→日建グループへ





 PDF版はこちらです→ pdf


河川屋さんなんかは、50年発生確率を100年にしようといっています。100年でもいいんですが、1000年ではないわけです。50年か100年で、河川でいえばダムの設計をしたり、堤防の強化をする。津波も大体同じことになるのではないかと思います。
東日本はそういう対応でいくと思いますが、問題はまだ起きていない1000年確率の東海・東南海・南海です。東海・東南海・南海は1000年確率ですが、東海・東南海・南海は20年間ぐらいで起きるぞと、地震学者は首都直下型を余りいってくれないんです。今は980年目ぐらいです。地球物理の人は海面の中に地震計を置いて、そのゆがみを測定していますから、400年ぐらいの履歴のことでいっています。400年ぐらいまではわかりますが、1000年となると誰もわからない。しかし、首都直下だって、地震が次に起きるのは今後30年に70%ぐらいの確率というのはそうおかしくないだろう。なおかつ、マグニチュードが7.3ではなくて9ということを将来議論せざるを得ないだろう。
そうしますと、先程の風速15メートルの被害想定の量、例えば建物が燃えるのが40万戸で、揺れと、地盤の傾斜、がけ崩れと液状化で15万戸ぐらいというのは、揺れのほうが大きくなるかもしれません。今12万戸ぐらいとしますと、マグニチュード9になると、揺れによって20万戸ぐらい、液状化で5万戸ぐらい、傾斜地で3万戸つぶれる。12~13万戸が25~26万戸になるかもしれない。火災は40万戸と見ています。確実にマグニチュード9でも、木造の建物のほうがしなやかですから、新しい建物はもろには壊れない。そうすると、燃える方が41万戸でなくて30万戸ぐらいになる。足すと結果として50万戸ぐらいという話もある。
繰り返しますが、1000年に1度の地震が、東海・東南海・南海と同じように首都直下でも30年後ぐらいに来るかもしれない。マグニチュードは7.3でなくて9だという被害想定はこれからやると思います。6年~7年経っていますから、そろそろ中央防災会議も首都直下の話をやると思います。東京で50万戸か60万戸ぐらいの地震被害は出てくるということです。
次の話題です。先ほど東北で、全壊と半壊で10万戸、10万戸で合わせて20万戸と言いました。東京の想定が現在12万戸です。11万戸が倒れて、8000戸ぐらいが液状化で、がけ地が4000戸ぐらい。マグニチュード9になって倒れるのが20万戸になりますと、東日本大震災と大体同じくらいの建物が倒れるかもしれない。それが東京の場合には集中的に起きるという違いがあります。
結論を言いますと、我々は東日本大震災のあの惨状を見て、30年後ぐらいに来る東京の大震災をコンパクトにしたものを目の当たりにした。津波で壊れたものは火災で全部やられる。そういう印象を持っています。そうなると、小泉さんの最後の時ですが、首都直下で、想定外であると思っていた今言ったようなことを条件として入れますと、東京だけで想定内に40万戸から50万戸ぐらいは建物がやられる。東京全体の建物戸数は、1200万人ぐらいですから、3で割ると住宅が500万戸。500万戸のうちの50万戸、東京全体で約1割ですね。23区はもっと大きくなります。そういうことが何となく数字として整理できるかなというのが、これからの話のイントロダクションです。最近の僕の関心はそういうところにあるということを申し上げて、本題に行きます。今の話は1つのマクロな話題です。もう1つ。東日本大震災の現状は7月に説明しました。もうお忘れになっていると思いますが、南三陸で海岸ぶちに公営住宅の津波避難ビルを5階建てでつくってあります。スライドをお見せしたはずです。陸前高田でも海岸よりちょっと後ろに入ったところで、5階建てのビルが建っていて、これが残っています。一番象徴的なのは南三陸の本当に漁港からすぐのところに建っていた5階建ての公営住宅、がっちり残っています。片っ方で、女川でコンクリートの建物がひっくり返っていたと言いましたが、現場を見ますと、小さいんです。小さくて施工が悪い。小さいというのは重さがない、施工が悪くて、基礎ぐいと1階の床板がきちっと一体施工してない。だから浮力がかかって上がってしまう。それでひっくり返っていました。あれは女川で集中して起きていて、ほかのところでは、ホテルを含めて鉄筋コンクリートの建物は全くといっていいほど流されていません。
去年の例のインド洋大津波のアチェに行きました。アチェの津波が起きて7年目ぐらいになりますか、アチェはどうなったかと行きましたら、予想どおりです。貧乏な国ですから、コンクリートの建物はそんなにつくれません。昔の町どおりに家が建っていました。防潮堤もできていない。観光できれいな町です。ただ、建物は、私の想像ですが、インド洋大津波の前は貧しい建物がいっぱい並んでいたはずです。それが世界じゅうからの援助でその金が個人個人の建物の改修に向けられたのではないかと思う。建物は小ざっぱりして小ぎれいなんです。それがズラーッと並んでいます。そこの間に2つ、3つぐらい津波避難ビルがあります。津波避難ビルと津波避難ビルの距離は500メートルぐらいあった。津波避難ビルはほんのわずかポツンポツンとあるだけで、あとは2階以下の平屋の多い木造の住宅商店街がずっと海っぺりまで広がっていました。そういう形で、津波であれほど悲劇を味わったんだけれども、日常生活に戻れば、やはり海に近いところで商売をしたり、荷物をおろしたりしている。そういうのが自然の理なんでしょうね。
高台避難をするというのがアチェの復興計画でもあった。高台に住宅を持っていったりという案もありましたが、全部役場や学校の公共建築物です。それは高台に行っている。相当奥です。海っペりは津波が来なかったら本当に楽しい一般市街地だった。
何故その話をするのかというと、岩手県の三陸のリアス式海岸の津波で洗われた集落はほとんど漁港です。もう1つ重要なことは、漁港プラス、あそこは昔の街道筋です。江戸のころから宿場町がずっとあった。例えば大槌にしても山田にしても、海っぺりの集落は水産業に従事している人たちだけかというと、実はそうではない。そこは昔の宿場、陣屋があったところですから、郵便局もあるし、警察の出張所もあるし、宿屋もある。海辺でないところに市街地ができる。盆地の中の、例えば遠野みたいなところでも自然に発生しただろうという市街地があるわけです。そこの中で人々の深いつながりが生まれてきているわけです。

 

 3       10 11 12
copyright 2012 NIKKEN SEKKEI LTD All Rights Reserved