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1804年に佐原鞠塢という人が、今は向島百花園と呼んでいる新梅屋敷を開いて、大田南畝(蜀山人)や酒井抱月といった文化人を集めていろいろなことをやりました。隅田川の七福神などを生み出したのもその人たちです。文学的な情緒を漂わせた伝説の地がその後も続いて、明治になると、幸田露伴が住んで、森鷗外も幼少の頃この辺に住んだり、文人墨客が集まる場所になりました。
そういうところに、明治の終わり頃から工業化の波が進んでいきます。農村に工場がどんどん出てくる。当然工場労働者が住む住宅も増えてくるということで住宅化も進む。農村に工場や住宅が立ち並び、入り組んだ路地の町並みが生まれました。地図をご覧になると、明治44年頃の向島の地図では細かい農道のようなものがあります。それが今に至って、昭和のレトロな雰囲気の長屋の路地空間となり、それもまた1つの魅力になっています。
そういうものを求めて若手の建築家、アーティストの卵が長屋に住みつきます。一軒家を使ってアート展をやったり、向島全体で10カ所、15カ所、20カ所が、同時にアート展をやったりするグループもこの辺に集まってきています。それも、先ほど申し上げたような文学情緒の漂う伝説の地になったのが今に生きているのかなと考えております。映画の舞台も結構あります。撮影所などもありました。
今、女将が1人お見えになっていますが、向島は東京の6花街の中で最大の花街があります。料亭街があります。今残っているのは16軒です。芸者さんも120人ぐらいいると思います。こんなに残っているのはここだけです。これがこれからの観光資源です。夜の世界は大事にしなければいけないですが、意外と昼の世界も活用できます。東京スカイツリーに上って向島で食事をして、芸者さんの踊りを少し見る。それが1つの商品になります。これが向島のエリアです。
(図23)
それに対して江戸切絵図の本所をご覧ください。右側が今の地図。道路などの都市の骨格はほとんど変わりません。歴史は向島より新しいです。向島は在原業平ですから800年代です。本所は1657年が契機です。明暦3年に明暦の大火がありました。江戸じゅうが焼けて10万8000人が亡くなった。この時を境に、江戸幕府は両国橋をかけて隅田川の東側を開拓します。それ以降本所が開けてくる。1657年の明暦の大火以後の流れを言いますと、明暦の大火で亡くなった方を埋めて回向するために、両国橋を真っ正面に行ったところに回向院というお寺を建てて、そこで弔うわけです。1702年に赤穂事件の討ち入りがありました。討ち入りの舞台となった吉良邸の跡を区が公園として整備しております。隅田川の花火が始まったのは1733年。
(図24)
回向院にたくさんの人がお参りに来て繁華街になる。見せ物小屋が出る。勧進相撲が行われる。1833年にはここで定場所が年2回行われるようになります。今に至る相撲の街の成り立ちです。
1760年に葛飾北斎が生まれて、生涯90年のほとんどをこのあたりで絵を描いて過ごしました。幕末の英雄、勝海舟が生まれて24歳までここに住んでいました。1717年の桜が植えられた翌年の1718年に生まれたのが「もゝんじや」というイノシシ料理のお店です。江戸前握りずしの発祥や鬼平のモデルといわれる軍鶏鍋のかど家もここで生まれるなど江戸以来の食文化もあります。今、両国のあたりに江戸時代に生まれたお店が5~6軒あります。
大相撲と回向院の街、葛飾北斎、勝海舟を生み、芥川龍之介の成育の地が両国です。
江戸東京博物館ができたのは平成5年です。職人さんもたくさんおります。関東大震災、東京大空襲、度重なる災害の犠牲者を祀っているのが東京都の震災慰霊堂です。
これが両国を中心とした本所の話になります。
(図25)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうした江戸情緒の残る街をどういう形で観光してもらうか、というのがこれからのテーマになるわけです。我々がいつも言っているのは、街歩き観光です。飛騨高山や、北海道は、1つの場所から1つの場所まで離れていて車やバスで移動します。地方はそうですが、東京の場合は、狭い街の中にいろいろなものが詰まっているのが特徴です。ですから、車なんか使わないで歩きましょう。歩いていろんなものを発見してもらう。我々としてはそういうプレゼントをしたいというのが願いです。それが街歩き観光。
先ほど向島と本所をご紹介しましたが、こだわって深く突っ込んでしまうと抜け切れないようなところがあります。そういう個人のこだわりにもこたえられる観光にしていこうということです。

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