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(図4)
日比谷公園の生みの親、本多先生。小さな写真ですが、本多静六です。いつも詰め襟を着ていた人です。本多静六は埼玉で生まれました。折原から後、本多になります。没落した折原家は、厳しい経済状態でしたので山林学校に進みます。帝室林野局の時代、森林は天皇のもので、それを管理する森林官を養成する山林学校は授業料が要らなかったんです。そこから次にドイツに留学、造園学、国家経済学のドクトルになり帰国後、東大教授になる。本多先生は結構な苦労人でした。ですから、先生の処世法や経営論はすごい。『私の財産告白』(実業之日本社)、『わが処世の秘訣』(三笠書房)という本が現在も版を改め現役の本として出ています。日比谷に関してもそのことが反映しています。
本多の話をすると長くなりますが、利殖の法、それは何のためか。頭がよくても学校に行けない人のために奨学金をつくるんです。今も本多財団はあります。当時国有鉄道が日本中に広がる、すると枕木が必要ですね。枕木はかたい栗などが材料です。それで枕木材になる樹林を買い利益を生む。まだ巨大な東京に水源林が要る。奥多摩の水源です。水源林の経営というのはこれまた大変なんです。樹木は伐って材木にした時は商品になりますが、植える時は大金がかかるだけです。1年や2年では大きくなりません。20年、30年かかる。先行投資ですね。それをやらないと東京の水源は守れない。誰も手をつけないのを本多は引き受け、水源林の経営に乗り出す。自分のお金をつぎ込まないと森林経営の理論は本物にならないからだと本多は言う。当時の東大教授はすごいですね。評論だけでなく自分でマネジメントをやる。
実学の人ですね。本多が留学して帰った直後、たまたま辰野の部屋に行った。日比谷の図面を見ながら、これはこうしたほうがいいんじゃないかといろいろ言ったらしい。それで、辰野案が受け入れられなかった時、「どうもあんたのほうがおもしろいのがやれそうだ」と辰野におしつけられたと、本多はかいています。本多は、何にでも関心を持ち、積極的で本多静六は日比谷公園で成功し、次に明治神宮の森をつくります。このときは神社林の植生構造を調査、それに基づいて神宮内苑の森の造林計画をつくるんです。ちょうど昨年90年を迎えますが、荒地の50、100、150年後の予測図を描いてあの森をつくったのは本多静六です。
ドイツに留学したけれども、ドイツ林学のまねではない日本の鎮守の森、橿原神宮や伊勢神宮の神社林がどうなっているか。今なら生物多様性、たくさんの種類とたくさんの高さの違う木をまぜて植えれば、時間がたつと、うっそうとした照葉樹林になっていくという科学的知見をもとにつくったわけです。いつも詰め襟の洋服1つでつつましい。
本多は湯布院温泉の振興計画を指導し、また福岡の大濠公園設計もしている。中国に西湖十景があって、その西湖をモデルにイメージした設計です。名古屋の鶴舞公園もそう。本多静六の専門は造林学ですが、日本で初めて造園学を講義した造園家で広く何事にも関心を持った人です。私は、日比谷公園は本多という人物に設計されて本当に良かったと思います。本多以前、日比谷公園の案を出したのは、日本園芸会・小平義親、宮内省の技師です。また田中芳男は上野の博物館をつくった大先生です。日本園芸会会長田中芳男だったかもしれません。伝統的日本庭園の趣きの案は、公園改良取調委員会・長岡安平のものです。前述の辰野金吾博士案もあります。ほんの1例です。先ほど申し上げたように、いろんな案が出ました。いろんな図面案が提供されます。当時、東京市の参事会議長は星亨です。彼だけでないと思いますが、東京市の幹部は、辰野のシンプルな様式案にも納得しなかったのです。このことを私は和魂洋才的だというのです。洋式そのものは和風案は文明開化にふさわしくないと思ったし、かといって受け入れがたい。日本人的繊細さなどを感じさせる洋的な意匠ではないと受け入れにくい。
だから結論は本多静六案になる。一見洋風です。曲線の園路がずっと入って、広場もある。だけど、実際に中に入ると非常にきめが細かくて、幕の内弁当的です。アノニマスとかバナキュラーな、自然発生的な雰囲気がある、日本人的緑地観ですね。浜離宮は10万坪ありますが、10万坪全部が見える場所はどこにもない。日本人のアウトドア空間利用は、広大なのは不安で、幾つもの小部屋に分けてしまう。樹林で囲まれた1つずつの部屋。そのヒューマンスケールの中に落ちつくというやり方です。辰野案は全部一望する。そんなプランは受け入れがたい。
(図5)

 これは長岡安平案です。今、ひ孫の都市工出身の建築家長岡嶺男氏がいます。長岡安平は長崎大村藩の人です。大村藩出身の幹部明治維新に楠本正隆という政治家がいます。楠本正隆は新潟県の県令(知事)のとき、東京府の知事になります。新潟市に白山公園をつくる。新潟はロシアに開いた港で、その一角に公園をつくる。そのとき公園をつくる技術屋、専門家がいない。長岡安平はお茶の宗匠、茶道家です。お茶には茶庭があり、庭をやれば公園もやれるだろうと同郷の長岡を呼び寄せ公園をつくらせる。楠本は次に東京府知事で、東京にも長岡を連れてくる。
 こうして東京市吏員として長岡は日比谷の案をつくらされる。しかし、お茶人ですし、日本的世界を描きます。この図面、おもしろいのは一ケ所ミスして消しているところ。図面を書く人はピンとくるでしょう。紅葉しているのはモミジ。この辺は梅、桜、杉、モミ。図面の本物は、畳1枚ちかい大きさで、日本画のようなすばらしい絵です。エジプトの絵のように、アクソメふう。大名庭園のようですが、池はない。多数の利用を考えた長岡的公園イメージで、よく見ると日本的公園のあり方を示していておもしろい。ただ当然文明開化の象徴にはならないでしょうね。

 

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