がよくわかるんだよとおっしゃいます。そういうものを見ながら議論させていただいたというのは、私としては非常にいい経験になりました。
言っていいのかどうかわかりませんが、ガイドラインがあればいいというものでもないんですよ。ガイドラインは文言ですから。その後、気持ちをどういう形にするのかということです。具体的な空間像をいろいろ議論しながらガイドラインをつくっています。ガイドラインのときは抽象的で空しいということも、特にここの場合にはなかった。つまり、解けてないものがたくさんあったんです。解きながら方針を決めなくてはいけなくて、そういう意味では、言葉が先に走っているような場面ではないと思っていました。
大松 土木と建築という話が出ましたので、それに関連してお話ししますと、確かに土木や都市計画の世界では、委員会を開いて、議論していくということが多く見られると思います。一方、通常の場合、建築デザインというのはかなりクローズな世界です。建築家とクライアントという関係、少し大きなものであると、事前に景観の相談に行政に行かなければいけなくなる。それも限られた行政の関係者と相談をしてということで、建築のデザインというのは比較的クローズな環境の中で行われるケースが多い。そういった関係を今回はデザインアーキテクト、デザインアドバイザーという方々を入れて、比較的オープンな場の中で建築のデザインの議論をされてきたと思います。そのあたりのご苦労や狙いみたいなものがあれば、これも内藤先生のほうから一言お願いできればと思います。
内藤 私は基本的には建築家ですから、もし僕が彼らだったらということを考えるわけです。ちょっと呼ばれてアドバイスしてバイバイと言われたらつらいなと思っています。各街区の事業者の方にお願いをしているのは、どこかの部分はできるだけフルターンキーで、彼らが、これは私のつくった場所だと言えるような場所をつくってくださいということを言っています。このあたりがまだ先行き不透明ですね。例えば汐留の計画で、世界的な建築家であるジャン・ヌーベルというフランスの建築家を呼んできて、電通ビルをデザインしました。ところが、ジャン・ヌーベルの雑誌の特集が組まれていて、それを見ると載ってないんですね。ちょっと座敷に呼ばれて出稼ぎに来て帰っちゃいましたみたいな、そんなデザインアーキテクトの使い方ではもったいない。やはりやる以上は、私がやったと言ってもらいたい。日建設計も東急設計も、事業者の方も、あれはみんなおれがやったと言える人数が多いほうが、僕は計画としては成功なのではないかなと思うんです。だから、間違ってもデザインアーキテクトが、「あれはあなたの作品ですか」と聞かれたときに、「あれは違います」と言わないようにするために、これからもう一手、二手必要なのかなと思っています。
 そのかわり、ひどいものができたときはちゃんと責任をとってもらう。公共のプロジェクトである以上はそうだと思います。苦労といえば、彼らのやる気を出させ続けるところが、今まで苦労したところかなと思います。
大松 今、内藤先生から、ここは自分の作品だと言える場所をつくる。そのかわりきちんと責任をとらせるというお言葉がありましたけれども、都市計画、都市デザインのほうは匿名性が強く、この場所はおれがやったと言わないかわりに、比較的責任もとらないと言われることも多いと思います。そのあたり、いかがでしょうか。
岸井 場所が渋谷であるということを考えたとき、いろんなものがたくさんあったほうがいいなというのが基本としてあります。ある人が自分の考えで空間をつくっていくことに関して言うと、私はまだかなり心配しています。これはまだ絵に描いただけなんです。実際、物にするためにはまだ十何年かかる。これまでのこういう組織がずっと続いているかどうか。人はかわる、意思決定者もかわる、デザイナーもかわってくると、その時には自分で新しいものをやりたがるに違いない。そういう嗜好を持っている人たちだと思うんです。だから、都市計画的に言うと、コントロールしなければ危ない。でも、渋谷は全部コントロールしてしまうと渋谷でなくなってしまうので、そこが難しい。そういうのが私の印象です。
内藤 1つ補足します。全く岸井先生の言われたとおりで、私も都市計画的なプロジェクトに幾つか巻き込まれていますが、一番長いのは旭川です。駅の設計は私がやりましたが、この間、市長は4回かわっている。JRの担当者は最後のところで亡くなってしまって、JRの社長さんは3回かわりました。ずっと一気通貫でそれを見ていたのは篠原修と、この間亡くなった加藤源さんと私の3人だけ。会社の仕組みも行政の仕組みも変わっていくので、まちづくりの非常に長い時間をどう過ごすかといったときは、委員会なりシステムなりで残していくしかないのかなというのが僕の印象です。
大松 そういう意味では、渋谷は今のところ、非常にいいシステムができて進んできていると思います。デザインアーキテクト、デザインアドバイザーについては、先生から候補者が示されて、それぞれの事業者側がお見合いをしてということで1つ1つ決まってきたプロセスのご紹介が先ほどありました。そもそも最初の候補者を先生のほうで選ばれるに当たって、自分より年下というガイドラインもありましたが、それ以外にどんなことを悩まれて選定されたかということをちょっとお話しいただければと思います。
内藤 あまりないんですよ。各街区のところに僕が名前を書いて渡したかな。ざっくりですけが、若手、40代、50代でこの手のプロジェクトに柔軟に発想ができる人間で、第一線で活躍している人間となると、20人挙げるのは難しいと思います。今の建築界で10名から20名の間ぐらいだと思うんです。その方たちの名前を挙げた。これは独断と偏見です。複数挙げて、それでそれぞれ協議していただいたという経緯があります。
大松 会場からの質問が出ています。
内藤先生ご自身、旭川のお話もありましたけれども、そのほかにも数多く駅の設計をされてこられたと思います。渋谷の今回の駅のデザインに関して、行事役というお話もありましたが、ご自身でどの程度かかわられたんでしょうかというご質問がありました。そこの部分、いかがでしょうか。
内藤 誰か内藤さんに設計してもらったらと言ってくれるかな、と10年間思い続けてきましたが、誰も言ってくれない。(笑) 今のところ、私が直接手を下すところは街区に関してはありません。ただ、今ヒカリエから出ている連絡橋はデザイン委員会が立ち上がる以前に、大型のトラスの提案がされていて、渋谷の公共空間で初めて出てくるもので、これはまずいと思って、火中の栗を拾うようなつもりで、それをやると言いました。やりたくてやるというより、僕がやらざるを得なかったということです。その横にメトロの駅ができ上がりますが、跨道橋と並ぶような格好になりますので、それも私が設計をすることになっています。歩道橋係という感じですね。
大松 ヒカリエへ向かうデッキの部分ですね。
それから、岸井先生への質問かと思いますが、今回のプロジェクトは、ネットワークをきちんとつくっていくというのが非常に大切だということですが、その中でアーバンコアと周辺のラージというよりはミドルエリアぐらいの関係性みたいなものが、ガイドプランやまちづくり指針で初めてできたものなのか、もう少し大きな上位計画がその前にあったのかというご質問が出ていますが、いかがでしょうか。

 

 

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