→日建グループへ





 PDF版はこちらです→ pdf


曲線の大園路の話をしておきます。今の図面には中央分離帯が入ってますが、もともとはなかった。非常に長く幅の広い大園路でした。もともと馬車道です。当初のプランでは、曲線の大きな園路が門から入って幸門や霞門へ抜ける。その1つは鹿鳴館に行きます。貴族たちは馬車に乗って日比谷公園の中をぐるっと通って鹿鳴館に横づけできたでしょう。ベルばらの漫画みたいでしょう。本来の貴族の暮らし方です。そういうものとしても描かれていた。戦後、緑がないと叫れた頃、こういう分離帯みたいなものまで入れてサツキや並木を植えたりしたんです。こういうのは余計なことだと私は言いたいわけです。本来のきれいな線を壊してしまったということです。園路広場を生かす方法もあるのですから。他にも変化はあります。
テニスコートが大正9年に入ります。当初3面だったものが8面に増えました。三笠山も崩れて、霞が関側の桜田通りも祝田側の築地通りも、両方道路拡張によって面積が減ります。それできれいな曲線が一部つぶれてしまったんです。細かく見ていくと本当はいろいろ変化しています。
三笠山とは3つの山。江戸の「築山庭造伝」というのに出てくる形です。日本庭園の典型的で、東屋がつくられ、溶岩でが組まれた、江戸の庭芸です。
次は、草地です。草地広場の写真を覚えておいてください。2つあります。1つは、戦中の話です。食料難で、園地に畑ができています。上野の不忍池は田圑になりました。イモや麦が作られました。第一花壇あたりは死体の埋め場所になります。公園も戦争のつらい目に遭っています。東京大空襲ではすごい数の人が亡くなり、それを全部公園が面倒を見たんです。戦中の東京市の規則ではそういう仕事を公園の担当者にした。ですから、公園に仮埋葬して、敵が来なくなった掘りおこして身元を調べて遺族に戻すという大変な作業しました。
もう1つは、いい話。日比谷児童遊園の話です。末田ますという女性が大正時代、震災直前に日本に帰ってきました。横浜YWCAのスタッフでした。その人がアメリカの大学に行って保育学を学んだ。子育はどうあるべきか。そこで学んだのが、ネーチャースタディー。今風に言うと環境学習、自然学習、子育ての基本は自然の中で育てることだというものです。戦後の幼稚園教育とは全く違いますね。ネーチャースタディーの概念は公園における児童指導にぴったりだと、その女性をつかまえたのが井下公園課長です。当時は少国民という発想があったのでしょうが、子どもたちを健全に育てるのは国の大事。関東大震災の前年、大正11年ぐらいから児童指導を始める。やがて、震災浮浪児もたくさん出てくる。そういう子どもたちを健全に育てるために、イチョウの葉っぱをつないで首飾りをつくるなど草木遊び。集団遊戯で協調性をやしなったりさまざま。児童遊園の評判は高まり300坪からはじめたものが300坪の特児童遊園にまでなります。またそれが三笠山の裏側の広場から草地にかけて行われたのです。
東京市公園課公園児童掛の専任30余名の体制も作り、後100人近い公園児童指導員という専門職までも誕生させました。本物の保育関係者、公園関係者、児童文学者あるいは童謡詩人、そういう人たちが子育てのために努力し『児童生活』という雑誌を発刊、児童遊園協会が出来たのです。今、少子化、少子化と言われながら、今の社会はこういうものに無関心です。当時は一流の人たちがちゃんと子育てのためにいろいろ考えたわけです。この児童遊園史は、忘れられない話です。
(図14)
