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建築と都市デザイン

内藤 内藤です。よろしくお願いします。
岸井先生に大体説明していただいたので、私が説明することはほとんどないんですが、説明を聞かれていておわかりのとおり、岸井先生は非常にデジタルに、正確に説明されましたが、私はどちらかというとアナログでアバウトなほうなので、アバウトな説明をしたいと思います。
ずっと、岸井先生と私は二頭立ての馬車だと言っています。私たちの上に森地茂先生という全体をまとめる総大将がいます。二頭立ての馬車の馬は必死に馬力で走らなければいけないんですが、その後ろで手綱を引いているのが森地先生ということになっています。
基本的には森地先生を総大将にして、都市基盤系の委員会を「まちづくり調整会議」の下にぶら下げてもらって、その委員長を岸井先生がやられて、私が副委員長をやる。定量的な話だけではだめなので、定性的な話をやる委員会をもう1つぶら下げてもらい、それが「渋谷デザイン会議」。そこの委員長を私がやりまして、岸井先生には副委員長になってもらっているという相互乗り入れです。岸井さんと一蓮托生でやってきた8年間と言ってもいいのではないかと思います。時に私は基盤に対しても口を出しますし、岸井先生はデザインについても口を出すという関係でずっとやってきています。
 僕の最初の印象は、「このままでは渋谷はつぶれる」というものでした。そう思わないとここまではやらない。とにかくこの8年間は大変でした。私の持ち時間の3分の1ぐらいは渋谷に割いていた時期もあります。それぞれの街区の事業者が来る。東京都が来る。渋谷区が来る。委員会も3つありますから、その事前の打ち合わせがそれぞれある。表と裏と合わせると、私の持ち時間の3分の1ぐらいは渋谷に投入されたのではないかと思います。なぜそうしたかというと、このままじゃまずかろうと思ったからです。
 始まって3年目ぐらいだったと思いますが、委員会のメンバーで、今、富山の副市長をしている国交省の神田昌幸さんが、委員会が終わってから駆けてきて、「内藤さん、このままでは渋谷はだめになる」と言ったのが印象的でした。でも、私も神田さんも、なぜだめになるのか、これをはっきりとは言えないんです。計画の先を読んでいくと、漠然とですが、何故かあまりよい街にならないような気がしたのです。これはプランナーの勘です。都市再生特区そのものの動かし方が非常に大きい。単純に言うと、容積率を上げるので、その分公共貢献してくだいね、という基本的にはアメとムチの関係で引っ張るわけです。アメは容積、ムチは公共貢献です。ただ、アメとムチですから、キツネとタヌキの化かし合いみたいな格好になって、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかもわからない。先を読んでいるほうが勝ちだ、ということになります。岸井さんも私も、どこまで先が読めるか、そういうことでやってきました。
それから、私は、少なくとも多分3回はプロジェクトから降りる、と言っているはずです。特に3.11以降は、岸井さんも三陸のことにかかわっていらっしゃいますが、私も三陸にかなりかかわっています。だから、このプロジェクトで組織的な駆け引きをするような話が続くと、本当に嫌になります。「そんなにぐずぐず言うんだったら、おれは三陸に向かう」と、たんかを切ったこともあります。「渋谷は別に人が死んだわけではない。向こうでは街が壊滅して人がたくさん死んでいるのだから、そっちに行く」と言ったこともあります。事業的な駆け引きばかりで、よりよい街を作るという方向に足並みをそろえることが出来ないなら、勝手にやればいい。
本気でやるんだったらやりましょう。それだったら男気を感じてやりますが、本気でやらない、いいかげんなことだったら、わざわざ僕らがかかわってあれこれ言うことはない。勝手にやってくださいと言うしかないと思っています。
(図38)
岸井さんと重複しますので、重複しているところは飛ばします。
この「渋谷駅中心地区まちづくり調整会議」、名前は何回も変わっていますが、座長は森地先生、副座長に私と岸井先生という格好で、ここに国交省と東京都と渋谷区と事業者などいろいろな人が入ってきます。いろいろな人というのは、今日もたくさんお見えですが、JR、東急、メトロ、組合でやっているところは組合の方などが入り全体を調整しています。大変な会議で、森地先生が「ともかくこの全体はガラス細工ですから」と、最初のころの委員会で言われたのを覚えています。どこかの一角が崩れると、渋谷の再開発全体が成り立たなくなるということで、インフラ系と都市系、建築、三位一体でいかなきゃいけないということです。
この調整会議の下に先ほど説明した基盤系の調整部会とデザイン会議をぶら下げてもらって動かしてきました。これまでの間に上物の調整は大体ついてしまったので、これからは公共空間が中心になる。各街区の落ち着きどころが見えてきたので、公共施設調整分科会というのを新たに作ってもらい、東大で私の後任の中井祐教授に公共空間をまとめてもらうことにしました。出来上がるまでにおよそ20年かかるので、私もこのプロジェクトを完遂するまで生きている自信がない。適当なところでできるだけ若い人に渡したほうがいいと考えたわけです。先ほど岸井先生が言われたエリアマネジメント分科会、公共施設調整分科会というものが基盤系の分科会の下にぶら下がっています。
(図39)
それぞれの街区にデザインアドバイザー(AD)をつけて、組織事務所と組んでもらうという格好にしました。これは日建設計は嫌だったと思うんです。そんな面倒くさいことをやらないで、日建にも人材はたくさんいるんだから設計させてくれ、と思ったでしょう。私は、これをかなり強引に入れてもらいました。かなりご無理を申し上げたということは自覚しています。ただ、森地先生と岸井先生と相談もしましたが、どう考えても、渋谷というまちのあり方としては、整理がついたまちづくりだと勝ち目がない。都市間競争に勝つための数少ない手段としてADを付けることにして、今では基本的には、私はよかったと思っています。
(図40)
森地委員会というか全体をまとめる委員会はこんな感じです。先ほど岸井先生が何でこんなにたくさん集まっているんだと言いましたが、森地先生がいて、横に私と岸井先生がいて、こっち方に国交省の各部局、こっち方は東京都の各部局、事業者が後ろのほうに座っていて、事務局として渋谷区が向こう側に座っているというとんでもない委員会です。私も幾つも委員会に出ましたが、これだけメンバーがそろう委員会というのは余りない。それだけみんな本気だったということだと思っています。


 

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