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渋谷再生と都市デザインのフレーム

岸井 ただいまご紹介いただきました日本大学の岸井と申します。内藤先生がデザインの具体的なお話をされる露払いで30分ほど、どういうことが起きていたのかということをご紹介する役割かと思っています。
(図12)
先ほどご紹介がありましたが、これは渋谷駅のヒカリエができる前の状態です。鉄道がJR、メトロ、東横線、井の頭線と、複数、多層に組み合わさっていて、そこに張りつくように、デパートが西館、東館と、小さく分断されて広がっていました。この渋谷駅がそれなりの問題を含んでいるということは皆様よくご存じのとおりです。
(図13)
上から見たところです。東口も西口も非常に多くのバスが行き来をしています。山手線の駅でバス利用者数が一番多いのがこの渋谷駅です。さらに言うと国道246号線が南北を分断するかのごとくに存在をしているという状況があります。また、西口広場を見ると、歩道があって、タクシー乗り場、バス停、さらに車道があって、バスが縦方向に並んでいます。十分な歩道もなくて、バス会社の人が歩行者をかき分けるようにして案内をしているというのが現状です。
(図14)
こんな渋谷駅を何とかしなければいけないということで、副都心線が入ったころからいろいろな議論がされてきました。今日ここで話をするために、私がいつ頃から渋谷に関わりだしたのかなと思って確認してまいりましたが、渋谷の実務にかかわり出したのは恐らく2006年からだと思います。「ガイドライン2007」をつくり出した時からです。この時から内藤先生とご一緒させていただいてお手伝いをしてきました。
その前に、実は「渋谷駅周辺整備ガイドプラン21」というのが2003年にありました。覚えている方もいらっしゃるかもわかりませんが、その時の雰囲気を映して、将来は首都高を3階に上げるという案や、国道の下に回遊性のある大規模地下空間を実現できないか、また、広場の下は大きな地下駐車場にするなどのプランがありました。ハチ公前の広場にもデッキがかかるという絵が一時期ありました。地元でもいろいろ問題提起されて、結局、都市再生緊急整備地域の指定を受けて、もう一度見直しをすることになったものが「ガイドライン2007」だと思っています。
その時から今日までずっとかかわっていますが、その間には、後でご紹介しますが、西口広場の上にふたをかけてみたいとか、西口広場は半地下にしたほうがいいとか、突然、色々な思い付きを言う方が出てきます。大変複雑な場所ですから、新しい人が来るたびに自分の新しいアイデアを組み入れたくなるのはやむを得ませんが、結局、西口の広場を半地下にするという提案を取り下げてもらうのには1年かかりました。西口広場の上に全面的にデッキをかけるという議論には半年かかっていまして、今ちょっと休憩中です。相変わらず私は否定をして戦っています。こんなことをやりながら、今日進んでいるという状況です。
(図15)
これは、ここが変わりますよという絵です。おおむねご理解いただいたとするならば、そもそも何でこんなことをするんだという話に立ち返りたいと思います。私が最初に都市再生の話を受けて、ガイドラインをつくる作業にお邪魔をしますと、人がすごくたくさんいるわけです。渋谷をどうするこうするという議論がされ出したとしても何でそんなにたくさん集まって渋谷の議論をするんだ、どうも聞いているとたかがデパートの建て替えじゃないか、そんな議論だったら自分たちでやってもらったらいい。それなのに、東京都や国の人もいる。こんなに大勢集まってやる必要ないのではないかというのが第一印象でした。実際そう申し上げた記憶があります。「何をするんですか。駅前広場の街区が広がるわけでもない。容積率が上がるということを受けて何かしたい気持ちはわかるが、皆さんのお話は単なる建て替えじゃないか」、そもそも渋谷にみんなの力を注ぐ必要があるんでしょうかねという話をした覚えがあります。
(図16)
その頃考えていたのは、東京をこれからどうするかということです。東京自身を戦える都市圏、魅力ある都市圏に変えていく必要があるのではないかと個人的に思っておりました。そのためにはいろいろなキーワードがあるだろう。
(図17)
安全、効率、文化、環境、それをどうやって東京の中に埋めていくのかという時に、東京の都心部、大・丸・有を初めとする地域は国際金融ビジネスというもので頑張っていこう、これは大いに結構だ、日本を引っ張ってもらおう。ただ、日本の国際的な評判の中で、生活にかかわる部分が余りうまく評価されてないのではないかという気持ちを私は持っておりました。日本の、東京の生活の質は決して世界に劣るものではない。魅力的なものとして世界に発信することが東京にとって日本にとって必要だろう、という気持ちを持っておりました。それをもしするならば、渋谷を中心としたにエリアあたりがいいのではないかとおぼろげながら考えていたところであります。
(図18)
実際、渋谷の周辺には大使館と文化施設が多く整っています。前々から有名な住宅地も多々あり、そういった方たちのお買い物をする場でもあったでしょうから、それなりに憧れの場でもあったのかと思います。
最近ですと、コギャルが出てきて以来、各国のメディアでも、渋谷のファッションが大きく取り上げられています。昨今の英語のガイドブックを見ますと、ハチ公前のクロッシングはマストで行けとなっています。
こんな国際的な可能性も含んでいて、文化の薫りもする地域で、実際文化を反映する施設が多々ある渋谷だからこそやることがあるのではないか。