運動場は国民的広場で、国葬が行われたと言いましたが、公会堂もそういう大きな歴史です。日比谷公会堂は、よくご存じのように佐藤功一の設計です。出資者は安田善次郎。提案者は後藤新平です。公会堂の舞台の脇に左右、お2人のレリーフが入っています。東京市政調査会をつくって東京の都市行政のシンクタンクをつくったのです。これはニューヨークのまねです。最近、東京市政調査会は後藤・安田研究所に名前を変えました。今でいうホールがほとんどなかった時代、公会堂の果たした役割は大きかった。さまざまな音楽会などの文化的催し、政治集会も行われました。浅沼稲次郎という社会党委員長が山口二矢に刺されたのも日比谷公会堂の檀上でした。
日比谷公会堂は国会通りに面したファサードが正面形ですが、公園側も正面性を持つ形になっています。ランドマークでのありますね。公会堂の収入で市政調査会を運営して研究活動を続けるという制度設計でした。
図書館をつくりました。現在は千代田区の文化施設として使われています。
大正12年、野外音楽堂が震災直前にできる。もともとここの樹林地は非常に雰囲気のいい林苑でした。戦争用に遠くから集めた軍馬をつないでおきました。馬が木をかじって木が枯れたので、そこを大音楽堂にしたのです。当時ライトが帝国ホテルを設計をしていて、大谷石をたくさん使いました。大音楽堂の外回りにも大谷石を積んでいます。そういうタイミングのものです。日比谷を歩くといろいろなことがつながったきます。
(図15)
以上、公園各部と公園生活史でした。 
結論を繰り返しますと、日比谷の成立期は、市区改正設計、文明開化の方針で条約改正もできる近代国家、それを象徴するための日比谷公園、5万4000坪であった。デザインにはたくさんの案が出たが、最終的に林学博士の本多静六案になる。そして明治36年6月1日開園へ。開園時の人気は3つの洋。第一花壇の西洋の花、小音楽堂のブラスバンド、洋楽。そして松本楼のフランス料理もしくはカレー、洋食。文学者などいろいろな人々のサロンとしても松本楼は存在感を示します。政治的には日露戦争があり、戦勝祝賀会場になり、伊藤博文、大山巌、大隈、山県、の国葬などの舞台になる。震災後は直ちに仮設住宅を設け救済に当たる。
ここで付言しておきたいのは、阪神大震災の時もそうでしたが、大学を開放したんですが、入居者がいつづけたので、授業再開が困難になった。だからここで井下の見識がすごいと私が思うのは、災害で直ちにバラックをつくって収容する。翌日から水も提供する。しかし、それを長引かさないで、落ち着いたら直ちに撤去してしまう。冷たいと言われても、今度は公園は公園としての機能を発揮しなければいけないということで実行します。
昭和、戦争体制になります。金属回収で外柵や噴水など第一花壇の柵もなくなります。戦災で荒れ、農地化。戦後はGHQの接収がはじまる。公会堂も野音も、雲形池も松本楼も接収。やっと平和になって各種イベントが展開され日比谷公園も復旧します。
飯野ビルの反対側、国会通りの角に昔の貴族院議長官舎、後の裁判所用地がありました。それが今かもめの広場になっています。公園でないものがやっと外れて1986年に戻ってきて、公園の一部になったのです。
こうして、大時代の公園生活史は一応終わりを告げ、百周年ぐらいからは、日比谷公園は歴史的公園としての認識が定着。その利用は日常化、市民生活化します。それで、「日常性・イベント・パークマネジメントの時代へ」としました。例えば、2005年にはオクトーバフェスタをやります。5月に何で、オクトーバフェスタかわからないのですが、ドイツのビール会社に場所を貸して、場所代を何千万円かいただいている。それが公園の管理費に回る仕掛ですか。財政難の自治体が水準の高い管理で公園都市の中の役割を果たすためには、パークマネジメント(公園経営)が不可欠になりました。第24回の全国都市緑化フェアの会場にもなりましたが、このときより一層、この考え方が加速しました。

 




        10 11 12 13 14
copyright 2012 NIKKEN SEKKEI LTD All Rights Reserved