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(図9)
大運動場のときは全部原っぱ。ぐるっと1周トラックになっていた。これだけの大空間。当時都心にはここしかなかった。ここで行われたのは伊藤博文の国葬、大山巌の国葬、大隈重信の国民葬。大隈重信の国民葬で、主体的に国民がやる。大隈のすぐ後に山県有朋の国葬が行われます。山県は陸軍をつくり、椿山荘も自分でつくったすごい人ですが、人気がなかったらしく閑散としていた。大隈重信のときはここがあふれてしまうぐらい、ずっと遠くまで列が続いたそうです。政治家も時代でいろいろ。それから、日露戦争の戦捷記念、不平等条約の時は、それに対する反対運動。さまざまな政治集会がこの空間で行われる。ですから、私は「国家広場」だと言っているわけです。明治、大正期までの日比谷公園はそういう国家的意味合いも持っていました。
(図10)
日比谷公園の先進的なもののひとつがイベントです。モーターショーの最初は日比谷公園でした。昭和29年です。いろいろなイベントが行われてきました。
意外とご存じないと思うのはサッカーです。天皇杯のサッカーの第1回蹴球大会、大正10年ですが、これが日比谷で開かれているんです。
だから、私は「近代日本のすべてがここに始まる」というのです。
(図11)
祝田濠に隣合って存在した日比谷御門を残し、もとの濠の水面を心字池にしました。心の字の池は日本庭園の方法です。池の護岸の石、黒の使い方も江戸時代以来の溶岩の活用です。日比谷見附の石垣をはじめそこのケヤキやイチョウを保存する。この文化財保存活用プランはほかの案にはない本多静六のオリジナルです。他のには石垣を残し、濠を生かして池をつくるという案はひとつもなかった。本多静六には、歴史的、文化財的な空間の重要性がわかっていた。
文化財的空間を都市の公園で、残そうとしたのは立派なもので高く評価されるべきです。
日比谷公園には門が幾つもありますが、その門の石は全部江戸城の石垣などを使ったもの。小松石の廃材の利活用です。
次、洋花の人気第一の第一花壇。花壇にはいろいろあります。震災直後にはバラックを、今でいう仮設住宅をつくっています。花壇コンクールや彫刻展を初めてやる。彫刻展というのは今や当たり前だと皆さんは思っておられるでしょうが、どうして日比谷で彫刻展をやったか。実はセメントの彫刻なんです。小野田セメントが、オリンピック前だと思いますが、白色セメントを開発するんです。これを普及したいので、白色セメントを材料として提供して、いろいろな彫刻家に彫刻作品をつくってもらって日比谷公園で彫刻展をやるのです。その後、公園における彫刻展は一般化していきます。
記念物は説明し切れないほどたくさんあります。ヤップ島からの石のおカネ。大正時代、自慢げにやったんでしょうね。ヤップ島のおカネを支庁長が持ってきた。それから、南極の石。戦後、北回りの航路開設を記念して、スカンジナビア航空からバイキングのモニュメント。こういうのが公園にはあり過ぎて困るぐらいあるんです。放っておくとどんどんいっぱいになってしまいますから、今は制限して入れないのですが、銅像を入れたい、彫刻を入れたい、記念植樹したいという要望は多い。日比谷での記念植樹の代表格はアメリカと尾崎市長の桜とハナミズキの交流。それらも全て日比谷公園からスタートしたのです。
そういう国際交流行事もありました。
(図12)
 今、公園のシンボルツリーになっているのが、本多の首賭けイチョウです。祝田橋の交差点あたりにありました。それが今の松本楼の横に移植されました。松本楼の火事でイチョウの半分がこげてしまって、外科手術しました。とても大きいイチョウです。首つりのイチョウではない。首賭けのイチョウです。本多静六が日比谷公園の設計にかかわって間もなく、日比谷通り、祝田橋交差点あたりにあった江戸時代以来のイチョウが道路の拡張で伐られることになっていました。本多はそのイチョウをぜひ公園に移してシンボルにしたいと思った。ところが、東京市はこんな古い大木は移植できないと切ろうとした。抗議して、本多静六は星亨に対して、「俺が責任持って活着させるから、俺にくれ」と言った。「専門家の職人がダメだと言っているのを無理だよ」、「俺の首を賭けてでも移植を成功させる」と言って移動したというわけです。
有楽門のほうから、松本楼のあたりへ。公園の中心まで引っ張って移植した全部の枝を切って、根も縮めて鉢をつけてコロの上をころがして移動するんです。その間1カ月以上もかかったので、新しい芽が吹いてきたそうです。それぐらい時間をかけて移植しました。ただ、林学の専門家なら、イチョウは非常に丈夫で十分移植に耐える木だとわかっているはずで、そこには若干演出があると思います。首を賭けてでもとカッコよく言った。世の中こういう話が一番残るんです。
 私は歴史をやっていてつくづく思うのは、どっちでもいいような話がすごく大げさに残る。それが結構話題になる。日比谷公園を案内する時、本多の首賭けイチョウと言うと話を聞くんです。若い学生は首つりイチョウと勘違いする。こういうエピソードが意外に大事なんですね。
(図13)
ここに動物のゲージの写真があります。私も昔の新聞を調べていて発見したことです。そうしたら日比谷に動物園ができるという見出しがあった。大草地のところにあったようです。公園行政でも絶えず管理者、担当者がかわりますし、利用者もそんなに注目しておりませんから、結構簡単にかわるんです。今は跡形もない。ただ動物は、私から言うと非常に大事な公園の要素なんです。ヨーロッパの歴史をみると、動物園は公園にとって非常に重要で、最も大事な要素の1つなんです。
古代中国の皇帝の園林、皇家園林といいますが、国王や皇帝たちの造園にはほとんど禽獣園が併設されています。鹿、獣物、鳥、孔雀などたくさん飼っている。本来、動物と植物と両方あってこそランドスケープだということです。
戦後の公園管理では、正月でも動物はえさを食べるでしょ。公園の職員も休みをとりたい。公園からは動物を締め出して、動物好きが集まっている動物園行かないと動物にふれあえなくなってしまった。今や、動物園と植物園は完全に分離されました。これは便宜的過ぎて間違いですね。生物多様性や自然を話題にするなら、動植物はセットなんです。植物を食べて昆虫が生き、昆虫を食べて野鳥が生きるんです。動物と植物は共生関係にある。それを別々に管理したり眺めるのは本当はおかしい。
ともあれ、新聞記事には、チンパンジーが来た。チンパンジーの子どもを熊が食べてしまったと、いくつも出てきます。私は、生き物文化といっていますが、それを公園で日比谷はやろうとしたのです。戦争が激しくなる中、万が一のときに野生動物が町に出ると問題だということで、上野の動物園ですら動物を殺してしまう。戦争は悲しい歴史です。

 

 

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