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 ただこの四角はオリジナルです。当時日比谷に公会堂を安田財閥が寄付する話が後藤新平との間で話合われていたんです。その予定地をあけておかなければいけないので四角にした。当分の間、建物は建たないというので花壇にしておきました。洋花で人気が出たので、今の公会堂の場所に移るのですが。ここは草地、池をつくると土が出るので、その土を3つに盛ったので三笠山と呼びます。
当時小沢圭次郎という人がおりました。評価すべき人物です。小沢酔園と号します。日本庭園の専門家です。横浜の原三渓みたいな人です。明治の初期は中国の文化大革命みたいに、廃仏毀釈で古いものはぶっ壊せ、寺はつぶせです。ですから、仏像はみんな海外に流れてしまう。お城や天守閣は風呂屋のたきぎにするため払い下げるということが日本中で起こっています。そんな時代に小沢は、自分ひとりで、日本の古典を、一生懸命庭園書を買い集めて保存したのです。今、国立国会図書館に酔園文庫として残っています。有名な『作庭記』『前栽秘抄』など庭園を全部私財を投げうって保存したのです。雑誌『国華』に「国苑源流考」を連載した学者でもあります。本多は、三笠山はその小沢に日本庭園をつくらせる場所としたんです。文明開化時代、日本庭園など不用と結局つくれませんでしたが。
石垣があります。日比谷見附の御門枡形がありました。山下濠があって、築地川に抜けて浜離宮に行く。本多はこの日比谷見附の石垣を残した。これはすごいです。古いものをみんなぶっ壊す時代に、石垣を生かす。石垣を生かすには前の濠を池の形でつくりなおそうというわけです。これはドイツで学んだ歴史の保存という本多静六の高い見識です。
大きな曲線園路が雲形定規で引かれ、そのためいかにも洋風に見えますが、門の位置を見ると、桜田門があるから桜門、霞が関があるから霞門、有楽町門から有楽門、正門としての日比谷と名前がつけられています。ただその位置は、日本園芸会案でも、他の案でも殆どの案に共通しているというのが私の見解です。それまで提出されたものの共通的を重ねてみれば、たぶん誰もが納得できるものになるでしょう。共通点を上手に拾えば普遍性も出てくる。
意匠はいかにも洋風。ドイツのパルク、ドイツ林苑風。全体は森のようなで自然風景式曲線の園路を入れ原っぱをつくり、自然樹の樹木が散在するという方法です。
これはドイツ留学から持ち帰った本の図面からとっていく。実際にトレースしたのは助手の本郷高徳という長野県人だったと思います。だけど、コーニッツ市の公園広場の形を左右ひっくり返したり、ドレスデンの図案を模倣したり、ベンゼンの病院の庭をまねたりしている。三笠山近くの日本庭園部分は小沢酔園に任せ、公会堂予定地をあけて第一花壇にしたのです。こうやってきたんです。
私ふうに言いますと、デザインの上手さだけが日比谷をつくったわけではない。むしろその後の歴史、時間の積み重ねが今日の日比谷公園をつくった。ここが建築空間とランドスケープ空間の基本的な違いです。植物、自然で構成されたランドスケープ空間は時間とともに成長し、発展していくのです。熟成しだんだんよくなっていく。だんだん悪くなるのではなくて、だんだんよくなるわけです。日比谷はまさにそういう公園の味わいの象徴です。それだけの時間を待たなければいけないということでもあります。
本多先生の気配りがもうひとつあります。自分がまだ若くて信用がないことをカバーすべく一流の先生の名を借りるんです。衛星については、軍医で有名な石黒忠悳をアドバイザーにする。第一花壇の部分は、公会堂予定地ですが、パンジーやチューリップという西洋の花を植えるわけです。造林学者ですから、花は素人です。
そこで福羽逸人をアドバイザーにする。子爵福羽逸人です。東京帝国大学農科大学の卒業生で、フクバイチゴを開発した人でもあります。新宿御苑を実質的に完成させた人です。博覧会のパリに行ったときパリのベルサイユの園芸学校の校長アンリ・マルチネーに図面を頼んで帰る。福羽さんは、その図面をもとに今の御苑をつくったんです。図面はお願いしたが、全部日本人が施工した。福羽が監督しました。そういう大先生、福羽先生のご指導でやったということです。ただ福羽の本を読んでみましたが日比谷のことは記録に出てこないのです。だから、どの程度、指導したのかわかりません。ともかく福羽の名前を使った。園芸の先生も衛生の先生も庭園も一流の小沢圭次郎という具合。本多の処世術はでは「手柄は他人に」、「苦労は自分が」、これが大事だということです。現代のデザイナーとは違う面を持っていたようですね。

 

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