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日本は明治6年に公園制度をスタートさせます。明治維新直後の混乱期に何で公園行政が始まったのか不思議です。文明開化と富国強兵の時、公園という市民福祉の制度ができるわけがない。私の考察では、江戸幕府、つまり徳川体制からの終戦処理ですね。幕府関係の寺、社地、上野の寛永寺、芝の増上寺、こういう土地をどう扱うか課税上とても難しい。江戸時代、高外除地といって免除していた場所がありました。明治政府はそれを引き継がなければいけない。徳川家由来の土地、地方では大名由来の土地国有化したのです。ただ地盤は国有化したものでも大衆に親しまれていた園地をとりあげたり閉鎖するわけにいかない新政府の評判が落ちてしまう。それで、そういう場所は大蔵省に届ければ「公園」というものにして、免税扱いにする、ということにしたんです。上野公園、芝公園などそうやって出来ました。浅草公園も同様、浅草寺は徳川の寺ではありませんが、庶民人気の寺です。浅草寺境内を浅草公園に公園設定して国有地化しました。それを一区、二区、三区と区画割りして貸したのです。浅草六区には芝居小屋を認めたのです。仲見世とかその店賃、使用料を公園の収入にし、土地は国ですが、その地上の利用権は東京市が持ちました。昔から公園など身近な施設は積み立てて日比谷公園の建設費などにしたわけです。
やたら細かい話をしましたが、「公園」は最初から市民権を与えられずに、意外と苦労してきたことを知っておいてほしいと思います。税金なしで自前で稼いで、次々に公園を整備し、途中からは幹部職員も含めすべての公園スタッフの給料までも公園財政から出すほどのことをやってきました。造園家は結構苦労して精いっぱい公園をつくってきた。それでも足りないので岩崎さんなどにお願いして六義園や清澄公園などを寄付してもらったのです。それも井下の仕事でした。
その井下の卒業した東京高等農学校は今の東京農業大学の前身で、飯田町が発祥です。この会場の近くに飯田橋駅から九段に向かったところに東京農業大学発祥の碑が立っています。農大は旧旗本の榎本武揚という人がつくりました。幕府の海軍をつくり五稜郭で敗れて捕まる。でも、人材として惜しいというので、明治政府は彼に4つの大臣をさせています。その榎本が創立した農大は、甲武鉄道が通るので渋谷に移り、戦後世田谷に移ったのです。厚木キャンパスは日建の設計です。
さて、明治6年の太政官布達公園は、いろいろ申し上げたような背景から、江戸時代遺産を公園と呼びかえたものです。それまでのストックを公園という新しい名前をつけ、一般市民に開放したわけです。政府自らが文明開化にふさわしい、条約改正にふさわしい東京づくりをやるための市区改正設計が出されます。もっとも、最初にこれも申し上げておきますが、市区改正設計の当初案には日比谷公園はありません。
土木学会をつくったのは古市公威。フランス留学の土木の大家です。古市が審査会の中で発言します。「あの練兵場の跡は、公園にしたほうがいい。」ずっと前エンデとベックマンの中央官衙街計画で、あのあたりに公園構想は描かれていますが、日比谷公園の位置を明確に公園にしたらどうかと提案したのは古市公威です。私は時々思うんです。審議会というのは意外と役に立っているのではないか。原案にない公園ができるんです。審議会メンバーはそれを意識しないとダメなんです。私は事務局のシナリオを読むだけということはしませんよ。
吉野芳継というちょんまげをずっと結っていたという小石川区の議員がいて、古市に賛成するんです。そのふたりが提案して原案にない公園が決定する。それが明治22年の市区改正です。
では第一の話題「誕生期:西洋文明の受容」です。日比谷公園はいろいろな人が案を出しましたが、みんなダメで、辰野金吾設計案が最後に出てくるんです。ところが、その案も納得されなかった。ここがポイントだと思います。文明開化であっても日本人は和魂洋才だった。日本人が慣れ親しんだ緑については、完全な西洋式デザインでは納得できなかったのでしょう。そこで当時ドイツの留学から帰ったばかりのまだ若い造林学者の本多静六を辰野が紹介設計案を提案をします。それが採用された。そこから、日本のランドスケープ、つまり近代造園が始まる。東京帝国大学の林学科にできるのです。後に農学科の園芸でもやりますので、農科大学の農と林両方に造園を講義する教室ができるわけです。もし、辰野金吾のプランが通っていれば、工科大学にランドスケープ教室ができたかと私は思います。世界的に見れば、農学系にも多いが、工学系やデザイン系にもたくさんあるわけです。工学部か、農学部か、面白い。きっかけは日比谷公園ということになります。
第2は、公園とは何か。「Parks for People」公園は人間のための空間です。もちろん建築だって同じ。この理想を、現実の都市公園は十分やり実現していないのではないかと危惧を私はしています。私は公園を限りなく愛していますが、現実の公園は迷惑施設と言われたりしています。もちろん管理費の足りなさも大きいですが、公園の理想を考えているかどうかが大事です。自分の作品をつくろうと作家は思っているかもしれない。しかし公園はプライベートガーデンとは違う、パブリックなものです。つまり、利用者が喜ぶものでないといけない。それには行動科学や環境心理学にもとづく普遍性があります。

公園の理想何か。日比谷公園の場合は「3つの洋」を意識的に目指しました。当時の市民が憧れる洋風の象徴です。洋風の花、洋風の音楽、洋風の食事です。この3つを提供したわけです。セントラルパークの近くにもヨーロッパ各地にもパークホテルというのがあります。公園とホテルは関係ないのに、パークというのはきっと理想世界。パークは好ましいイメージなんでしょうね。現実の公園とはずれがあるかもしれませんが、本来公園、パークは、市民あこがれの世界であったということを確認したいものです。だから私は、公園の究極は「文化」でなければならないと思っています。
第3は、空間。「幕の内弁当のような洋風公園」が日比谷です。多様性いっぱいの空間です。日比谷公園は後で細かくお話ししますが、大きなS字型カーブの園路で区切られているので、6つのゾーンができ、その中がさらに細かく池とか噴水とかいろいろな施設がつくられています。多分何十もの違った空間があり、まさに幕の内弁当です。いろいろな味がある。私は好き嫌いがあって魚介類がダメなんです。でも、幕の内弁当ならほかに食べられるものが必ずある。都心に幕の内弁当は有利でしょ。どんな人でも、日比谷公園です。個人、カップル、グループ、家族連れと誰でも、十分に味わえる公園空間です。
そのようにさまざまな利用に対応できるかは、辰野案にはなかったと思う。明快な機能を掲げ目的にあわせてデザインするのでは、今の日比谷公園は生まれない。有名建築家は非常に明快な建築をつくる。でもそれで本当に100年、200年もつかというと疑問だし、多数の多様なユーザーに受け入れられるかは別です。日比谷公園はそういう意味で明快でない。むしろ迷子になってしまうという声もある。日比谷公園は実に幕の内弁当のようなものです。

 

 


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