(図19)
 その結果、内藤先生などとお話をしながら、ガイドラインの一番最初のほうにこの図を描いたわけであります。無理がないかと言われれば、やや無理しているかもわかりません。東京の両輪として、グローバルビジネスの拠点である大・丸・有と対比するように、生活文化の拠点がこのエリアにできる。東京の都市としての力、魅力を世界に訴えるためにはこの2つが不可欠なのではないか。そのための渋谷だというぐらいの話にしないとみんなで協力する意味がないのではないか。実際にそういう可能性はある。ならば絶対それで頑張ろうというのが最初の頃の気持ちであったと思います。
(図20)
ただ、渋谷のエリアの中で開発をするのはごく一部、駅の周りだけでした。その外側に都市再生のエリアがあるわけですが、この中にあるさまざまな基盤施設の取り扱いについては、私どもがかかわった時点では、まだ十分に方針すら決まっていませんでした。東横線が副都心線につながるということだけは決まっていました。これも実は、そこの部分はかなりの議論があったようですが、私どもはそこには直接かかわっておりません。それを前提として考えようということでした。先ほど埼京線をJRの山手線のホームに並べるようにしますというご説明がありましたが、その時にはまだ本当にやるという最終意思決定はされておりませんでした。あるいは渋谷の東口の駅前広場の下に流れています渋谷川をどう取り扱うのかということについても、議論が整理されておりませんでした。
そのような極めて基礎的な部分の方針が決まらない中で、ガイドラインの話を始めました。広場の交通処理をどうするか。246という大きな幹線道路によって地域が分断されているような気分になっているが、これを何とかしなければいけない。渋谷は谷だから雨が集まってくる、雨水対策もやらないといけない。渋谷には地下街がある、そっちのほうが危ないのではないか。渋谷の真ん中だけやっても渋谷のプラスにならない。周辺部とつながってこそ渋谷である。渋谷の周辺部の開発をどうするんだ。一体この渋谷に生活文化というけれど、何を持ってくるのか。これらいろいろなことを同時多発的にやらなければいけないということになったわけであります。
(図21)
2006年に実務としてのこの会合に参画をしてそういった話をしはじめたわけです。ただ、実は2003年頃、多分ガイドプランというのを受けた後だと思いますが、渋谷区内で筑波大学の大村先生を座長にする渋谷の研究会ができ、そこで一緒にやろうと呼ばれたことがありました。渋谷をどうしたらいいか、という議論を勝手にする会でした。そういう会ですから、何か話せということになりました。おまえは交通が話せるのではないか、渋谷の交通について語れという話になってつくったのがこの辺のパワーポイントです。
これは戦後すぐの戦災復興都市計画の図面です。ここが渋谷です。246は50メートル、環六が80メートル、道玄坂とか宮益坂は40メートルといった広幅員の計画が戦災復興直後はあったということです。
(図22)
ご存じのとおり、ドッジライン等々もあって、大きく計画を変更しました。それが昭和26年(1951年)の戦災復興変更都市計画で、その際に渋谷駅はこうなりました。246は40メートル、こちらの青山通りから40メートルで来て、30メートルでぶつかる。一方、道玄坂は20メートルにぐっと減りました。神宮通りも25メートル、明治通りは30メートルぐらいでしょうか、そんなプランに変わったわけです。

 

 

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