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(図6)

7~8枚いろんな案が出たが、どうしてもダメだ、これはという案が決まらない。そこまで星亨は言う。そんな案がなくてダメなら国に返せ。それで当事者の市役所が考えたのが辰野大先生。帝国大学の造家学科教授で、辰野はヨーロッパで勉強して、東京駅も設計した。でも、公園は無理ですよね。でも当時の人は、何でもできると考えていたのです。図面は、うすくて強い和紙で、ラインはカラス口できれいに墨入れされています。ただ、造園家でないことがすぐにわかるのは樹木です。水彩絵の具の筆でトントンと着色して、一応植栽位置がわかる程度です。あとセンターに整形池の水面があります。線はきれいなんですけど、公園としての雰囲気が出るかどうか。5万坪の広さのデザイン密度としては、粗で、シンプルすぎると私さえ思いますし、きっと明治の人たちはもっと感じたでしょう。

 

(図7)       

その最終段階に登場したのが本多です。本多は留学直後の30代。名声も地位もなかった。ただ、辰野の部屋に行って、ああだこうだ言うから、「それなら、おまえがやれ」と言われてバトンタッチすることになった。でも、ここで本多静六の人間性が出てくるわけです。
図案で言うと、園路や入口、各部のゾーニングは、各案の共通項を踏まえており、意匠の描き方はドイツから持ち帰った図書からのコピーです。ここはコウーニッツ市の公園の一角のコピーです。ただし裏返ししてトレースしたこの丸はこっち側で、これがあっち側です。雲形池の形は、ベルトラムの本の図面を真似したもの。またここは、ベンゼンにある病院の庭園部分の模倣です。

 



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